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笑顔のあなたへ②
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高校に入学して、世界が広がった気がした。学校に通うという行為は同じなのに、中学までとなにかが違う。新しい友だち、先輩、慣れない駅――すべてにわくわくする。
入学式のあと、校内をふらふらと歩いていたら、色とりどりの花が咲き乱れる花壇の前で自然と足が止まった。花壇の花に引き留められたのか、彼に吸い寄せられたのかはわからない。そうしようとしたのではなく、歩を止めていた。
慎太郎より少し背が低い男子生徒が、花に視線を落としている。横顔があまりに綺麗でじっと見入った慎太郎に、男子生徒は黒髪を揺らして振り向いた。
「新入生? やたらいい顔してるな」
「え、あ……」
どうして、と思ったのが顔に出たのだろう。ブレザーの胸にある花のコサージュを指さされる。慌ててこくこくと頷くと、男子生徒はふわりと笑んだ。ネイビーのネクタイをつけているから二学年上だとわかった。自分が「やたらいい顔」をしてるかはわからないが、女子から好意的な視線を向けられることは多々あった。男子生徒の笑顔の素朴な雰囲気が、優しさを漂わせている。慎太郎がこれまでに出会った誰よりも穏やかそうで、それでいてなにかを秘めているようにも思えた。
そのあと、なにを話したか覚えていない。ただ夢中で彼に話しかけていた気がする。相手は驚きながらも和やかに答えてくれて、返答のたびに慎太郎の心は沸き立った。不思議な感覚に駆られるまま、名前を聞き出した。三年生相手に失礼かもしれないが、止まらない。
――各村梨央。
「……各村先輩……」
覚えたての大事な魔法を唱えるように呟いた慎太郎に、梨央は微笑んだ。それはまるで奇跡のようなまばゆさを伴った笑みだった。
「梨央! なにやってんだ。人待たせて」
「悪い。って悠雅なら別にいいじゃん」
「俺だからだめなんだよ」
名を呼ばれた梨央は振り返り、声をかけた生徒のほうへ笑いながら歩いていった。その背を見送り、もう一度呟く。
「各村先輩」
梨央が歩いていった先には背の高い男子生徒が手を振っている。整った顔立ちが遠目でもはっきりとわかった。ふたりは並んで校門を出ていく。遠くなく近くない距離に、友だちかな、と思った。
もっと話したい。
自分自身に急かされるように、毎日梨央を探した。校舎内で見つけることも、中庭や校庭のすみにあるベンチで見つけることもあった。毎回偶然を装うのは無理があるだろうが、正直に「会いたかった」と言えない。とても畏れ多いことのようだったのだ。それでも夢中で梨央を追いかけ続けた。
「慎太郎」
いつからか、梨央は慎太郎の名を呼んでくれるようになった。近づいていく距離に、胸の高鳴りを抑えられない。図々しく「名前で呼んでもいいですか」と聞いた慎太郎に、梨央は嫌な顔を微塵も見せず、頷いてくれた。
本当に不思議な感覚。好きな人と言うには好きすぎて、憧れと呼ぶには貪欲で。もっとそばに、もっと近く――ただ梨央を求めた。
どんな姿も素敵で魅力的だったが、陽の光に照らされたときの梨央の微笑みはなににも勝る美しさだった。慎太郎の心を引き寄せてやまない、ただひとりの存在。まるで魂を抜かれたように梨央を追いかけた。
「まーた一緒にいるのか」
からかうように笑うのは、梨央の幼馴染の菱沼悠雅だ。あの日、梨央に声をかけた生徒。三年生の教室に頻繁に行く慎太郎は、当然のように悠雅ともよく遭遇した。
「畑井もよく飽きないな。なんで梨央なんか」
「なんかってなに」
声をあげて笑った悠雅に、梨央は唇を尖らせた。慎太郎といるときとは違う表情も美しく、もっとたくさんの表情を見たいと願いが募る。
