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二章「月の陰と、月の裏」

その二

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唯助自身もかつては依頼する側として経験したから分かるが、譚を読み解くための聞き取り調査というものはかなりの長丁場になる。聞く方も聞かれる方も体力を消耗するほどに。まして、自分に一切関係のない赤の他人の譚の読み解きともなれば、膨大な情報が必要になる。
依頼内容に関する情報に加えて、例えば、その人の人間関係や思想、性格、それまでの人生経験……幅広い領域から聞き出さねばならない。
『そんなことまで聞くのか』と言わんばかりの顔で困惑する菅谷を、唯助はとにかく質問攻めにしなければならなかった。
彼らの会話については長すぎるので割愛するが、唯助が得た情報は大きく分けて三つだった。
『実井寧々子との関係性』
『幼少期の寧々子について』
『六年前の事件後、何をして、何を考えて生きていたか』
これらを聞き取った唯助がとりわけ重視したのは、『菅谷自身の実井寧々子への感情』だった。高額なピアノを買い戻し、幼少期の約束にも縋り、そうすることで実井寧々子の生存に望みをかけながらここまでやってきた――彼をここまで行動させた、その原動力たる譚である。
「寧々子さんは昔、菅谷さんに懐いてたみたいですよ。尋常小学校に通っていた時は友達がいなくて、母親が亡くなってからはよりいっそう引きこもるようになったから、周りの大人たちが声をかけていたと聞きました」
菅谷から聞き取ってきたことを報告する唯助に、三八は「ふぅん」と生返事をしていた。
原稿用紙にペンを走らせる音が、夜の書斎に響いている。書斎に一つしかない電球は三八の机を照らすためだけに設置されているようなものなので、彼の背中側に座っている唯助の視界は薄暗かった。
「あの、聞いてます?」
「聞いてるよ。原稿書きながら」
「一応、あんたの奥さんにも関わる話ですよ。実井寧々子って、音音さんのことですよね。本名ですよね」
「うん。で、菅谷殿は小学校でいじめられていた当時の寧々子を心配していたんだろう。彼女の気弱な性格が自分とよく似ていたのもあって、放っておけずによく実井家を訪れていた。そう言ってたね」
……話の内容はきちんと正確にとらえているらしい。全く別の譚を書きながら聞いているというのに、この男の脳はどうやって物事を処理しているのだろうか。
「不真面目なようですまないが、今は手を止めたくない」
「……まさか、すぐそこに布団が敷いてあるのって」
「音音が気を利かせてくれた」
あぁそうなのね、と唯助は納得した。三八の執筆の調子が、乗りに乗っているのである。万年筆が紙の上を止まることなくサラサラサラサラ滑っているのを見るに、彼は今、稀に見る絶好調なのだ。こうなると三八は体力を全て使い切るまで執筆を止めない。会話しながら執筆するし、飯を食いながらでも執筆する。もし手が止まったら、それは体力が限界になった時だ。部屋に敷かれた布団はそんな時のためのものである。
三八の視線は原稿に固定されたまま動かない。ずっと同じ姿勢で、ペンを持つ手だけが異様な速さで動いているものだから、なんだか三八がそういう動きをするからくり人形のように見えてくる。
とりあえず、報告はこのまま続けても構わないだろうと唯助は踏んだ。
「それで、寧々子さんのお父さん、正蔵さんは経済的な困窮を期に、十年前から徐々に使用人を解雇していった。でも、菅谷さんだけはギリギリまで解雇しなかったそうです。寧々子さんの唯一の話し相手だったから。やむを得ず解雇されたあとも、しばらくは個人的に実井家を訪れていたとか」
「しばらくは、ということは、途中から訪ねるのをやめたということか?」
「仕事の関係で藤京を離れることになったんだそうです。それでなかなか会えなくなっていたうちに、六年前の火事が起きてしまったと」
「なるほどねぇ」
菅谷にしてみたら寝耳に水だったことだろう。
自分が離れていた間に、実井家の邸宅が全焼したと新聞で報じられたのだ。心臓が握りつぶされるほど仰天したに違いない。
「音音さんがどうして菅谷さんに怯えているかは分かりませんが、菅谷さんの話を聞く限りでは、元々の仲は悪くなかったと思うんです」
「小生も多分そうなんじゃないかと思うよ。それに、菅谷殿を邪険にしないでくれと言ったのは他ならぬ音音だ」
「だとしたら、どうして菅谷さんに怯えているのか。こればっかりは本人から直接話を聞いてはっきりさせるべきだと思っているんですが」
「うん、目の付け所はいいと思うよ」
三八の返しを聞いて、自分の考えが彼と一致したことに安堵する唯助。
「それともう一つ気になるんですけど。旦那と音音さんが出会ったのって、確かですよね」
「そうだね」
「……まさか、旦那はその火災に関わってたとか言います?」
「黙秘」
「……音音って名前をつけたのも旦那だって言ってましたよね。それに、旦那は音音さんの本名を知ってしまった相手を殺した。あえて理由は聞いてきませんでしたが、どうして音音さんの正体がバレるとまずいんですか。どういった不都合が起きるんですか」
「駄目、教えてやんない。確かな答えが欲しいなら自力で調べなさい」
「……へぇい」
「素直でよろしい」
実井家の火災が起き、実井寧々子が行方不明になったのは六年前。彼女と三八が出会ったのも六年前。寧々子と同一人物である七本音音が棚葉町にやってきたのも六年前。
――これらの情報を一本の線で繋げば、三八が六年前の実井家の火災に何らかの形で関わっているのもほぼ間違いないだろう。あとはこの推測を確定させるために裏を取るだけなのだが、三八本人はあくまで黙秘を貫くつもりらしい。さすがに唯助の修行の為ともなれば、手がかりを与えるなどして甘やかしてはくれないか。
「こればっかりは君自身が自分で調べないと、小生としても課題として与えた意味がないからね。小生が語ってしまうのではきちんとした糧にならない」
「……せめてもう少し手がかりをくれませんか?」
「だーめ。あげない」
「……ぐう」
わざと拗ねた顔を作って見せても、三八はふーんと口で言って執筆の手を止めない。中年と青年のやり取りとしては随分と子供じみている。
「菅谷殿は、唯助も当然知っているだろうという前提で話していた。要するに、それだけ世間的にも有名になってしまった事件ということだ。それならなんとか調査することはできると思わないか。例えば情報機関を有効活用するとかさ」
「そりゃそうすればいいって分かってますけど……」
「手がかりが全くなくなって八方塞がりになったら助け舟を考えないでもないけど、そこまで難しい話でもないだろう? そういう時のために心眼の使用を許可したんだから」
「あれにだって、何か分からないけど発動条件があるんですよ」
詳しい規則は唯助本人にもまだ分からない。覚醒してさほど時間も経っていないのだから致し方あるまい。
それでも、発動に必要な要素はいくらか分かっている。譚の根幹に関わる『核』と呼ばれるもの、もしくは因縁深い環境――それを探るために、ある程度の情報を集めないといけないのである。
前者はともかく、後者は現時点でできなくもない――要は、火災があった現場に行けばいいのである。
分かっている。分かっているのだ。でもそれはできればやりたくない。なんとかそれをしないで済むよう、三八に情報をねだってしまうくらいには躊躇われる行為であった。
とはいえ、さすがにこれ以上駄々を捏ねては三八にも呆れられてしまうだろう。唯助はすごすごと引き下がることにした。

