音が付けるキスマーク

イワイケイ

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音が付けるキスマーク

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「紺野君、これから外出だよね。ちょっと来てもらえる?」
「あ、はい」
 営業事務の戸田に呼ばれて小会議室に入ると、彼女は真面目な顔をして言った。
「……ちょっとお化粧してから出かけようか」
 その言葉が一切ふざけてなどいないことを物語るように、戸田の片手には化粧ポーチ、もう片方の手にはファンデーションらしき容器が握られている。呆気に取られている紺野を椅子に座らせると、戸田は無言のまま紺野のネクタイを緩め、シャツのボタンに手をかける。このシチュエーションはいいんだろうか、綺麗なので有名な戸田からの手ほどきなら妬む奴らが大勢いるだろうな、ある意味これってセクハラだっけ、等々ぼんやり考えていると、ぐ、と襟元を後ろから引っ張られて窒息しそうになった。
「訪問先、C社だよね。……あそこの担当、女性でしょ。女はこういうのすぐ気付くからね」
 ひたりと指先を首筋に当てられ、ようやく状況を理解するのと共に、怒りやら困惑やら羞恥やらが一気に噴き出してきて紺野は硬直する。
「まあ、シャツでぎりぎり隠れてるんだけど、見つけちゃったし……客先だからね、念のため」
 と淡々と痣消し作業を続け、はい、と戸田は硬直の解けない紺野の服装を元通りに直して、肩を叩いた。
「……ありがとうございました」
 他に言うべき言葉はなにもなく、とにかく頭を下げる紺野に、戸田は苦笑する。
「情熱的な相方さんなんだろうけど、社会人だから気を付けて」
「はい、すみませんでした」
 と謝ることで出来ることなら肯定したくなかった事実を認めることにもなり、紺野は臍を噛む。この怒りは元凶への鉄拳制裁でしか治まりはしまい、と思い定めて小会議室を出たところで、その元凶がランチからでも戻ってきたらしい、テイクアウトのコーヒーを片手に目の前を通り過ぎていくのに気付いた。
「涼川」
 会社でいきなり突っかかるわけにもいかず、なるべく怒りを抑えて声をかけると、
「何」
 といつも通りの素っ気ない返事、それが癖だと分かってはいるものの紺野は余計苛々する。
「何、じゃねえよ。お前のせいで恥かいたわ」
「は?」
「……変な痕、付けただろ」
 と小声で詰問するのへ、涼川はああ、とまるで他人事のように、
「気付くの遅いよな、紺野。つか、誰に指摘された?」
 と逆に問い返してくる。
「戸田さんだよ」
「ふーん。で?俺が犯人だって言った?」
「言うわけないだろ!!」
 思わず声が大きくなったのを慌てて自制し、とにかく、と紺野は涼川を睨み付ける。
「……二度とやんなよ」
「どうすっかな、またやるかも」
 飄々とした、反省の色が全くない涼川の態度が癇に障り、
「お前ホントにいい加減……っ」
 とその肩を押した拍子にコーヒーが零れ、もろに被った涼川の手が見る間に赤くなる。
「熱っ……」
 と眉間に縦皺を刻んだ涼川の手首を反射的に掴むと、紺野は給湯室まで引っ張っていき、そのまま蛇口を全開にした流水に火傷した手を突っ込む。
「おい、紺野、せめて袖口捲ってから、」
「ごめん、律……手はダメだったのに」
 声が震える、落ち着かなければならないと分かっているのに、紺野の思考は半分停止しかけていた。
「紺野、大丈夫だって。この程度何でもない」
「でも、」
「お取込み中失礼。涼川君、火傷したって通報があったけど?」
 給湯室に顔を出した戸田に、涼川は苦笑する。
「大丈夫です。紺野が大げさなだけで。つか、誰が“通報”したんですか」
「八木。庶務に行かずに真っ直ぐ私のとこに来る辺りが優秀。……紺野君、手当は私がするから君は仕事行きなさい。もう時間ないでしょ」
 冷静な戸田の声に我に返る、ようやく顔を上げた紺野に、涼川は頷く。
「ほら、仕事行け。……大丈夫だから」
「……ホントごめん」
 と呟いて給湯室を出ていく紺野を見送る涼川の顔を眺めていた戸田は、呆れたようにため息を吐く。
「涼川君、その顔人に見られないようにしなよ」
「何か変な顔してます?」
「性癖が全部出てる。……まあ気持ちは分かるけど」
 と言いながら、戸田は冷凍庫から保冷剤を取り出し、涼川の手を取った。
「ああ、ちょっと火傷になってるけどたいしたことないね。一応保冷剤当てといて。痛みが酷いようだったら病院行った方がいいと思うけど」
「すみません。……で、戸田さん、俺と同じ人種ですよね」
「止めてよ、変態の烙印押された気分になるから」
 眉を顰めた戸田は、ふと涼川の顔を見上げ、
「……あの噂、本当だった?」
 と言う。
「噂?俺があの痕の犯人ってことですか」
「バカじゃないの、そんなの気付くの私だけだわ。……そうじゃなくて、スズカワファミリーの話」
「ああ、そっちね」
 と涼川はあっさり頷いた。
「そうですよ。スズカワの出来損ないってのもコネ入社ってのも全部ホント。面と向かって聞いてきたの、戸田さんだけですけどね。何で今更?」
「紺野君、君の手をすごく心配してたから。あんなに必死な彼初めて見た」
「あいつだけなんですよ、俺の手なんか未だに心配するの。こんな、何の価値もないのに」
 と保冷剤を当てた手を眺めて薄く笑う涼川へ、戸田は肩を竦める。
「……だから、可愛いんでしょ」
「……まあ、そうですね」



