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一章「願いを持つ客」
その二
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休憩を終えて、日もそろそろ傾いてきた。
棚葉町が茜色に満たされる時分、食料を売っている中央部には夕飯の買い出しに来た人々の影が波打っている。みな一緒くたに日の色に染まっていて、町はまるで夕日を望む海のようだった。
その中を歩く唯助の姿は、一緒くたになった景色の中では目立つものだった。漆塗りの簪を挿した髪は高く結い上げられ、まるで文明開化以前の時代からやってきたかのようだ。しかも明るい茶髪だから、黒髪の群れの中では余計に目を引かれる。
目立つという意味では、その隣を歩く音音も劣らない。彼女は男性である唯助よりも背丈が高いし、人混みからは文字通り、頭一つ分飛び抜けている。その体躯は着物を身につけた上からでも分かるほどひょろりと細い。
「あら、このお茄子いいですね。ふっくらしてて美味しそう。何ができるかしら」
「あ、おれ揚げ出し茄子が食べたいです。豆腐も入ったやつ。ね、どうです? 作ってもらえませんか?」
「ふふ、分かりました。ではそうしましょう」
「やった!」
八百屋の前でそんなやり取りをしている二人は、歳も近いから姉弟のようにも見える。美味い飯を想像して涎を垂らす若者と、それに和んで微笑む娘。ありふれた日常を切り取ったような光景であった。
「あと、米もそろそろなくなるんですよね。おれ、ちょっと走って買ってきます」
ちなみにこの時代、米はまだ紙袋ではなく、俵で売られていた。一俵につき六〇キロという重さを当時の人々はひょいひょい担いでいたが、ぶつかって転けただけで骨を折りそうな細さの音音にはとても持たせられる重さではない。買った米俵を担ぐのは、いつも力自慢の唯助の役目だった。
しばらくして、米俵を担いで先ほどの八百屋に戻ってきた唯助は、まずぎょっと目を見開いた。その次に、担いでいた米俵を放って駆けだしていた。
「姐さん!」
声をかけると同時に伸ばした手は、音音の手――ではなく、音音の手を掴んでいた別人の腕をひっ掴んだ。背広を纏う丸々とした腕が、突然の乱入に驚いたように跳ねる。
「いきなりなにしやがる。女の手ぇ掴むたぁ穏やかじゃねぇな」
最初から喧嘩腰で間に割り込んで、唯助は音音を背後に庇う。掴んだ腕の主を強く睨めつける。小太りで丸眼鏡をかけた中年だった。その顔は驚愕と僅かな恐怖で引きつって固まっている。
「あ、あねさん?」
「そうだよ。おれが世話になってる店の奥さん」
背後の音音はさらに、貫禄のある八百屋の夫人に庇われていた。
「大丈夫だったかい、音音ちゃん」
夫人が背中を擦って声をかけるが、音音は恐怖のせいか小動物のように震えている。その様子を見て、夫人も中年を威嚇しようと激しく睨みつけた。
「も、申し訳ありません。探していた知人によく似ていらしたものですから、つい本人かと思って……」
意外にも、中年はしきりに頭を下げて謝罪し始める。こういう場合、要するに、音音のような若い娘によからぬ事をしようとしていた場合、大抵相手は逃げようとして手を振り切ろうとするものだ。しかし、中年は腕を掴まれたまま逃げようともしない。逃げずにただ詫びている。唯助は中年が予想と違う反応を見せたのに面食らってしまった。
「ですが……本当に私を覚えていないのですか?」
中年は睨みつける唯助に向かってひとしきり謝ると、視線の先を唯助から音音へと戻す。すると音音は夫人の影にさらに隠れ、中年の視線を拒むように目を逸らした。
「ひ、人違いです。わたくしは貴方を存じ上げません」
「そんな……そんな、本当に覚えがないのですか、お嬢様」
「知りません。どうかお引き取りください」
唯助はここで、認識を切り替える。この男は逃げないのではなく、立ち去る気がないのだ。こんな頼りなさそうな彼に音音を攫って悪事を働くような肝っ玉があるとは思えないが、間違いなく嫌がっている彼女に対して、あまりにもしつこく食い下がってくる。諦めの悪い態度は見ている唯助も不快だった。業を煮やした唯助は、
