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一月『幽岳事件』
その零
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急遽、世助が呼び出されてから二日目の夕方――七本音音の心境は穏やかではなかった。
数日前――三八が仕事で藤京に出かけてからというもの、唯助の体調は芳しくなかった。とはいっても、風邪っぽいだの、喘息がどうのというようなものではなく、ぼうっとしていることが増えたという、客観的には体調不良ととらえていいのか微妙になるものであった。
しかし、生まれた時からずっと唯助を見てきている双子の兄・世助は「嫌な予感がする」と暗雲立ちこめる表情で言うのだった。だから、このところは二人がかりで唯助の様子を観察することにしていたのだ。
だが、折の悪いことに――柄田の負傷に関係して、音音にとっての頼みの綱であった世助は棚葉町を離れることになってしまった。
そしてその時機を見計らったかのように、唯助は体調を崩したのである。医者を呼んだところ、疲労からくる風邪だろうとの診断だったが、むしろこの数日は唯助を心配して仕事量を減らしたうえ、睡眠をしっかりとるようにさせていたくらいだ。
「まさか、また禁書が絡んでるんじゃないでしょうね」
と訝しむ紫蔓の協力を仰ぎながら、なんとか彼を看病している状態なのだが――それもいつまでもつのやら。
こういった時、夫がいれば何らか気づくこともあったかもしれない。
だが、肝心の夫は当初の予定を過ぎても帰ってこないのだ。世助と入れ替わりで、昨日までには帰って来るはずだったのに。
「どうしたのかしら。仕事が延長した時は必ず電報を送ってくれるのに……」
『唯助が体調不良だから、早く帰ってきてほしい』という伝言を承った世助は電車に乗って、既に藤京に着いているはずだ。
「……何かあったのかしら」
何かあったとするならば、三八のほうであろう。帰りが遅くなるときは必ず連絡していた三八が、電報ひとつ寄越さないというのはありえないからだ。
「……ご飯の支度しなくちゃ」
だとしても、病人の唯助を置いて七本屋を離れるわけにもいかないし、ここは夫の無事を祈るしかない。とにかく、今自分に出来ることをしなければ。
庭の掃除を終えた彼女が店に入ろうとした、その時だった。
「失礼します」
と。
その声が音音を呼び止めた。
振り返れば、そこには見慣れない男たちが複数立っている。しかし、音音は最初、それほど彼らを警戒しなかった。
「? はい、なんでしょうか」
突然来訪した彼らが身につけていたのは、彼女もよく見慣れた帝国司書隊の黒い隊服――それも、緑の差し色が入った禁書回収部隊のものであった。
「七本音音さんですね」
「はい、そうですが」
彼女が少し警戒してそれに頷かなければ、あるいは助かったのかもしれない。
隊服の男たちはその答えを聞くや否や、こう言うのだった。
「我々にご同行願います」
「……え?」
どういうことですか? と音音が聞く前に。男が二人、彼女の両脇を挟むように回り込む。
音音はそこでようやく男たちを警戒したのだが、もう遅かった。
「きゃっ! な、なんですか!」
なんの前置きもなく腕へ伸ばされたその手を、音音は反射的に避けてしまった。それを抵抗の意志ありと見た男たちは、瞬く間に音音の腕や手首を掴み、三秒とかけずに彼女を拘束する。
「どういうことですか! なぜ、いきなりこんなことを……!」
「今朝の新聞はご覧になりましたか?」
そんなものは見ていない。見られるわけがない。唯助の看病と家事に追われている彼女に、ゆっくりと新聞の文字を追う余裕などあるはずもなかった。
音音が首を横に振ると、彼女の目の前に立っていた男はさらに問いかける。
「八田幽岳様が亡くなられたことはご存知ですか?」
「そ、れは……見出しで存じ上げておりますが」
詳細まで見ている暇はなかったのだが、新聞の一面に載せられた見出しくらいは見ている。
夫が帰ってくるはずだった昨日の未明――『藤京大震災から十年間も行方知れずであった帝国司書隊の創始者・八田幽岳が、自宅で拳銃自殺をしていたのが発見された』――と。
それくらいはどんなに忙しくても知っている。嫌でも耳に入ってくる。
しかし、それとこれと、どう話が繋がるのか――八田幽岳が自殺したことと、自分が拘束されなければならない理由が、音音の中では繋がらないのだ。
「新聞では自殺と報じられていますが、実際のところ、幽岳様は自殺されたのではない、という可能性が強いのですよ」