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 退勤後、散々迷った挙句、紺野は自分のアパートに帰る代わりに涼川のマンションの前まで来た。あの後会社に戻った時には涼川も戸田も退勤しており、火傷がどうなったか確認出来なかったのである。そこまで重傷ではないであろうことは分かってはいるものの不安はあり、まずは帰宅しているか確認しようと携帯を取り出したところで背中を叩かれ、危うくそのまま落としそうになった。
「おかえり」
「びっ……くりした、何だよ」
「俺が帰ったかどうか確認しようとしてただろ?」
 普段と変わらない涼川にほっとしながらも、
「……お前、火傷は?」
 と聞くと、ほら、と目の前に手を差し出される。
「ちょっと皮が剥けた程度だよ、もう赤みも残ってない」
「そか、……良かった」
「ただ、今日は自炊するのは止めようと思って。紺野、飯行くだろ?」
 と決まったもののように言うのへ、紺野は一瞬躊躇ってから首を振った。
「いや、今日は帰るわ」
「何で?」
「……お前の火傷が心配だっただけだから。最近あんまり家帰ってないしさ」
 相手に、というよりは寧ろ自分に言い聞かせるようにゆっくり言葉を継ぐ紺野を黙って見つめていた涼川は、ふいに小さく笑った。
「何、痕付けたのまだ怒ってんの?」
 からかうような言い方に紺野の眉間に皺が寄る。
「それは怒ってる。当たり前だろ、元はと言えばお前がそういうバカなことするからっ、」
「じゃあ、今日は付けないから」
 と涼川は紺野の耳に唇を寄せ、いてよ、紺野、と囁いた。

