『好きに生きる』と、そう決めた……はずだった。

青森りんご

文字の大きさ
3 / 11

三話 揺れる心と隠された真実

しおりを挟む


「エレノアさん、今日はどこへ行くんですか?」

 ライアンが市場の露店から顔を覗かせ、陽気に声をかけてくる。彼の手元には色とりどりの果物が並び、朝日がその表面をきらめかせていた。私は彼の笑顔に自然と頬が緩むのを感じた。

「今日は……図書館へ行こうと思って。新しい本を探したいの」

「図書館かあ。僕もたまに行くけど、あそこは静かでいいよね」

 彼はリンゴを磨きながら、懐かしそうに目を細めた。その仕草が何故か胸を締めつける。私はまだ、自分が貴族の令嬢であることを彼に打ち明けられずにいた。

「そうですね。ライアンさんも読書がお好きなんですか?」

「まあね。でも、難しい本より絵画の画集ばかり見てるけど」

 彼は照れくさそうに笑い、私にリンゴを差し出した。「ほら、今日の分。甘さが増してきたから」

 リンゴを受け取る際、彼の指が少し触れた。その瞬間、私の心臓が不意に高鳴った。慌てて視線をそらすと、彼も同じように耳を赤くしているのに気づく。

「あ、あの……今日の午後、川辺でスケッチするんだけど」

 突然、彼がか細い声で言った。空いた手でキャンバスの角を弄びながら、砂利道を蹴る仕草が少年のようだ。

「もしよかったら、エレノアさんも……?」

「ええ、喜んで!」

 答えが早すぎたことに自分で慌てる。ライアンの瞳がぱっと輝き、その表情を見ただけで私の頬が火照った。

* * *

 川面が夕陽を受けて琥珀色に染まる頃、私はリボンで結んだ麦藁帽子を深く被りながら約束の場所へ向かっていた。貴族の娘が平民の青年と会うなど、本来ならあり得ない行為だ。しかし父は最近、婚約破棄のショックからか私の行動に干渉してこない。

「やっと見つけた! ここは僕のお気に入りの場所なんだ」

 葦が風に揺れる川岸で、ライアンが絵具箱を広げていた。彼の足元には野の花が咲き乱れ、タンポポの綿毛がふわりと私の袖に止まった。

「本当に素敵な場所ですね」

「でしょ? でもね」彼が突然真剣な顔で近づいてきた。「ここには秘密があるんだ」

 私が息を飲む間もなく、彼は葦の茂みをかき分けた。そこには小さな木の橋が架かり、対岸には廃墟となった水車小屋が佇んでいた。蔦がレンガを覆い、崩れかけた窓から夕光が差し込む様は、まさに絵画そのものだ。

「僕が初めてこの景色を見た時、エレノアさんを思い出したんだ」

 突然の言葉に、私ははっとした。「私を……?」

「うん。この廃墟の美しさが、どこかエレノアさんに似てる気がして」彼の頬が薄紅に染まる。「壊れそうで、それでいて強い……そんな……」

 言葉が途切れた瞬間、遠くで馬の嘶きが響いた。私たちが振り向くと、武装した騎士団の一隊が街道を駆け抜けていく。先頭の旗印──青地に銀の獅子。それはまさしく、アルバート王子の紋章だった。

