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一章 契約と回帰
五十四話
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家に戻ると、母は手際よく台所に立った。
大きな鍋に水を張り、切った野菜と肉を放り込む。その動きは家で食事を久しぶりに作るとは思えないほど迷いがなく、火にかけながら鼻歌まで口ずさんでいる。
「今日は簡単なポトフでいいわよね。移動続きで疲れたでしょう?」
「うん……」
ソラは椅子に腰を下ろし、その背中を眺めていた。
鍋から立ち上る湯気と、じんわり広がる香り。肉の良い匂いや野菜から出る甘さを感じさせる匂い。――それだけで胸の奥がきゅっと締めつけられる。
やがて皿に盛られたポトフがテーブルに置かれる。
ソラはスプーンを取って一口すくい、口に運んだ。
その瞬間だった。
「……っ」
懐かしい味が口に広がった途端、視界が滲んだ。
止めようとしても止まらない。ぽろり、ぽろりと涙が落ちる。
「え、ちょ、どうしたの?」
母は驚いたように声を上げ、すぐにソラの隣に来ると、懐からハンカチを取り出してそっと頬に当てた。
「無理しなくていいのよ。ほら、目、閉じて」
「ごめん……止まらなくて……」
「いいの、いいの」
母は優しく笑いながら、溢れる涙を丁寧に拭ってくれる。
「久しぶりの料理で涙を流してくれるなんて、母親冥利に尽きるわね」
そう言ってから、母自身もポトフを一口食べる。
「あら……美味しい」
少し間を置いて、得意げに胸を張った。
「私って料理の天才じゃない?」
その言葉に、ソラは思わず小さく笑ってしまう。
涙はまだ頬に残っていたが、胸の奥の重さは少しずつ溶けていった。
「……相変わらずだね」
「私はいつでも私よ」
母はそう言って椅子に腰掛け、ソラの顔をじっと見つめた。
「さて。落ち着いたみたいね。じゃあ――学校や最近のあなたのことを教えて」
その一言に、ソラは一瞬だけ言葉に詰まる。
だが、すぐに頷いた。
クロのこと。
ゴーマンのこと。
それらは胸の奥にしまい込んだまま、口には出さない。
代わりに、仲間のことを話した。
ボッケのぶっきらぼうさ、マルコのキザな言動。
リンの優しさと、ファラの快活な笑顔。
初めてのダンジョン実習のことやポーション作りの授業、うまくいったこと、怒られたこと、少し怖かったこと。
そして、今の学校生活が思った以上に充実していること。
母は急かすことなく、ただ静かに聞いてくれた。
時折、「そうなの」「へえ」と相槌を打ち、時々ふっと微笑む。
「いいお友達に恵まれたのね」
「……うん」
「それが一番よ」
ポトフの湯気は次第に落ち着き、外はすっかり夜の色に染まっていく。
窓の外から聞こえる街の音も、どこか遠い。
二人で過ごす久しぶりの時間は、ゆっくりと、確かに深まっていった。
ソラはその温もりを噛みしめながら、今だけは何も考えず、母の声に耳を傾けていた。
翌朝、まだ街がゆっくりと目を覚ましきらない時間帯。
淡い朝靄の中、汽車の駅には人の姿もまばらだった。
ソラは母を見送るため、ホームの端に立っていた。
昨夜の温もりがまだ胸の奥に残っているようで、胸の内が少しだけ落ち着かない。
汽車はもうすぐ発車する。
白い毛皮のコートを羽織った母は、切符を確認し終えると、ふっと振り返ってソラの前に立った。
「……ソラ」
そう呼ばれた瞬間一歩踏み出し、ソラを強く抱きしめた。
柔らかな香りと、包み込むような腕の力。子どもの頃から何度も感じてきた懐かしさが、今はやけに胸に響く。
「元気そうで、本当に安心したわ」
耳元で囁く母の声は、優しく、それでいて少しだけ震えていた。
「でもね、無理はしないで」
母はソラの背中に手を回したまま、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「あなたは良い子で、強い子だけど……それでも、あなたはいつまでも私たちの子供よ。
辛いときは、辛いって言っていいの。私たちはあなたの味方よ、それを忘れないで」
胸の奥が、きゅっと締め付けられる。
喉の奥まで込み上げてくるものを、ソラは必死に押し留めた。
――大丈夫だ。
そう言い聞かせるように、ソラは息を整える。
「……うん。大丈夫だよ」
そして、少しだけ照れたように、でもはっきりと笑顔を作った。
「次に帰ってくるときも、楽しみにしてる。
そのときは、また母さんのポトフ食べさせてよ」
その言葉に、母は一瞬驚いた顔をしてから、くすっと笑った。
「ふふ、もちろん。
