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三章「焼け跡の記憶」

その三

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それまで大人しくしていた彼は、この地に降り立って初めて変身を解いた。否――変身を解いたというより、別のものに変身したというべきか。
勿論、秋声は自分と双子以外にもう一人いたことには気づいていなかったし、それまでただの襟巻だと思っていたモノが独りでに動き出したのにも仰天していた。
「ミツユキ?」
黒い襟巻から黒い蛇へ、黒い蛇から黒い人影へ、真っ黒な彼は徐々に形を変えていく。そして彼は、最終的に秋声もよく知る姿に化けた。
「八田、光雪……」
「やあ、久しぶり。尾前秋久――否、鷺原秋声」
先ほどまでのお気楽なお兄ちゃん、という感じの態度ではなかった。ミツユキは、なにやら剣呑な雰囲気を漂わせていた。そんな彼に、秋声はただ呆気に取られていた。三十年前に別れたはずの盟友が当時の姿のまま目の前に立っているようなものだから、そうなるのも無理はない。
「…………えぇと、すみません。その前に、貴方は誰ですか?」
困惑しても取り乱さずに質問できるあたり、さすがの冷静さである。秋声はとりあえずこの混乱の原因をどうにかしようと、かつての盟友の姿をした彼に問いかけた。
「あー、と。おれもちょっと理解するのに時間がかかったんだけどよ」
秋声ほどではないにしろ、同じく戸惑っている様子の世助が手を挙げる。
「こいつは『糜爛の処女』の毒で、いつもおっさんの影から生えてたあの蛇、らしいぜ」
「『糜爛の処女』? 貴方、喋ることができたんですか」
実は藤京に着いてから自働電話に行く間、世助にも前もって事情を説明していたのだが、まあ当たり前というべきか、世助も困惑して混乱して、理解するまでに時間を要したものだ。
それもそのはず、秋声と世助の中で『糜爛の処女』の印象は、七本三八の影から生えている真っ黒な蛇の姿で固定化されていたからだ。彼らはミツユキに変身能力があること自体は知っていたが、喋る能力まで有していたことは知らなかったのである。
「八田光雪の過去を封印する、という使命のためにも、私はこれまで一切喋ることができなかったからね。もうその役目は終えたわけだし、今はこうして昔の主の姿を借りて話してるってわけ」
「つまり、貴方は八田光雪の譚から生まれた禁書『糜爛の処女』の毒で、その姿は譚の持ち主である八田光雪から形成されていて、それゆえに唯助くんからは『ミツユキ』と呼ばれている、ということでよろしいですか?」
「……理解が早くて助かるよ。ちょっと驚いた」
ちなみに、世助はこれを理解するまでに二倍以上の時間がかかっていた。世助と秋声では知識量の差もあるから致し方あるまい。
「話を戻すけどよ、ミツユキ? なんで今出てきたんだ、お前。話ややこしくなっちまうだろ」
唯助が問うと、ミツユキは秋声に視線を向けたまま言う。
「彼に何をする気?」
明らかに威嚇するような声だった。少なくとも秋声はミツユキにとって敵ではないはずなのだが、ミツユキから滲み出る気配は天敵を前にした獣のそれに似て、実に不穏なものだ。その不穏さは彼が庇っている唯助の方を却って萎縮させており、対して威嚇している秋声は欠片も怯んでいないようだった。
「そう警戒せずとも、薬を使ったり、解剖したり、彼の体に害を与えるようなことはしませんよ。ただ、血液を少し分けてもらいたいのです」
「血液? おれのですか?」
「ええ。愛子である貴方の血液を採取させていただきたいのです」
血を採られる、というのは唯助には初めての経験であった。そもそも学のない上まだ世間知らずの部類に入る唯助である。採血とは具体的に何をされるのかよく分からなかったため、彼は少しばかり身を強張らせていた。そんな彼を見かねて、世助が横から注釈を入れる。
「心配すんな。細い注射針を刺して軽く血を抜くだけだ。貧血にならない量しか取らねぇし、なったとしても暫く安静にしてりゃ回復する」
「その目的は?」
その程度なら、と唯助は胸をなで下ろしていたが、ミツユキの警戒心はそれでは解けなかった。そんなミツユキに「随分用心深いですね」と呟きながら、秋声は更に説明をつけ加える。