「まさか……!」

 冷たい汗が背中を伝う。ライアンが不思議そうな視線を投げかける。「どうかした?」

「い、いえ……ただの騎士団でしょう?」

「でもあの紋章、貴族のものみたいだね」ライアンが呟き、私はぎくりとした。「この間も町で噂を聞いたんだけど、王子様が平民の女性と結婚するらしいよ」

 地面がぐらりと揺れる感覚。私は葦の茎に必死にしがみつく。「そ、そうなんですか……」

「僕らには関係ない話だけどね」ライアンは何事もなかったようにパレットを握りしめた。「さあ、描き始めようか」

 しかし筆がキャンバスに触れる直前、廃墟の陰から人影が現れた。ボロボロの外套をまとった男が、私たちを鋭い視線で睨みつけている。

「お嬢さん、随分と良い身なりだな」

 しゃがれた声が不気味に響く。男の腰には短剣が光り、私は本能的にライアンの袖を掴んだ。

「何か用?」

 ライアンが私を背後に隠すように前に出る。男の薄汚れた歯がのぞいた。

「金目の物を寄越せ。でなきゃ、お嬢さんの顔に傷を入れてやる」

「逃げて!」ライアンの叫びと同時に、男が襲いかかってきた。キャンバスが転がり、絵具が飛び散る。私は恐怖で足がすくんだ。

 金属音が響き渡る。いつの間にかライアンの手に護身用のナイフが握られ、男の短剣を弾いていた。彼の目に今まで見たことない険しさが浮かんでいる。

「エレノアさん、あの橋を渡って! 向こうに隠れ家がある!」

「でもライアンさんは……!」

「大丈夫! 僕は町の自警団に入ってるんだ!」

 彼の背中が一瞬光に包まれたように見えた。私は必死で廃墟へ駆け出し、朽ちた扉を押し開ける。埃っぽい室内に飛び込んだ瞬間、遠くで馬の蹄の音が近づいてくる。

「エレノア様! お怪我は!?」

 見知らぬ騎士の声に我に返ると、私は自分が絹のドースを裾まで汚していることに気づいた。麦藁帽子はどこかに飛んでおり、整えた髪が乱れている。

「まさか……レイモンド家のご令嬢がこんな場所で」

 騎士が跪き、私の手を取ろうとする。窓の外では、ライアンが男を組み伏せているところだった。

「あの青年は?」

「はい、私を助けてくれた……」

「では表彰を」騎士が言いかけた瞬間、ライアンが廃墟の扉を開けた。彼の視線が騎士の鎧に刻まれた紋章、そして私の礼装に移る。

「エレノア……さん……?」

 その声に含まれた絶望が、私の心を引き裂いた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

不機嫌な侯爵様に、その献身は届かない

翠月 瑠々奈
恋愛
サルコベリア侯爵夫人は、夫の言動に違和感を覚え始める。 始めは夜会での振る舞いからだった。 それがさらに明らかになっていく。 機嫌が悪ければ、それを周りに隠さず察して動いてもらおうとし、愚痴を言ったら同調してもらおうとするのは、まるで子どものよう。 おまけに自分より格下だと思えば強気に出る。 そんな夫から、とある仕事を押し付けられたところ──?

愛しの第一王子殿下

みつまめ つぼみ
恋愛
 公爵令嬢アリシアは15歳。三年前に魔王討伐に出かけたゴルテンファル王国の第一王子クラウス一行の帰りを待ちわびていた。  そして帰ってきたクラウス王子は、仲間の訃報を口にし、それと同時に同行していた聖女との婚姻を告げる。  クラウスとの婚約を破棄されたアリシアは、言い寄ってくる第二王子マティアスの手から逃れようと、国外脱出を図るのだった。  そんなアリシアを手助けするフードを目深に被った旅の戦士エドガー。彼とアリシアの逃避行が、今始まる。

次期国王様の寵愛を受けるいじめられっこの私と没落していくいじめっこの貴族令嬢

さら
恋愛
 名門公爵家の娘・レティシアは、幼い頃から“地味で鈍くさい”と同級生たちに嘲られ、社交界では笑い者にされてきた。中でも、侯爵令嬢セリーヌによる陰湿ないじめは日常茶飯事。誰も彼女を助けず、婚約の話も破談となり、レティシアは「無能な令嬢」として居場所を失っていく。  しかし、そんな彼女に運命の転機が訪れた。  王立学園での舞踏会の夜、次期国王アレクシス殿下が突然、レティシアの手を取り――「君が、私の隣にふさわしい」と告げたのだ。  戸惑う彼女をよそに、殿下は一途な想いを示し続け、やがてレティシアは“王妃教育”を受けながら、自らの力で未来を切り開いていく。いじめられっこだった少女は、人々の声に耳を傾け、改革を導く“知恵ある王妃”へと成長していくのだった。  一方、他人を見下し続けてきたセリーヌは、過去の行いが明るみに出て家の地位を失い、婚約者にも見放されて没落していく――。