「いい加減にしやがれ。これ以上続けるなら警察呼ぶぞ」
と声の音量を上げてさらに中年を脅かす。すると、警察という言葉にはさすがに肝を冷やしたのか、はたまた殺気に近い怒気を含んだ声に身の危険を感じたのか、中年は今度こそ逃げようと唯助の手を振り払った。慌てふためいてはいるのに、やっぱり去り際には「失礼しますっ!」とぺこぺこ頭を下げて逃げていくあたり、律儀な男である。
中年の背が見えなくなったところで、唯助は緊張を解くと、音音に向き直った。
「大丈夫ですか、姐さん。顔が真っ青ですよ」
音音は夫人の着物の裾にしがみついていた。男が去って震えはおさまったようだが、肌にはうっすらと冷や汗が見える。
ようやく落ち着きを取り戻した音音は、夫人の着物から手を離し、二人に向かって頭を深々と下げた。
「お二人とも、ありがとうございます。吃驚して、動けなくなってしまって……」
「仕方がないですよ。知らない男に突然腕を掴まれりゃ吃驚しますって」
「とにかく無事でよかったよ。あんなのが二度と来ないよう、塩撒いとかないとね!」
「本当にありがとうございます。ご迷惑をおかけしました」
繰り返し謝礼と謝罪を繰り返す音音をなだめつつ、唯助は先ほどの男の台詞を思い返して、密かに首を傾げていた。
――『お嬢様』と。
あの男は音音をそう呼んだ。勿論、正確には目の前にいた音音ではなく、音音に似た誰かのことを指して呼んだのだろうけれど。
お嬢様、という呼び方は、不思議としっくりくるのだ。物腰柔らかで、品があって、いかにも教養高そうな――庶民とはいささかかけ離れている彼女の振る舞いによく似合っている。
(まさか、いや、まさかね?)
その時はさっと流したごくごく小さな引っかかり、ともすれば嫌な予感だったが、残念なことに――唯助がまさかと思った予感は、後日的中することになった。
*****
「失礼します」
という中年の声が七本屋の店先に響いたのは、翌日の午前のことだった。もそっと篭ったような特徴的な声だったから、それを覚えていた唯助は、毛を逆立てる猫のように警戒を払った。
「あ、……えぇ、と……」
門前払いだとばかりにぶすくれた顔で腰をかけていた唯助に、中年は萎縮していた。正面から怒鳴られた記憶がまだ濃いのだろう。その時の店番がたまたま自分で幸いだった、と唯助は思った。音音が店番をしていたら何をされていたか分かったものではない。唯助は再び現れた中年を睨みつつ
「……何の用?」
とわざとぶっきらぼうに言ってやった。
あんなに脅してやったのに、よくもここにやって来たものだ。否、それ以上に、音音が住んでいる店を特定してまでやって来たその執念は何なのだ、と唯助は呆れる。
「昨日は、申し訳ありませんでした。不躾なことをしてしまったと、反省しております」
声を震わせながら謝罪する中年。しかし、まさか馬鹿正直に謝罪だけをしにきたわけではあるまいと、唯助は男の言葉の続きを待つ。
「ですが、どうしてもお聞きしたいのです。二人きりで会わせろとは言いません、どうかあのお嬢さんと話を」
ほら見ろ、案の定じゃねぇか。思わず舌打ちしそうなところを、唯助はギリギリのところで止めた。一応、最低限の礼儀を払ったのである。
「姐さんはいねぇよ。いたところで会わせる気もねぇし。とっとと帰んな」
湧き上がる嫌悪感を隠さず、唯助は店の戸を閉めようとする。
が、男もその戸を掴んでくい止めた。足を挟み込んでまでして、なおも食い下がろうとしていた。
「お願いします、話だけでいいんです!」
「しつけぇぞ、あんた」
顔の輪郭と腹はまるで丸い風船のようだったから、力は鍛えている自分の方が上だろうと唯助は思っていたのだが、中年の方も案外力が強い。言い争いと共に戸もみしみしと音を立てていたが、その木枠が今にも歪もうかというその時に、制止の声が割り込んだ。
「およし、唯助。客に対してその態度は失礼だよ」
言わずもがな、渋いその声の主は三八である。唯助はそれに反発した。
