上 下
19 / 27
四章「崩れた少女」

その四

しおりを挟む
――予想外だったとは言わない。実井邸で覗いた譚から察するに、実井正蔵も心の病を患っていた。そこまでは分かっていたが、今覗いた情報を加味すれば、娘より正蔵のほうがよほど重症だったのだろう。寧々子はそれに引きずられる形で心を病んでいた可能性が高い。しかしながら、これは正蔵と寧々子が親子として共に想いあっていたという事実の裏付けにもなるだろう。「娘を守らなければ」という彼の発言も心眼で見た内容と一致するし、行為そのものが正しいか否かはさておき、実井正蔵の娘を想う気持ちは本物だったに違いない。唯助はそう結論づけた。娘が眠っている部屋に外から鍵をかけるというのは、なかなかに常軌を逸しているけれど――
というところまで来て、唯助はふと思い出す。正蔵が手紙を持って泣き崩れていた、あの女性の部屋は、と思い当たる。娘の部屋の鍵を持っていたことを考えると、正蔵は寧々子の部屋に自由に出入りできたということになる。だとすれば、あれは実井寧々子の部屋だったという可能性も十分考えられる。彼女の目を盗んで部屋を物色し、泣くほど嫌なものを見て、心が歪んでしまった……という線も出てくるだろう。
だが、そこからどうやって「娘を守らねば」という発言に繋がるのだろうか。そのあたりはやはり精査しなければなるまい。
唯助は文字を追っていた手をもう一度動かし、続きを読み進めた。

*****

S氏に、ひいては彼とお嬢さんの身に何があったのか――私はできるだけそれを解き明かそうとした。しかし、これはお嬢さんの心を開かせるよりも困難を極めた。
まず第一に、S氏は私との対話を拒んでしまっていた。お嬢さんの部屋に鍵がかけられているのを目撃したあの夜も、結局まともに会話できなかった。お嬢さんのことしか考えられず、冷静さを欠いて噛み付いてしまった私の落ち度としか言いようがない。S氏は完全に私を敵と認識しているようだった。
そして、S氏の狂気を当のお嬢さんに悟られるのもまずい。それを知ってしまったお嬢さんの心境を思うだけで心が痛いし、お嬢さんに不安を与えては治療どころではなくなってしまう。
だから、その時の私がとれた手段といえば、S氏の目を盗んで彼の日記などを探ること(かなり強引だが)、お嬢さんから気取られぬよう情報を引き出すことくらいだった。

一方で、私はあえて触れずにはいたものの、気になっていたことがあった。お嬢さんの母親、S氏の奥さんのことについてである。
二人の話では、お嬢さんがまだ幼い頃に亡くなったということだったが、それにしてもこの一家の『母親』の話題が、不自然なほどに二人の口からのぼらないのである。お嬢さんは優しい人だったと一度だけ口にしたが、それ以上のことは何も言わなかった。思い出話をして懐かしさに浸ろうという感じさえしない。私でなくとも、これには誰もが違和感を抱くだろう。それくらい不自然なのだ。
恐らく、S氏とお嬢さんの現状には、この『母親』の存在が少なからず影響している。私はそう確信した。

