貸本屋七本三八の譚めぐり

茶柱まちこ

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1巻

1-3

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「……美味い!」

 二人が話していた鯡漬けをいの一番に口に運んで、唯助の目がぱっと輝く。

「なんだこれ……すっげえ美味い!」

 口に入れた瞬間、ふわっと広がる独特な酸味と魚の風味がなかなかクセになる。これがまた米との相性が良く、ご飯をかき込む手が止まらない。

「ふふ、良かった。唯助さんは本当に嬉しそうに召し上がるから、作りがいがありますわ」

 気持ちのいい食べっぷりをする唯助を見て、彼女もまた満足げに笑った。

「小生も嬉しそうに食ってるんだが?」
「勿論、みや様はいつもですよ。好き嫌いなくなんでも召し上がって、おかわりまでしてくださるから、おとねはいつも嬉しゅうございますよ」

 隙あらばいちゃつくこの二人の周りが、甘い空気で満たされている。

(……鯡がなんだか甘く感じる)

 あまり吸い込むと胸焼けしてしまいそうだ。朝から夫婦仲がよろしいことで、とつぶやいて、唯助は梅干しをひと口かじった。
 齧ったところでふと思い出した唯助は、夫婦にあることをたずねた。

「そういえば、旦那と奥方のお名前はなんて言うんです?」

 妻のほうは常に男を「みや様」と呼び、男はたまに妻を「おとね」と呼んでいた。聞くまでもなく分かっていたから、唯助は今の今まで名を聞くことを忘れていたのだ。

「おや、名乗らなかったかな?」

 男は唯助と同じく名乗ることを忘れていたようだ。妻は、

「まあ、わたくしは既に名乗り合っていたものとばかり。でも確かに、わたくし自身ではきちんと名乗っておりませんでしたね。失礼をお許しください、唯助さん」

 と頭を下げる。

「では改めて。小生は『七本三八みや』という。三と八を書いて〝みや”だ。決して三八さんぱちとは呼んでくれるなよ、野暮やぼったいからな」

 普通に有り得そうな名前に滅多めったなことを言うものではない。全国の三八さんぱちさんに謝ってこい、あんた――と唯助は不遜な男・三八に心の中で手刀を下ろした。

「で、こちらは妻の『音音おとね』だ。音を二つ連ねて〝おとね”と読む。ちなみに名付けたのは小生だ」
「どうぞよしなに」

 対して、妻の音音の態度は唯助も背を正してしまうほど礼儀正しく、それでいてどこか安心できるようなうやうやしさだ。しとやかな微笑から溢れ出るのは、三八のそれとはまったく似ても似つかない、きめ細やかな趣深さ、親しみやすさである。

「旦那が名付けたんですか? それはまたどんな事情で」

 唯助の純粋な疑問に、音音はにこりと微笑ほほえんだ。

「まあ、それには長すぎる事情があるばかりですから、そのあたりは機会があったらということに致しましょう。今問題なのは、唯助さんのほうなのですし」

 音音は善意十割で発言したのであろうが、唯助にとっては隣で飯をかき込んでいる三八が曲者くせものであった。
 結局、当初の目的であった譚本は提供してもらえず、さらに余計なことに、三八は「依頼は依頼だ」と言って唯助の恋心を裸にしようとしてくる。もう十二分に語り尽くして裸だというのに、男はそれでも足りないとばかりに肉から骨から探りを入れてくる。唯助にとっては不愉快の極み、迷惑千万もいいところだ。

「音音さんや。一つ提案があるのだが、昼餉ひるげは久々に外食にしないか」
「まあ! それはいいですね」

 嬉しそうに同意する音音とは対照的に、唯助はなにやら背中に冷や汗、悪寒を感じた。

「………なあ。まさかとは思うけど」

 唯助の悪い予感を、その通りだと三八は笑うことで返した。にやにやと。心底楽しそうな笑顔で、にやにやと返した。

「この時期なら山菜のそばが美味い頃だろう。タラの芽の天ぷらなどもいいな。なばな屋という似つかわしい名のそば屋があると聞いたところだし、そこに案内してはくれんか、少年」
「やっぱりですか」


