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一章「願いを持つ客」

その一

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 大昌十年六月上旬のことである。例年よりも梅雨が遅れた空は、からりと晴れている。菜摘芽なつめ唯助いすけは青い空の下、店が軒先を連ねる大通りを歩いていた。
ここは大陽本帝国の帝都・藤京より西、列島のちょうど中央に位置する商人たちの町、棚葉町たなばちょうである。藤京のように一丁前に煉瓦造りの建物と木造建築が入り交じる様を揶揄して『ちっぽけな銀坐』と言う者も中にはいるが、商人の町の称号は伊達ではない。ここに来れば大抵の品物、それも質のいい品ばかりが揃う。この町で一番古い歴史を持つ本になれば尚のこと、本を求めるなら『一に帝国中央図書館、二に棚葉町』と言われるくらいだ。
唯助はその東端に位置する、小さな貸本屋の暖簾をくぐった。
「ただいま戻りました」
表には営業中という札が掛かっているにもかかわらず、中は賑わうどころかひっそり閑としていた。本棚が並ぶその空間に、唯助の声が反響する。
自慢できることではないが、この七本屋という貸本屋は、棚葉町の数ある書店の中で一番儲かっていない店と言っても過言ではない。客は一日五組も来ればいい方で、日によっては一組も来ないことさえある。だからこの店の静寂もいつも通りだし、ここの店員になって一年経った唯助も慣れたものだった。
「おぉ、おかえり。どうだった?」
静まり返った店内に、唯助とは別の声が響く。十九歳でハリのある声をした唯助とは対照的に、年季の入った渋い声だ。
店の奥から響く声の主は、やがて真っ白な頭髪に紺色の長着という姿で唯助を迎えた。脱色しきった白髪を後ろで束ね、右目を眼帯で隠したその男は、この店の主・七本ななもと三八みやである。
「もう大丈夫みたいです。畠中さんの弟さん、ようやく悩みから抜け出せたって」
「その回復ならば、もう小生らの仕事は終わりということだね」
「ええ、一件落着です。これ、お礼にどうぞってもらってきました。畠中さんのおばあちゃんが作った大福だそうです」
「そうかそうか、お疲れ様。ちょうどいい、茶でも入れてひと息しようではないか」
「はぁい」
暖簾の向こうに引っ込む三八に続き、唯助も本棚がずらりと並ぶ店場の奥へ向かう。そこは唯助も暮らしている生活空間だ。
正午を過ぎ、お八つ時というにもまだ少し早い炊事場には誰もいない。ならば裏庭の方だろうかと目をやる。
音音おとねさんや、掃除は終わったかい。休憩しよう」
三八が裏庭の方向へ声をかけると、返事はすぐさま返ってきた。
「はぁい、すぐに参ります」
音音と呼ばれた娘は宣言通り、箒を置いてすぐに建物に戻ってきた。庭の掃き掃除をしていたらしい。
縁側から建物に入った彼女は、息つく間もなくそのまま炊事場に向かおうとする。休憩、と聞いて、茶をいれる為の湯を沸かすつもりらしい。
「いいですよ、姐さん。お茶ならおれが用意しますから、一足先に休んでいてください」
「でも、唯助さんも帰ってきたばかりでしょう。お疲れではありませんか?」
「ちょっとおつかいに行ってきただけですよ。ここはおれに任せて、先に寛いでいてください」
音音は少し働きすぎだ。その感想は決して、唯助のみが抱くものではない。彼女に家事をしてもらっている三八にしても同じことなのだ。
この店には客もろくに来ないのだから、元々働き者の音音としては、のんびりと店番をするだけでは落ち着かないのだろう。ぐうたらするよりは、徹底的に家事をやろうとする――本人曰く好きだからやっているそうなので、ある種、趣味の一環である。
しかし、そうだとしても、女性一人で労働をこなしているということに変わりはない。
「甘えておきなさいな。君、朝からずっと店中掃除していたじゃないか」
三八も座布団を整えて音音に座るよう促す。じゃあ……、と少し躊躇いながら腰を下ろす音音。
……閑古鳥が鳴くばかりの店を丁寧に掃除するなんて、この人はどんなにマメなんだろう。別に一日や二日掃除をサボったってそう変わらないだろうに。おかげで寂れた七本屋の店内はいつだって隅までぴかぴかに保たれている。
「頼むよ、唯助。小生が入れるととんでもなく渋くなってしまうからね」
唯助にお願いしつつ、三八はさっさと菓子皿を用意する。三八も三八で、店の本の管理以外に帝国司書隊との書面のやり取り、同業者との取引、家計簿つけ等諸々の事務作業が山積みの上、本の執筆作業もある。なのに、音音への気遣いは常に忘れない。家事を音音にお願いして任せることはあっても、押しつけることは絶対にしないのだ。
互いを気遣えるいい夫婦といえばそうなのだが、共に暮らす唯助にしてみれば「あんたらは言い争ってないで仲良く休んでろ」である。
