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四章「崩れた少女」

その三

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お嬢さんと初めて会ったとき、見るからに幸薄そうな少女だと感じた。そして第二に、美しいと思った。美しさに衝撃を受けたといったほうがより的確かもしれない。重く垂れた黒髪に比して、その面差しは白く――そして、いかにも薄弱で、柔弱で、陰気で、陰鬱であった。無礼千万ながら、それはある種、彼女の魅力でもあるように感じられた。
はたしてそれが、恋愛感情の一種であったのか。身も蓋もない言い方をすれば、一目惚れだったのか。――今となっては定かでない。
しかし、この時から私にとって、お嬢さんが大事な存在になったのは、思い返している今にしても疑う余地のないことだった。
お嬢さんと私が出会ったのは、ほんの数年前の、風が穏やかな初夏の日だった。きっかけはお嬢さんの父による紹介であった。私は彼女の父に招かれ、青い林の影の下、ひっそりと佇むこの屋敷にやってきたのだ。先に断っておくが、これは見合いではない。私はこの時すでに、彼女の父よりもとおは年上であった。自分が生きてきた年数の半分にも満たないであろう若いお嬢さんを娶ろうとは決して思わなかったし、彼女の父とてそれは同じであったはずだ。お嬢さんと会ったのは、彼女が私の患者であったからだ。

お嬢さんは大変引っ込み思案だった。ややもすると狐に食われる前の子兎のようにぷるぷると震え、とかく逃げ出したそうにしていた。実は私は彼女の心を蝕んだ病の噂を聞きつけて、それが治せるかもと名乗りを上げてやってきたのだが、彼女を見れば見るほど、なるほど確かにとく納得していたものだ。父によれば、彼女は自分の性格を『固く青々とした菊の蕾のようで、爪で剥こうにも頑なに剥けない』と表現したそうだが、それにはしきりに頷いてしまったのを覚えている。
お嬢さんを診た医者はこれまでに何人もいたものの、しまいに誰も彼も匙を投げて彼女を見放したらしい。最初は病を治そうと懸命だったお嬢さんも、これを受けて次第に挫けてしまったのだという。だから私は、彼女の病を少しでも治すつもりで来はしたが、彼女を治すとは明確に言わなかった。どうせ医者でもない私にはよく効く薬も出せないのだし、彼女には何も気負わないで、どうか自然でいてほしかったのだ。
有り体に言って、私の一番の目的は、彼女の口から語られる譚を聞きたかったという、ただそれだけのことなのだから。

*****

お嬢さんに出会ったその日の私は、この先待ち受けているであろう長丁場を覚悟したものだが、意外なことに、お嬢さんは会話好きな少女であった。話し好きというよりも、聞き好きである。発言はほとんどなかったが、私の話を真剣に聞いて、興味深そうにこくこく頷いたりしてくれた。
彼女の父も、あんなに食い入るように話を聞いている娘を見るのは久しいと喜ばしげに語っていたので、ならば数日、とりとめのない会話をしてみようと私は提案した。私は一端の物書きだから、会話のネタには困らない。彼女の好きそうな話題に目星はつけていたので、その引き出しからネタを引っ張り出して、彼女の緊張をときほぐすことをまずもって優先した。
初めこそかちこちに固まっていたお嬢さんはある日、料理の話になると途端に堰を切ったように話し始めた。固い蕾も開けば次々に花びらを広げていくように、彼女の言葉も次々に広がり出てくるのである。喋り慣れていないのか、拍子の取り方はかなり稚拙であったが、それが丁度発話したての幼子に似ていて、私は可愛らしいと思った。
「今日の紅茶は甘い香りがするね。昨日のものとは違うのかい?」
「き、ききき、い、木苺の、フルーツティー、なん、です。き、昨日、お出ししたものと、同じ銘柄で、い、煎れてみたのですが……」
「ほう、果物を入れただけでこうも味わいが変わるとは。なかなか面白いね」
「もっ、桃や林檎などでも、美味しくなるんです……! わ、わたくしは、とくにお蜜柑が好きで……あ、苺などもお勧めで……!」
こんな具合で、ぱっと朗らかな笑顔を咲かせながら、一生懸命に話そうとするのだ。料理のことに関しては、もはや私から質問したりせずとも自発的に話してくれるようになった。
「――! あ、その、す、すすみません……はしたのう、ございました……」
「いいや、それでいいんだ。楽しいならそれで。私は君の話を聞きたいのだ」
楽しく話しているのに、こうやって自ら話の腰を折ってしまうのは、やはり抑圧された性格ゆえなのか。
聞けば、お嬢さんは尋常小学校で手酷いいじめを受けたのだという。彼女はそこいらの男をゆうに越してしまうほど背が高く、磁器でできた花瓶のように細い体躯をしていて、それに酷い屈辱を覚えているらしかった。きっと、そういうことなのだろう。それが子供の残酷さだ。(私はお嬢さんよりも自分のほうが身長が高くて良かったと、内心で胸をなで下ろしていた。)
「お嬢さんは本当に料理が好きなんだね」
「は、い……お料理をしていると、お、落ち着くのです。それに、お、お父様が、喜んで、くださるから……いつも、美味しいって、褒めてくださるから……」
「喜んで食べてくれる人がいると、より一層楽しく感じるのだろうね」
「ええ、ええ……!」
「私は昨日食べた茄子の味噌汁が美味くて驚いたんだが……あれは、油を入れていたのかな?」
「ああ、あれは、えっと、お茄子を、先に揚げていて……! お茄子の風味が引き立つと、術本に書いてあって……」
根本の部分は明るい子なのだろう。私はそう思った。私は料理を食べるばかりで作ることはてんでなかったが、お嬢さんと料理の話をするのがとても楽しかった。楽しそうに語っている彼女を見ることが、純粋に好きだった。
幸い、お嬢さんのほうも、私とのなんでもない会話を楽しみにしてくれているようだった。