*****

この大陽本には、国中の本を管理する大陽本帝国中央図書館おおひのもとていこくちゅうおうとしょかんがある。本の番人たる帝国司書隊が管轄するのはその帝国中央図書館と、そこから枝分かれした全国各地の地方図書館である。廃藩置県が行われた明慈時代から、図書館は各県に最低でも一箇所ずつ設けられているのだ。貸本屋や古本屋など、個人が経営する書店との一番の違いは、蔵書数だ。当然、図書館のほうが圧倒的に多い。地下四階から地上十階まで全て本棚で埋め尽くされた中央図書館の蔵書数はさることながら、それより小規模とはいえ二、三階はある地方図書館と、こぢんまりした個人経営の書店を比較しても、その差は桁違いである。
さらに、図書館には国から認められた帝国司書と呼ばれる専門の資格者が駐在している。彼らは一冊一冊の本を管理し、それを一般市民にも提供するという職務を担っている。
なので、一般人がより多くの情報や正確な情報を得ようとするならば、まず頼るべきは各地の図書館である。

――さて、棚葉町には先述の通り、多くの書店が立ち並んでいるのだが、その代わりに図書館がない。一時期、棚葉町にも図書館を建てようという計画が立ったこともあったようだが、この町に集まった本の商人たちがみな商売上がったりだと猛反対し、お流れになったのだという。当然といえば当然である。
唯助は譚を読み解くため、更なる情報を求めて図書館に行くはめになったのだが、これがまた非常に面倒であった。というか、面倒だと分かっていたから駄々を捏ねてでも図書館には行きたくなかった、と言うべきであろう。
棚葉町から最寄りの図書館に行くには、最低でも一回は電車を乗り換えなければならない。一回の乗り換えごときでなにをそんなに億劫がるのだ、などと軽はずみなことを言ってはいけない。棚葉町は地方の中では栄えている方だが、一歩外に出ればそこは田畑が広がるど田舎である。ど田舎を走る電車の本数の少なさは尋常ではないのだ。一時間に一本なんて次元ではない。数時間に一本だ。つまり、棚葉町から発車して途中下車し、そこからまた次の電車に乗り換えるまでの待ち時間が長すぎるのだ。目的地までたどり着く過程だけで、半日が終わる。往復すれば丸一日だ。ふざけんなという話である。ただ調べ物をしたいだけなのに、どうして移動で丸一日も労力を費やさねばならないのか。唯助が昨夜、三八に駄目元で情報をねだったのはこういう理由からであった。
「うぇぇ……気持ち悪ぅ……」 
ついでに言えば、唯助は乗り物酔いをしやすい体質である。運の悪いことに、この日は電車の乗客がほぼ零であったため、居合わせた乗客と話しながら酔いを紛らわせることもできず、ただただ長時間電車に揺られっぱなしであった。目的地に辿り着いた彼の顔色は、周囲に広がる畑の茄子たちも吃驚な茄子紺色であった。
「もういや……電車乗りたくない……」
初めて電車で藤京に行った時の可愛らしいわくわく感はどこへやら、唯助の足元は今やふらふらであった。帰るときもこれが待ち受けているなんて一体何の拷問だろうと絶望しながら、唯助は目的を果たすべく図書館へと足を運んだ。

