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一章「願いを持つ客」

その三

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「すまないが唯助、しばらく外に出ていてくれないか。音音と二人で話し合わせてほしい」――
急遽暇を出された彼は、そうしてあてもなくぷらぷらと町を歩いていた。時間を潰せる場所はある。歩いている道の先には喫茶店や甘味処、雑貨屋や本屋なども多数あるし、この棚葉町は地方の中でも娯楽が多い方だ。しかし、茶を飲んだり娯楽に耽けるなどして悠長に暇つぶしをできるような気分ではない。
夫婦が今話し合っているであろう、菅谷という男――素性こそ知らないものの、音音と何らかの因縁があるということくらい察しはつく。
しかし、七本音音の過去については、一番あの夫婦に近しい間柄である唯助でさえも深く立ち入ってはいけない、禁域なのだ。今、音音のもとに菅谷が現れたことで、その禁域に触れかねない事案が起きてしまっている。二人が直面している事の重大さを分かっているだけに、唯助はどこかで腰を落ち着けようなどとは思えなかったのである。
なにより唯助が気がかりだったのは、音音の精神状態についてだ。三八が菅谷と会話している間中、唯助は二階に匿われていた音音のそばについていたのだが、彼女の怯えようときたら異常としか言いようのない有様だった。顔色は青いのを通り越して白くなっていたし、唯助の袖を強く引っ張っていたその手からはかすかに振動が伝わってきたくらいだ。おまけにつっかえつっかえなあの喋り方――流暢な普段のものとはほど遠い。
今年の一月、帝国司書隊の不正な取調べのために連行された時の毅然としていた彼女とはまるで別人だった。とても強い女性だと感心していた唯助にしてみれば、この落差は衝撃的というよりほかない。背中を擦って励ましても、なんの気休めにもなっていなかったようだった。
とはいえ、今、唯助にできることはなにも無い。この町に来る前の彼女を知っているのは唯一、三八だけだ。音音の秘密を知ることが許されない以上、彼に任せるしかないのだ。
それも分かっちゃぁいるけど、もどかしいったらねぇなぁ。と、唯助は呟いて、道端の小石を蹴るのだった。