*****

お嬢さんと親睦を深めていくのとは反対に、彼女の父の機嫌が斜めに傾き始めたのは、私が来て一週間が過ぎた頃だった。
彼のことを、ここではS氏と呼ぶことにする。
「娘と世間話をするのは結構だが、世相の話はあまりしないでほしい」
S氏はある日、お嬢さんのいないところで、私にそう言った。
私がそれを「んっ?」と訝しんだのは言うまでもない。
この頃、私はお嬢さんに世の中の話を語り聞かせていた。というのも、お嬢さんはこの辺鄙な地に長いこと閉じこもっていた影響で、随分世間を知らずにいた。彼女が大変興味を持って聞いていたので、私は例によって彼女が好きそうな話題を提供しようとしていたのだ。
「そうか……差し支えなければ、理由を聞いてもいいだろうか」
私はその懐疑に探りを入れるべく、S氏に問うた。S氏は少し言い淀んだが、やがて口を開いた。
「娘を守りたいのだ。世間知らずにして可哀想だとは思うが、あの子のためなのだ」
「つまり、世間に興味を持たぬようにしてほしい、と?」
「そういうことだ」
恥ずかしながら、私には妻子がいない。ゆえに、これはあくまで私の想像でしかないのだが、これこそが親心というものだろうか。いじめを受けて心を閉ざしてしまったお嬢さんを、S氏は守りたいのかもしれない。きっと、人里離れたこの家に、何も知らない彼女を匿っていたいのだろう。
とはいえ、私はそれを承諾しなかった。先に述べたように、S氏の気持ちを想像できなかったわけではないが、S氏の考えには賛同できなかったのだ。
しかし私は、この時S氏に意見をはっきり言わずに済ませたことを、後に悔いた。

明くる日、S氏の要望を無視した私は、近頃の若者の間で流行している『フルーツポンチ』という食べ物をお嬢さんに教えた。お嬢さんは大の果物好きだったから、 きっと喜んでくれると思ったのだ。
私はここであえて、提案してみた。
「お嬢さんさえよければ、食べに行ってみないかい?」
お嬢さんは、私の大胆な提案に当惑したようだった。しかし、それをすぐに断ることはせず瞳をきょろきょろ動かしていたから、迷っているようにも見えた。
「無理にとは言わない。どうせだから、お父上も一緒に誘ってみてはどうかな。盛り場から外れた、ちょうどいい店を知っているんだ」
そう言うと、お嬢さんの目の色が少し変わった。
私がこんな提案をした理由については二つある。お嬢さんが屋敷の外に対してどんな感情を抱いているのか。それに対するS氏の反応はどうなのか。それを知りたくて、わざとS氏の要望と逆のことを提案してみたのだ。
前者について、どうやらお嬢さんの方は満更でもないようだった。無論、お嬢さんは見た目で目立ってしまうから、実際に外へ繰り出すとなると覚悟が必要なのだろう。
「お、お父様に……相談しても、良いでしょうか?」
「ああ。勿論、構わないよ」