         *


 これ以上いたいけな少年の恋心をひんいたところで、何が面白いのか――そんな唯助の問いかけに対し、三八はあくまで「依頼をこなすためだ」と返す。しかし、追及に辟易している唯助はもはや、三八の好奇心にただもてあそばれているだけとしか思えなかった。だから、逃げるためにあれよこれよと作戦を立てているのだが、久々の外食に心躍らせ胸をときめかせる音音の笑顔は、生煮なまにえな計略を容易く無に帰してしまう。
 つまるところ、唯助はとても嫌々ながら、渋々と、不承不承に、なばな屋へ二人を案内することになったのである。

「いらっしゃ~い!」

 女将の声が響く店内は、すでに昼時ひるどきということもあり、席はどこも客で満たされていた。菜花色の着物を着た娘たちが二、三人ほど忙しなくあちこち動き回っている。娘の一人に通され、隅に空いていた席に腰をかけ、三八が早速とばかりに唯助に尋ねた。

「で、どの娘が、そのハルという娘なのかな」
「今日は……いないみたいですね」

 唯助の言ったことは嘘ではなかった。本当にハルがいても逃げ口上としてそう言っていたかもしれないが、今回は運良くハルがいなかった。三八も唯助の言葉に嘘はないと見たのか、「そうか。それは残念だ」とあっさり引き下がった。唯助は小さく胸を撫で下ろすが、しかし、三八の好奇心はそれでも尽きぬようで、

「では、少年のことについて聞いてもいいかな」

 と、今度は唯助自身のことについて尋ねてきた。ハルの話を聞かれることにばかり気を取られていた唯助は、ここに来てまさか自身のことを語らされるとは思わず、とっさに身構えた。

「実家は道場と言っていたね。それに、その潰れた耳、柔術家にはよくある形だ。筋肉の付き方も農家のものとは違っているようだし。歩き方もすり足が板についている。――そういえばいつだったか、この近くに柔術を教えている道場があると小耳に挟んだのだけど、もしかしてそこかな?」

 白々しい態度でじわじわと核心を突いてくるな、と唯助は眉をひそめた。この男、ふざけているようで、洞察力にはけているのだ。唯助が一度だけ口を滑らせてしまった『道場』という単語、特徴的な耳の形、体つきや身のこなし、それら全てを余すことなく手がかりとして捉えている。

「……ええ、そうですよ。おれの実家は柔術道場です。戦乱の時代から続く夏目流柔術のね。おれはそこの次男坊で、ある程度の技は修得しています」
「ほぉ、それはそれは」

 三八が興味深そうに相槌を打ったところで、頃合いを見た娘が注文を取りにやってくる。三八は、

「山菜そばを七人前。あと、天ぷらは五人前にしておこうか」

 と、なぜか人数に合わない量を注文した。娘は「えっ?」と間抜けな声を出してもう一度聞き返していたが、唯助は驚くことなどなかった。
 この男は見た目に似合わず大食漢であった。文字通り腑抜ふぬけたようなひょろひょろの体のどこに食った飯を溜めるのだ、と言いたくなるような食べ方をするのである。昨晩の夕餉では、少なくとも五回は飯を盛っていた。もはやおかわりの度に音音を立たせるのが申し訳ないからなのか、三八は途中から自分で飯をよそっていたのである。

「あと、この二人にもそれぞれ同じものを一つずつ、片方は小盛にしてくれ」

 ――最初の注文におれらの分は入ってなかったのかよ‼
 唯助は三八に、心の中で盛大につっこんだ。
 ちなみに、この店の並盛りそば一杯が決して少ないわけではない。食べ盛りな唯助が頼んだのは山菜そば大盛り一杯に天ぷら一人前。それでも、平均的な食べ盛りなら、これで腹は十分に満たされる量であった。


 そばをある程度食べ進めたところで、そういえば、と三八が切り出す。

「愛妻から聞いたが、なんでも君は屋根の上を歩いてうちの店に現れたそうじゃないか。竹のように若々しく瑞々みずみずしく、しなやかで強靭きょうじんそうないい体格をしている。体力や力にはよほど自信があるのではないか?」