新聞が真実だけを伝えるとは限らない――自殺したというのは一般人に対する表向きの情報、取り繕ったものでしかない。
――否、今回のことについては、新聞社に与えられた情報が既に嘘なのであって、裏向きの事情が実は隠されていると言うべきか。
男は単刀直入に述べた。
「貴方の旦那様が幽岳様の自殺に関与した――自殺に見せかけて殺害したという疑いがもたれているのです」
「え……?」
それは衝撃的なんて言葉で片付けられるものではない。まさか自分の夫が、実は生きていた偉人とも言われる人物を殺した罪に問われている、などと誰が予想できようか。音音は頭が真っ白になった。
「そんな、自殺だと報じられているではありませんか! 主人は……主人は無事なのですか!」
「……」
さあっと青ざめながら問う音音に、男は答えない。
しかし、そんな男たちの態度になんとなく違和感を覚えた音音は、そこから逆に――男たちも目を見張るほどの冷静さを発揮する。
「……いいえ、そもそも。貴方がたは、どちらさまですか」
「……」
「帝国司書隊の回収部隊の方々とお見受けしましたが――所属を明らかにしていただけませんか。本当に帝国司書隊の方なのでしたら、所属を記した証明手帳をお持ちのはずです。わたくしのような下々が相手であっても、名乗ることは人に対する最低限度の礼儀というものではありませんか」
「…………」
「どうかお答えくださいまし。主人は第一部隊の方々と、総隊長の奥村様としか連絡のやり取りをしておりません。それ以外の方々からの連絡は許可なく取り次がないよう言いつけられております」
「…………まあいいでしょう」
果敢に立ち向かおうとする音音を鼻で笑いながら、男は胸元の内ポケットから手帳を取り出した。
「我々は回収部隊第四班の者です。――現在、幽岳様が死亡した事件について捜査しています。奥様、捜査にご協力頂けますか」
「……っ」
――音音が考えた、帝国司書隊を騙る第三者、という可能性は否定された。それに加え、彼らの言うことは嘘でもはったりでもないらしい。
だとするなら――三八が棚葉町に帰って来れなかったのも、第四部隊に追われているからか――もしくは既に捕まっているのだろうと察しがついた。
タチの悪い冗談だと思いたかったが――タチの悪すぎる、紛れもない事実なのだと、音音は認識する。
身を固くする音音に対し、男は言う。
「ご安心を。捜査に協力的であれば、すぐに解放します。――旦那様のほうは難しいと思いますが」
「……っ! みや様に、何をしたのですか!」
「……」
「答えて――……ッ!」
バシッ!
と乾いた音が響く。男が、音音の頬を平手で打ったのだ。
「喚くな、小娘。大人しくしろ」
高圧的な男の視線が、音音に容赦なく降りかかる。打たれた音音の頬はぴりぴりとした熱い痛みを伴いながら、赤く腫れあがった。
「待て!」
と、そこへ。
少年の声が割って入る。
男たちが見たその声の先にいたのは、猫のような耳と尻尾を生やし、全身の毛を逆立てている少年だった。
見た目こそ人に近いが、耳や尻尾といい、金の目といい、斑模様の髪の毛といい、どう見ても人間でないのは見てとれる。
「おとねから離れろ!」
化け猫の禁書――鯖が男たちに飛びかからんと爪を振りかぶる。
「鯖ちゃん、だめ!」
しかし、鯖が跳躍する前に、音音がそれを止めた。
「なんで? こいつら、おとねをさらう気だよ! やっつけなきゃ!」
「だめ、絶対に手を出さないで!」
「で、でも!」
なぜ止められなければいけないのか分からず、困惑する鯖。しかし、男は音音がした咄嗟の判断を評価した。
「英断ですね。こんな状況でも禁書士である旦那様の立場を慮るとは、良くできた奥様だ」
「……っ」
そう、音音の判断は全くもって正しいものであった。
禁書士が個人で管理していた禁書――それらの管理を怠って被害が出てしまった場合、法律に則って管理責任者である三八が懲罰を受けることになってしまう。
まして、相手は帝国司書――それも禁書を相手取って戦闘を行う、回収部隊である。彼らを敵に回してしまった場合、鯖や他の禁書たちを危険な目に遭わせてしまうし、その分だけ三八の罰も加算される。こちらから手を出すわけにはいかなかった。
「同行していただけますね?」
こうなってしまっては仕方ない――音音は腹を括って、その言葉に頷いた。
「お、おとね!」
「大丈夫よ、鯖ちゃん。いい子にしていて。みや様とすぐに帰ってくるから」
唯助さんのことをお願いね。