結局、唯助はどこかの店に立ち寄ることもなく、広大な棚葉町の東西南北、表通りから裏道の至る所までただ歩き回った。ただただ歩き回って無駄に体力を消耗した……というわけではなかった。体力自慢の唯助にしてみれば庭を一周したときの消費量と大差ないので、無駄という損にさえならないのだ。
町全域を歩き回って帰る頃には夫婦の話し合いも終わっていて、三八は縁側に腰をかけながら煙草をふかしていた。
「外に出ていてくれとは言ったけど、まさか日が暮れるまで出ていてくれるとは思わなかったよ。どこまで行ってきたんだい」
帰宅直後、開口一番に三八が聞き、
「町をぐるぐる回ってきました。頭の中に精密な地図が描けるくらい」
と唯助が答える。
「本当? 凄いな、君の体力」
言っておくが、棚葉町の東端に位置する七本屋から西端まで歩けばどんなに早く歩いても一時間は掛かる。北端から南端の距離もおおよそ同じくらいだ。唯助は町の中央を十字に横切る表通りと、それ以外の細い道、人ひとりがやっと通れるくらいの裏路地まで、すべて制覇する勢いで歩き続けていたのである。しかも、一度も腰を下ろすことなく。
それだけの運動量で汗一つかかずに帰宅してきた唯助の体力に、三八は驚嘆を通り越した何かを感じた。
「まあ、それだけ歩けば腹も空いたろう。出前に蕎麦を頼んでおいたから、もうすぐ届くだろうさ」
……ということは、音音の手料理は今日のところは無し。買い出しや仕込みなどをしたりして料理を用意できるような状態ではないということか。掃除以上に料理が好きな音音がそれをできないとなると、菅谷が訪ねてきた今日の出来事は彼女もかなり堪えたのだろう。
「姐さん、二階にいるんですか? 大丈夫ですか?」
「さっきよりは気分も落ち着いたみたいだよ。今は寝てる。飯が届いたら起こしに行こうかと思っているけど」
「そうですか」
ならばなによりだ。
菅谷が去ったからおそらく大丈夫だろうとは思っていたが、実際にそうだと聞くまでは安心できないものだ。音音のためになにかしてやれることがあるのならと聞いてみたが、どうやらその必要もないらしいと分かって、唯助は安堵する。
「唯助、あとで話がある。飯を食って落ち着いたら書斎まで来なさい」
「……? 話って?」
「無論、昼間に菅谷殿と話したことについてだ」
少し、意外だった。
音音の過去に関わる話なのはまず間違いない。唯助はてっきり、その部分には一切触れさせてもらえないと思っていたし、自分から触れようとも思っていなかった。
実際、三八も唯助に伝えるべきか悩んでいたのだという。
「音音が心配してくれている君に黙っているのは心苦しいと言ったんだ。それに、菅谷殿のこともどうか邪険にしないでほしい、とも」
「え……? それ、音音さんが言ってたんですか?」
菅谷に怯えていた音音が、菅谷を邪険にするなと。確かにそう言ったのか。
そう聞くと、三八はこくりと頷く。唯助は首を傾げた。
「君の言う通り、第一印象こそあまり良くなかったが、彼は善良な人だったよ。音音に害をなそうとしているわけではないし、今度からは直接会わないようにすると約束もしてくれた。会話中はひたすらに平身低頭だったし、まあ空気を読むのは下手だが、話はちゃんと通じる。
君も音音を守ろうと警戒してああいう態度を取ってくれたのだろうけれど、とりあえずその心配はないから。今後、彼にはきちんと客として接すること。できるね?」
「はい。………えっ??」
了解して、またも頭に疑問符を浮かべる唯助。
「客って……譚本案件ってことですか?」
「ああ。彼には願いがあった。そのために音音を追ってここまでやってきた」
そこでだ、と三八は摘んでいた煙草をひと吸いし、ひとしきり吐き出して、灰を落とす。
「今回の案件、是非とも君に挑んでもらいたい。勿論、音音も承諾済みだ。
七本音音の過去、それに菅谷殿との関係――それに関わる譚を、君が読み解いてみなさい」