 いちいち比喩を用いたがる男だなあと唯助は最後のひと口を胃に収めながら、褒められたことは密かに喜びつつ、次に飛んでくる問いは何かと、落ち着かない心持ちで、

「まあ、周りに比べたらあるほうだと思います」

 と、あまり掘るところもなさそうな、無難な言葉で返した。

「道場の中ではどうだった?」
「……自分で言うのもどうかと思いますけど、まあ、それなりに強いほうかと」
「それはいい、いつか見てみたいものだ」
「先に言っておきますが、うちの道場は一見さんお断りですから、案内はできませんよ」
「おや、それはなんとも残念な話だ」

 ――やっぱり来ようとしてたな、こいつ。
 ふすまにほんのちょっとの隙間を見つければ、そこへ箸を差し込んでこじ開けてきそうな男である。まったくもって油断ならない、と唯助は常にひやひやしていた。三八に出会ってから今に至るまでまだ丸一日と経っていないが、その間に幾度となく質問攻めにされてしまった。そして、気づけば三八に対してすっかり防御姿勢を取るようになっていたのだ。

「まあそれなりに、ということは、君より実力が上の者がいるということか。……次男坊と言っていたが、もしや、君の兄上のことかな?」
「……ええ、まあ。双子の兄貴がいます」

 唯助自身は気づいていなかったが、彼は自身の柔術に関する話題になってから今に至るまで、既に三回も「まあ」という言葉を使っている。当然、目敏めざとい三八はその微細な変化にも気づいていた。「まあ」を多用して話を曖昧あいまいにしたがる人間というのは、優柔不断で自分に自信がないとか、自己防衛的であるとか、そういった性質を持っている可能性が高い。三八は経験則で知っていた。
 要するに唯助は、柔術はそれなりに強いほうという説明をしつつも、それに見合うだけの自信を持っていない――さらに、実力が上だと認めている兄の話題にはあまり触れてほしくないと思っている。三八はこの時点で既にここまで予測していた。
 唯助はまさかそんなところまで見抜かれているとは露知らず、それでも意固地に、少しも隙を見せまいと亀のごとく自らの甲羅に閉じこもっているつもりであった。実際にはちょっとだけしっぽを摘まれているのだけど。

「ていうか、旦那。いつのまに平らげたんですか、それ」
「うん?」

 唯助が指をさしているのは、卓の隅に高々と積まれている、からの器である。一体、常々喋っているこの多弁な男がいつ、七杯のそばを平らげたのか、唯助にはさっぱり分からない。実は髪の下にもう一つ口があるんだよ、などと馬鹿げた嘘をつかれても、今なら信じられそうだ。

「無論、少年と会話をしている合間にだが? しかしこれは危ないな。倒れて割れたりでもしたら、音音が怪我けがをしてしまう。下げてもらおうか」

 三八が手を挙げて手近にいた娘たちを呼ぶ。娘たちが丼をテキパキと下げて去ろうとしたところで、

「ところで、ハルという看板娘がいると聞いたのだが、今日は不在かな?」

 と、なんと一度引いたと思われたハルの所在について尋ねたのである。

「だから、ハルさんは今日は……」
「はい、おりますよ。今日は奥のお座敷席に」
「えっ」

 それを聞いた唯助は一瞬の間に青ざめた。もとから赤い頬を、昨晩よりも、急激に青くした。

「すまぬが呼んできてはもらえんか」
「ちょ、旦那ッ!」

 滝のように汗をかき、その大きな目をさらに大きく開いて、唯助は三八の着物の袖を掴んだ。脱げるどころか今にも破れてしまいそうなほど、余分な力を込めて。

「焦るな焦るな、少年。なんだ、恥ずかしいのか? 大丈夫だ、勤勉な娘の仕事をあまり邪魔するわけにもいかんからな、手短に質問したいと思っているし、そう長い時間あれこれ聞く気はないよ。たった一つ聞きたいだけだ」

 確かにそうであったとしても、唯助は袖を掴む力を緩めることができない。なぜならその『』こそが、唯助にとってはになりかねないからだ。確証はなくとも確信していた。

「いい加減にしろ‼」

 唯助はついに、三八の胸ぐらに掴みかかった。

「みや様!」

 それまで黙って見守っていた音音がおろおろと慌て出すが、今や錯乱状態に陥った唯助には音音の声も、周囲のどよめきもまるで届かない。ただ一つだけ、なおもにやにや笑っている眼前の男だけが唯助の視線を縫い付け、憎たらしさを増強させていく。

