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第四章 空と大地の交差

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 御使いが現れてからの数日間は大きな動きこそなかったものの、怒涛の日々と言っても過言ではない。

 武器や道具の制作、船の改良などヨハンが行わなくてはならない業務は数多い。

 そして何よりも、今も解決できない最大の問題が目の前に立ち塞がっているのだ。


「……戦力が足りん」

そればかりはいかんとも解決しがたい問題だった。御使いとの戦いはカナタとヨハン自身の仕事になるとしても、それ以外の敵の数も多い。

 クラウディアの一存で何度か沖合を偵察に出ている武装商船団からの報告によれば大量の魚の怪物が海に溢れているそうだ。

 そして今のところ、武装商船団の最大のパトロンであるマルクからの返事は色よいものとは言えない。彼の娘であるクラウディアは協力する気満々であるとはいえ、それ以外の団員や船は半分は彼の資産でもある。それを何の利益もない行いのために消費するなど、商人として思い切りが付かないのだろう。

 海上が封鎖されたままでは大きな損害が出ることも判っているだろうが、それも駆け引きのうちの一つなのだ。

 イシュトナルかオルタリア、どちらかが我先にと事態を解決すれば、ハーフェンとの関係は良好なものへと変わる。それを狙って軍を動かしてくれることを狙っているのだろう。

 それに対して彼を汚いと罵ることはできない。事実、武装商船団の戦力は決して大規模とは言えない。下手に動かせば取り返しのつかない大打撃を被ることもありうるのだから。

 現状ではオルタリアは動く気配はない。向こうから出向している官吏に事態を説明はしたようだが、様子を見るという返事が来て以降は動きはないようだった。

 イシュトナルもまた、戦力の提供については前向きではない。エレオノーラは積極的な支援を行ってくれているが、それ以外の貴族達は後ろ向きな回答でそれを滞らせている。


「やはり人が増えれば動きは鈍るな」


 とはいえ彼等が連れて来てくれた戦力や情報、そして何より多くの貴族がエレオノーラを支持しているという大義名分は非常に重要なものでもある。

 ――戦力の出し惜しみをする理由の一つとして、エトランゼでありながら王女の寵愛を受け、手柄を立て続けるヨハンに対する悪感情があるとの噂もあるが、真偽は定かではない。

 とにかく道具の作成と並行して何度も試算を続けているが、勝機は限りなく薄い。

 そして何よりも、事態の停滞は焦りを生む。そんなことではいけないと判っていながらも、何もできない自分が不甲斐なく思えてくる。

 せめてもの気分転換に外の空気でも吸いながら、用意してある武器と戦力の確認でもしようと部屋を出ようとして椅子から立ち上がると、同時に扉をノックする音が聞こえた。


「ラニーニャさんです。お時間よろしいですか?」

「ああ。ちょうど俺も用があったところだ。入ってくれ」


 扉が開かれて、海色の髪をした美少女が部屋に入ってくる。その涼やかな笑顔に、少しだけ心の棘が取れたような気がした。


「殿方から用事なんてドキドキしてしまいますね」

「適当な椅子にでも掛けてくれ。そっちの用件を先に聞きたい」

「連れないですねー」


 そう言いながら、勝手にその辺りにあった椅子を引っ張って来てそこに座るラニーニャ。

 彼女の手には霊符による包帯が巻かれ、回復力を高めて骨を無理矢理にくっつけている。もう殆ど問題なく動かせるはずだった。


「はい。プレゼントです」

「……なんだこれは?」


 懐から彼女が取り出したのは、一枚の書類。

 この世界では珍しい白い綺麗な紙に記されている要項を上から下へと眺めていく。


「武装商船団の戦力、船員に対する全ての権限を、一時的にヨハン殿に貸与するものとする。御使い討伐に対しての費用は全てマルクが負うものとして、返還の必要はない」

「直筆サイン入り、です」


 ヨハンの顔を見て、してやったりと言った表情で見上げるラニーニャ。


「……なんでこんなものを?」

「嬉しくないんですか? 問題の一つが解決しましたよね? さあさ、ラニーニャさんを讃えてくれて構いませんよ?」

「いや、まず理由の説明をだな」

「ふふふっ。仕方ありませんね。ちょっとクラウディアさんをそそのかし……いえ、説得したうえでマルク様へと直談判に向かいまして、そこでその証文を書いてもらってわけですよ」