「畑井なら選び放題だろ。なんで梨央なんか」
「だから、なんかって言うな!」
悠雅とふざけ合っている梨央も、慎太郎といるときの大人びた梨央も、すべてが心を引いてやまない。梨央に近づきたい気持ちは膨らんでいく。この気持ちに名前をつけるとなにになるのか。悩んで悩んで、きっとこれが恋愛感情なのだと答えをつけた。
答えができたら一直線に梨央に心を向けた。梨央しか見えないし、梨央しか考えられない。一ミリも目を逸らせないくらいに、梨央が慎太郎のすべてだった。思わず地にひれ伏して崇めたたえたいほどの輝く存在で、唯一で全能のなにかだと思った。
そんな梨央とつき合い合はじめたのは、高校一年の初冬。冷たい風の中、告白した慎太郎に頷いてくれて、梨央を強く抱きしめた。互いの体温で寒さなど感じなくなるくらいに、きつくきつく抱きしめた。
「苦しいよ、慎太郎」
苦笑しながらも梨央は慎太郎を受け止めてくれた。自分のすべてを包んでくれるのはこの人しかいない。
梨央に縋っていたつもりはない。だが、拠りどころではあった。ただひとつの光。慎太郎の道を照らすのは梨央だけだった。
休日には一緒に出かけた。いつもなにをするでもなく、ただふたりで街を歩く。それだけで人生が特別なものになったと感じた。
今でもあのときの毎日は特別だったと思う。ふたりでいた日々の熱く沸き立つ気持ちと輝く時間に勝るものは、きっとこれからも手に入れられないだろう。ただふたりでいられたら、それでよかった。それだけが願いで、至福だった。ただ、それでよかった。
日々は輝き、まばたきをするようにあっという間にすぎていく。一月生まれの梨央の誕生日には、日付が変わったと同時に「おめでとう」を言いたかったのに、うまくいかなかった。深夜だからメッセージにしようか、でも声で伝えたい、そんなことをぐるぐると考えていたら日付が変わっていたのだ。慌てて通話ボタンをタップし、コール音が途切れたと同時に噴き出して笑う声がスピーカーから聞こえた。
「笑わないでくださいよ」
『笑うだろ』
慎太郎の考えも悩んだこともお見通しだったようで、梨央は声をあげて笑う。その声があまりに柔らかくて温かくて、ずっと聞いていたいと思った。だから笑われてもそのまま、梨央の声に聞き入った。
学校に行ったら直接会ってもう一度「おめでとう」を言った。深夜の情けない出来事を思い出した梨央はまた笑う。それでも慎太郎も嬉しくて、ふたりで笑った。
「誕生日って複雑」
「どうしてですか?」
「なんか……なんだろうな」
眉を寄せて歪んだ笑みを見せた梨央の姿に、急に不安が襲ってきた。慌てて梨央の手を掴み、顔を覗き込む。
「慎太郎?」
「僕はずっと先輩といたいと思っています」
心からの気持ちを伝えると、梨央は目を見開き、固まった。図々しいことを言っただろうかと内心ひやりとしながらも、梨央の手を離さなかった。そんな慎太郎に、梨央はまたも笑う。
「そうだよな」
笑いながら視線を下に落とす梨央は、慎太郎の知る梨央ではないように見えた。小さく俯く姿が少しショックだった。梨央のすべてを知っているわけではないことを、思い知らされたようで。
「またふたりでいちゃついてんのか」
「悠雅先輩……」
廊下の向こうから歩いてきたのは悠雅だった。慎太郎と梨央の姿を見留め、苦笑している。梨央は自慢げに胸を張り、慎太郎の腕に手を絡めた。
「いいだろ。俺の恋人」
「ちょっと、梨央先輩」
「いーの。悠雅に恋の素晴らしさを教えてやらないと」
慎太郎を見せびらかすように微笑む梨央に、悠雅は優しく微笑んだ。まるで保護者のように梨央を見守る悠雅を、いつもすごいと思う。梨央と同じ歳だからか、悠雅はとても大人に見えた。嫉妬なんて微塵も起こらないほど、素敵な幼馴染同士だと思える。梨央をさりげなく支える悠雅と、悠雅に強気なことを言いながらも気遣う梨央。互いを補完し合っているのがわかった。