その頃には、もっと腕を上げておかないとね」
汽笛が鳴り、発車の合図が響く。
母は名残惜しそうに腕を離すと、ソラの頬を軽く両手で包み込んだ。
「じゃあね、ソラ。
ちゃんと食べて、ちゃんと寝て、ちゃんと笑いなさい」
「うん。行ってらっしゃい、母さん」
母は満足そうに頷き、汽車へと乗り込んでいく。
窓越しに軽く手を振る姿を、ソラは動かずに見送り続けた。
やがて汽車はゆっくりと動き出し、母の姿は朝靄の向こうへと消えていく。
ホームに残されたソラは、しばらくその場に立ち尽くしてから、静かに息を吐いた。
近くでクロが話しかける。
『いいのか? 本当のことを言わなくて』
静かな声だった。責める響きはなく、ただ事実を確かめるような問いかけ。
ソラはゆっくりと首を横に振る。
「いいんだよ。言わなくて」
自分に言い聞かせるように、そう答えた。
もし話せば、きっと母は笑って聞いてくれただろう。
そして、きっとそのあと、泣いた。
無理をしていることも、命を削ったことも、全部見抜いて。
『心配させたくないだけか?』
クロの問いに、ソラは少しだけ考えてから答える。
「……それもある。でも、それだけじゃない」
ソラは胸に手を当てる。
まだ、心臓は確かに鼓動を打っている。前の人生では死にかけ、そしてゴーマンとの戦いでも死にかけた。
(母さん、ごめんなさい)
胸の内で、そっと言葉を紡ぐ。
(本当のことを言えなくて、ごめんなさい)
(危ないことばかりしてて、ごめんなさい)
ゴーマンとの戦い。
胸を貫かれ、死の淵に立たされたあの瞬間。
それでも――生きたいと願った自分。
(でも、ありがとう)
思い浮かぶのは、優しく笑う母の顔と、不器用だけど背中で語る父の姿。
(母さんと父さんの元に生まれて、俺は幸せです)
クロは何も言わず、ソラの言葉を待っている。
ソラは空を見上げ、拳を静かに握った。
(いつか、胸を張れる息子になる)
(心配をかける存在じゃなくて、誇れる存在に)
ゴーマンの顔が脳裏をよぎる。
そして、あのショーイチローの姿も。
(あの人たちよりも――いや)
ソラは小さく息を吸い、はっきりと誓った。
(誰よりも強くなる)
守れる力を。
失わない力を。
奪われない未来を。
ソラは前を向いた。
もう母の姿は見えない。それでも、その温もりは胸に残っている。
「行こう、クロ」
『ああ。お前が進むなら、私はどこまでも付き合おう』
二人は並んで歩き出す。
過去を背負い、秘密を抱え、それでも前へ。
大きな鍋に水を張り、切った野菜と肉を放り込む。その動きは家で食事を久しぶりに作るとは思えないほど迷いがなく、火にかけながら鼻歌まで口ずさんでいる。
「今日は簡単なポトフでいいわよね。移動続きで疲れたでしょう?」
「うん……」
ソラは椅子に腰を下ろし、その背中を眺めていた。
鍋から立ち上る湯気と、じんわり広がる香り。肉の良い匂いや野菜から出る甘さを感じさせる匂い。――それだけで胸の奥がきゅっと締めつけられる。
やがて皿に盛られたポトフがテーブルに置かれる。
ソラはスプーンを取って一口すくい、口に運んだ。
その瞬間だった。
「……っ」
懐かしい味が口に広がった途端、視界が滲んだ。
止めようとしても止まらない。ぽろり、ぽろりと涙が落ちる。
「え、ちょ、どうしたの?」
母は驚いたように声を上げ、すぐにソラの隣に来ると、懐からハンカチを取り出してそっと頬に当てた。
「無理しなくていいのよ。ほら、目、閉じて」
「ごめん……止まらなくて……」
「いいの、いいの」
母は優しく笑いながら、溢れる涙を丁寧に拭ってくれる。
「久しぶりの料理で涙を流してくれるなんて、母親冥利に尽きるわね」
そう言ってから、母自身もポトフを一口食べる。
「あら……美味しい」
少し間を置いて、得意げに胸を張った。
「私って料理の天才じゃない?」
その言葉に、ソラは思わず小さく笑ってしまう。
涙はまだ頬に残っていたが、胸の奥の重さは少しずつ溶けていった。
「……相変わらずだね」
「私はいつでも私よ」
母はそう言って椅子に腰掛け、ソラの顔をじっと見つめた。
「さて。落ち着いたみたいね。じゃあ――学校や最近のあなたのことを教えて」
その一言に、ソラは一瞬だけ言葉に詰まる。
だが、すぐに頷いた。
クロのこと。
ゴーマンのこと。
それらは胸の奥にしまい込んだまま、口には出さない。
代わりに、仲間のことを話した。
ボッケのぶっきらぼうさ、マルコのキザな言動。
リンの優しさと、ファラの快活な笑顔。
初めてのダンジョン実習のことやポーション作りの授業、うまくいったこと、怒られたこと、少し怖かったこと。