「六年前に起きた火災の新聞記事、ですか」
図書館に入って早速、唯助は受付にいた二人の帝国司書に話しかけた。
「ええ。被害者は藤京に住んでいた音楽家で、実井という名字なんですけども」
唯助がそこまで言うと、相談していた帝国司書は二人ともすぐに合点したようだった。
「実井……実井正蔵邸の放火事件か」
「あぁ、あの事件。確か新聞記事も取ってあったはずです。当時は号外でも取り上げられるくらい大騒ぎになりましたからね」
この時の二人の反応だけでも、唯助にとってはいい情報だったと言っていい。唯助は去年まで世間知らずであったので知る由もなかったのだが、どうやら実井邸の火災は一般的に広く知れ渡った、かなり有名な事件らしい――菅谷が実井という名前を知っている前提で話を進めてきたのも納得である。
帝国司書の片方が少し待っていてください、と奥へ引っ込む。再び戻って来た帝国司書は、新聞を受付から離れた机上に広げた。
「実井正蔵の焼身自殺の記事ですね。これでよろしいですか?」
一面を埋め尽くさんばかりに、その事件は大きく取り上げられていた。
「ええ、しばらくお借りします。ありがとうございます」
持ち場へ戻る帝国司書を見送って、唯助はまずその見出しから目を通す。
(『世界に轟く大陽本の指揮者・実井正蔵、焼身自殺か』ねえ。そもそも亡くなった実井正蔵が有名人だったわけか)
大陽本の大物が衝撃の自殺と言われれば、そりゃあ大騒ぎにもなるはずだ。世間知らずだった唯助はまた一つ賢くなったなぁと思いつつ、本文へと目をやった。
いかにも人々の興味を引きつけそうな大仰な見出しの先で綴られていたのは、写真替わりの凄惨な焼け跡の様子であった。
長々と綴られた文章を要約すれば、出火元は実井正蔵の自宅から百メートルほど離れた林の中。炎は林全体に広がり、中に建っていた実井邸をも巻き込んで燃えた。消火活動もその分だけ長引いており、夏の火事にしてはかなり大規模であったことが伺える。炎の犠牲となった実井正蔵の遺体はその出火元にあり、火元から逃げようとした形跡、目立った外傷なども見られず、遺体の傍に手燭が落ちていたことなどから、自殺の可能性が高いと見られている。
また、彼の一人娘・寧々子も自宅に同居していたが、彼女の消息は不明。警察は重要参考人として彼女の行方を捜索している。お心当たりのある方は警察までご連絡を、というふうに、記事は締めくくられていた。
「……多分当たりかな」
唯助は自分にのみ聞こえる声で呟いた。
先ほどの帝国司書との会話も含め、自分が予想していたうちの一つが正解であったのだろうと頷いたのである。
――七本音音の正体は実井寧々子であること。その事実を三八が隠蔽する理由。
それは、実井寧々子を警察や世間から庇うため。音音の正体が実井寧々子であることが明るみに出れば、有名になってしまった事件の中枢にいる彼女はすぐさま警察の取調を受けることになるだろう。父親が亡くなった事件について根掘り葉掘り聞かれ、精神的に大きな傷を背負うことになる。
それだけではない。警察からの追及が終わったところで、今度は社会からの根深い追及が続く。人の不幸をネタにしようとする新聞記者、住んでいる地域の住人、なんの関係もない野次馬――大事件の関係者という称号は、それだけで人をよせつける、厄介極まりない烙印なのだ。
そんな重大な秘密を目的のために手段を選ばないような相手に握られて、言うことを聞かなければバラす、などと脅されればたまったものではない。三八が取った殺害という方法は、音音に降りかかった危険を未然に防ぐのに一番確実な手段だったのであろう。
「さて……これくらいの情報が揃えば使えるか?」
この新聞記事は、果たして実井邸の火災を読み解くための――ための鍵になり得るか……?
唯助は周囲の状況を一度確認する。周囲に唯助以外の人がおらず、帝国司書たちも特にこちらを気にしている様子がないことを確認する。
そして唯助は新聞記事に手で触れながら、念じるように目を閉じた。
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