「俺、今日誕生日なんだけど」
「……? はい」
学校からの帰りに梨央が不思議な切り出しをした。なんだろう、と顔を見ると、梨央は口もとを歪める。
「……手、つなぎたい」
そう言いながら慎太郎の手を取り、強めに握られた。思わず逃げそうになった自分にストップをかけて、ぎこちなく笑いかけた。梨央はきっとそのぎこちなさに気がついている。そう思いながらも、精いっぱい優しく笑んだ。目が合い、梨央は花が開くように微笑みを浮かべた。幸せと罪悪感が胸でせめぎ合い、緊張からごくりと唾を飲む。
梨央とつき合って時間が経っても、慎太郎は彼に触れることができなかった。抱きしめたのは告白に頷いてくれたときの一度きり。キスなんて無理だ。セックスなんてもう想像もできないくらいに、梨央は誰よりも特別な存在。特別すぎてどうしたらいいのかわからなくなるときもあった。梨央はそんな慎太郎を静かに見ていた。なにを思っていたのかはわからない。呆れていたのかもしれない。それでもなにも言わずに慎太郎を包んでくれていた。
梨央はとても大人でしっかりとしていて、それでいて触れたら壊れてしまいそうな繊細なガラス細工のようで。梨央のいろいろな面を見るたびに、いっそう梨央に惹かれていった。
二月の終わり、慎太郎の誕生日に梨央がケーキを焼いてくれた。スムーズに動く手をぼんやりと見ていたら、魔法のようにいちごのショートケーキができあがった。お菓子作りが得意なんて知らなかったので、驚いたのも事実だけれど黙っておく。慎太郎の部屋で、できあがったホールケーキを切り分けもせずにフォークで崩しながらふたりで完食した。ただふたりで寄り添っていられたら、それ以上の幸せはない。それだけを願って、それだけを求めた。
だが、ひずみはあったのだろう。一度できたゆがみは直せなかった。
三月には卒業式があり、梨央は卒業してしまった。高校生活が急に色褪せて、なににもやる気が出ない。学校に行けば梨央に会えた日常がなくなったことはあまりにショックで、現実を見たくないほどの喪失感だった。
「僕は絶対絶対先輩のそばにいます」
梨央に会いたくて会いたくて家に行って宣言したら、梨央はきょとんとした顔をすぐに崩して笑った。
「当たり前だ、馬鹿」
可愛くて愛しくて、抱きしめたい気持ちが湧きあがる。けれど手を伸ばせなかった。
「どうした?」
顔を覗き込まれ、はっとして首を横に振る。なんでもないです、と笑う慎太郎の心の内に、きっと梨央は気がついていた。
自分にとって梨央はあまりに崇高で、触れてはいけない存在と言っても過言ではない。一緒にいればいるほどその気持ちは強くなる。人間とは違う、なにかはかり知れない尊い存在と恋仲なのだと考えていた。そんな自分を怒鳴りつけたい。慎太郎の信仰心のような思いが梨央に寂しさをいだかせていたなんて、微塵も感じ取れなかったのだ。未熟な子どもだった。自分のことばかりで、梨央の本心に目を向けることができなかった。
慎太郎は高校二年生になり、梨央は大学生になった。想像したより梨央が遠い。会えて当然だと思っていたのに、自分たちで会おうとしなければ会えない。このまま距離ができていくのかと不安に駆られ、毎日のように梨央にメッセージを送って、頻繁に会いに行った。梨央はいつでも笑っていた。
それから季節を越えていき、また新年を迎えた。ふたりで初詣に行き、柏手を打つ。願いごとは決まっている。ただひとつの願いしかない。梨央の願いはなんだろう、と思いながら隣を盗み見ると、梨央はまっすぐに慎太郎を見ていた。視線が痛いほどまっすぐで、思わず怯む。
「……梨央、先輩……?」
「……」
無言で、ただじっと慎太郎を見つめてくる。