今のような状況になった場合、まず唯助が手伝いを申し出なければ「私がやります、貴方は休んでて」合戦が必ず始まる。お約束のように繰り広げられてしまうのだ。

やかんを火にかけつつ、唯助はそのまま炊事場に留まっていた。
あの夫婦の仲睦まじい会話が聞こえてきたからだ。夫婦の邪魔をするわけにはいかない、という気遣いもあるが、居た堪れないからという理由の方が強い。あの夫婦はその場に自分たち以外の人間がいようとお構いなしに睦言を交わし、照れくさそうに微笑みあう。そんな光景を見せつけられれば小っ恥ずかしくもなるものだ。なので唯助はあえて夫婦の会話には混じらない。
(……まあ、夫婦っていうより親子に見えるけどな)
周りにしてみれば異様な光景だろうな、と唯助は夫婦の睦まじい光景を思い浮かべる。
よくできた夫婦とは言ったが、しかし、この夫婦は超歳の差婚である。妻の音音が二十三歳という若さに対し、夫の三八は五十七歳――下手をすれば、親子どころか祖父と孫娘にさえ見える。
そんなことを考えながらぼんやりと待っていると、やかんがしゅんしゅん鳴き始める。そろそろ頃合いだ。
一回湯飲みに移して量をはかるのだったか、などと音音に教えてもらった美味しいお茶の入れ方を思い出しつつ、手を動かす。
彼女曰く、このひと手間で湯の適量をはかるだけでなく、適温まで下げることもできるのだという。ぐらぐら沸かしたばかりの熱湯で抽出すると、旨みよりも渋みが強くなってしまうらしい。唯助は現在、音音から少しずつ家事を教わっているが、彼女の教えを聞く度、その気遣いの細やかさには感心させられるばかりだった。
湯飲みに茶葉を入れて湯を移す。二人のところへ持って行く間にほどよく茶葉も開くだろう。
会話からして、現在進行形でいちゃいちゃしまくっているであろう二人には悪いが、そろそろ中断してもらうとしよう。

「うん、唯助の入れる茶も美味いな」
「ええ。上手にできていますよ、唯助さん」
「それはよかった。教えてくれた姐さんのおかげですね」
唯助はそう返しながら大福を齧る。もっちりとした歯ごたえの後に、ねっとりとしたこし餡の甘みと香りを感じる。そういえば畠中さん、ばあちゃんの大福は絶品だぞと自慢してたな……と思い出しながら、むっちむっちと大福を咀嚼し飲み込んだ。
疲れたときはお茶と甘いものに限るね、などと言って舌鼓を打ちつつ、さて、と三八が切り出す。
「これで三件か。どうだい、自分ではなしの読み解きをするようになって」
「少しずつ慣れてきたと思います。でも、相手を観察するのってやっぱり難しいですね」
譚とは、歴史であり、人生であり、体験であり、心である――。
この言葉は、大陽本という国で譚本を相手取るのであれば、誰もが必ず心に留めておくべきものである。
当然、貸本屋を営む傍ら譚本作家も生業としている三八と、その弟子である唯助もだ。
譚とひとくちにいっても、その定義は歴史や記憶、記憶や空想など、多岐に渡る。誰もが持つ一人一人の歴史のことであり、世界全体の歴史のことでもあり、さらにはこの世の歴史のことでもある。そこに込められた想い、語り継がれるべき記憶、全てを包括したものが『譚』で、譚本とはその名の通り、譚を文字に記した本のことだ。そして、それらを紡ぐのが譚本作家。唯助が目指すのはそんな存在であり、その師である三八は大陽本で屈指と言われる作家・漆本しちもとみつである。
「注意深く観察することは読み解きの基礎だからね。偽りなき真実を導き出す、そうした正しい読み解きができなければ、いくら文才があっても譚の記録には向かない」
「それが難しいんですよね。ひとつも間違っちゃいけない、正しい解釈。譚本作家ってみんなこんなことしてるんですか?」
「いんや、しない作家の方が圧倒的に多いよ」
「えっ」
「自分の空想を綴ったものも譚本だからね。自分の頭の中で完結させられる空想は読み解きも要らないから、譚の解釈違いを起こす危険もない。だからそれしか紡がない作家は多いし、大衆が想像する譚本作家も普通はこっちだろう」
確かに七本屋は譚本専門の貸本屋だが、店に並ぶのは空想を綴ったものばかりだ。市中に並ぶのはほとんどが空想の譚本であり、実際に生きている人の譚を綴ったものは大抵、藤京にある帝国中央図書館の方に所蔵されている。
一般人の目に触れることが多い空想本のほうが、より譚本という認識が強いのだろう。
等身大の実話ノンフィクションを記した譚本を紡ぐ作家はごく少数だ。間違った解釈を本に紡いで知らないうちに譚を改竄してたりすると、現実の譚のほうがねじ曲がる。そんな危ない橋を好きこのんで渡る奴は、小生みたいに譚に取り憑かれてる変態さ」
「変態って言い方はやめてくださいよ」
それじゃおれも変態じゃないか、と唯助は口を尖らせる。
唯助もまた、生きる人々の譚の美しさに魅入り、取り憑かれた側の人間だ。そんな美しい譚たちを、文字という形で世に残していきたいと志す若者だ。