「けど、こいつは昨日姐さんの腕を掴んだ奴ですよ」
「唯助」
二度目の制止をかけた三八の口が、今度はゆっくりと動く。ひと文字ずつ、力を込めて発音される。言外に、同じことを言わせるなという三八の意思を感じた。普段は好々爺のような優しい雰囲気があるくせに、こういう時の三八は妙に迫力がある。内心不満である唯助も、手の力を緩めて従うしかないほどに。
唯助が戸から足を引くと、男は胸元から取り出したハンケチで額の汗を拭い、姿勢を正した。
「重ね重ね申し訳ありません。しつこいのも承知なのですが……」
「いや、こちらこそ部下が失礼つかまつった。店主としてお詫び申し上げる」
「と、とんでもございません! 無礼を承知で押しかけている私の方が悪いのです」
三八が頭を下げれば、男はそれ以上に深く腰を折る。丸々とした腹がつかえて下げられなくなる限界まで、頭を低くしていた。
「申し遅れた、小生は七本三八。この店の主だ。貴殿、名は何と?」
三八から先に名乗ると、男もまた、被っていた帽子をとって改めて礼をしながら名乗った。
「菅谷謙純と申します。藤京から参りました」
「そうか。菅谷殿、ひとまず中で話をしてもらえまいか。妻への用件は小生が代わりに聞こう」
「……つ、妻? えっ……?」
「彼女は小生の妻だ。何か問題でも?」
「い、いいえ。何でもありません」
……まあ、そりゃそうなるに決まってるだろうな。
三八の見た目が以前のような二、三十代ならまだしも、今は五十代。どう見たって菅谷よりもさらにひと回り歳を取っている男のもとに、まだ二十代前半の妻がいると知れば、つい目を丸くしたって仕方ないだろう。
いや、そんなことはどうでもいい。
それよりも、こいつをあっさりと店の中に通して大丈夫なのか、と唯助は三八にこっそり耳打ちする。
「旦那、本気ですか。あんたの嫁に手を出した不審者ですよ」
「まあ落ち着け。迷惑をかけるだろうと予測した上でなおやってきたのだ。そうせざるを得ないなにかがあの男にはあるんだろう」
「でも、姐さんの身に何かあったら……!」
「大丈夫、まずいと判断したら今度は小生が適当に追い払う。音音は二階にいるから、君は彼女の傍についていてあげなさい」
男のしつこさにいらついていた唯助にしては、よく我慢した方だと言えるかもしれない。機嫌が悪いこともあって、「あんなの適当に脅して追い出せばいいのに」と文句を言いたくなるのを、彼はこの時ぐっと堪えた。そういうことなら仕方がない、と一度冷静になって引き下がったのだ。
もしかすれば、三八はわざと話を聞くふりをして様子を伺うつもりなのかもしれない。譚好きの三八のことだから、単にこの菅谷という男の譚に興味を示しているだけという可能性もあるが。
どちらにせよ、縁あって訪れた彼に探りを入れようとしているのは間違いないと踏んだのだ。
「菅谷殿。ひとまず話は聞くが、どうか妻には無理に会おうとしないでほしい。昨日のこともあって、彼女は貴殿に怯えているようだから」
「……っ、それは、大変申し訳ありません……」
どうやら、音音が怯えていると言われたのがショックだったらしい。いやお前が撒いた種だろう、なにをそんな凹んでいるのだ、と余計なことを言いそうになる。
「唯助、客人に茶を出してもらえないか」
大事な姉貴分にやたらとご執心な輩のために、姉貴分から教わった美味い茶を出すのはなんだか癪だが、師匠の指示とあらば従わぬわけにはいかない。こいつの分だけわざと渋くなるように入れてやろうかとも過ぎったが、それではあまりにも自分が幼稚すぎるし、八つ当たりにもほどがある。仕方ない、ちゃんと美味い茶を入れるとするか。さっさと終わらせて二階に上がろうと、唯助はやかんを取りに炊事場へ向かった。
*****
一階から三八の呼び声がしたのは、そこから約一時間後のことであった。階段を降り、菅谷が立ち去ったあとの居間に向かえば、そこには眉間を押さえている三八が立っている。ここまで見事なしかめっ面を見せるのは、彼にしては珍しいものだった。
「由々しき事態だ」