「そんな簡単に進む話だったとは思えんが」

「って思うでしょう? でもちょっと考えてみてくださいよ。そもそもクラウディアさんは戦う気満々なんですから、マルク様が戦力を出さないと一隻の船で戦うわけで」

 ラニーニャの言う通り、そのままではクラウディアの命も危うい。だが、娘の命と大勢の組合員の命を天秤に掛けるのもどうかと思うのだが。

「勝てばいいんです、勝てば。わたしことラニーニャさんと、クラウディアさんがしっかりとヨハンさんのことを売り込んでおきましたから」

「……それはありがたいが。なんで急にそんなことをした?」

「いや、だって。本当にそのまま戦ったらクラウディアさん、死んじゃうじゃないですか? わたしはそんなの嫌なので、打てる手を打っただけですよ」


 しれっとそう言ってのけた。


「それに、よっちゃんさんがそれなりに信用できる人だって言うのも判りましたしね」

「なんだそれは」

「用事ってこれのことでしょう?」


 そう言って彼女は右目を指さす。傷はそのままだが、そこはもう以前のように髪に隠れてはいない。


「ああ。具合はどうだ?」

「いい感じです。ちょっとぼやけてますけど。そのうち慣れますかね?」

「大丈夫なはずだ」


 彼女の右目には今、薄いレンズが張り付いている。

 元の世界で言うコンタクトレンズと同じ形状の魔法道具で、光の収束率を高めて視力を回復させている。

 その他にも様々な機構が搭載されているのだが、半分程度説明したところでクラウディアが寝てしまったので打ち切られた。


「ならよかった」

「これ、とても大事なんです」

「何の話だ?」

「わだかまりを解いてくれました」


 クラウディアもラニーニャもまだ戦いに慣れていなかったころの話だ。

 敵を深追いしたクラウディアを庇って、ラニーニャは片目の視力を失った。

 ラニーニャはそのことを全く恨んではいないのだが、クラウディアにとっては深い負い目として残っていた。


「別に問題は視力の話じゃないだろう」

「ええ、でも。片方だけの世界はやっぱり狭かったもので。海の広さを感じられるのって、大切だと思いません?」

「どうだかな」

「そのお礼の一つです。マルク様を説得したのは」

「なら、作った甲斐もあったな」

「それから、貴方を信用できたのも」


 ラニーニャに背を向けて机に向かっていると、その両肩に手が乗せられた。そのまま小さな手が肩を揉みしだいていく。


「そんなことで人を信用するな」

「あら。それじゃあわたし達を裏切りますか?」

「結果的にそうなるかも知れんぞ。御使いに勝てる保証はないからな」

「正直な人ですね。生き辛くありません?」

「……どうだかな」


 誰も助けてはくれなかった。

 ハーフェンで海賊や海の魔物の被害が発生したとき、オルタリアも、他国からの船も、手を差し出してはくれなかった。

 そこに手を上げたのがクラウディアで、彼女はこの街が好きだったから、危険も顧みずに海へを飛び込んでいった。

 それから年月が経って、自分達の力だけで解決してしまうことに慣れきってしまったころ。

 直面した大きな問題に、利益も関係なく立ち向かってくれる人がいる。

 それだけで、信ずるに値する。

 悪党である大海賊とは正反対の、誰かのためだけに戦う人には。


「勝ちましょう。勝ったら、もっと素敵なお礼をしてあげますから」

「……期待しておく」
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