……という台詞は、すんのところで飲み込んだ。これもまた、正しい判断であった。
*****
「……行きましたか」
息を潜めながらその一部始終を見守っていた禁書――珱仙は、その手をようやく離した。
「っ、先生! なんでおれを庇った!」
手で口を押さえられていたのは、店の中にいたもう一人――唯助であった。文句を並べる唯助の肩に手を触れて、珱仙は落ち着いてくださいと言う。
「あの状況で顔を見せていようものなら、貴方も連れていかれてましたよ」
「あいつらを撃退できたかもしれなかっただろ! あの人数ならおれ一人でも――げほっ、げほげほ」
「その状態で彼らを相手取ると? 無理だと思いますよ」
珱仙は唯助の背中をさする。
残念なことに、全くその通りであった。全力の唯助なら結果はいざ知らず、風邪っぴきのような今の状態では勝負にさえならなかったことだろう。
唯助は唇を噛み締めた。
「くそっ! あいつら、なんだよ! しかも、旦那が殺人犯だって!? あの人はそんなことする人じゃねえ!」
畳に拳を叩きつける唯助。珱仙は――現時点で最も彼をよく知る珱仙は、それについて何も言わない。
「……貴方が行くしかないんですよ、唯助さん」
「え?」
「彼らがこれから向かうのは藤京――七本三八のいる所です。場所も『慧眼』で特定できましたが、今の貴方には戦闘は無理です」
なら、藤京まで行ってどうしろというのか。唯助はそう思いつつも、珱仙の言葉を黙って聞いた。
「私を連れて藤京まで行きなさい。そちらであれば、彼らを救出できる人物に数名、心当たりがあります。貴方が助けを求めるべき人物を『慧眼』で探すことも可能です。私はあくまで禁書――余計な疑いを避けるためにも、人間である貴方の言葉で助けを求める必要があるのです」
「……藤京」
三八に連れられて初めて行った、大陽本帝国の帝都――藤京。人が多く、本も多く、華やかできらびやかで――それゆえに混沌とした街。
かの地は今――羅刹女による連続殺傷事件、恐ろしい計画を企てていた犯罪組織の転覆、そして初代帝国司書隊総統・八田幽岳の不審死――十年前の震災ほどではないにしても、まれに見る混乱状態にある。
「……助けなきゃ」
「僕もいくにゃあ!」
彼らは動き出す。
渦中に巻き込まれてしまった七本夫妻を助けるために、動き出す。
彼を待ち受けている運命が、彼の譚で一二を争う大きな展開が――はたしてどれだけ過酷なものなのか。
彼はまだ知らない。
数日前――三八が仕事で藤京に出かけてからというもの、唯助の体調は芳しくなかった。とはいっても、風邪っぽいだの、喘息がどうのというようなものではなく、ぼうっとしていることが増えたという、客観的には体調不良ととらえていいのか微妙になるものであった。
しかし、生まれた時からずっと唯助を見てきている双子の兄・世助は「嫌な予感がする」と暗雲立ちこめる表情で言うのだった。だから、このところは二人がかりで唯助の様子を観察することにしていたのだ。
だが、折の悪いことに――柄田の負傷に関係して、音音にとっての頼みの綱であった世助は棚葉町を離れることになってしまった。
そしてその時機を見計らったかのように、唯助は体調を崩したのである。医者を呼んだところ、疲労からくる風邪だろうとの診断だったが、むしろこの数日は唯助を心配して仕事量を減らしたうえ、睡眠をしっかりとるようにさせていたくらいだ。
「まさか、また禁書が絡んでるんじゃないでしょうね」
と訝しむ紫蔓の協力を仰ぎながら、なんとか彼を看病している状態なのだが――それもいつまでもつのやら。
こういった時、夫がいれば何らか気づくこともあったかもしれない。
だが、肝心の夫は当初の予定を過ぎても帰ってこないのだ。世助と入れ替わりで、昨日までには帰って来るはずだったのに。
「どうしたのかしら。仕事が延長した時は必ず電報を送ってくれるのに……」
『唯助が体調不良だから、早く帰ってきてほしい』という伝言を承った世助は電車に乗って、既に藤京に着いているはずだ。
「……何かあったのかしら」
何かあったとするならば、三八のほうであろう。帰りが遅くなるときは必ず連絡していた三八が、電報ひとつ寄越さないというのはありえないからだ。
「……ご飯の支度しなくちゃ」
だとしても、病人の唯助を置いて七本屋を離れるわけにもいかないし、ここは夫の無事を祈るしかない。とにかく、今自分に出来ることをしなければ。
庭の掃除を終えた彼女が店に入ろうとした、その時だった。
「失礼します」
と。
その声が音音を呼び止めた。