と、ただ一言、ため息交じりに三八は言う。そこら一帯の重力が三割増しになったかのような空気が広がっている。
「旦那、あいつは」
一体、何を考えているんですか。
一体、何がしたかったんですか。
一体、何者だったんですか。
色々と質問しようとしてどれから聞こうか迷っている唯助に、それを察した三八は順を追って説明する。
「害意はないと思う。嘘をついたり隠し事をしている様子はなかったし、譚の匂いも特に怪しいものではない」
だからこそ、厄介だ。
気だるげに言う彼の口調は、実に面倒そうだった。
「柔らかい口調と態度で接しただけで、あれもこれもと自ら語っていってくれた。おかげで引き出す手間が省けたよ。単純な男だ。人が良すぎるというか、警戒心がなさすぎるというか」
相手によからぬ下心があったならば、三八もまだ対応しやすかった。だが、あの中年は妙に礼儀正しいし、迷惑ではあるが悪人ではない。下手に邪険に扱えないのだ。丁寧な態度を取りながら食い下がってくるものだから、それが非常に面倒だったと彼は言う。
唯助に遅れて、音音も二階から降りてきた。心配そうな目で、怯えた子猫のような様子で、三八をじっと見ている。それを受けた三八は、さらに無念とばかりに顔を顰めた。
「音音。残念ながら、本当に人違いではなかったようだ」
つまり――彼が探していた人物は、紛れもなく七本音音だったということ。それを意味していた。
「音音。実際のところはどうなんだい。本当は、彼の顔に覚えがあったのではないのか」
「………」
三八にそのつもりは毛頭なかったのだが、音音は自分が責められていると感じたのか、着物を握りしめて押し黙ってしまった。
「……た」
およそ十秒間ほどの長い沈黙を置いてから、
「あり、ました」
彼女はぶるぶるとした声で、ぎこちなく返答をした。
「だ、だ、だ」
そして、さらにぎこちなく。
軋んで言うことを聞かない歯車を無理やり回すような声で、音音は発言した。
「黙って、い、いて、ごめんなさい……」
脇で聞いていた唯助は、こんな彼女を見るのは初めてだった。こんな、言葉を話すのもやっとというような、歪にできた人形のような彼女を見るのは。
「怒っているわけじゃないよ。ただ、油断しすぎていた自分を悔いているだけだ」
可能性として考えていなかったわけではない。が、極限に低い可能性だったから、起ころうはずもないと思っていた。そう軽く捉えすぎていた自分に、三八は苛立っていたのだった。
三八にとっても、そして音音にとっても。中年の来訪は不測の事態だったのだ。
彼のような、失踪した【彼女】を探している人間が未だにいて、この地まで辿り着くなど――
棚葉町が茜色に満たされる時分、食料を売っている中央部には夕飯の買い出しに来た人々の影が波打っている。みな一緒くたに日の色に染まっていて、町はまるで夕日を望む海のようだった。
その中を歩く唯助の姿は、一緒くたになった景色の中では目立つものだった。漆塗りの簪を挿した髪は高く結い上げられ、まるで文明開化以前の時代からやってきたかのようだ。しかも明るい茶髪だから、黒髪の群れの中では余計に目を引かれる。
目立つという意味では、その隣を歩く音音も劣らない。彼女は男性である唯助よりも背丈が高いし、人混みからは文字通り、頭一つ分飛び抜けている。その体躯は着物を身につけた上からでも分かるほどひょろりと細い。
「あら、このお茄子いいですね。ふっくらしてて美味しそう。何ができるかしら」
「あ、おれ揚げ出し茄子が食べたいです。豆腐も入ったやつ。ね、どうです? 作ってもらえませんか?」
「ふふ、分かりました。ではそうしましょう」
「やった!」
八百屋の前でそんなやり取りをしている二人は、歳も近いから姉弟のようにも見える。美味い飯を想像して涎を垂らす若者と、それに和んで微笑む娘。ありふれた日常を切り取ったような光景であった。
「あと、米もそろそろなくなるんですよね。おれ、ちょっと走って買ってきます」
ちなみにこの時代、米はまだ紙袋ではなく、俵で売られていた。一俵につき六〇キロという重さを当時の人々はひょいひょい担いでいたが、ぶつかって転けただけで骨を折りそうな細さの音音にはとても持たせられる重さではない。買った米俵を担ぐのは、いつも力自慢の唯助の役目だった。
