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第一章
9. 黒い獣
しおりを挟む調合中に爆発させてしまった私は、部屋に置いていた水に入った桶に顔を突っ込んだ。バシャバシャと何度かすすいで、近くに掛けていたタオルで拭きとった。
「ひ、ひどい目に遭った……」
わなわなと先ほどの恐怖に肩が震える。
まさか顔に飛び散った液体が突然スライム状に凝固してしまうなんて、死ぬかと思った。鼻に詰まったときは本当に……死ぬかと思った。
「なっはっは、愉快愉快。考え事などしているからだ」
「……今日の師匠、機嫌がいいね」
大事に至らなかったからよかったものの、ゲラゲラ笑っている師匠を私はじろりと見る。
師匠は楽しくなったり、機嫌がいいときは人をおちょくる癖があるのだ。こっちは一瞬、息止まったっていうのに。
小さい頃も師匠はよく私で遊んでいたっけ。私が師匠と遊んであげるつもりで何かとふっかけるのだが、いつの間にか遊ばれていた。あの頃は私も無邪気な少女だったのよ。
視線を落とすと、服も固まった液体がこびりついて酷い有様となっている。
「はあー、油断しちゃった」
私は反省しつつ、両手の指をくっつけて胸の中心に構えた。
ふわりとどこからともなく吹いてきた微風が髪を撫でて、毛先がわずかに浮き始める。
そうしていると私が立っている場所を中心に、至るところにこびり付いた液体の汚れがキラキラと光を帯びて消えていった。掃除完了。
浄化や洗浄、何かを綺麗にしたりする魔女術は得意分野だ。建物の修繕も魔女術を惜しまず使ったから慣れたという理由もあるんだけど。
大きな建物を維持するには莫大な予算がかかる。そんなお金を村を出たばかりの私が持っているわけない。だから魔女術を利用していた。それが一人でも経営できている理由なのだ。
ベッドメイキングも浮かしてチョチョイのチョイ。どんなにお客様が暴れて部屋を汚そうが、細かいゴミを落とそうが、壊そうがどんとこいである。
細工が細かい時計だとか、繊細な物になってくると無理だけどね。そういうのは職人に任せたほうが賢明だと思う。
洋服も綺麗に出来ることはできるけれど、外に干して日光を当てたほうが気持ちがいいって理由で洗濯派だな。
石鹸の香りもするし。
ふう、と汚れた衣服を本館の洗濯場に放り込んだところで、私は大きく伸びをした。
少し夜ふかしをしすぎたみたいだ。
食堂に行って温かい飲み物でも作ろうと思ったが、眠気が出てきたので真っすぐ部屋に帰ろう。
本館と旧館を繋ぐ二階の渡り廊下を半分渡ったところで、ふっと窓の外に目を向けた。
雨はまだ降り止まない。
水滴が窓を叩くたび、ガタガタと音を立てている。
さっきよりは弱まっているので、明け方には晴れていることを願って寝ることにしよう。
「――……グルル」
ピタッと、踏み出そうとした足が止まった。
どこからか変な音が聞こえた気がしたから。
「……師匠?」
そうは言うけれど、旧館のほうに猫の影はない。
窓に何か飛んできた音だろうか、とおもむろに振り返ったときだ。
「コクランさん?」
通ってきたばかりの本館と廊下のちょうど繋ぎ目のところに、さっきはなかったはずの黒い影がのっそりと動いていた。
ううん、違う。コクランさんにしては影の背丈が小さい。あれでは私の首までの高さしかないはずだ。
しかも、なんか横に……大きい?
「……!」
踵裏に力を込めてしまったのか、みしりと床板が小さく軋んだ。――と、ほぼ同時に、黒い影にキトンブルーの目玉が二つ現れた。
目玉である。なんで目玉があるっていうのか。
あの影のフォルム、コクランさんなんかじゃない。人の形とはほど遠いそれは。
「……な、なんで」
なぜだろう、意味が分かんない。
幻覚? 夢? 幻? ……ほ、ほんもの?
「グル、ルルルル」
私の目と鼻の先には、黒い獣――ライオンが一匹立っていた。
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