 瞬間的に血が沸いて、紺野は動けなくなる。

「ホントに紺野って面白いよな。聴覚弱すぎる」
 皮肉にも楽しそうに笑う涼川に金縛りが解け、紺野はこれまでの恨みを全て込めて、容赦なく相手の足を蹴った。
「痛!」
「これだけで勘弁してやるから有難いと思えよ」
「ごめんって。あと、焼き肉奢るから帰るのも止めて」
「……西口の福寿亭?」
「そうだね」
「……行く」
 我ながら食べ物に釣られるのもどうかとは思うけれど、給料日前の福寿亭の魅力には逆らえない、と紺野は自分に言い訳をする。せめてもの腹いせに一番高いコース頼んでやる、と思いながら、それでも結局は涼川の手の内にいることに変わりないことは分かっており、どうしようもない、と紺野はため息を吐いた。



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美味しい肉で満足したし、風呂も入ったし、ここから寝るまでは至福のゲームタイム、購入はしたもののまだプレイ出来ていなかった新作をいざ出陣、と気合を入れてソファに陣取った紺野は、傍へ寄ってきた涼川を無言のまま蹴った。
「……すぐ蹴るなよ……」
「うるさい。邪魔だからどけ」
 と断固とした口調で言い渡す紺野にため息を吐いて、涼川は大人しく横に腰を下ろした。
「紺野は本当にゲーム好きだよな。高校の時はそんなイメージなかったけど」
「実際やってなかったんだよ、高校の時は。ゲームなんてしてる余裕も、そもそも金もなかったし」
 と紺野は苦笑する。
 

 紺野の家は母子家庭だ。
 母親は紺野と7歳下の双子の弟の3人を養うのに昼夜なく働いており、物心ついた頃から家事と弟達の世話は長男である紺野の仕事になっていたから、同世代の友達が遊ぶようなゲームを買うことなど思いもよらなかった。奨学金を貰って大学に行っても、授業のない時はたいていアルバイトに明け暮れており、実際に自分でゲームを買ったのは社会人になってからだった。


「……だから今、失われた子供時代を取り返してんだよ。邪魔すんな」
 とそれが免罪符でもあるかのように振りかざすのへ、はいはい、と諦めたように再びため息を吐いた涼川は、ふとゲームの画面に目を止めた。これ、出たんだ、と呟くのへ紺野は思わず手を止める。
「何だよ、知ってんの?」
「これの音作ってんの、音大の時の友達」
「マジか。この人、ゲーム好きの間では結構有名だぞ?音楽カッコいいし、SNSでもファン見かける」
「へえ。……まあ、あいつのセンスこういうのに向いてるしな」
 と頷く涼川に、
「お前は?またやればいいのに、」
 とうっかり言いかけて、しまった、と紺野は慌てて口を噤む。涼川は黙ったまま紺野の頭に手のひらを乗せ、ぽんぽんと軽く叩いてから立ち上がった。
「先に寝るわ。明日休みだからって夜更かししずぎんなよ」
「……うん。おやすみ」
 これでようやくゲームに集中できるはずなのに、奇妙な味気無さが胸に広がって、いくらも経たないうちに紺野はゲーム機を机に置いた。煙草を取り出すとそのままベランダに出る、暖かくなってきたとはいえ、夜はまだ肌寒い。
 都心の高級高層マンションから見る夜景は綺麗で、いくらでも眺めていられる、と紺野は思う。この部屋も賃貸ではなく分譲で、涼川はさらりと親から渡されたと言っていたけれど、自分のアパートからでは望むべくもない光景に、さすが涼川家、と思わず紺野はため息を吐いて煙草に火を付ける。


 涼川の実家は代々有名な音楽一家だ。両親共に世界の第一線で活躍するピアニストで、現在は兄も妹も音楽家としてほとんど日本にいない生活を送っており、クラシックの世界に馴染みがない人間でも「スズカワファミリー」と言えば認識出来るほどである。
 本来であれば何の接点もなさそうな紺野と涼川が出会ったのは高校の時だった。普通の公立高校に入学してきた涼川に、当時、口さがない大人達の間では面白半分のあらぬ噂が立ち、それが一部の生徒にも伝わって、良くも悪くも注目されていたらしいが、紺野はほとんど何も知らなかった。ただ、明らかに周囲の生徒よりも大人びていて愛想もない涼川は、どこか自分とは別の世界の人間だという気はしていた。実際、初めて会話したのは高3の夏になってからだった。
 夏休みの学校の、誰もいない音楽室でピアノを弾いていた涼川の姿を見、その音を聞いた時、本当に彼は別世界の人間なのだと再確認するのと同時に、奇妙に矛盾してはいるが、とても近い存在にも思えてしまい、その印象は偶然か運命か、部署は違えど同じ会社に就職した今でも強烈に紺野の脳裏に焼き付いている。