「まあそれはそれとして、だ。
君は譚を読み解く上で大変有利な力を持っている。いんや、もはや反則的と言ってもいい」
「『心眼』のことですか」
いつからその力に目覚めたかは、本人である唯助にも定かではない。少なくとも去年の八月――今から九ヶ月前には兆候が見られていた、ということくらいしか分からない。
『心眼』とはもともと、物事の真実の姿を見抜く鋭い心の働き、心の目を指す言葉だ。
――つまるところ、唯助は人間観察などというまどろっこしい真似をせずとも、事実を見通すことができる、第三の目を持っているのだ。
「君の心眼はとても便利だけど、それはあくまで一方向から見た事実でしかない。それに、心眼にばかり頼っていては観察することを放棄して、大事な物を見落としかねないからね」
だからこその修行だった。今しがた出かけてきた畠中家のことや、それに先立つ二件も、三八が唯助に課した譚の読み解きという訓練の一環なのである。
「譚を持つ当人だけじゃなくて、周りの人の客観的な言葉も重要な手がかりになりますからね。心眼で見た事実だけが全てじゃない。だからむやみに心眼に頼るなってことでしょう」
唯助も勿論、その意味は承知していた。
三八曰く、譚とは事実だけではなく心の有様もすべて内包した、いわば誰かの記憶の物語である。
心眼で全ての事実を見通すだけでは不十分、だからこそ観察眼をしっかりと養って、心の部分まで感じ取って読み解きできるようにする。
「よしよし、ちゃぁんと理由まで分かってるね。いい子いい子」
唯助が教えを確と守っているのを確認すると、三八は一回り背の低い唯助の頭をぽんぽん撫でる。弟子がよくできたのを褒める時、三八が決まってすることだ。
撫でられるのは悪い気分ではない。悪くはないが、それをする対象年齢を間違えているような気が唯助にはする。
「おれ、ガキじゃないですよ」
「照れているのかい。いいじゃないか。小生からしてみれば、君は息子くらいの歳なんだから」
「はあ、まあ、いいですけど」
照れくさくても結局嫌ではないから、曖昧な返事で終わってしまう。
撫でられたあとの頭頂部をむず痒そうに触っている唯助に、音音もほっこりと微笑んでいた。
「そういえば帰りに草村堂の跡地を通ってきたんですけど、あそこ駄菓子屋になるみたいですよ」
「おや、懐かしい名前がでてきたね」
唯助にとって草村堂という名前は苦い思い出が残るものだった。
三八も懇意にしていた草村堂という古本屋がまだ健在だった頃、唯助はそこの先代店主が持っていた譚の読み解きを行ったのだ。譚の読み解き自体は上手くいったが、これで救われると思った草村堂はあっという間に潰れ、救いようのない結果に終わってしまった。
……否、救うためにと考えて読み解きをしたのが、そもそもの間違いだった。
そう気付かされた出来事だった。
「息子さんの方、今頃何してんのかな」
「およし、あまり深く考えないほうがいい」
感傷に浸ろうとした唯助に、三八がすかさず釘を刺した。
「唯助、君はあの時学んだだろう。譚の読み解きは、必ずしも人助けのために行われるものではない」
眼帯で隠されていない三八の左目――その眼差しに刺されるような思いをしなくても、唯助は理解している。読み解く譚がいいものばかりとは限らないし、時にはやるせなくなるような悪い譚も読み解かなければならない時もある。反吐が出るような悪逆非道の譚にぶち当たることもある。
それでも、ありのままを見届けるのが譚本作家の務めであることを、唯助は知っている。
「譚を紡ぐことで結果的に救われる人もいるが、小生らは人助けのために譚を読み解くのではない。そこを履き違えているとつらい思いをすることになるよ」
「分かってます。……でも」
それでも。
草村堂のことを思い出す度に、きゅっと息が詰まるような感覚がする。
「割り切るのはまだ難しいかい」
「そう簡単にはいかないもんです」
「まぁそうだろうね。君は元々根性良しだから」
譚本作家たるもの、時には冷徹でなければならない。助けたくても助けてはならず、凄惨な展開が訪れても目を逸らしてはならない。この掟は想像以上に酷だ。特に、三八が言うような根性良しにはなおのこと。
「でも、そうも言ってられないよ。本来の展開から譚を逸脱させる『改竄』、無理やり結をつける『譚殺し』――どちらも譚の持ち主に害を与える禁忌だからね。これらはたとえ人助けのためだったとしても、絶対にやったらいけないよ」
「分かってますって」
耳に痛い話をそう何度も言わないてほしいと、軽く聞き流す。何度も言ってくるから、それだけ重要なことだとは理解している。それで十分ではないか。
――尤も唯助はこの時、自分の師が禁忌を犯していたことをまだ知らなかった。そしてこれから間もなく、その事実を知ることになるということも。
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