振り返れば、そこには見慣れない男たちが複数立っている。しかし、音音は最初、それほど彼らを警戒しなかった。
「? はい、なんでしょうか」
突然来訪した彼らが身につけていたのは、彼女もよく見慣れた帝国司書隊の黒い隊服――それも、緑の差し色が入った禁書回収部隊のものであった。
「七本音音さんですね」
「はい、そうですが」
彼女が少し警戒してそれに頷かなければ、あるいは助かったのかもしれない。
隊服の男たちはその答えを聞くや否や、こう言うのだった。
「我々にご同行願います」
「……え?」
どういうことですか? と音音が聞く前に。男が二人、彼女の両脇を挟むように回り込む。
音音はそこでようやく男たちを警戒したのだが、もう遅かった。
「きゃっ! な、なんですか!」
なんの前置きもなく腕へ伸ばされたその手を、音音は反射的に避けてしまった。それを抵抗の意志ありと見た男たちは、瞬く間に音音の腕や手首を掴み、三秒とかけずに彼女を拘束する。
「どういうことですか! なぜ、いきなりこんなことを……!」
「今朝の新聞はご覧になりましたか?」
そんなものは見ていない。見られるわけがない。唯助の看病と家事に追われている彼女に、ゆっくりと新聞の文字を追う余裕などあるはずもなかった。
音音が首を横に振ると、彼女の目の前に立っていた男はさらに問いかける。
「八田幽岳様が亡くなられたことはご存知ですか?」
「そ、れは……見出しで存じ上げておりますが」
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それくらいはどんなに忙しくても知っている。嫌でも耳に入ってくる。
しかし、それとこれと、どう話が繋がるのか――八田幽岳が自殺したことと、自分が拘束されなければならない理由が、音音の中では繋がらないのだ。
「新聞では自殺と報じられていますが、実際のところ、幽岳様は自殺されたのではない、という可能性が強いのですよ」
新聞が真実だけを伝えるとは限らない――自殺したというのは一般人に対する表向きの情報、取り繕ったものでしかない。
――否、今回のことについては、新聞社に与えられた情報が既に嘘なのであって、裏向きの事情が実は隠されていると言うべきか。
男は単刀直入に述べた。
「貴方の旦那様が幽岳様の自殺に関与した――自殺に見せかけて殺害したという疑いがもたれているのです」
「え……?」
それは衝撃的なんて言葉で片付けられるものではない。まさか自分の夫が、実は生きていた偉人とも言われる人物を殺した罪に問われている、などと誰が予想できようか。音音は頭が真っ白になった。
「そんな、自殺だと報じられているではありませんか! 主人は……主人は無事なのですか!」
「……」
さあっと青ざめながら問う音音に、男は答えない。
しかし、そんな男たちの態度になんとなく違和感を覚えた音音は、そこから逆に――男たちも目を見張るほどの冷静さを発揮する。
「……いいえ、そもそも。貴方がたは、どちらさまですか」
「……」
「帝国司書隊の回収部隊の方々とお見受けしましたが――所属を明らかにしていただけませんか。本当に帝国司書隊の方なのでしたら、所属を記した証明手帳をお持ちのはずです。わたくしのような下々が相手であっても、名乗ることは人に対する最低限度の礼儀というものではありませんか」
「…………」
「どうかお答えくださいまし。主人は第一部隊の方々と、総隊長の奥村様としか連絡のやり取りをしておりません。それ以外の方々からの連絡は許可なく取り次がないよう言いつけられております」
「…………まあいいでしょう」
果敢に立ち向かおうとする音音を鼻で笑いながら、男は胸元の内ポケットから手帳を取り出した。
「我々は回収部隊第四班の者です。――現在、幽岳様が死亡した事件について捜査しています。奥様、捜査にご協力頂けますか」
「……っ」
――音音が考えた、帝国司書隊を騙る第三者、という可能性は否定された。それに加え、彼らの言うことは嘘でもはったりでもないらしい。
だとするなら――三八が棚葉町に帰って来れなかったのも、第四部隊に追われているからか――もしくは既に捕まっているのだろうと察しがついた。
タチの悪い冗談だと思いたかったが――タチの悪すぎる、紛れもない事実なのだと、音音は認識する。
身を固くする音音に対し、男は言う。
「ご安心を。捜査に協力的であれば、すぐに解放します。――旦那様のほうは難しいと思いますが」
「……っ! みや様に、何をしたのですか!」
「……」
「答えて――……ッ!」
バシッ!
