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三章「焼け跡の記憶」
その二
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七本音音も譚を紡がれた一人である、という読みは当たった。椿井を頼れば紡がれた譚本の特定もそう困難ではない、という予想も当たった。
それでも、さすがは七本三八というべきか。そう簡単に譚本にたどり着かせるつもりはないということだ。
当然と言えば当然である。三八は実井寧々子の真実を隠し通すために、実父を殺害した。尊属殺人を犯せば極刑は免れない――それを分かったうえで、絶対にバレないカラクリを使って実行したのだ。実井寧々子を守るためなら、できうる限り、徹底的に手を打つ。それが七本三八だ。
「やっぱ、一番の問題はこれだよなぁ……」
『これじゃ手も足も出ないねぇ』
自働電話を後にした唯助は、賑わう藤京の街をとぼとぼと歩いていた。襟巻に化けているミツユキもだらりと落胆している。
その隣を歩く世助は、彼らの落ち込みぶりを察して背中をぽんぽん叩いていた。
「よく分からねえけど、調査のために見たい譚本が見られなくされちまってる……ってことでいいか?」
「あぁ。大本命の情報の在処を突き止めたってのに、手が出せない状態にされちまってる」
『こればっかりは私たちも手の打ちようがないね』
譚本を管理している帝国司書隊の隊員たちでも勝手に閲覧することが禁じられているのだから、帝国司書でさえない唯助ではどんなに頭を下げても無理だろう。
閲覧制限をかけた三八本人にそれを解くよう頼むという手段もあるが、やったところであの老獪が「はい分かりました」と了解してくれるとは考えにくい。
となると、残された手段は譚本を管理している帝国司書隊の責任者に交渉する……といったところだが。
「一般市民じゃ交渉すらさせてもらえないだろうなぁ。椿井さんも殉職者として扱われているから頼めないし」
手も足も出せない唯助は文字通り頭を抱え、手も足もそもそもないミツユキはもはやただの襟巻のように力なく頭を垂らしていた。
「つーか蒼樹郎さん、事前に手紙でも託してくれりゃおれが預かってきたのに。そうすりゃ電話なんて手のかかることしなくて済んだだろ」
「あー悪い、それはおれのほうからしないようにお願いしたんだ。仕事で知り得た情報はしっかり管理しとかないと、うちの信用問題にかかわっちまう」
「……ま、それならしかたねえか」
口をへの字に曲げる世助。かん、と手近な小石を蹴飛ばしているあたり、自分だけ弟に頼られなかったことが少々不満なようである。
「帝国司書隊と交渉できる人がいればまだ可能性はあるんだけどなぁ……」
「交渉、ねぇ……」
懊悩している唯助の横で、口をへの字に曲げたままの世助も考え込む。
そして、渋そうな顔で、少し躊躇いがちに小さく呟いた。
「……先生なら交渉はできるかも」
「『えっ?』」
途端、唯助の瞳に星のようにキラキラした輝きが浮かび上がる。襟巻のミツユキも今は顔がない状態だったが、顔があれば似たようなものだろう。期待に満ちた眼差しを若干引き気味に受けつつ、世助は「可能性の話だけど」と前置きして続けた。
「秋声先生はもう冤罪が晴れて、凍結されてた帝国司書の資格も復活してる。それにあの人、元々おっさんの右腕だし」
「あ!?」
思い出してみれば、そうである。
鷺原秋声こと尾前秋久は、帝国司書隊に所属していた現役時代の三八に一番近い存在である。
聞けば、彼は禁書回収部隊と並んで行動する、禁書衛生部隊の元隊長――元禁書回収部隊の総隊長であった七本三八の地位に匹敵する立場にいた人物だったとか。
交渉役としては申し分ない。
「ただ先生、帝国司書隊を完全に毛嫌いしてるからなぁ……協力してくれるかどうかってのが」
「それならおれが説得する! 説得っていうか拝み倒しでゴリ押すしかないんだけど」
それでも、せっかく見つけた希望の光を逃してなるものかと、唯助は身を乗り出すように言う。真正面からずいずいと言われた世助はそれに気圧されて、思わず一歩後退した。