「その血を使って実験したり、顕微鏡で細かく観察したりするんです」
秋声は腰を落ち着けていたソファから立ち上がると、一度部屋を後にする。一分と経たずに戻ってきた彼の手には、赤黒い液体の入った小瓶と、紙の束があった。
「愛子の血液から禁書の毒を治療する薬ができないか、と考えていまして。まだ机上の空論ですが、実は既に三八には協力してもらっています。他にも数名、大陽本国内で確認されている愛子の方にも」
秋声は赤黒い液体が入った小瓶を見せる。小瓶には小さいラベルが貼っており、識別番号のような独特な記号が記載されている。既に協力している三八の血清、ということだろう。
「どうしても不安だと言うなら無理強いはしません。ですが、もし禁書の毒を解毒できる薬が開発できれば、椿井さんのような禁書の毒の被害を受けてしまった方をより良い方法で助けることができるかもしれない。僕はそのために研究をしているのです」
「その情報はどう管理しているの?」
またも、ミツユキが口を挟む。先ほどから疑り深い態度ばかり見せているが、ミツユキは一体何を考え、何を危惧しているのだろう? と唯助は内心で首を傾げていた。
秋声のほうは、ミツユキの危惧する何かを察していたようだった。
「情報漏洩が気になるのですか」
「勿論。だって、帝国司書隊が君に戻れとしつこく言ってきている一番の理由は、愛子に関する情報が欲しいからなんだろう」
「……!」
「え?」
予想だにしなかった発言に、唯助は思わず驚愕をそのまま声に出した。同時に、秋声の双眸も僅かに開かれる。
「さっき、君の研究室の本棚に洋書があったよね。遠目だったけど、あれは先天干渉者や愛子について記載された禁書医学の術本だ。海外では既にその分野の研究が進められているって証拠。
そしてそれに追いつこうとしている大陽本の医学者も、愛子について精力的に研究している。大陽本での禁書医学は、海外よりもかなり遅れているからね。国家組織である帝国司書隊が研究してないわけがない」
「……よくご存知で」
秋声はそれだけ言って、再び沈黙した。まだ何か言いたげなミツユキの話を傾聴するつもりなのだろう。ミツユキもそれを汲み、話を続ける。
「愛子のことを研究するにあたっては当然、愛子の検体が必要になる。けれど、そもそも愛子は希少な存在だし、この大陽本にも指で数えられるほどしかいない。帝国司書隊は検体を集めるために、まだ未確認の愛子も含めて、情報収集に必死なわけだ。
だから、君が手に入れた愛子に関する情報を寄越せ。そして調査した内容も全部見せろ。そう言ってきているわけだ。違う?」
ミツユキの推論を聴き終えた秋声は、ふう、と息を一つつくと、完敗とばかりにひらりと両手を上げた。
「ご明察です。そこまでわかった上で警戒しているなら、黙っている意味はありませんね」
やっぱりね、と小さく言うミツユキ。
しかし、唯助はおずおずと、控えめに手を挙げる。
「え、えっと、すみません。おれは何が何だかさっぱり……」
申し訳なさそうに説明を求める彼の頭上には疑問符がいくつも浮かんでいた。なぜミツユキがここまで険しい顔をしているのか、その理由もなかなか突拍子のないものなので、彼はまだ理解できていないのだ。
「要するに、彼は唯助くんの身を案じているのですよ。帝国司書隊の研究班に情報が漏洩することで、貴方に被害が及ばないか。さらに単刀直入に言うなら――、とかね」
「!?」
寝耳に水、とばかりに、唯助は強い衝撃を受ける。
「貴方がたに余計な心配をさせたくなかったのですが、徒労のようですね。
勿論、僕もそれを案じています。帝国司書隊の研究班には、一部とんでもない奴らがいますからね。ですので、そいつらに情報を良いようにされないためにも、研究資料にはすべて細工がしてあります。これはほんの一部です。確認を」
秋声は小瓶を引っ込め、今度は紙の束を二人に見せる。唯助は紙の束を受け取り、中身を見るなり
「へっ? な、なにこれ?」
とさらに困惑した表情を見せる。隣に立っていたミツユキもそれを覗き込むなり、
「えっ??」
と、それまでの剣呑さと真逆の間抜けな声をあげた。
「本当に、これが愛子の研究資料……?」