そして、今の学校生活が思った以上に充実していること。
母は急かすことなく、ただ静かに聞いてくれた。
時折、「そうなの」「へえ」と相槌を打ち、時々ふっと微笑む。
「いいお友達に恵まれたのね」
「……うん」
「それが一番よ」
ポトフの湯気は次第に落ち着き、外はすっかり夜の色に染まっていく。
窓の外から聞こえる街の音も、どこか遠い。
二人で過ごす久しぶりの時間は、ゆっくりと、確かに深まっていった。
ソラはその温もりを噛みしめながら、今だけは何も考えず、母の声に耳を傾けていた。
翌朝、まだ街がゆっくりと目を覚ましきらない時間帯。
淡い朝靄の中、汽車の駅には人の姿もまばらだった。
ソラは母を見送るため、ホームの端に立っていた。
昨夜の温もりがまだ胸の奥に残っているようで、胸の内が少しだけ落ち着かない。
汽車はもうすぐ発車する。
白い毛皮のコートを羽織った母は、切符を確認し終えると、ふっと振り返ってソラの前に立った。
「……ソラ」
そう呼ばれた瞬間一歩踏み出し、ソラを強く抱きしめた。
柔らかな香りと、包み込むような腕の力。子どもの頃から何度も感じてきた懐かしさが、今はやけに胸に響く。
「元気そうで、本当に安心したわ」
耳元で囁く母の声は、優しく、それでいて少しだけ震えていた。
「でもね、無理はしないで」
母はソラの背中に手を回したまま、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「あなたは良い子で、強い子だけど……それでも、あなたはいつまでも私たちの子供よ。
辛いときは、辛いって言っていいの。私たちはあなたの味方よ、それを忘れないで」
胸の奥が、きゅっと締め付けられる。
喉の奥まで込み上げてくるものを、ソラは必死に押し留めた。
――大丈夫だ。
そう言い聞かせるように、ソラは息を整える。
「……うん。大丈夫だよ」
そして、少しだけ照れたように、でもはっきりと笑顔を作った。
「次に帰ってくるときも、楽しみにしてる。
そのときは、また母さんのポトフ食べさせてよ」
その言葉に、母は一瞬驚いた顔をしてから、くすっと笑った。
「ふふ、もちろん。
その頃には、もっと腕を上げておかないとね」
汽笛が鳴り、発車の合図が響く。
母は名残惜しそうに腕を離すと、ソラの頬を軽く両手で包み込んだ。
「じゃあね、ソラ。
ちゃんと食べて、ちゃんと寝て、ちゃんと笑いなさい」
「うん。行ってらっしゃい、母さん」
母は満足そうに頷き、汽車へと乗り込んでいく。
窓越しに軽く手を振る姿を、ソラは動かずに見送り続けた。
やがて汽車はゆっくりと動き出し、母の姿は朝靄の向こうへと消えていく。
ホームに残されたソラは、しばらくその場に立ち尽くしてから、静かに息を吐いた。
近くでクロが話しかける。
『いいのか? 本当のことを言わなくて』
静かな声だった。責める響きはなく、ただ事実を確かめるような問いかけ。
ソラはゆっくりと首を横に振る。
「いいんだよ。言わなくて」
自分に言い聞かせるように、そう答えた。
もし話せば、きっと母は笑って聞いてくれただろう。
そして、きっとそのあと、泣いた。
無理をしていることも、命を削ったことも、全部見抜いて。
『心配させたくないだけか?』
クロの問いに、ソラは少しだけ考えてから答える。
「……それもある。でも、それだけじゃない」
ソラは胸に手を当てる。
まだ、心臓は確かに鼓動を打っている。前の人生では死にかけ、そしてゴーマンとの戦いでも死にかけた。
(母さん、ごめんなさい)
胸の内で、そっと言葉を紡ぐ。
(本当のことを言えなくて、ごめんなさい)
(危ないことばかりしてて、ごめんなさい)
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胸を貫かれ、死の淵に立たされたあの瞬間。
それでも――生きたいと願った自分。
(でも、ありがとう)
思い浮かぶのは、優しく笑う母の顔と、不器用だけど背中で語る父の姿。
(母さんと父さんの元に生まれて、俺は幸せです)
クロは何も言わず、ソラの言葉を待っている。
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(誰よりも強くなる)
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失わない力を。
奪われない未来を。
ソラは前を向いた。
もう母の姿は見えない。それでも、その温もりは胸に残っている。
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