やはり自分の恋人は人間ではないのだと思った。冬の太陽の光に透けて見える輪郭。細い黒髪がつやを弾き、わずかに揺れる瞳が翳る。その姿は言葉にできないくらいに神聖なものだった。
入学式のあと、校内をふらふらと歩いていたら、色とりどりの花が咲き乱れる花壇の前で自然と足が止まった。花壇の花に引き留められたのか、彼に吸い寄せられたのかはわからない。そうしようとしたのではなく、歩を止めていた。
慎太郎より少し背が低い男子生徒が、花に視線を落としている。横顔があまりに綺麗でじっと見入った慎太郎に、男子生徒は黒髪を揺らして振り向いた。
「新入生? やたらいい顔してるな」
「え、あ……」
どうして、と思ったのが顔に出たのだろう。ブレザーの胸にある花のコサージュを指さされる。慌ててこくこくと頷くと、男子生徒はふわりと笑んだ。ネイビーのネクタイをつけているから二学年上だとわかった。自分が「やたらいい顔」をしてるかはわからないが、女子から好意的な視線を向けられることは多々あった。男子生徒の笑顔の素朴な雰囲気が、優しさを漂わせている。慎太郎がこれまでに出会った誰よりも穏やかそうで、それでいてなにかを秘めているようにも思えた。
そのあと、なにを話したか覚えていない。ただ夢中で彼に話しかけていた気がする。相手は驚きながらも和やかに答えてくれて、返答のたびに慎太郎の心は沸き立った。不思議な感覚に駆られるまま、名前を聞き出した。三年生相手に失礼かもしれないが、止まらない。
――各村梨央。
「……各村先輩……」
覚えたての大事な魔法を唱えるように呟いた慎太郎に、梨央は微笑んだ。それはまるで奇跡のようなまばゆさを伴った笑みだった。
「梨央! なにやってんだ。人待たせて」
「悪い。って悠雅なら別にいいじゃん」
「俺だからだめなんだよ」
名を呼ばれた梨央は振り返り、声をかけた生徒のほうへ笑いながら歩いていった。その背を見送り、もう一度呟く。
「各村先輩」
梨央が歩いていった先には背の高い男子生徒が手を振っている。整った顔立ちが遠目でもはっきりとわかった。ふたりは並んで校門を出ていく。遠くなく近くない距離に、友だちかな、と思った。
もっと話したい。
自分自身に急かされるように、毎日梨央を探した。校舎内で見つけることも、中庭や校庭のすみにあるベンチで見つけることもあった。毎回偶然を装うのは無理があるだろうが、正直に「会いたかった」と言えない。とても畏れ多いことのようだったのだ。それでも夢中で梨央を追いかけ続けた。
「慎太郎」
いつからか、梨央は慎太郎の名を呼んでくれるようになった。近づいていく距離に、胸の高鳴りを抑えられない。図々しく「名前で呼んでもいいですか」と聞いた慎太郎に、梨央は嫌な顔を微塵も見せず、頷いてくれた。
本当に不思議な感覚。好きな人と言うには好きすぎて、憧れと呼ぶには貪欲で。もっとそばに、もっと近く――ただ梨央を求めた。
どんな姿も素敵で魅力的だったが、陽の光に照らされたときの梨央の微笑みはなににも勝る美しさだった。慎太郎の心を引き寄せてやまない、ただひとりの存在。まるで魂を抜かれたように梨央を追いかけた。
「まーた一緒にいるのか」
からかうように笑うのは、梨央の幼馴染の菱沼悠雅だ。あの日、梨央に声をかけた生徒。三年生の教室に頻繁に行く慎太郎は、当然のように悠雅ともよく遭遇した。
「畑井もよく飽きないな。なんで梨央なんか」
「なんかってなに」
声をあげて笑った悠雅に、梨央は唇を尖らせた。慎太郎といるときとは違う表情も美しく、もっとたくさんの表情を見たいと願いが募る。
「畑井なら選び放題だろ。なんで梨央なんか」
「だから、なんかって言うな!」
悠雅とふざけ合っている梨央も、慎太郎といるときの大人びた梨央も、すべてが心を引いてやまない。梨央に近づきたい気持ちは膨らんでいく。この気持ちに名前をつけるとなにになるのか。悩んで悩んで、きっとこれが恋愛感情なのだと答えをつけた。