「紺野?」
 振り向くと寝に行ったはずの涼川が水のペットボトルを持って立っている。
「……寝たんじゃねーの」
「何か喉渇いちゃって」
 とベランダに出た涼川は、紺野の煙草を取り上げて吸い、長く煙を吐き出す。しばらくそのまま、特に何を話すでもなく二人で手すりに凭れて夜景を眺めていたが、やがて涼川が口を開いた。
「さっきのさ、実は考えてる」
「え?」
「音作る話。大学の時世話になった、ゲーム制作してる知り合いに頼まれてて、……どうしようかなと」
「その知り合いって、お前が『aspect』の音楽担当した時と同じ人?」
「うん」
 思わず紺野は涼川の腕を掴む、その話受けてくれと言ってしまいそうになるのを必死で呑み込んで、黙って相手の顔を見つめていると、涼川が小さく笑う。
「……何でお前が思いつめた顔すんの」
「え、いや、」
 と慌てて手を離して目を逸らした紺野に涼川は小さくため息を吐き、今度は笑わずに紺野の頬に触れた。
「紺野、今思ってること言って」
「……別に、俺が何か言うことじゃないだろ」
 さっきうっかり本音を口に出した反省を踏まえて返しながら、紺野は自分の顔が火照ってくるのを感じる。本当はこんなことを言いたいのではないけれど、自分の本心を伝えるのには抵抗があった。
 涼川は音大は出たものの家族とは違い、音楽家としての道には進まなかった。その一方で会社員の傍ら時折ゲームや各種映像用に本名は出さずに曲を提供することもあり、完全に音楽と切れた生活をしているわけでもない。その事実は知っていても、実際涼川がそれをどう思っているのかは分からないし、何となく彼の機微な部分に触れてしまうような気がして、紺野はこれまで『涼川の副業』くらいの位置づけで考えるようにしていた。だから自分からは何も聞かないようにしていたつもりだったのだけれど――。
「山ほどエロいことしてんのに、こういう時の紺野が一番エロいんだよな」
 言い方こそ爽やかだけれども少しも爽やかでない、しかも突拍子もない内容に、紺野は耳を疑う。
「……は?」
「あ、褒めてるんだけど」
 しゃあしゃあと言う涼川に呆気に取られる、真剣に色々なことを考えていた自分が馬鹿らしく思えてきて、怒りすら湧いてこなかった。
「もういい。寝る」
 と言い捨てて部屋に戻ろうとする紺野を抱き止めた涼川は、
「言っとくけど俺、ふざけてないからな?」
 とゆっくり言う。
「紺野の最大の長所を言ってるだけ」
「いや、貶されてるようにしか聞こえねーんだけど……つか、そもそもエロくないわ!」
「エロいって言葉がアレなら……“人の欲を引き出すのが巧い”っていうのは?」
 少なくとも俺には有効、と涼川は紺野の頬に軽くキスした。
「……何言ってんだかさっぱり分からん」
「そう?」
 仏頂面の紺野に対してどこか楽しそうな涼川は、ふと真面目な表情になって、
「じゃあさっきの話に戻すけど、何考えてたか教えてよ」
 と言う。
「何でもねーよ。ただ、……aspectの音楽好きだったから、また……その、律の音聞ければいいなって思っただけ」
 諦めて、それでも言葉を選びながら言う紺野をしっかり抱きしめた涼川は、しばらくそのまま何か考えていたが、やがて紺野の顔を覗き込んで、真剣な声で言った。
「紺野、抱いていい?」
「……殴るぞ」
「痕付けないから」
「そういうことを言ってるんじゃねえ。つか放せ、お前相手に真面目になった俺が馬鹿だったわ」
「だから、俺はふざけてないって言ってるだろ。紺野は俺の欲を引っ張り出すの。音作りたいとか抱きたいとか、そういうの全部」
 完全に脱出用の臨戦態勢を取っていた紺野はぴたりと大人しくなった。
「……今、音作りたいって言った?」
「うん」
「じゃあ、さっきの話受けるのか?」
「まあ、そうだね」
 一瞬、この状況が頭から消去されて、今の涼川の言葉だけが紺野の認識の全てになる。涼川の音楽が聴ける、というだけで自分でもどうしていいか分からないほど嬉しい。