「わ、分かったよ。じゃあ、おれからも先生に頼んでみるよ。どうせ先生のところに行く予定だったし、二人で頼んだ方が確率は上がるだろ」
「いいのか!」
喜色満面の唯助を見て、思わず笑いそうになる世助。
「本気になってる弟を助けねえ理由はねえだろ」
「兄貴ぃ~! お前のそういうとこほんと好き!!」
「分かった。街中ではしゃぐな」
そうは言いつつ、嬉しそうに抱きついてきた弟を宥める世助とて、満更でもないようだった。
*****
尾前秋久――かつての帝国司書隊にて、禁書医学界の第一線で活躍していた、元・禁書衛生部隊隊長。禁書医学の研究において数々の戦績を残した彼の名声が醜聞に転じたのは、今から約三十年前――帝国司書隊の内紛が起きてからである。
後に内部抗争の勝者となった八田家により、尾前家は反逆者の汚名を着せられることになった。反逆者の筆頭として挙げられていた人物の実弟であったこともあり、真面目に隊務をこなしていた当時の秋久はただ理不尽に割を食ったのである。
裏切り者の汚名を着せられた彼は、その後三十年間も帝国司書隊から追跡され続けていた。内部抗争で勝利を収めた八田家の当主・八田幽岳の執心はそれだけ根強いものであったのだ。
八田幽岳が鬼籍に入り、八田家の血も尾前家の血も継いでいない総統が新たに就任した今年の三月――ようやく彼の冤罪は晴らされ、自由を手にしたのである。
現在の彼は鷺原秋声という偽名のまま、同じ名前を掲げた診療所を営んでいる。本日は鷺原診療所の休診日であった。
唯助は世助に連れられながら、診療所の裏口までやって来ていた。
「あれ、郵便物いっぱい挟まってる。もしかして留守なんじゃ」
「いや、それなら掛札がしてあるはずだ。それがない時は絶対中にいる」
おそらく数日分は溜まっているであろう郵便物をポストから引っ張り出しつつ、世助が答える。差出人を見て「あーぁ、またか」と呟く彼の顔はもううんざりだと言わんばかりであった。
世助はポケットから取り出した合鍵で建物の裏口を開ける。白い壁材で塗り固められた内部の照明は一つもついていない。診療日であればまた違うのだろうが、患者のいない休診日の建物内は静まり返っていて、薄気味悪い。
「先生? 秋声先生?」
世助が声を上げるが、それに対する返答はなかった。数秒おいてから、世助は診療所へ足を踏み入れる。
「いいのか、勝手に入って」
「大丈夫。こうなると部屋まで行かなきゃ気づかねえんだ、先生」
唯助の心配をよそに、世助は建物の奥へ躊躇うことなく進んでいく。突き当たりの階段を登って二階に上がると、一室だけ明かりの漏れている部屋があった。
「先生? 聞こえてます? 秋声先生~?」
世助が大きめに扉をノックすると、ここに来てやっと、という感じで返答があった。
「はい」
実に淡々とした、味気のない返答であった。なにか聞こえたのでとりあえず反応だけはしておきましょう、という関心の薄さが丸出しの声である。
「失礼しまーす」
世助はそれを気にするふうでもなく、関心の薄い相手を特に気遣う感じもない所作でがちゃっと扉を開けた。
「久しぶり、秋声先生。お客さんだぜ」
「お客さん?」
お客さんと聞いてようやく、秋声は関心を示した。一心不乱に机上で書き物をしている秋声の後ろ姿が誰かさんに似ているなぁと思いつつ、同時に振り返った彼の顔を見て、唯助は仰天した。
「あぁ、唯助くん。こんにちは」
「こ、こんにちは……お久しぶりです」
味気ないどころか、陽気の欠片も感じられない顔面である。いや、秋声は明るい性格というわけでは決してないが、その無精髭と目の下に浮かんだ隈を見れば、一体どうしたんですかと言いたくもなろうものだ。
「すみませんね、一回熱中すると身嗜みを整えるのも面倒になってしまって。ご安心を、寝食は忘れておりませんので」
決して医者の不養生ではありませんよ、と笑っていいのか分からない冗談を付け加えながら、秋声は椅子から立ち上がった。
「あぁいえ、こちらこそ急に訪ねてきてすみません……」
伸びをしている秋声のどこから鳴っているのか分からないバキバキ音に引きながら、唯助は律儀に挨拶をした。