答えができたら一直線に梨央に心を向けた。梨央しか見えないし、梨央しか考えられない。一ミリも目を逸らせないくらいに、梨央が慎太郎のすべてだった。思わず地にひれ伏して崇めたたえたいほどの輝く存在で、唯一で全能のなにかだと思った。
そんな梨央とつき合い合はじめたのは、高校一年の初冬。冷たい風の中、告白した慎太郎に頷いてくれて、梨央を強く抱きしめた。互いの体温で寒さなど感じなくなるくらいに、きつくきつく抱きしめた。
「苦しいよ、慎太郎」
苦笑しながらも梨央は慎太郎を受け止めてくれた。自分のすべてを包んでくれるのはこの人しかいない。
梨央に縋っていたつもりはない。だが、拠りどころではあった。ただひとつの光。慎太郎の道を照らすのは梨央だけだった。
休日には一緒に出かけた。いつもなにをするでもなく、ただふたりで街を歩く。それだけで人生が特別なものになったと感じた。
今でもあのときの毎日は特別だったと思う。ふたりでいた日々の熱く沸き立つ気持ちと輝く時間に勝るものは、きっとこれからも手に入れられないだろう。ただふたりでいられたら、それでよかった。それだけが願いで、至福だった。ただ、それでよかった。
日々は輝き、まばたきをするようにあっという間にすぎていく。一月生まれの梨央の誕生日には、日付が変わったと同時に「おめでとう」を言いたかったのに、うまくいかなかった。深夜だからメッセージにしようか、でも声で伝えたい、そんなことをぐるぐると考えていたら日付が変わっていたのだ。慌てて通話ボタンをタップし、コール音が途切れたと同時に噴き出して笑う声がスピーカーから聞こえた。
「笑わないでくださいよ」
『笑うだろ』
慎太郎の考えも悩んだこともお見通しだったようで、梨央は声をあげて笑う。その声があまりに柔らかくて温かくて、ずっと聞いていたいと思った。だから笑われてもそのまま、梨央の声に聞き入った。
学校に行ったら直接会ってもう一度「おめでとう」を言った。深夜の情けない出来事を思い出した梨央はまた笑う。それでも慎太郎も嬉しくて、ふたりで笑った。
「誕生日って複雑」
「どうしてですか?」
「なんか……なんだろうな」
眉を寄せて歪んだ笑みを見せた梨央の姿に、急に不安が襲ってきた。慌てて梨央の手を掴み、顔を覗き込む。
「慎太郎?」
「僕はずっと先輩といたいと思っています」
心からの気持ちを伝えると、梨央は目を見開き、固まった。図々しいことを言っただろうかと内心ひやりとしながらも、梨央の手を離さなかった。そんな慎太郎に、梨央はまたも笑う。
「そうだよな」
笑いながら視線を下に落とす梨央は、慎太郎の知る梨央ではないように見えた。小さく俯く姿が少しショックだった。梨央のすべてを知っているわけではないことを、思い知らされたようで。
「またふたりでいちゃついてんのか」
「悠雅先輩……」
廊下の向こうから歩いてきたのは悠雅だった。慎太郎と梨央の姿を見留め、苦笑している。梨央は自慢げに胸を張り、慎太郎の腕に手を絡めた。
「いいだろ。俺の恋人」
「ちょっと、梨央先輩」
「いーの。悠雅に恋の素晴らしさを教えてやらないと」
慎太郎を見せびらかすように微笑む梨央に、悠雅は優しく微笑んだ。まるで保護者のように梨央を見守る悠雅を、いつもすごいと思う。梨央と同じ歳だからか、悠雅はとても大人に見えた。嫉妬なんて微塵も起こらないほど、素敵な幼馴染同士だと思える。梨央をさりげなく支える悠雅と、悠雅に強気なことを言いながらも気遣う梨央。互いを補完し合っているのがわかった。
「俺、今日誕生日なんだけど」
「……? はい」
学校からの帰りに梨央が不思議な切り出しをした。なんだろう、と顔を見ると、梨央は口もとを歪める。
「……手、つなぎたい」