側妃の愛

まるねこ
恋愛
ここは女神を信仰する国。極まれに女神が祝福を与え、癒しの力が使える者が現れるからだ。 王太子妃となる予定の令嬢は力が弱いが癒しの力が使えた。突然強い癒しの力を持つ女性が異世界より現れた。 力が強い女性は聖女と呼ばれ、王太子妃になり、彼女を支えるために令嬢は側妃となった。 Copyright©︎2025-まるねこ

五周目の王女様

恋愛
「私、今度はどうやって殺されるの?」 バザロス国へ嫁ぐことになった王女ジゼルは、数度の死に戻りの記憶を持っていた。 1度目は毒殺、2度目は即死、3度目は逃亡先での裏切り。どう足掻いても結婚初夜を越えられず死に戻る運命に私の心はクタクタだった。 今世の夫も「冷酷皇帝」と恐れられる皇帝レオポルド。 実は彼もまた孤独に戦い、ループする人生から脱出を図ろうする一人。 夫婦がようやく絡まりだす4度目の死に戻り。 どうやら今世は他に女がいる皇帝は全く私に見向きもしない……と思っていたら、誰にも見つからずに私に会いに来るんですが?

王子様への置き手紙

あおき華
恋愛
フィオナは王太子ジェラルドの婚約者。王宮で暮らしながら王太子妃教育を受けていた。そんなある日、ジェラルドと侯爵家令嬢のマデリーンがキスをする所を目撃してしまう。ショックを受けたフィオナは自ら修道院に行くことを決意し、護衛騎士のエルマーとともに王宮を逃げ出した。置き手紙を読んだ皇太子が追いかけてくるとは思いもせずに⋯⋯ 小説家になろうにも掲載しています。

【完結】ハメられて追放された悪役令嬢ですが、爬虫類好きな私はドラゴンだってサイコーです。

美杉日和。(旧美杉。)
恋愛
 やってもいない罪を被せられ、公爵令嬢だったルナティアは断罪される。  王太子であった婚約者も親友であったサーシャに盗られ、家族からも見捨てられてしまった。  教会に生涯幽閉となる手前で、幼馴染である宰相の手腕により獣人の王であるドラゴンの元へ嫁がされることに。  惨めだとあざ笑うサーシャたちを無視し、悲嘆にくれるように見えたルナティアだが、実は大の爬虫類好きだった。  簡単に裏切る人になんてもう未練はない。  むしろ自分の好きなモノたちに囲まれている方が幸せデス。

大根令嬢の雑学無双、王弟殿下を添えて。~ 前世を思い出したので、許婚をほったらかして人助けしまくります!!

古森真朝
恋愛
気弱な伯爵令嬢のカレンは、自分勝手な婚約者レナートに振り回されていた。耐え続けていたある日、舞踏会で何者かに突き飛ばされ、階段から落ちてしまう。 その傷が元で儚く……なるかと思いきや。衝撃で前世を思い出したカレンは一転、かの『ド根性大根』みたいな超・ポジティブ人間になっていた。 『モラハラ婚約者の思惑なんぞ知るか!! 今度こそ好きなことやって、目いっぱい幸せに長生きするんだから!!!』 昔ひたすら読書に耽って身に着けた『雑学』を武器に、うっかり採れ過ぎた作物や、開墾しようとすると不幸に見舞われる土地、不治の病にかかった王族、等々の問題をどんどん解決。 領地の内外で心強い友人が出来たり、いつの間にかものすごく有名になっていたり、何かと協力してくれる王弟ヴィクトルから好意を寄せられたり(注:気付いてない)する中、温かい家族と共に仕事に励んでいく。 一方、前世から因縁のある人々もまた、こちらに転生していて――

処理中です...