正直、意外である。唯助の知る彼といえば、三八とは対照的な印象が強かったからだ。長髪をキッチリと束ね、前髪は後ろへ撫でつけ、洋装と白衣をすっきりと着こなしていた彼は、ここにはいない。うっすら伸びた髭も剃らず、洋シャツの裾をズボンにしまうこともなく、髪の毛も邪魔にならなければいいやぐらいの雑さで結っているだけ。完全によそ行きを想定していない普段の彼の風貌は、これまでの唯助が抱いていた印象とはあまりにもかけ離れていた。
「なに驚いてんだよ。洋シャツの釦は先生だってキツいに決まってんだろ」
「まぁ、そりゃ……」
そう言われて、唯助の視線は自然と、秋声の胸元に行ってしまう。
白衣を纏っていない彼の肉体――薄い洋シャツの隙間から、鍛え上げられた秋声の筋肉が浮かび上がっている。意外と筋肉質だ。自分と世助も元柔術家だからある程度以上の筋肉をつけているが、秋声の肉体はそれどころではなかった。ネクタイをしていない彼の胸元は実に開放的で、おそらく、釦を掛けると弾け飛んでしまうからそうしているのだろう。ちょっとでも胸を張れば、今かろうじて止められている釦の悲鳴も聞こえてきそうな、逞しい胸板である。
「ところで先生。研究室からまた手紙来てたけど、どうする?」
「全部捨ててください。どうせろくでもない内容でしょう」
秋声は世助が見せた手紙には目もくれず、吐き捨てるように命じた。世助もそれは予想済みだったようで、はーいと返事をしながら躊躇なく傍にあったくずかごに投げ入れた。
「研究室って?」
「帝国司書隊にある禁書医学の研究室だよ。秋声先生の元職場。禁書士の資格が復活してから、戻って来いって手紙が何度も来てる」
冤罪とはいえ帝国司書隊の敵という不名誉極まりない汚名を着せられていたにもかかわらず、こうして何度も戻るよう言われているのはさすが秋声と言ったところか。禁書に関わってまだ日の浅い唯助は、彼の凄さを本質的には理解していないものの、非常に優秀な禁書医であることくらいは察している。
「やっぱり、先生が優秀だから戻ってきてほしいってことなのか?」
「まぁそれもあるんだろうけどなぁ」
「手紙の内容から察するに、僕の研究資料の方が目的なんでしょう」
「……あぁ」
唯助はそれで全てを察した。
秋声には謂れのない罪で長年追い回された恨みがあるし、その上『過去のことは水に流してくださいよ』と言わんばかりに手紙をよこされては腹も立つというものだ。手を取り合う気など起こりようもないし、秋声が帝国司書隊をますます毛嫌いするのもむべなるかな、というわけだ。
「冤罪で追い回されながらコツコツと溜めてきた資料ですよ。それを『これからは仲良くやろうじゃないか』なんて安い言葉で譲れと言うんです。冗談じゃありませんよ」
秋声はそんなふうに毒づきながら、乱れた髪をまた結び直している。
しかし、彼の中では少し言い過ぎたと思ったところもあったのか、
「総統の奥村君に対しては申し訳ない気持ちもありますがね」
と彼は付け加えた。
「奥村総統――元々は旦那と先生の部下、なんでしたっけ」
実は唯助は、その人物に一度だけ接触している。今年の一月――詳しい経緯は省くが、彼が帝国司書隊に助けを求めて駆け込んだ時に偶然対応したのが、当時の禁書回収部隊総隊長――現総統である奥村蒼兵衛だ。
「正確には八田光雪直属の部下ですよ。僕個人はそれほど彼と深い交流があったわけではありませんが、彼は僕の冤罪を晴らすのに一役買ってくれましたからね」
彼個人のことはむしろ好ましく思いますよ、と秋声は締めくくった。
「さて、僕の話はここらで置いておくとして……ひとまず、お客さんにお茶をお出しするとしましょうか」
*****
秋声の研究室の隣には、客人を迎えるために部屋が設けられていた。畳に座布団という様式で過ごしてきた唯助にとっては物珍しい、洋風のソファーが置かれている。そこへ座って待っているように指示され、腰を落ち着けて待つこと数分。秋声が茶器をのせたお盆を片手に戻ってくる。
「すみませんね、立派な食器がないものでして」
「いえ、お気遣いなく」
淹れ立ての緑茶が入っているその湯飲みには、うっすらとひび割れが見える。だが、客人の唯助に出されたの湯飲みは一番マシなもので、秋声と世助の湯飲みにはさらに大きいひび割れがあった。