*****

結果は残念ながら、とのことだった。
S氏はどうやら娘のことがいたく心配らしく、仕事で自分が同行できない間は外出を断らせてもらいたい、とのことだった。まあ、年端も行かない愛娘を、さして交流してきたわけでもない中年の男に預けるのが不安だという心境は、親ならば至って普通だろう。
しかし、こう言ってはなんだが、よく言うわと私は思った。お嬢さんも、正直首を傾げていたようだった。
というのは、S氏が仕事をしているわけがないと知っていたからだ。これはお嬢さんの話だが、彼女は自分の父こそが心の病を抱えているのではないかと言っていた。それこそ、仕事が手につかず嘆いている父を見ていたのだという。要するに、S氏の言い分は建前であって、真っ赤な嘘であるというわけだ。
――お嬢さんの心配は、結論として、正しかったことになる。
私はその日の夜、S氏に話があると呼びつけられた。その時のS氏がどんな顔をしていたか、もはや言うまい。
私はS氏の書斎に入るなり、
「どういうことだ」
詰問きつもんされた。
「昨日の今日、私は貴殿にお願い申し上げたのだがな」
「私はそれを了承したと返した覚えはない」
S氏がますます不快そうにし始めた。私はなるべく声を穏やかにして、ゆっくり話すよう努めた。
「貴殿の要望を聞いた上で、勝手にお嬢さんにこのような提案をしてしまったことはお詫びする。だが、それはお嬢さんの意志を確認したかっただけで、お嬢さんを危険な目に遭わせたかったわけではないのだ。貴殿の同行を提案に折り込んだのも、お嬢さんの外に対する不安を和らげたかったがゆえ」
私の話を聞いている間、S氏の表情はまったく変わらなかった。しかし、
「考えてみれば、これは喜ばしいことだと私は思うのだ。理由や経緯はなんであれ、お嬢さんが勇気を見せたということは」
と言うと、S氏の眉尻が右側だけきゅっとつり上がった。
「お嬢さんは人一倍不安に感じる要素が多いだけだ。それらを和らげてやりさえすれば、彼女は必ず一歩踏み出せる。娘さんをいじめられた貴殿の心配も分からぬでもないが、それも数年前の話だ。
どうだろうか。少しずつお嬢さんを外の世界に慣らしてあげては」
「ならん!」
ここで、S氏は突然声を荒らげた。黙って聞いてくれていたから、おそらくは説得できるだろうと踏んでいた私は泡を食った。
「貴様には、娘がどれだけ傷ついているか分かるまい。優しいあの子が、汚い世俗から惨々に迫害されたことを知るまい。娘はこれ以上傷つけさせん」
「確かに、よそ者の私は知らないが」
「ならば余計なことをするな! あの子にとってはここが一番安全だ。私があの子を守る、守らねばならぬのだ!」
――率直に、めちゃくちゃだと思った。S氏は何のために私を呼んだのだろうと思った。
まだ冷静に話を聞いてくれていた昨日のうちに、しっかり意見を言うべきであった――私が後悔したのは、まさにこの時だ。
彼女を治療しようとした数人の医者も、この剣幕を前にしては匙を投げるはずだ。しかしながら、この時の私も随分諦めが悪かったもので、一旦引き下がるべきところを、
「お嬢さんの心の病を治してあげたくはないのか」
と、つい反撃に出てしまった。
「貴殿が娘を守れなくなったらどうするのだ」とか、「お嬢さんに処世を教えぬままで良いのか」とか、「家に閉じ込めるばかりでは可哀想だ」とか、そんなことを矢継ぎ早に伝えてしまった。
この日以降、私とS氏と意見が合うことはついぞなかった。

*****

S氏の心の病にもどうにか対処しなければ、と頭を悩ませていた私は、その矢先に信じられない光景を目にした。
たまたま用を足しに廊下を歩いていた、深夜のことである。あろうことか、S氏がお嬢さんの寝室の扉に鍵をかけていたのだ。当然、お嬢さんは部屋の中で眠っているから、S氏は娘を閉じ込めているということになる。
義憤に駆られた私はS氏を呼び止め、寝室から離れた廊下で彼と揉めた。
「貴殿はお嬢さんを軟禁していたのか」
「娘のためだ、他人は黙っていろ。朝には開ける」
悪びれもせず、まるで自分は正義であるかのように言ってのけるS氏を、私はこの時、心から厭悪した。
「日が出ている内は自分の監視下に置けるからか?」
私はS氏を強く睨みながら、わざと厭なことを言った。すると、S氏の目に血の色が迸る。私は正直、身震いがした。今に何をするか分からないような気狂いに睨まれることほど恐ろしいものはない。しかし、これに一瞬でも怯んだら負けだと思い、さらに力を込めて、静かに睨み返した。
「お嬢さんがいつまでも回復できない理由がはっきりと分かった。貴殿自身がお嬢さんを閉じ込めているからだ」
「……ほざくなよ、部外者が何も知らないくせに」
「ああ、そうだ。肝心なことは何も知らない。貴方がそのような行動に理由など、私は知らない。しかし、過程はどうあれ、今の貴方は正常ではない」
「……なんだと? 貴様は私の気がおかしくなっているとでも言いたいのか」
「正常な判断ができない状態にある、ということだ。貴方はお嬢さんを大事に思いすぎるあまり、却ってお嬢さんに負担をかけてしまっている。そしてそのことに気づいてさえいない。
私はお嬢さんの回復を助けたいと思っているが、同時に貴方も解放したいと思っているのだ」
S氏を救いたい、というこの主旨の発言は方便に近いかもしれない。お嬢さんの回復のためにはS氏の心の安定も必要になってくる。裏を返せば、お嬢さんだけ助けたところで、S氏が回復できなければ、お嬢さんも本当の意味では救われない。ゆえに、感情では厭悪しつつも、私はS氏を救いたいと欲しているのである。
「何があったのだ。貴方たちの間になにがあって、このようなしがらみに囚われてしまったのだ」
私は絶望的とわかっていながら、それでもS氏に食い下がって対話を試みた。
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