私が推測を立てたその晩のことである。虫の知らせだった。私は虫の知らせでお嬢さんの部屋に向かった。何を見たわけでも、何を聞いたわけでも、何を予感したわけでもなかったが、私の心臓は早鐘を打っており、それに合わせて足が勝手に動いていた。
衝動に突き動かされるままお嬢さんの部屋に向かうと、扉の向こうは既に騒がしかった。私の幻聴などではなく、現に発生している音である。
慌ただしく軋む木材の音。
押さえつけられながらもなお漏れる声のような音。
そして、中にいたS氏の「許しておくれ」という切迫した声が、何より決定的に、私の手を動かした。
「お嬢さん!!」
私はドアノブを捻りながら叫んだ。部屋に飛び込むつもりで前に体重をかけていたが、どうやら内側から鍵をかけられていたようで、私の肩は大きな音を立てながら扉に衝突する。
「お嬢さん、無事か!! 返事をしてくれ!!」
手遅れになっていないことを切に祈りながら、私はお嬢さんに呼びかけた。
「た、助けて!!」
数瞬置いて、やっと聞こえたお嬢さんの声を、私は聞き逃さなかった。
私は全体重をかけて、部屋の扉を強引に破った。火事場の馬鹿力も侮れないもので、非力な私からは想像もできない威力の体当たりであった。
「どういうことだ! なぜ貴方がお嬢さんを襲っているのだ!」
私の口から、なめらかにそんな台詞が出てきた。驚く間もなく、呆気にとられる間もなく、動揺でつっかえることもなく。否、動揺は多少していたのかもしれないが、それにしたって、私は心のどこかでこの展開を予想していたのだろう。そしてそれは、一番実現して欲しくない展開であった。
中にいたS氏の右手には、刃物が握られていた。部屋の奥にある寝台にはS氏に押さえつけられたお嬢さんがいて、青ざめた顔で私を見ていた。
「貴様のせいだ! 貴様がこの子を拐かそうとするから!」
激昂したS氏は、握った刃物を振り上げ、私に襲いかかってきた。
「逃げなさい!」
S氏がお嬢さんから離れた隙に、私は彼女を促した。非力だろうが、お嬢さんが逃げるだけの時間は稼がねばなるまい。私は必死にS氏の腕を掴んで、そのまま揉み合いになった。

お嬢さんがやっとの思いで逃げ出してから、私もS氏を振り切って、屋敷の軒下まで逃げていたお嬢さんに追いつく。お嬢さんは屋敷の周囲の林をどう抜ければいいかも分からず困惑していたようで、私は彼女の手を引いて、来た道を思い出しながら走った。
とはいえ、夜はとっくに更けている。暗闇の林の中を走り抜けているうちに、どんどん方角がわからなくなってきてしまった。走り続けるお嬢さんの体力も、次第に限界に近づいていく。足がもつれるたびに、彼女はS氏に追いつかれる恐怖に駆られているようだった。
私は一度足を止め、林の草陰に身を隠し、やり過ごすことにした。最悪、自分が死んでも彼女だけは死なせてはならないという使命感を抱いていた。