「世助くんからサワリだけ聞きましたが、閲覧禁止になっている譚本を閲覧させてもらえるよう交渉してほしいと?」
早速、茶を啜りながら秋声が言う。唯助はそれにこくんと頷いた。
「無茶な相談なのは百も承知です。帝国司書隊が嫌いな先生にとっては迷惑な話だとも思っています。でも、なんとか自力で突き止めないと、先には進めないんです」
「なるほど」
秋声の藤色の瞳を真摯に見つめ、唯助は頭を深く下げる。それはもう、卓に額を擦りつけんばかりの懇願であった。
「お願いします、先生。どうか力を貸してもらえないでしょうか」
「いいですよ。引き受けましょう」
「ありがとうござ……って早ぁッ!?」
予想に反してあっさりと承諾した秋声の反応に、唯助も思わず声を裏返して叫んでしまった。世助もこの快諾にはさすがに驚いたようで、唯助に続いて下げようとしていた頭が中途半端に垂れたまま硬直している。
「じゃなくて、いいんですか!? 帝国司書隊にはあまり関わりたくないんじゃ……」
「ええ、関わりたくないですよ」
ぽかんと口を開けた二人に対し、秋声はけろりとした態度で茶を啜っている。
秋声が茶を入れたのは、交渉の件について話が長くなること想定していたのではなく、客人のもてなしという意味合いと、単に自分が飲みたかっただけのようである。
「けれど、若人の切実なお願いを個人のくだらない感情で断るわけにもいきませんからね。そういうことなら協力しましょう」
「あ、ありがとう、ございます……」
拝み倒しに使うつもりだった熱量が行き場を失ってしまい、唯助は空気の抜けたゴム風船のように脱力した。
が、そんな彼に、秋声は「ただし、」と続きを述べる。
「一つ協力してもらえませんか。僕の研究に」
「へっ……?」
脱力して理解が追いつかなくなってしまった唯助は、口を開けた阿呆面のまま返事をした。それがまた面白かったのか、先ほどから笑いをこらえていた秋声がついに失笑する。彼にしては珍しい表情であったが、唯助はそれを悪いものとは思わなかった。
ただ、唯助の首に巻きついていた彼にとっては――あまり心地のいいものではなかったようだった。
唯助が頷くよりも前に、襟巻に化けて大人しくしていた彼が、徐に頭を上げた。
それでも、さすがは七本三八というべきか。そう簡単に譚本にたどり着かせるつもりはないということだ。
当然と言えば当然である。三八は実井寧々子の真実を隠し通すために、実父を殺害した。尊属殺人を犯せば極刑は免れない――それを分かったうえで、絶対にバレないカラクリを使って実行したのだ。実井寧々子を守るためなら、できうる限り、徹底的に手を打つ。それが七本三八だ。
「やっぱ、一番の問題はこれだよなぁ……」
『これじゃ手も足も出ないねぇ』
自働電話を後にした唯助は、賑わう藤京の街をとぼとぼと歩いていた。襟巻に化けているミツユキもだらりと落胆している。
その隣を歩く世助は、彼らの落ち込みぶりを察して背中をぽんぽん叩いていた。
「よく分からねえけど、調査のために見たい譚本が見られなくされちまってる……ってことでいいか?」
「あぁ。大本命の情報の在処を突き止めたってのに、手が出せない状態にされちまってる」
『こればっかりは私たちも手の打ちようがないね』
譚本を管理している帝国司書隊の隊員たちでも勝手に閲覧することが禁じられているのだから、帝国司書でさえない唯助ではどんなに頭を下げても無理だろう。
閲覧制限をかけた三八本人にそれを解くよう頼むという手段もあるが、やったところであの老獪が「はい分かりました」と了解してくれるとは考えにくい。
となると、残された手段は譚本を管理している帝国司書隊の責任者に交渉する……といったところだが。
「一般市民じゃ交渉すらさせてもらえないだろうなぁ。椿井さんも殉職者として扱われているから頼めないし」
手も足も出せない唯助は文字通り頭を抱え、手も足もそもそもないミツユキはもはやただの襟巻のように力なく頭を垂らしていた。
「つーか蒼樹郎さん、事前に手紙でも託してくれりゃおれが預かってきたのに。そうすりゃ電話なんて手のかかることしなくて済んだだろ」