疑わしげに、とはいっても、先ほどのような詰め寄る態度ではなく、本当にこれでいいのか? という当惑をぶつけているような声音であった。
「ええ、本物ですよ。これはCamouflageカモフラージュというやつです。用語を全て暗号化して、まるで違うもののように見せかけています」
「はあ、それはまた……」
まじまじと覗き込むミツユキと唯助が全く同じ表情をしているもので、それを見た世助が「まあそうなるわな」と笑いを堪えながら言う。
「どうです。これなら仮に研究資料を盗もうとする輩がいたとしても、愛子の研究資料と気づかれないでしょう? 研究に協力しても唯助くんに害はなく、個人情報も細工した上でしっかり管理しています。不安要素はまだありますか?」
世助に半ばつられるような形で、秋声もにやにやと可笑しそうに笑っている。
「いや、これだったらまあ、私から言うことは何も」
「おれも構いませんよ。血を提供するくらいならお易い御用です」
「ならば契約成立です」
秋声は満足とばかりに残りの茶を飲み干し、ソファから立ち上がった。
「明日、中央図書館に行くついでに交渉してきます。長旅でお疲れでしょう。ここは好きに使ってください」

*****

「――で、今日も動くわけ?」
忙しねえ奴、と世助はもはや呆れ返っていた。
その横で、朝食を済ませた唯助が早々に外出の支度をしている。
「あぁ、早いとこ済ませて解決したいからな」
嫌なことは早めに終わらせるに限るし、という部分は口に出さず、唯助は肩より長い茶髪を簪でまとめあげる。
「秋声先生はもう行ったのか?」
「あぁ。中央図書館に行くなら、人が少ない朝のほうが良いってよ」
「あー確かに先生、人混みは嫌いそうだもんな」
「それもあるけど、できるだけ帝国司書隊の奴とすれ違いたくねぇんだろ」
「……筋金入りだな」
帝国司書隊を離れて三十年も経過していれば、顔見知りなんてほとんどいないだろうに。よほど見たくない顔があるのか、それとももはや隊服を見るだけでも嫌なのか。まあ、彼が抱いている積年の恨みを思えば、どちらでも納得できるか。
「誰に交渉するんだろうな、先生」
一応、世助に席を外してもらってから、改めて詳細は伝えた。譚本『空の鳥かご』の名、その本に漆本蜜が深く関わっていること、漆本蜜によって閲覧制限がかけられていることも。唯助としては秋声が誰と交渉するべきかが問題であったが、秋声はそれらを聞くとすぐに合点し、あとは任せなさいと返しただけだった。
「さてな。でも、任せろって言われたなら任せていいんじゃねえの。先生ならヘマはしねえよ」
「まあ、それもそうか」
「それで、お前は何しに行くわけ?」
「ちょっと行きたいところがある。元々そこに行くことも目的の一つだったからな」
「行き先も内緒か?」
「ごめん。個人情報だから」
「へえへえ、分かりましたよ。おれは留守番だな」
昨日の電話のことについてもそうだったが、世助はずっと拗ねている。その表情は、図書館に行く時に置いていかれたことを怒っていたミツユキにそっくりである。自分も秋声や椿井のように協力したいのに、自分だけ可愛い弟から頼ってもらえていないようで、寂しいのだ。
なので、そんな兄の機嫌を取るために、唯助は悪戯っぽく話しかけた。
「なぁ世助。そういえば、進展はしたの?」
「あ?」
「リツさんとだよ、仲良くなれた?」
唯助が口角を上げながら言う。
世助は予想だにしなかった弟の発言に、必要以上の大声で反応した。
「て、てめえッ!! なんで知ってんだッ!?」
唐突な爆弾投下に、首がもげそうな勢いで振り向いたその顔は一気に紅潮して、紫蘇しそで漬けた梅干のような色をしている。この一瞬で世助の体の汗腺という汗腺からは汗が噴き出しているし、握られた拳はわなわなと震えている。なかなかベタすぎる動揺の仕方だった。
「兄貴の好みは弟のおれが一番知ってる。リツさん超美人だもんな、おっぱいデカいし」
「最後の発言は余計だろ!!」
その言い方では、まるで自分がおっぱいの大きさで女を判断している助兵衛親父みたいじゃないか。そんなの心外である、と世助は髪を逆立てて叫んでいた。
「じゃあどういうところが好きなわけ?」
「うるせえ、教えるか! 個人情報だ!!」
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