「なぜそんなに怒る? なぜそんなに狼狽ろうばいする? 恋の病をどうにかしたいのだろう? ならば、その全貌を掴まなくては対処できまい。小麦粉と卵だけ渡されて美味い天ぷらを作れと言われているようなものだ。きちんと仕事をしている小生が怒られる理由などないと思うがなあ」
「てめえ……ふざけてんのかッ‼」

 一度青ざめ、再びカンカンに赤くなった唯助は、もはや獣であった。若き猛獣であった。今すぐにでも本当に噛みつかんばかりの苛烈さを目に迸らせていた。

「なにが依頼だ! なにがいい譚だ! あんたこんなことして楽しいのかよ⁉ 一体何が目的なんだよ⁉」

 獣と化した唯助に真正面から掴みかかられてもにやにや笑っていた三八であったが、何が目的だと問われた途端、その口元から笑みが消えた。唯助はごく一瞬、彼自身でさえ気づかぬほど一瞬であったが、怯んだ顔をした。

「言ってるだろう。依頼だ。ふざけてるのかだの楽しいのかだの少年は愚問ばかり口から出すが、あえてそれに答えるならばどちらも真であり、どちらも偽だ。なぜなら、これが小生の仕事なのだからな」

 当然、男の物言いは思考や冷静さを失っている唯助に解されるわけもなく、怒りの炎に油を注ぐ結果となった。

「わけ分からねえ言い草しやがって、この野郎! もういい!」

 唯助はすっかりシワになった三八の襟を離すと、律儀に近くの娘へ飯代だけ払って勢いのまま飛び出していった。周囲が唖然あぜんとする中、音音だけが、

「唯助さん! 唯助さん!」

 と小走りで追いかけていった。
 実は、空模様が怪しいと見ていた彼女は、夫と唯助にさりげなく傘を持たせていた。唯助がその傘を置いていったので、彼女は傘を手に彼を追いかけた。

「いやあ、みんなすまんかった。小生もちと少年を追い詰めすぎたかな。あの年頃は扱いが易いようで難しい。ま、必要なら戻ってくるだろうし、我が愛妻ならそのへん上手く取り計らってくれるだろうさ」

 残された三八は謝罪しているんだかしていないんだか、そもそも何があったんだか何もなかったのか分からなくなるような、独り言にもならない大きな独り言を言っていた。
 ――いつの間にか、唯助の帯から抜き取っていた菜花の根付を手にしながら。

「あの、お客様。私がハルですが、何か御用でしたか?」
「うん?」

 三八が声のした方向へ視線を向けると、そこにはちょこんと小柄な、なんとも可愛らしい出で立ちの少女がいた。



         結


 ――ああ、やっぱりか。
 ハルから話を聞いた三八は満足げに笑っていた。

「あの、どうかしましたか」
「いんや、なんにもないよ」

 三八はきらきら光る菜花の根付を手のひらで転がしては、じいっとそれに見入っていて、ハルはその様子を不思議そうに、あるいは奇っ怪に思いながら見ていた。

「娘よ、騒ぎを起こしてすまなかったな」
「いえ、それは大丈夫なのですが」

 ハルは三八のなまっちろい顔から、菜花の根付に視線を移しつつ尋ねた。

「込み入った事情はお察ししますが、唯助ちゃんに何かあったんですか? 何を話していたのですか?」
「ああ、なんでもないさ。なんでもないことだ。じきに終わる。ここまで来れば、いよいよ大詰めさ。小生の仕事も八割は終わったと言っていい」

 男のわけの分からぬ物言いに、ハルはことんと人形のような首を傾げる。三八はそんなハルの様子を見て、こう思ったのだった。

(この娘も可哀想になあ)


 一方その頃、妻の音音は店を飛び出した唯助と共にいた。この時期は菜種梅雨なたねづゆといって、油菜あぶらなが咲く頃で連日雨が降る。棚葉町の南端から町を抜けたところを歩いていた二人の周りは、開きかけの油菜畑に囲まれていて、空にはにぶい灰色の雲がみちみちと並んでいた。