「あー悪い、それはおれのほうからしないようにお願いしたんだ。仕事で知り得た情報はしっかり管理しとかないと、うちの信用問題にかかわっちまう」
「……ま、それならしかたねえか」
口をへの字に曲げる世助。かん、と手近な小石を蹴飛ばしているあたり、自分だけ弟に頼られなかったことが少々不満なようである。
「帝国司書隊と交渉できる人がいればまだ可能性はあるんだけどなぁ……」
「交渉、ねぇ……」
懊悩している唯助の横で、口をへの字に曲げたままの世助も考え込む。
そして、渋そうな顔で、少し躊躇いがちに小さく呟いた。
「……先生なら交渉はできるかも」
「『えっ?』」
途端、唯助の瞳に星のようにキラキラした輝きが浮かび上がる。襟巻のミツユキも今は顔がない状態だったが、顔があれば似たようなものだろう。期待に満ちた眼差しを若干引き気味に受けつつ、世助は「可能性の話だけど」と前置きして続けた。
「秋声先生はもう冤罪が晴れて、凍結されてた帝国司書の資格も復活してる。それにあの人、元々おっさんの右腕だし」
「あ!?」
思い出してみれば、そうである。
鷺原秋声こと尾前秋久は、帝国司書隊に所属していた現役時代の三八に一番近い存在である。
聞けば、彼は禁書回収部隊と並んで行動する、禁書衛生部隊の元隊長――元禁書回収部隊の総隊長であった七本三八の地位に匹敵する立場にいた人物だったとか。
交渉役としては申し分ない。
「ただ先生、帝国司書隊を完全に毛嫌いしてるからなぁ……協力してくれるかどうかってのが」
「それならおれが説得する! 説得っていうか拝み倒しでゴリ押すしかないんだけど」
それでも、せっかく見つけた希望の光を逃してなるものかと、唯助は身を乗り出すように言う。真正面からずいずいと言われた世助はそれに気圧されて、思わず一歩後退した。
「わ、分かったよ。じゃあ、おれからも先生に頼んでみるよ。どうせ先生のところに行く予定だったし、二人で頼んだ方が確率は上がるだろ」
「いいのか!」
喜色満面の唯助を見て、思わず笑いそうになる世助。
「本気になってる弟を助けねえ理由はねえだろ」
「兄貴ぃ~! お前のそういうとこほんと好き!!」
「分かった。街中ではしゃぐな」
そうは言いつつ、嬉しそうに抱きついてきた弟を宥める世助とて、満更でもないようだった。
*****
尾前秋久――かつての帝国司書隊にて、禁書医学界の第一線で活躍していた、元・禁書衛生部隊隊長。禁書医学の研究において数々の戦績を残した彼の名声が醜聞に転じたのは、今から約三十年前――帝国司書隊の内紛が起きてからである。
後に内部抗争の勝者となった八田家により、尾前家は反逆者の汚名を着せられることになった。反逆者の筆頭として挙げられていた人物の実弟であったこともあり、真面目に隊務をこなしていた当時の秋久はただ理不尽に割を食ったのである。
裏切り者の汚名を着せられた彼は、その後三十年間も帝国司書隊から追跡され続けていた。内部抗争で勝利を収めた八田家の当主・八田幽岳の執心はそれだけ根強いものであったのだ。
八田幽岳が鬼籍に入り、八田家の血も尾前家の血も継いでいない総統が新たに就任した今年の三月――ようやく彼の冤罪は晴らされ、自由を手にしたのである。
現在の彼は鷺原秋声という偽名のまま、同じ名前を掲げた診療所を営んでいる。本日は鷺原診療所の休診日であった。
唯助は世助に連れられながら、診療所の裏口までやって来ていた。
「あれ、郵便物いっぱい挟まってる。もしかして留守なんじゃ」
「いや、それなら掛札がしてあるはずだ。それがない時は絶対中にいる」
おそらく数日分は溜まっているであろう郵便物をポストから引っ張り出しつつ、世助が答える。差出人を見て「あーぁ、またか」と呟く彼の顔はもううんざりだと言わんばかりであった。
世助はポケットから取り出した合鍵で建物の裏口を開ける。白い壁材で塗り固められた内部の照明は一つもついていない。診療日であればまた違うのだろうが、患者のいない休診日の建物内は静まり返っていて、薄気味悪い。
「先生? 秋声先生?」
世助が声を上げるが、それに対する返答はなかった。数秒おいてから、世助は診療所へ足を踏み入れる。
「いいのか、勝手に入って」