しばらくして、米俵を担いで先ほどの八百屋に戻ってきた唯助は、まずぎょっと目を見開いた。その次に、担いでいた米俵を放って駆けだしていた。
「姐さん!」
声をかけると同時に伸ばした手は、音音の手――ではなく、音音の手を掴んでいた別人の腕をひっ掴んだ。背広を纏う丸々とした腕が、突然の乱入に驚いたように跳ねる。
「いきなりなにしやがる。女の手ぇ掴むたぁ穏やかじゃねぇな」
最初から喧嘩腰で間に割り込んで、唯助は音音を背後に庇う。掴んだ腕の主を強く睨めつける。小太りで丸眼鏡をかけた中年だった。その顔は驚愕と僅かな恐怖で引きつって固まっている。
「あ、あねさん?」
「そうだよ。おれが世話になってる店の奥さん」
背後の音音はさらに、貫禄のある八百屋の夫人に庇われていた。
「大丈夫だったかい、音音ちゃん」
夫人が背中を擦って声をかけるが、音音は恐怖のせいか小動物のように震えている。その様子を見て、夫人も中年を威嚇しようと激しく睨みつけた。
「も、申し訳ありません。探していた知人によく似ていらしたものですから、つい本人かと思って……」
意外にも、中年はしきりに頭を下げて謝罪し始める。こういう場合、要するに、音音のような若い娘によからぬ事をしようとしていた場合、大抵相手は逃げようとして手を振り切ろうとするものだ。しかし、中年は腕を掴まれたまま逃げようともしない。逃げずにただ詫びている。唯助は中年が予想と違う反応を見せたのに面食らってしまった。
「ですが……本当に私を覚えていないのですか?」
中年は睨みつける唯助に向かってひとしきり謝ると、視線の先を唯助から音音へと戻す。すると音音は夫人の影にさらに隠れ、中年の視線を拒むように目を逸らした。
「ひ、人違いです。わたくしは貴方を存じ上げません」
「そんな……そんな、本当に覚えがないのですか、お嬢様」
「知りません。どうかお引き取りください」
唯助はここで、認識を切り替える。この男は逃げないのではなく、立ち去る気がないのだ。こんな頼りなさそうな彼に音音を攫って悪事を働くような肝っ玉があるとは思えないが、間違いなく嫌がっている彼女に対して、あまりにもしつこく食い下がってくる。諦めの悪い態度は見ている唯助も不快だった。業を煮やした唯助は、
「いい加減にしやがれ。これ以上続けるなら警察呼ぶぞ」
と声の音量を上げてさらに中年を脅かす。すると、警察という言葉にはさすがに肝を冷やしたのか、はたまた殺気に近い怒気を含んだ声に身の危険を感じたのか、中年は今度こそ逃げようと唯助の手を振り払った。慌てふためいてはいるのに、やっぱり去り際には「失礼しますっ!」とぺこぺこ頭を下げて逃げていくあたり、律儀な男である。
中年の背が見えなくなったところで、唯助は緊張を解くと、音音に向き直った。
「大丈夫ですか、姐さん。顔が真っ青ですよ」
音音は夫人の着物の裾にしがみついていた。男が去って震えはおさまったようだが、肌にはうっすらと冷や汗が見える。
ようやく落ち着きを取り戻した音音は、夫人の着物から手を離し、二人に向かって頭を深々と下げた。
「お二人とも、ありがとうございます。吃驚して、動けなくなってしまって……」
「仕方がないですよ。知らない男に突然腕を掴まれりゃ吃驚しますって」
「とにかく無事でよかったよ。あんなのが二度と来ないよう、塩撒いとかないとね!」
「本当にありがとうございます。ご迷惑をおかけしました」
繰り返し謝礼と謝罪を繰り返す音音をなだめつつ、唯助は先ほどの男の台詞を思い返して、密かに首を傾げていた。
――『お嬢様』と。
あの男は音音をそう呼んだ。勿論、正確には目の前にいた音音ではなく、音音に似た誰かのことを指して呼んだのだろうけれど。
お嬢様、という呼び方は、不思議としっくりくるのだ。物腰柔らかで、品があって、いかにも教養高そうな――庶民とはいささかかけ離れている彼女の振る舞いによく似合っている。
(まさか、いや、まさかね?)