「すみません、音音さん。せっかくの外食だったのに、おれが台無しにしちゃって」
「構いませんよ。みや様のあの言動では、貴方が腹を立てるのも当然です」

 唯助はちょうど頭上の雲のように、息苦しそうに、虚しげに沈んでいる。あっちゃこっちゃにはねた髪は汗で少しばかり湿っていた。

「ただ、唯助さん。みや様をかばうような発言にはなってしまいますが――」

 唯助には音音の台詞が途切れ途切れに聞こえていた。耳の鼓膜が目の細かいざるになったようだ。水の中にいるときのような薄い音だけが入ってきて、確固たるものはまるで入ってこない。
 音音はそんな唯助に言葉を伝わせるように、彼の手首を掴んだ。

「あの方は仕事をきちんとこなす方です。一度引き請けた依頼を断るなんて、よほどのことがなければしません。ですからして、貴方のお悩み、貴方がその胸に抱えるものは、どんな形であれ、解決へと至ります。天才司書と言われる柄田様も信頼を寄せているのが、七本三八という貸本商なのです」

 ――解決? 解決だと?
 唯助はかろうじて、その言葉だけは捉えた。いや、他も一応聞こえてはいたのだけれど、憔悴しょうすいした彼にはその言葉に縋るのがせいぜいだった。音音はそれでも唯助に言葉を伝わせる。

「けれど、最終的にどう判断するかは貴方なのです、唯助さん。もし、貴方がみや様の手を必要としないのであれば、それでよいのです。去る客を追うなんて真似は致しません」

 音音は傘の持ち手を唯助の胸へ近づけ、差し出す。唯助は傘の持ち手と音音の顔を数回交互に見る。それから、どこか躊躇われるような、袖を引かれるような気持ちで傘を取ろうとして、ああでも、これを受け取ったら返しに行かないとなあ、とやはり手を引っ込めた。

「もうすぐ雨が降ります。お使いになって。返さなくても結構ですから」

 音音はもう一度、傘の持ち手を唯助に差し出す。どこまでも行き届いた心遣いに、胸からじわりと苦い熱が染み出てくるような気が、唯助にはした。唯助が傘を受け取ると、

「道中お気をつけくださいまし」

 と、音音は桜の微笑を浮かべて去っていくのだった。

(……なに考えてんだ。あの野郎のところなんて、もう二度と行くか)

 最後まで自分を気遣ってくれる音音には申し訳ないが、唯助はあの店主の男にだけは会いたくなかった。
 未熟で、甘酸っぱいとは言いがたい、まだ頬の赤い唯助が抱えるには酷な恋であった。
 唯助が苦肉の策で、噛み殺そうとした想いを、あの男はまざまざと表面化させてしまった。
 歳若い唯助にとって、七本三八はあまりに酷な存在であった。


「みや様」

 棚葉町の南端にて、音音は夫の姿を見かけた。音音は彼の手で弄ばれていたそれに目を留める。

「いつの間に」
「さっき掴まれた時に」

 三八は根付の紐をつまんで、ゆらゆらと鈍い光を放つ細工の中身を覗いていた。
 菜花を模した根付の花が幼く揺れている。音音は毎度のことながら、この人は何を見ているのかしら? と、覗き込む彼の目を見ている(否、髪で見えないのだけれど)。だが、音音には彼の見る世界というものがまるで分からなかった。

「あれはな、『空想』だよ」
「空想、ですか?」
「そう。可愛いことだな、すぐに破れる空想なのがまたさらにいとおしいものだ」
「あいにく、音音はみや様ほど物分かりがようございません。もっと噛み砕いて教えてくださいまし」
「結論から言うと、ハルという娘には許嫁などいなかったんだよ。本人に聞いて確認した」
「では、なぜ唯助さんは許嫁がいるなんて嘘を?」
「嘘じゃないよ、少なくとも彼にとっては。ハルの許嫁とは、あの少年が作り上げて、いつしかさもそれが現実であるかのように錯覚していた『空想』だよ。『真剣に彼女を愛していて、仕事にも真摯で、おまけに男前ときた、本当によくできたお人』なんて、あまりにできすぎだろう。……それに、彼は恋話をさせられる以上に、身の上話をさせられることを嫌がっていた。それが何よりの証拠さ」
「つまるところ?」
「つまるところ。彼は現実逃避をしていたのさ」


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