「大丈夫。こうなると部屋まで行かなきゃ気づかねえんだ、先生」
唯助の心配をよそに、世助は建物の奥へ躊躇うことなく進んでいく。突き当たりの階段を登って二階に上がると、一室だけ明かりの漏れている部屋があった。
「先生? 聞こえてます? 秋声先生~?」
世助が大きめに扉をノックすると、ここに来てやっと、という感じで返答があった。
「はい」
実に淡々とした、味気のない返答であった。なにか聞こえたのでとりあえず反応だけはしておきましょう、という関心の薄さが丸出しの声である。
「失礼しまーす」
世助はそれを気にするふうでもなく、関心の薄い相手を特に気遣う感じもない所作でがちゃっと扉を開けた。
「久しぶり、秋声先生。お客さんだぜ」
「お客さん?」
お客さんと聞いてようやく、秋声は関心を示した。一心不乱に机上で書き物をしている秋声の後ろ姿が誰かさんに似ているなぁと思いつつ、同時に振り返った彼の顔を見て、唯助は仰天した。
「あぁ、唯助くん。こんにちは」
「こ、こんにちは……お久しぶりです」
味気ないどころか、陽気の欠片も感じられない顔面である。いや、秋声は明るい性格というわけでは決してないが、その無精髭と目の下に浮かんだ隈を見れば、一体どうしたんですかと言いたくもなろうものだ。
「すみませんね、一回熱中すると身嗜みを整えるのも面倒になってしまって。ご安心を、寝食は忘れておりませんので」
決して医者の不養生ではありませんよ、と笑っていいのか分からない冗談を付け加えながら、秋声は椅子から立ち上がった。
「あぁいえ、こちらこそ急に訪ねてきてすみません……」
伸びをしている秋声のどこから鳴っているのか分からないバキバキ音に引きながら、唯助は律儀に挨拶をした。
正直、意外である。唯助の知る彼といえば、三八とは対照的な印象が強かったからだ。長髪をキッチリと束ね、前髪は後ろへ撫でつけ、洋装と白衣をすっきりと着こなしていた彼は、ここにはいない。うっすら伸びた髭も剃らず、洋シャツの裾をズボンにしまうこともなく、髪の毛も邪魔にならなければいいやぐらいの雑さで結っているだけ。完全によそ行きを想定していない普段の彼の風貌は、これまでの唯助が抱いていた印象とはあまりにもかけ離れていた。
「なに驚いてんだよ。洋シャツの釦は先生だってキツいに決まってんだろ」
「まぁ、そりゃ……」
そう言われて、唯助の視線は自然と、秋声の胸元に行ってしまう。
白衣を纏っていない彼の肉体――薄い洋シャツの隙間から、鍛え上げられた秋声の筋肉が浮かび上がっている。意外と筋肉質だ。自分と世助も元柔術家だからある程度以上の筋肉をつけているが、秋声の肉体はそれどころではなかった。ネクタイをしていない彼の胸元は実に開放的で、おそらく、釦を掛けると弾け飛んでしまうからそうしているのだろう。ちょっとでも胸を張れば、今かろうじて止められている釦の悲鳴も聞こえてきそうな、逞しい胸板である。
「ところで先生。研究室からまた手紙来てたけど、どうする?」
「全部捨ててください。どうせろくでもない内容でしょう」
秋声は世助が見せた手紙には目もくれず、吐き捨てるように命じた。世助もそれは予想済みだったようで、はーいと返事をしながら躊躇なく傍にあったくずかごに投げ入れた。
「研究室って?」
「帝国司書隊にある禁書医学の研究室だよ。秋声先生の元職場。禁書士の資格が復活してから、戻って来いって手紙が何度も来てる」
冤罪とはいえ帝国司書隊の敵という不名誉極まりない汚名を着せられていたにもかかわらず、こうして何度も戻るよう言われているのはさすが秋声と言ったところか。禁書に関わってまだ日の浅い唯助は、彼の凄さを本質的には理解していないものの、非常に優秀な禁書医であることくらいは察している。
「やっぱり、先生が優秀だから戻ってきてほしいってことなのか?」
「まぁそれもあるんだろうけどなぁ」
「手紙の内容から察するに、僕の研究資料の方が目的なんでしょう」
「……あぁ」
唯助はそれで全てを察した。
秋声には謂れのない罪で長年追い回された恨みがあるし、その上『過去のことは水に流してくださいよ』と言わんばかりに手紙をよこされては腹も立つというものだ。手を取り合う気など起こりようもないし、秋声が帝国司書隊をますます毛嫌いするのもむべなるかな、というわけだ。