*****

「うっ!?」
本を読み進めていた唯助は突然、爆発的な頭痛に襲われた。文字通り、脳の細胞一つ一つが痛みを伴って爆発していくようなこの感覚を、彼は確かに覚えている。
ここは、この譚は――
唯助の気づきに対して答え合わせをするように、怨嗟と執着を帯びた台詞が耳に飛び込んでくる。
「寧々子を、返せぇぇぇ!!」
唯助がはっと気づいた時には、すぐ目の前に男がいた。血走った目が目と鼻の先に迫っていたため、さしもの唯助もこれには「うわッ」と驚いた。しかし、男は唯助のことを意にも介さず、その体をすり抜けて一直線に突っ走っていく。
(おれの体をすり抜けた……ってことは)
やはり、ここは心眼の世界。読み解いた先の先。深淵の深淵。唯助が行なっていた『空の鳥かご』の読み解きが、極致に達した証だった。
「くそッ!」
狂気に満ちた男――実井正蔵が駆け抜けた先から、無念千万とばかりの声が聞こえる。唯助は、弾かれたように振り返った。
「残念だよ、正蔵殿。貴方がた親子の譚を、こんな形で締めくくりたくなかった」
その先にいたのは、長い前髪で両目を隠した――若かりし頃の三八であった。正蔵の手が今にも三八に触れそうになったその瞬間、三八が手にしていた物体が眩い光を放つ。
眩い光に照らされた三八の表情は、唯助が見てきた彼の表情の中でも特に悲しげで、特に悔しげなものだった。
(ひょっとして、『空の鳥かご』が紡がれた場面か?)
眩い光は、唯助が目にした『空の鳥かご』原本の装丁と、全く同じ色をしていた。炎のようにも見える鮮紅色の光――それらが糸のようにほつれて三八の手に集まると、一冊の本になった。同時に、それまで熱暴走を起こしたかのように突進していた正蔵が、その場に崩れ落ちた。
「お父様? お父様!」
突然膝をついたまま動かなくなった正蔵を、少女の声が呼ぶ。三八に庇われてずっと後ろにいた、実井寧々子であった。
寧々子は父の身になにがあったのか分からないまま、ただ困惑していた。だが、傍観していた唯助は、実際に目にするのは初めてであったものの、その事象が何かは理解していた。
――譚本作家が犯してはならない禁忌の一つ。“譚殺し”。当事者の譚を、強制的に締めくくること。
唯助の眼に映ったのは、稀代の譚本作家と呼ばれた漆本蜜の、作家としてあるまじき行為だった。
「逃げるよ、お嬢さん」
三八は父親をゆり起こそうとする寧々子の手を引く。正蔵が駆けてきた方を見れば、既に火の手が上がっていた。彼が持っていたとされる手燭の火が、周囲の草木に燃え移ったのだろう。火の手は徐々に彼らの方へ迫っていた。
「で、でも、お父様が……」
その場から動く気配のない父親を心配する寧々子だったが、三八は残酷にも、首を横に振る。
「君だけでも、小生は手一杯だ」
当然、寧々子がそんな非情な判断を受け入れられるはずもなかった。
「駄目! お父様を置いていったら駄目!」
父親にすがりつく寧々子。しかし、三八はそんな彼女を無理やり引き剥がした。
「君まで死なせたくない!」
三八は有無を言わさず寧々子の体を担ぎ上げると、嫌がって泣き叫ぶ彼女と共にその場から逃げ出した。
「いや、いや! お父様ぁッ!」
父親のところへ戻ろうとする彼女を邪魔するように、焼け落ちた木の枝がその間を隔てる。
唯助は遠ざかっていく寧々子と、動かなくなった正蔵を交互に見た。
(……笑って、る?)
奇妙なことに、正蔵は――それまでの狂気の欠片を感じないほど、とても穏やかに笑っていた。
「――あぁ、なるほど。そういうことか」
唐突に、唯助の耳元で呟く声があった。心眼が映した光景に目を奪われていた唯助は、突然隣の影からぬるりと姿を現した存在に「ぎゃっ!?」と跳び上がる。
「ミツユキ、お前いたのかよ!」
「ごめんごめん。心眼の極致に達したあたりから紛れ込んでいたみたいなんだけどね。どうやら現実で物理的に君に接触してたことで、私も混線しちゃったみたい」
「はあ」
理屈はよく分からないが、ミツユキがこの場に来てくれたことは、唯助にとっても心強い。
唯助の意識が一度譚から逸れたせいか、炎に包まれていた辺りは暗幕を下ろしたような闇に覆われた。
「そういうことかって、どういうことだ?」
「あぁなに、そんなに重要なことじゃないよ。ただ、前々からちょっと不思議だったことに合点がいっただけ」
「なんだよ、そのちょっと不思議だったことってのは」
唯助が尋ねると、ミツユキはどう説明したものかと唸っていた。
「前から七本音音の譚に違和感があったんだよ。私も譚から生まれた存在だから、人間で言う第六感的なものでなにかを感じていたのかもしれないけれど。……なんだろうね、不安定っていうのかな。油断したらポッキリいっちゃいそうな感じ?」
「抽象的すぎて意味が分からねえよ」
「んじゃ今わかったことを言うよ。
「――え?」
訳が分からず、唯助は心が動転したのをそのまま声に出した。まあ、それもむべなるかなといった表情で肩をすくめるミツユキ。
「主は譚本作家の絶対の掟に背いたんだ。譚殺しだけじゃなくて、それよりももっと前から。
……『お嬢さん』に肩入れしすぎるあまり、傍観者の一線を超えてしまったんだ」
しおりを挟む

処理中です...