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五話 真実の涙
しおりを挟む「お嬢様、お風呂の準備ができました」
侍女の声に、私は寝室の鏡台からふらふらと立ち上がる。ライアンと別れて三日。指輪は箱に封印し、窓辺に咲いていた野の花は全て捨てた。
鏡に映る顔は侯爵家の令嬢そのものだ。金髪はベールのように滑らかで、肌は再び蝋のように白くなっている。あの麦藁帽子も汚れたドレスも、全て灰燼に帰した。
「お嬢様、本日はクロフォード公爵家のパーティーがございます」
「行きたくない」
衝動的に零した言葉に、侍女が驚いて扇子を落とす。「でも、お召し物は――」
「全てキャンセルしなさい」 鏡台を叩く指先が震えている。「体調不良と伝えるのよ」
侍女が退出する気配を感じた時、突然胸元が締めつけられるような痛みに襲われた。タンスの引き出しを漁り、隠していたスケッチブックを取り出す。ライアンがくれた絵――最初の出会いの日、彼が即興で描いた私の横顔が、今は涙で滲んでいく。
「……会いたい」
嗚咽が絞り出される。堅張った貴族社会の空気を切り裂くように、私は侍女用の粗末な外套をまとった。通用口から屋敷を抜け出す際、守衛の目を盗むために木陰に隠れた自分の姿が、いかに滑稽か。
街路は既に闇に包まれ、市場の露店は片付けられていた。ライアンの店先には防水布がかけられ、看板が風に揺れている。近所のパン屋の老婆が、憐れむような視線を投げかける。
「あの青年なら、三日も店を閉めたままだよ」
老婆の呟きに心臓が縮む。「どこに……?」
「たぶん、あの川辺じゃないかな」 老婆がしわくちゃな指を北へ向ける。「あんたさん、彼の絵のモデルだったお嬢さんだろ? あの子なら毎晩、月が出るまで――」
走り出す足が石畳を打つ。外套のフードが風に飛ばされ、金髪が月明かりに浮かび上がるのも構わない。川面の匂いが近づくにつれ、胸の痛みが脈打つようになる。
葦の茂みをかき分けると、そこには廃墟の前に佇むライアンの後姿があった。キャンプファイアの炎が、彼の足元に転がった空のウィスキー瓶を照らしている。
「……ライアン」
震える声が夜気に消える。彼がゆっくりと振り向く。頬はやつれ、目尻が赤く腫れ上がっている。
「何しに来た」 澱んだ声。「僕をからかいに?」
「謝りたいの」 喉が焼けるように痛い。「本当のことを話すから」
月明かりの中、私は紋章指輪を懐から取り出した。黄金の獅子が嗤っているように見える。「アルバート王子との婚約が破棄された日、私は初めて屋敷を飛び出したの。全てが嫌で、自分を偽りたかった」
ライアンの眉が微かに動く。私は震える指で外套を脱ぎ、下に着た平民風の服を見せる。「あなたと会う時はいつもこれを着てた。侯爵令嬢でも、平民のエレノアでもなく……ただの自分でいられる気がしたから」
彼がグラスにウィスキーを注ぐ音が響く。「続けろ」
「最初はあなたを利用してると自分を責めたわ。でも」 涙が月にきらめく。「りんごをもらった時の優しさ、絵に込める情熱……そんなもの、貴族社会にはなかった。あなたが教えてくれたの。本当の自分を」
突然、ライアンが立ち上がる影が私を覆った。酒臭い息が額にかかり、彼の手が私の頬にかすかに触れる。
「……僕は今日、侯爵家の屋敷まで行ったんだ」
えっ? と瞬きする間に、彼の指が涙を拭う。「門前で三時間も立ってた。でも、令嬢に会えるわけないと思って帰った」
「ライアン……?」
「馬鹿みたいだろ?」 彼の笑い声が苦い。「平民の分際で、貴族のお嬢様を――」
唇を塞ぐ私の指先が震えている。「もう、そんな言葉使わないで」
月が雲間から顔を出した瞬間、ライアンの腕が私の背中を抱き寄せた。葦の葉がざわめき、川面で魚が跳ねる音がした。
「僕は……絵を描く時、いつもエレノアのことを考えてた」
彼の額が私のこめかみに触れる。「貴族でも平民でも、君が君でいる限り」
遠くで夜鶯が鳴いた。私たちの影が一つになる頃、廃墟の影で忍び足が後ずさる音がした。だが、それに気づく者はいない――紋章を隠した外套の男が、闇に消えていくのも。
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