*****

「譚の読み解きとは、単に事実と心を解き明かすことにあらず」
掛時計の振り子の音が幽かに鳴る、夜の書斎。小さな字引を手の中で弄びながら、三八は言った。
曰く、この世の全ての譚には起承転結があり、結を迎えればまた新たな起が始まる。譚本作家は、譚の持ち主が起承転を受けた上で見出す最後の結までを見届けなければならない。全てを明らかにした上で、譚の持ち主が何を見出すのか――それを解するまでが、譚の読み解きという行為である。と。
幾度もされてきた説明だし、勉強のために本を開けばいの一番に出てくる内容だが、唯助は正面で正座をしながら大人しく聞いている。前述の通り、それだけ重要なことだと分かっていたからだ。
「今回の件でいえば、譚の主役は依頼主の菅谷殿ではなく、依頼されている音音のほうだ。菅谷殿の願いに、音音がどう応えるのか――それを最後まで見届けることこそが、君が到達するべき終着点だ」
こくんと素直に頷く唯助。
が、それはそれとして、唯助には別の懸念があった。
「本当にいいんですか。菅谷……さんの願いには、過去の姐さんが関わっているんでしょう。おれ、姐さんの過去を覗くことになりますよ」
この男にとって音音の秘密とは、どんな手を使ってでも隠蔽したいもののはず――それこそ、この七本三八は、秘密を知ってしまったある人物を口封じに殺害している。
勿論、彼には『知ってしまった人間は全員殺す』という単純な方程式しかない、というわけではない。先述の殺害については、秘密を知ったその人物に漏らされるという明らかな危険性があったから、先手を打って封じたのだ。だから、秘密を知っただけで殺す、ということはないだろう。
「秘密を知ったとして、それを外に漏らしはしませんけど……」
「それでいい。そう思ってくれるなら。音音も君の成長の為ならばと承諾してくれているから、その点はもう気にしなくてもいい」
それに、と言葉を一度切って、三八は二階に繋がる階段の方を見やった。
「君が譚を解き明かすことが、彼女が菅谷殿に向き合うきっかけになるかもしれない」
音音は結局、二階の寝室から降りてこなかった。話にあった通り、もう怯えてはいないようだが、体調が優れないのだという。夕餉の蕎麦も寝室で摂ったらしいが、半分ほど残しているような状態だ。
「彼の願いを叶えられるのは音音だけだからね。依頼を正式に請けるかどうかは彼女次第だ」
それについては、本当に大丈夫かよ、と思う唯助である。あんなに怖がっていたのに、そこから回復して、菅谷と対面することが果たしてできるのか? それも、譚の読み解きをすることで。しかし、音音に対しては唯助以上に過保護な三八が言うのだから、ここはあえて口にはしなかった。
「君には二人の譚を動かす歯車を回してほしいんだよ」
「えぇと……つまり、姐さんが菅谷さんの依頼を請けられるよう後押ししてやれと?」
「違うよ。請けるか請けないか、選択できる状態まで持っていくんだ。読み解く側はあくまで選択を見守るだけ、結を誘導するのは越権行為だよ」
「……姐さんが寝込むほど菅谷さんを避けてるなら、無理に依頼を請けさせる必要はないのでは」
「本人が絶対に嫌っていうならそうするけど、そうじゃないんだよ。彼女はどちらを取るか迷っている。否、迷う以前に、菅谷殿という因縁の相手に向き合えていないのさ」
要は、彼女がどちらを選ぶか決められるようにするために、唯助が譚を動かしてやれ、ということだ。
また難しいこと言うものだ、と唯助はガシガシ頭をかいた。そんな悩ましげな唯助の思考を読み取ったうえで、三八はお気楽そうに笑う。
「それができるようになるための修行さ。大丈夫、今回が初めてじゃないし、君は小生の譚を進めてくれただろう」
「まあ、そうですけども」
「そ・れ・に。君も小生と同じだろう。譚に愛され、譚に取り憑かれた申し子――愛子まなごじゃないか」
三八の口元がにやりと弧を描く。それを見た唯助は、相変わらず趣味の悪いツラだと思った。普段は優しそうな爺のくせして、こういう時の笑顔だけは人が変わったように邪悪そうなのだ。
「……あんた、自分の嫁の譚にすらそんな顔するんですね」
こういう時、というのは、彼にとっていかにも美味しそうな、そそられる譚を目にした時のことだ。自分が読み解きたくてたまらない譚に遭遇したとき、三八はこんな笑顔を浮かべるのである。
こいつは一体どんな神経をしているんだと、今更ながら唯助は呆れた。
「お気に召すかどうかは置いといて、だ。君の糧にはなるはずだよ。嫁贔屓はあるかもしれないけれど、それくらいに良い譚さ。そう思えば、受けないことはないだろう、なぁ?」
あぁ、これはもうやらせる気だ。おれに拒否権はない。別に拒否する理由もないし、自分の身になる修行なのだからやる。けれど、こんな繊細な事情にまでぐいぐいと首を突っ込まなきゃいけないなんて、気が進まねぇったら。いやまあ? おれも旦那の譚に進んで首突っ込んだクチだけどよ。あぁ、譚本作家ってこういうとこ業が深いよなぁ。
うじうじした愚痴を声に出さずにたっぷりと吐いてから、唯助は腹を決める。
「分かりましたよ。そこまで言うなら見させてもらいましょう。根掘り葉掘り、真の髄まで」
「それでこそ小生が見込んだ弟子だよ」
満足そうに頷いて、あとついでに、と三八は付け足した。
「これは追加課題だ。できなくても構わないが、できた方がより深く譚を解することができるだろう」
三八は自身の鼻を人差し指でとんとん叩く。
「彼女の譚からは、『雨の匂い』がする。その正体を突き止めてみなさい」
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