そう言いながら慎太郎の手を取り、強めに握られた。思わず逃げそうになった自分にストップをかけて、ぎこちなく笑いかけた。梨央はきっとそのぎこちなさに気がついている。そう思いながらも、精いっぱい優しく笑んだ。目が合い、梨央は花が開くように微笑みを浮かべた。幸せと罪悪感が胸でせめぎ合い、緊張からごくりと唾を飲む。
梨央とつき合って時間が経っても、慎太郎は彼に触れることができなかった。抱きしめたのは告白に頷いてくれたときの一度きり。キスなんて無理だ。セックスなんてもう想像もできないくらいに、梨央は誰よりも特別な存在。特別すぎてどうしたらいいのかわからなくなるときもあった。梨央はそんな慎太郎を静かに見ていた。なにを思っていたのかはわからない。呆れていたのかもしれない。それでもなにも言わずに慎太郎を包んでくれていた。
梨央はとても大人でしっかりとしていて、それでいて触れたら壊れてしまいそうな繊細なガラス細工のようで。梨央のいろいろな面を見るたびに、いっそう梨央に惹かれていった。
二月の終わり、慎太郎の誕生日に梨央がケーキを焼いてくれた。スムーズに動く手をぼんやりと見ていたら、魔法のようにいちごのショートケーキができあがった。お菓子作りが得意なんて知らなかったので、驚いたのも事実だけれど黙っておく。慎太郎の部屋で、できあがったホールケーキを切り分けもせずにフォークで崩しながらふたりで完食した。ただふたりで寄り添っていられたら、それ以上の幸せはない。それだけを願って、それだけを求めた。
だが、ひずみはあったのだろう。一度できたゆがみは直せなかった。
三月には卒業式があり、梨央は卒業してしまった。高校生活が急に色褪せて、なににもやる気が出ない。学校に行けば梨央に会えた日常がなくなったことはあまりにショックで、現実を見たくないほどの喪失感だった。
「僕は絶対絶対先輩のそばにいます」
梨央に会いたくて会いたくて家に行って宣言したら、梨央はきょとんとした顔をすぐに崩して笑った。
「当たり前だ、馬鹿」
可愛くて愛しくて、抱きしめたい気持ちが湧きあがる。けれど手を伸ばせなかった。
「どうした?」
顔を覗き込まれ、はっとして首を横に振る。なんでもないです、と笑う慎太郎の心の内に、きっと梨央は気がついていた。
自分にとって梨央はあまりに崇高で、触れてはいけない存在と言っても過言ではない。一緒にいればいるほどその気持ちは強くなる。人間とは違う、なにかはかり知れない尊い存在と恋仲なのだと考えていた。そんな自分を怒鳴りつけたい。慎太郎の信仰心のような思いが梨央に寂しさをいだかせていたなんて、微塵も感じ取れなかったのだ。未熟な子どもだった。自分のことばかりで、梨央の本心に目を向けることができなかった。
慎太郎は高校二年生になり、梨央は大学生になった。想像したより梨央が遠い。会えて当然だと思っていたのに、自分たちで会おうとしなければ会えない。このまま距離ができていくのかと不安に駆られ、毎日のように梨央にメッセージを送って、頻繁に会いに行った。梨央はいつでも笑っていた。
それから季節を越えていき、また新年を迎えた。ふたりで初詣に行き、柏手を打つ。願いごとは決まっている。ただひとつの願いしかない。梨央の願いはなんだろう、と思いながら隣を盗み見ると、梨央はまっすぐに慎太郎を見ていた。視線が痛いほどまっすぐで、思わず怯む。
「……梨央、先輩……?」
「……」
無言で、ただじっと慎太郎を見つめてくる。
やはり自分の恋人は人間ではないのだと思った。冬の太陽の光に透けて見える輪郭。細い黒髪がつやを弾き、わずかに揺れる瞳が翳る。その姿は言葉にできないくらいに神聖なものだった。
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