『好きに生きる』と、そう決めた……はずだった。

青森りんご

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六話 月下の契り

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 廃墟を包む月明かりが、絡み合う二人の影を淡く浮かび上がらせていた。ライアンの腕の中から微かに聞こえる鼓動が、私の頬に伝わってくる。川面を渡る風が葦を揺らし、どこからか夜桜の香りが混じっていた。

「……寒くないか?」

 ライアンの囁きが耳朶を撫でる。彼の外套の下で、私は小さく首を振った。騎士たちの甲冑の音も、侯爵家のしがらみも、今だけは遠い世界のことに思えた。

「絵を描きたい」

 突然の彼の言葉に顔を上げると、ライアンがキャンプファイヤーの残り火を掻き集めていた。燃え残りの薪で即席の松明を作り、廃墟の壁へと向ける。

「ほら」

 松明の揺らめく光が、崩れたレンガ壁を照らし出した。そこには──無数の素描が刻まれていた。横顔、後ろ姿、笑った顔。全て私の姿だ。

「こっそり描いてた」彼が壁に触れる指先が震えている。「会えなくなるのが怖くて」

「ライアン……」

「貴族でも平民でも」松明の火が彼の瞳を琥珀色に染める。「俺が好きなのは、キャンバスに絵具を飛び散らせる時の君だ。市場でりんごを頬張る君だ」

 熱いものがこみ上げる。私は壁の素描に指を這わせ、チョークの粉が月に輝くのを見つめた。「こんなに……?」

「足りないよ」彼の息遣いが近づく。「もっと描きたい。君の寝顔も、怒った顔も、歳をとって皺が増えた顔も」

 唇が触れ合う直前、遠くで犬の遠吠えが響いた。ライアンが咄嗟に私を背後に隠す。松明の火が激しく揺れ、廃墟の影が蠢く。

「誰だ……?」

 彼の囁きに、私は冷たい汗を感じた。先程までの甘い時間が、鋭い緊張に切り替わる。崩れた柱の陰から、金属のきしむ音がする。

「お嬢様、お探ししました」

 冷たい声が闇を切り裂いた。松明の光に浮かび上がったのは、侯爵家の私兵隊長グレイヴスの顔だった。彼の後ろに、十人近い私兵が鎧の音を忍ばせている。

「父上に言われたの?」

「侯爵閣下は、お嬢様が平民と交わっていることをご存知です」グレイヴスが腰の剣に手を掛ける。「今すぐお屋敷へ」

ライアンが私の腕を掴んだ。「行かせるか!」

「下賤の者め」グレイヴスの目が険しくなる。「お嬢様を惑わした罪は重い」

「待って!」私は必死に二人の間に割って入る。「ライアンは何も悪くない! 私が──」

「侯爵家の威信にかけて」グレイヴスが踏み込む。「この男を消させていただきます」

 私兵たちの剣が一斉に鞘を離れた。ライアンが私を庇いながら後ずさる。「逃げろ! 川を渡れば──」

「捕らえよ」

 グレイヴスの号令と同時に、私兵が襲いかかる。ライアンが私をかばいながら投石器を構えるも、数の差は圧倒的だ。廃墟の壁が崩れ、月が血煙に霞む。

「やめろ! 父上に伝えるわ! この人を傷つけたら──」

「侯爵閣下のご命令です」

 グレイヴスの剣がライアンの肩をかすめる。赤い飛沫が私の頬に跳ね、ライアンの苦悶の声が耳を貫く。

「やめて! ついていくから! だから剣を収めて!」

「エレノア……! 逃げるんだ……!」

 ライアンの叫びを振り切り、私はグレイヴスの前に立ちはだかった。「即刻止めなさい! 私が侯爵令嬢として命じる!」

 私兵たちが一瞬たじろぐ。その隙にライアンが窓枠から川へ飛び込む水音が響いた。

「追え! 生きている限り──」

「敢えて追うなら」私は紋章指輪を高く掲げた。「この指輪を砕いて、侯爵家の権威を否定してみせます」

 グレイヴスの顔が引きつる。「お嬢様……!」

「父上に伝えなさい」指輪の宝石が月に冴える。「私の心はもう、レイモンド家のものではないと」

* * *


 明け方の屋敷は墓場のように静まり返っていた。私は父の書斎の扉を蹴破り、絹のドレスを汚したまま進み出た。

「何という真似をなさった?」

 父の声は氷のように冷たい。暖炉の火が、壁にかかった歴代侯爵の肖像画を揺らめかせる。

「なぜライアンを……!」

「王室の手前がある」父が書類を叩きつける。「婚約破棄された令嬢が平民と駆け落ち同然? レイモンド家の恥だ」

 窓の外で雷鳴が遠のく。私は震える拳を握りしめた。「愛です」

「愛?」父の嘲笑が書斎に響く。「貴族に恋愛など存在しない。全ては政略だ」

「母上との結婚も?」

 鋭い指摘に父の頬が痙攣した。「……引っ込んでいろ。クロフォード公爵家との縁談がまとまりかけてる」

「二度と従いません」私は紋章指輪を机に置く。「この指輪も、屋敷も、もういりません」

 扉を閉める音が雷鳴と重なる。廊下で待つ侍女たちのざわめきを振り切り、私は馬厩へ向かった。荒れ狂う雨の中、愛馬スノーホワイトの手綱を解く。

「お嬢様! どこへ──」

「伝えて」私は雨に濡れた髪を振り乱す。「私の居場所は、もうここにはない」

 城門を駆け抜ける時、背後で警鐘が鳴り響いた。雨粒が頬を打ち、雷光が道標を照らす。目指すはあの川辺──ライアンと約束した場所だ。

「待っていて……必ず……」

 懐から取り出した素描の束が雨に濡れる。ライアンが密かに描いていた私の寝顔、笑顔、そして涙の顔。馬の蹄が水溜りを跳ね上げる度に、彼の声が蘇る。

『君が君でいる限り──』

 闇の中にぽつりと灯りが見えた。廃墟の水車小屋の窓から、かすかな光が漏れている。息を殺して近づくと、崩れた壁の向こうで喘ぐ声が聞こえる。

「……エレ……ノア……」

 血の匂い。私は馬から飛び降り、瓦礫をかき分けた。倒れた梁の下で、ライアンが血まみれで息をしている。

「治療するわ! すぐに──」

「遅かったか」闇から現れたグレイヴスの剣が光る。「侯爵閣下のご命令。この男の命と引き換えに、お嬢様のお戻りを」

 雷鳴が天地を引き裂く。私はライアンの体を抱きしめ、紋章指輪を銃口に填めた。

「撃て」

 雨の中、引き金にかかる指が震える。

「撃てば侯爵家の敵となる」

「もう」雷光が私の瞳を貫く。「この指輪など──」

 轟音が夜を引き裂いた。
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