その時はさっと流したごくごく小さな引っかかり、ともすれば嫌な予感だったが、残念なことに――唯助がまさかと思った予感は、後日的中することになった。
*****
「失礼します」
という中年の声が七本屋の店先に響いたのは、翌日の午前のことだった。もそっと篭ったような特徴的な声だったから、それを覚えていた唯助は、毛を逆立てる猫のように警戒を払った。
「あ、……えぇ、と……」
門前払いだとばかりにぶすくれた顔で腰をかけていた唯助に、中年は萎縮していた。正面から怒鳴られた記憶がまだ濃いのだろう。その時の店番がたまたま自分で幸いだった、と唯助は思った。音音が店番をしていたら何をされていたか分かったものではない。唯助は再び現れた中年を睨みつつ
「……何の用?」
とわざとぶっきらぼうに言ってやった。
あんなに脅してやったのに、よくもここにやって来たものだ。否、それ以上に、音音が住んでいる店を特定してまでやって来たその執念は何なのだ、と唯助は呆れる。
「昨日は、申し訳ありませんでした。不躾なことをしてしまったと、反省しております」
声を震わせながら謝罪する中年。しかし、まさか馬鹿正直に謝罪だけをしにきたわけではあるまいと、唯助は男の言葉の続きを待つ。
「ですが、どうしてもお聞きしたいのです。二人きりで会わせろとは言いません、どうかあのお嬢さんと話を」
ほら見ろ、案の定じゃねぇか。思わず舌打ちしそうなところを、唯助はギリギリのところで止めた。一応、最低限の礼儀を払ったのである。
「姐さんはいねぇよ。いたところで会わせる気もねぇし。とっとと帰んな」
湧き上がる嫌悪感を隠さず、唯助は店の戸を閉めようとする。
が、男もその戸を掴んでくい止めた。足を挟み込んでまでして、なおも食い下がろうとしていた。
「お願いします、話だけでいいんです!」
「しつけぇぞ、あんた」
顔の輪郭と腹はまるで丸い風船のようだったから、力は鍛えている自分の方が上だろうと唯助は思っていたのだが、中年の方も案外力が強い。言い争いと共に戸もみしみしと音を立てていたが、その木枠が今にも歪もうかというその時に、制止の声が割り込んだ。
「およし、唯助。客に対してその態度は失礼だよ」
言わずもがな、渋いその声の主は三八である。唯助はそれに反発した。
「けど、こいつは昨日姐さんの腕を掴んだ奴ですよ」
「唯助」
二度目の制止をかけた三八の口が、今度はゆっくりと動く。ひと文字ずつ、力を込めて発音される。言外に、同じことを言わせるなという三八の意思を感じた。普段は好々爺のような優しい雰囲気があるくせに、こういう時の三八は妙に迫力がある。内心不満である唯助も、手の力を緩めて従うしかないほどに。
唯助が戸から足を引くと、男は胸元から取り出したハンケチで額の汗を拭い、姿勢を正した。
「重ね重ね申し訳ありません。しつこいのも承知なのですが……」
「いや、こちらこそ部下が失礼つかまつった。店主としてお詫び申し上げる」
「と、とんでもございません! 無礼を承知で押しかけている私の方が悪いのです」
三八が頭を下げれば、男はそれ以上に深く腰を折る。丸々とした腹がつかえて下げられなくなる限界まで、頭を低くしていた。
「申し遅れた、小生は七本三八。この店の主だ。貴殿、名は何と?」
三八から先に名乗ると、男もまた、被っていた帽子をとって改めて礼をしながら名乗った。
「菅谷謙純と申します。藤京から参りました」
「そうか。菅谷殿、ひとまず中で話をしてもらえまいか。妻への用件は小生が代わりに聞こう」
「……つ、妻? えっ……?」
「彼女は小生の妻だ。何か問題でも?」
「い、いいえ。何でもありません」
……まあ、そりゃそうなるに決まってるだろうな。
三八の見た目が以前のような二、三十代ならまだしも、今は五十代。どう見たって菅谷よりもさらにひと回り歳を取っている男のもとに、まだ二十代前半の妻がいると知れば、つい目を丸くしたって仕方ないだろう。
いや、そんなことはどうでもいい。
それよりも、こいつをあっさりと店の中に通して大丈夫なのか、と唯助は三八にこっそり耳打ちする。
「旦那、本気ですか。あんたの嫁に手を出した不審者ですよ」
「まあ落ち着け。迷惑をかけるだろうと予測した上でなおやってきたのだ。そうせざるを得ないなにかがあの男にはあるんだろう」
「でも、姐さんの身に何かあったら……!」
「大丈夫、まずいと判断したら今度は小生が適当に追い払う。音音は二階にいるから、君は彼女の傍についていてあげなさい」
男のしつこさにいらついていた唯助にしては、よく我慢した方だと言えるかもしれない。機嫌が悪いこともあって、「あんなの適当に脅して追い出せばいいのに」と文句を言いたくなるのを、彼はこの時ぐっと堪えた。そういうことなら仕方がない、と一度冷静になって引き下がったのだ。