と乾いた音が響く。男が、音音の頬を平手で打ったのだ。
「喚くな、小娘。大人しくしろ」
高圧的な男の視線が、音音に容赦なく降りかかる。打たれた音音の頬はぴりぴりとした熱い痛みを伴いながら、赤く腫れあがった。
「待て!」
と、そこへ。
少年の声が割って入る。
男たちが見たその声の先にいたのは、猫のような耳と尻尾を生やし、全身の毛を逆立てている少年だった。
見た目こそ人に近いが、耳や尻尾といい、金の目といい、斑模様の髪の毛といい、どう見ても人間でないのは見てとれる。
「おとねから離れろ!」
化け猫の禁書――鯖が男たちに飛びかからんと爪を振りかぶる。
「鯖ちゃん、だめ!」
しかし、鯖が跳躍する前に、音音がそれを止めた。
「なんで? こいつら、おとねをさらう気だよ! やっつけなきゃ!」
「だめ、絶対に手を出さないで!」
「で、でも!」
なぜ止められなければいけないのか分からず、困惑する鯖。しかし、男は音音がした咄嗟の判断を評価した。
「英断ですね。こんな状況でも禁書士である旦那様の立場を慮るとは、良くできた奥様だ」
「……っ」
そう、音音の判断は全くもって正しいものであった。
禁書士が個人で管理していた禁書――それらの管理を怠って被害が出てしまった場合、法律に則って管理責任者である三八が懲罰を受けることになってしまう。
まして、相手は帝国司書――それも禁書を相手取って戦闘を行う、回収部隊である。彼らを敵に回してしまった場合、鯖や他の禁書たちを危険な目に遭わせてしまうし、その分だけ三八の罰も加算される。こちらから手を出すわけにはいかなかった。
「同行していただけますね?」
こうなってしまっては仕方ない――音音は腹を括って、その言葉に頷いた。
「お、おとね!」
「大丈夫よ、鯖ちゃん。いい子にしていて。みや様とすぐに帰ってくるから」
唯助さんのことをお願いね。
……という台詞は、すんのところで飲み込んだ。これもまた、正しい判断であった。
*****
「……行きましたか」
息を潜めながらその一部始終を見守っていた禁書――珱仙は、その手をようやく離した。
「っ、先生! なんでおれを庇った!」
手で口を押さえられていたのは、店の中にいたもう一人――唯助であった。文句を並べる唯助の肩に手を触れて、珱仙は落ち着いてくださいと言う。
「あの状況で顔を見せていようものなら、貴方も連れていかれてましたよ」
「あいつらを撃退できたかもしれなかっただろ! あの人数ならおれ一人でも――げほっ、げほげほ」
「その状態で彼らを相手取ると? 無理だと思いますよ」
珱仙は唯助の背中をさする。
残念なことに、全くその通りであった。全力の唯助なら結果はいざ知らず、風邪っぴきのような今の状態では勝負にさえならなかったことだろう。
唯助は唇を噛み締めた。
「くそっ! あいつら、なんだよ! しかも、旦那が殺人犯だって!? あの人はそんなことする人じゃねえ!」
畳に拳を叩きつける唯助。珱仙は――現時点で最も彼をよく知る珱仙は、それについて何も言わない。
「……貴方が行くしかないんですよ、唯助さん」
「え?」
「彼らがこれから向かうのは藤京――七本三八のいる所です。場所も『慧眼』で特定できましたが、今の貴方には戦闘は無理です」
なら、藤京まで行ってどうしろというのか。唯助はそう思いつつも、珱仙の言葉を黙って聞いた。
「私を連れて藤京まで行きなさい。そちらであれば、彼らを救出できる人物に数名、心当たりがあります。貴方が助けを求めるべき人物を『慧眼』で探すことも可能です。私はあくまで禁書――余計な疑いを避けるためにも、人間である貴方の言葉で助けを求める必要があるのです」
「……藤京」
三八に連れられて初めて行った、大陽本帝国の帝都――藤京。人が多く、本も多く、華やかできらびやかで――それゆえに混沌とした街。
かの地は今――羅刹女による連続殺傷事件、恐ろしい計画を企てていた犯罪組織の転覆、そして初代帝国司書隊総統・八田幽岳の不審死――十年前の震災ほどではないにしても、まれに見る混乱状態にある。
「……助けなきゃ」
「僕もいくにゃあ!」
彼らは動き出す。
渦中に巻き込まれてしまった七本夫妻を助けるために、動き出す。
彼を待ち受けている運命が、彼の譚で一二を争う大きな展開が――はたしてどれだけ過酷なものなのか。
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