「冤罪で追い回されながらコツコツと溜めてきた資料ですよ。それを『これからは仲良くやろうじゃないか』なんて安い言葉で譲れと言うんです。冗談じゃありませんよ」
秋声はそんなふうに毒づきながら、乱れた髪をまた結び直している。
しかし、彼の中では少し言い過ぎたと思ったところもあったのか、
「総統の奥村君に対しては申し訳ない気持ちもありますがね」
と彼は付け加えた。
「奥村総統――元々は旦那と先生の部下、なんでしたっけ」
実は唯助は、その人物に一度だけ接触している。今年の一月――詳しい経緯は省くが、彼が帝国司書隊に助けを求めて駆け込んだ時に偶然対応したのが、当時の禁書回収部隊総隊長――現総統である奥村蒼兵衛だ。
「正確には八田光雪直属の部下ですよ。僕個人はそれほど彼と深い交流があったわけではありませんが、彼は僕の冤罪を晴らすのに一役買ってくれましたからね」
彼個人のことはむしろ好ましく思いますよ、と秋声は締めくくった。
「さて、僕の話はここらで置いておくとして……ひとまず、お客さんにお茶をお出しするとしましょうか」
*****
秋声の研究室の隣には、客人を迎えるために部屋が設けられていた。畳に座布団という様式で過ごしてきた唯助にとっては物珍しい、洋風のソファーが置かれている。そこへ座って待っているように指示され、腰を落ち着けて待つこと数分。秋声が茶器をのせたお盆を片手に戻ってくる。
「すみませんね、立派な食器がないものでして」
「いえ、お気遣いなく」
淹れ立ての緑茶が入っているその湯飲みには、うっすらとひび割れが見える。だが、客人の唯助に出されたの湯飲みは一番マシなもので、秋声と世助の湯飲みにはさらに大きいひび割れがあった。
「世助くんからサワリだけ聞きましたが、閲覧禁止になっている譚本を閲覧させてもらえるよう交渉してほしいと?」
早速、茶を啜りながら秋声が言う。唯助はそれにこくんと頷いた。
「無茶な相談なのは百も承知です。帝国司書隊が嫌いな先生にとっては迷惑な話だとも思っています。でも、なんとか自力で突き止めないと、先には進めないんです」
「なるほど」
秋声の藤色の瞳を真摯に見つめ、唯助は頭を深く下げる。それはもう、卓に額を擦りつけんばかりの懇願であった。
「お願いします、先生。どうか力を貸してもらえないでしょうか」
「いいですよ。引き受けましょう」
「ありがとうござ……って早ぁッ!?」
予想に反してあっさりと承諾した秋声の反応に、唯助も思わず声を裏返して叫んでしまった。世助もこの快諾にはさすがに驚いたようで、唯助に続いて下げようとしていた頭が中途半端に垂れたまま硬直している。
「じゃなくて、いいんですか!? 帝国司書隊にはあまり関わりたくないんじゃ……」
「ええ、関わりたくないですよ」
ぽかんと口を開けた二人に対し、秋声はけろりとした態度で茶を啜っている。
秋声が茶を入れたのは、交渉の件について話が長くなること想定していたのではなく、客人のもてなしという意味合いと、単に自分が飲みたかっただけのようである。
「けれど、若人の切実なお願いを個人のくだらない感情で断るわけにもいきませんからね。そういうことなら協力しましょう」
「あ、ありがとう、ございます……」
拝み倒しに使うつもりだった熱量が行き場を失ってしまい、唯助は空気の抜けたゴム風船のように脱力した。
が、そんな彼に、秋声は「ただし、」と続きを述べる。
「一つ協力してもらえませんか。僕の研究に」
「へっ……?」
脱力して理解が追いつかなくなってしまった唯助は、口を開けた阿呆面のまま返事をした。それがまた面白かったのか、先ほどから笑いをこらえていた秋声がついに失笑する。彼にしては珍しい表情であったが、唯助はそれを悪いものとは思わなかった。
ただ、唯助の首に巻きついていた彼にとっては――あまり心地のいいものではなかったようだった。
唯助が頷くよりも前に、襟巻に化けて大人しくしていた彼が、徐に頭を上げた。
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