もしかすれば、三八はわざと話を聞くふりをして様子を伺うつもりなのかもしれない。譚好きの三八のことだから、単にこの菅谷という男の譚に興味を示しているだけという可能性もあるが。
どちらにせよ、縁あって訪れた彼に探りを入れようとしているのは間違いないと踏んだのだ。
「菅谷殿。ひとまず話は聞くが、どうか妻には無理に会おうとしないでほしい。昨日のこともあって、彼女は貴殿に怯えているようだから」
「……っ、それは、大変申し訳ありません……」
どうやら、音音が怯えていると言われたのがショックだったらしい。いやお前が撒いた種だろう、なにをそんな凹んでいるのだ、と余計なことを言いそうになる。
「唯助、客人に茶を出してもらえないか」
大事な姉貴分にやたらとご執心な輩のために、姉貴分から教わった美味い茶を出すのはなんだか癪だが、師匠の指示とあらば従わぬわけにはいかない。こいつの分だけわざと渋くなるように入れてやろうかとも過ぎったが、それではあまりにも自分が幼稚すぎるし、八つ当たりにもほどがある。仕方ない、ちゃんと美味い茶を入れるとするか。さっさと終わらせて二階に上がろうと、唯助はやかんを取りに炊事場へ向かった。
*****
一階から三八の呼び声がしたのは、そこから約一時間後のことであった。階段を降り、菅谷が立ち去ったあとの居間に向かえば、そこには眉間を押さえている三八が立っている。ここまで見事なしかめっ面を見せるのは、彼にしては珍しいものだった。
「由々しき事態だ」
と、ただ一言、ため息交じりに三八は言う。そこら一帯の重力が三割増しになったかのような空気が広がっている。
「旦那、あいつは」
一体、何を考えているんですか。
一体、何がしたかったんですか。
一体、何者だったんですか。
色々と質問しようとしてどれから聞こうか迷っている唯助に、それを察した三八は順を追って説明する。
「害意はないと思う。嘘をついたり隠し事をしている様子はなかったし、譚の匂いも特に怪しいものではない」
だからこそ、厄介だ。
気だるげに言う彼の口調は、実に面倒そうだった。
「柔らかい口調と態度で接しただけで、あれもこれもと自ら語っていってくれた。おかげで引き出す手間が省けたよ。単純な男だ。人が良すぎるというか、警戒心がなさすぎるというか」
相手によからぬ下心があったならば、三八もまだ対応しやすかった。だが、あの中年は妙に礼儀正しいし、迷惑ではあるが悪人ではない。下手に邪険に扱えないのだ。丁寧な態度を取りながら食い下がってくるものだから、それが非常に面倒だったと彼は言う。
唯助に遅れて、音音も二階から降りてきた。心配そうな目で、怯えた子猫のような様子で、三八をじっと見ている。それを受けた三八は、さらに無念とばかりに顔を顰めた。
「音音。残念ながら、本当に人違いではなかったようだ」
つまり――彼が探していた人物は、紛れもなく七本音音だったということ。それを意味していた。
「音音。実際のところはどうなんだい。本当は、彼の顔に覚えがあったのではないのか」
「………」
三八にそのつもりは毛頭なかったのだが、音音は自分が責められていると感じたのか、着物を握りしめて押し黙ってしまった。
「……た」
およそ十秒間ほどの長い沈黙を置いてから、
「あり、ました」
彼女はぶるぶるとした声で、ぎこちなく返答をした。
「だ、だ、だ」
そして、さらにぎこちなく。
軋んで言うことを聞かない歯車を無理やり回すような声で、音音は発言した。
「黙って、い、いて、ごめんなさい……」
脇で聞いていた唯助は、こんな彼女を見るのは初めてだった。こんな、言葉を話すのもやっとというような、歪にできた人形のような彼女を見るのは。
「怒っているわけじゃないよ。ただ、油断しすぎていた自分を悔いているだけだ」
可能性として考えていなかったわけではない。が、極限に低い可能性だったから、起ころうはずもないと思っていた。そう軽く捉えすぎていた自分に、三八は苛立っていたのだった。
三八にとっても、そして音音にとっても。中年の来訪は不測の事態だったのだ。
彼のような、失踪した【彼女】を探している人間が未だにいて、この地まで辿り着くなど――
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さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
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