 多分、あの夏休みの日から自分は涼川の音に捕まっている、と紺野は思う。

「……ありがとう」
 とっさに口にした言葉が正しくないことは自覚していた。涼川が仕事を受けたのは別に自分のためではないことくらい理解していたけれど、それでも自分の気持ちに一番近いのはこの言葉だった。
「どういたしまして」
 と礼儀正しく返事をした涼川は爽やかに笑って続けた。
「それじゃ、もう一つの方責任取ってね、紺野」



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 思ったよりもベランダに長くい過ぎたらしい、結構冷えてるな、と頬や首に触れてくる涼川の手の温もりが心地良かった。
「律ってさ、見た目より体温高いよな」
「何だよ、見た目よりって」
「愛想ないから体温低そう」
「……ヤバい偏見だな」
 と呆れたように呟いて抱きしめてくる涼川に、すっかり慣れてしまっている自分がこそばゆい、と紺野は思う。大学生の時までは学業とアルバイトで手一杯、ゲーム同様、恋愛なんてする余裕は一切なかったから、社会人になってようやく遅い恋愛にチャレンジしてみようと思っていた矢先、就職先で再会した涼川に何故か心身共に喰われて現在に至る。
 果たしてこれが恋愛と言えるのか、どちらかといえば世話を焼く対象が弟達から涼川に移行したという感覚の方が強いけれど、それが不思議と違和感もなく、寧ろ馴染んでしまっている今となっては、別段不満があるわけでもない。それに――。
「……っ、」
 冷えた肌を温めるように触れていた涼川の手が別の意図を持って動く、暖を取るのが目的ではないのは分かっていたのに、不意打ちを食らったような気がして紺野の眉間に皺が寄る。
「紺野、寝落ちするなよ。……完全に寝そうになってるけど」
 と見透かしたように言う涼川へ、紺野はばつの悪さに相手の鼻を抓んだ。
「……寝不足なんだよ。誰のせいだ」
「はいはい、俺のせいですね」
 とこれは少しも悪びれず、
「ホントに色気ないなあ、紺野」
「あってたまるか!つか、お前、さっきまで散々人のことエロいとか言っておきながら何だその言い草」
「いや、……正確には色気がないっていうか、エロくなるまでに時間かかるんだよな。まあ、それが良いんだけど」
 楽しいから、と僅かに舌で唇を舐め、涼川は紺野を見下ろしてその髪を指先で梳く。普段、綺麗に整ってはいるけれども表情の動きにくい涼川の顔に、ろくでもない感情が浮かんでいるのを見て、紺野は思わず苦笑した。
「何か今のお前の顔見てたら、これから捕食されるんじゃないかって思うわ」
「……でも紺野、」
 と涼川は紺野の耳にキスして、そういうの嫌いじゃないだろ、と笑いを含んだ低い声で言う。何が問題かと言えば、その指摘があながち間違いではないことで、自分に深刻な欠陥があるのではないかと紺野は悩む。
「いや多分……痛いのとかは苦手だし、変な性癖とかではないと思うんだよな……」
 真剣に分析し出した紺野に、涼川はため息を吐く。
「待ってたら朝になりそう。……こっち見て」
 と紺野の顎を掴んで顔を覗き込み、捕食します、と宣言する涼川の表情がやはり嫌いではなく、今度は紺野がため息を吐くことになった。



 しばらく触れ合っていなかったというのなら肌が渇くのも分かるけれど、昨夜も散々抱かれておいて、今も全く余裕がないのはどういうことかと紺野は思う。それどころか昨夜よりも肌が熱く、まるで記憶が快楽を引き寄せているようにも思えて腹立たしい。いつもなら指や舌で肌を辿られるのも、少なくとも最初の方はくすぐったさが残るはずなのに、今はまるで媚薬でも滴下されているかのように直接皮膚の下に浸透して、体が跳ねる。
 良い反応、とからかうように言われるのにも言い返しも出来ないまま、不用意な声が零れないように手の甲で口を覆って耐えるのが紺野の精一杯だった。
「紺野、手どけて。キス出来ない」
 と手首を掴まれる、それでも無理やり引き剥がそうとしないのが涼川のやり方で、つい言う通りにしてやりたくなる自分は甘いのだろうと自覚はしつつも、紺野はそろりと手を外す。ありがと、と掴んだままの手首や指先にキスする涼川に、あれ、唇にしたいんじゃなかったのかと思った瞬間、性器に指が絡みついて、折角声を出さないようにしていたのが水の泡になった。
「あはは、可愛いね紺野」
「お前……っ、ずるい……!」
「我慢してるのも可愛いけどね、……もうちょい素直なのも見たい。それに、」
 そろそろエロくなる頃だろ、と囁かれたのが引鉄になって、紺野の中で何かが砕ける。多分それは無意識に自分を縛っている理性の枷で、これが外れた時が涼川の言う“エロくなる”なのではないかとひっそり考えた紺野の体を、今までよりもはっきりした強い性感が走る。涼川の長い指に誘われるようにとろりと蜜が溢れ出してくる、耳を打つ濡れた音に理性どころか思考能力すら奪われる気がした。
「あ、……っ、」
 勝手に声が零れ落ちていく、甘くて情けなくてとても自分の声だとは認めたくないのに、涼川はどこか楽しそうで、零れた声を吸い上げるように紺野の唇を塞いだ。
「紺野、俺のもして」
 言われるままに指を伸ばす、触れてもいなかったのに芯が通って熱を持っているのが不思議な気がして、紺野はぼんやり涼川を見上げた。
「何?」
「いや、何か……、お前、何で俺なんかで勃つのかなって」
 素直に言ってしまってから、さすがに後悔する。無神経、今更感、空気の読めなさ、総じて馬鹿と言われても全く反論出来ない発言に、涼川は別に呆れるでもなく真面目な顔で、
「さっき話したでしょ、紺野は俺の欲を引き出すって」
 と言いながら紺野の手を取って、しっかり自身の熱に触れさせる。ほら、ちゃんと、と促されるのへ、慌てて指を動かすと、涼川は小さく笑った。
「……何年経っても下手っぴだけど」
 あ、無神経なのはこいつもだった、と縦皺の寄った紺野の眉間に涼川は軽くキスする。
「でもねえ、そこも含めて興奮すんの。もう挿れたいんだけど、いい?」
 こういう時の涼川の声は低くて甘くて、どこか危うさを含んで。
 決して口にはしないけれど、多分涼川の作る音と同じくらい好きなのかもしれない、と紺野は思う。これに抗えたことなんか一度もない、と密かに考えながら黙って頷くと、ちょっと待ってて、と体を離した涼川は、潤滑剤の容器を手に戻ってきた。
「……新しいの、買っとけばよかったな」
 中身の少なさに、涼川は少しだけ眉を顰める。
「やっぱり止めようか。これじゃ痛いかも」
 とそっと訊かれるのへ、紺野は首を横に振った。
「多分、……大丈夫」
「ん、痛かったら言って」
連日肌を重ねるのは体力的には少々きつい反面、繋がるのに抵抗が少ないという利点もある。おかげで多少潤滑剤が少なくても苦痛はほとんどないけれど、気持ちの上ではいつまで経ってもこの行為に慣れるということはない。
 ただ、さすがに何年も涼川と寝ていて体はすっかり馴染んでおり、相手から受け取る快楽も自分が相手に与えられる快楽も知っているから、躊躇いや羞恥があってもそれで集中出来なくなるわけではなかった。それに淡く幼い恋心などを除けば恋愛経験ゼロ、性体験ゼロのまま社会人になった紺野にとって、初めて寝た相手が涼川で、以来比較の対象が出来るわけでもなかったから、この表現が正しいかどうかは分からないけれど、多分、自分は涼川のやり方が苦手ではない。
「全部入った、けど、……ホントに苦しくない?」
「うん」
 避けられない最初の衝撃と圧迫感に紺野は小さく息を呑む、しばらくは内壁を穿たれる感覚にどうしても違和感があるけれど、その違和感が甘く重く響くようになって、全身がその甘さを追いかけるように疼くようになる。
「……ッ、や、……っ、」
「気持ちいい?」
 何も知らない自分に考えたことすらなかった悦楽のポイントを教えた張本人の癖に、涼川は毎回必ず確認してくる。今日こそはいちいち言わなくていいと制してやるつもりだったのに、腰を固定され、緩急を付けて幾度もそこを突かれると、灼け付くような快楽に紺野の思考も体も完全に蕩け、結局涼川の望み通りになった。
「りつ、きもちい……ッ、……ん、」
「うん、俺も。いいね、紺野……すげぇ可愛い」
 繕わない、欲に塗れた声を紺野の耳に落として、涼川は繋がったままの紺野の体を抱え直した。今までよりもより深く、激しく腰を打ち付けられて紺野の目に涙が浮かぶ。それが苦痛でない証拠には、涼川の動きに合わせて自ら腰を波立たせてしまうことで、羞恥と快楽に紺野は容赦なく追い詰められていった。
「も、……無理、……っ、やだ、…………、あ…………ッ、」
 浮かんでいた涙がシーツに零れ、掠れた声で限界を訴えた時、一際深く穿たれて紺野の背が反る。自分が汚した腹の上に倒れ込んで、荒い息を吐く涼川の顔を眺めながら、ああ、この顔も嫌いじゃないんだよな、と紺野は朦朧とする頭で考えた。



 水のペットボトルとクッションを抱えてソファでぼんやりしていた紺野に、
「おいで紺野。シーツ替えたから寝れるよ」
 と呼びに来た涼川は、あまりに気の抜けた紺野の様子に苦笑した。
「……紺野、オンオフの差が酷い」
「疲れたんだよ。ていうか、もう二日連続とか無理だと思う。30になったし」
「そう?全然頑張れてたと思うけど。今日だって恥ずかしいの我慢しながらめっちゃ感じて、泣きながら物凄いイキ方してたじゃんか」
 ドラマか小説のあらすじでも語るようにあっけらかんとダイジェストを口にする涼川に、考えるより先に体が動いて、紺野はペットボトルとクッション、それに机の上にあったリモコン数種類から鍵までを投げつけた。
「あっっっぶな!!せめて投げるのはクッションだけにしなって」
「お前ホントに……次そういうの言ったら殺す」
 床に散乱したものを慌てて拾う涼川の横をすり抜けて綺麗になったベッドに潜りこむと、さっきよりも数倍の疲労感と羞恥を癒すべく、紺野はきつく目を閉じた。
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