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終章「実井寧々子の墓標」

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――彼女はきっと悔しくてたまらないだろう。
夢の中で見た、あの晴れ晴れした彼女の顔を思い出すだけで、胸が苦しい。やるせなくなる。やりきれなくなる。
彼女は菅谷が去った後、『一人にしてほしい』と涙を零して、店を出ていったらしい。菅谷を送り届けた唯助が店に戻ってきた頃、既に彼女の姿は七本屋にはなかった。ただ、三八が煙草を片手に外に立っていただけだ。
「読み解きをしても、そうそう都合よく譚は進まないもんですね」
唯助がそう投げかけると、三八はふっと空を見上げる。つられて唯助も空の色を拝む。先ほどまで見渡す限りの青が広がっていた棚葉町の空は今、分厚い雲に覆われようとしていた。
「全ての譚が大団円になるわけないからね」
だとしても、と三八は煙草の煙をひと吸いして空に向かって吐き出す。
「彼女の譚は、本当に報われないものばかりだ」
それはもう、哀れなほどに。甲斐もなく。
吐き出した紫煙はそう高く昇ることはなく、あたりの空気に瞬く間に溶けていく。
「……読み解き、終わりましたけど。本には紡がないんですか」
とは言っても、その核になりそうなモノはなにもないのだけど。
「旦那のことだから、てっきりまた本に紡ぐつもりなのかと思ってました」
「なんでもかんでも本にするわけじゃないよ。それに、譚の持ち主である彼女がそれを望んでいなかったからね」
だから、この譚は誰にも知られることのないまま、結んで閉じてゆく。
もし後世で、唯助と同じように実井寧々子の譚を読み解こうとする者が現れたとしても。彼女を取り巻く人物の中に菅谷という男がいたことは、きっと明かされないのだろう。記されてもいないことなど、明かしようがないのだから。
「さて、課題の答えを聞こうか。『雨の匂い』の正体は分かったかな?」
三八は唯助の方へ目を向けて、問いかける。
「上手く、言えないですけど」
唯助は導いた解に最も適う言葉を探して、選び抜いて、三八の問いかけに答える。
「……――音音さんはきっと、自分のことが人一倍大嫌い、なんじゃないかと思います」
「ほう」
唯助の解釈に耳を傾けて、相槌を打つ三八。
「菅谷……さんと、お母さんが不倫しているのを知った時も。正蔵さんがまだなんとか生きていた頃も……多分、今も」
読み取れた部分以外でも、音音はもっと色々なものを背負い込んで、その度に苦しんでいたのだろう。
――母にとって自分は邪魔な存在なのではないか。
――心を患い、ただでさえ大変な父に心配ばかりかけてしまう自分が嫌だ。
――誰かを憎まないではいられない自分の醜さが悲しい。
そんなふうに全ての矛先を自分に向けてしまう性質ゆえに。
唯助の言葉に、三八は補足するように返す。
「唯助。その匂いはね、もう染みついて取れないんだよ。ずっとずっと、彼女からは雨の匂いがする。小生も最初はどうにかして取ってやれないかと考えていたけれど、どうやっても無理だったんだ」
「じゃあ、どうするんですか」
唯助はそう問わずにはいられない。このままでは苦しみ続けている彼女があまりにも可哀想だ。そんな思いで尋ねる唯助に、三八は紫煙をふう、と吹きかける。漂ってくるヤニの匂いに眉を顰める唯助。
「よろしくやっていくのさ。その匂いと」
「よろしく、って……」
「言ったろう。染みついて取れないと。長年それでやってきたんだから、そう簡単に変わりはしないよ」
「それは……そう、かもしれませんけど」
ならば、彼女に救いはないのか。ことある事に自分を呪ってしまう彼女を、解放してやる手立ては。
――そこに思い至って、唯助は気づく。
「本当は、旦那が一番、彼女の読み解きをしてあげたかったんじゃないですか……?」
実井寧々子と初めて出会ったあの時と同じく、雨の匂いをまとった彼女を救うために。確実に死に向かっていた少女を、どうにか守ろうとして。
「どうして、おれに読み解きをさせたんですか」
三八は煙草をまたひとつ吸って、今度は長めに吐き出す。
「『空の鳥かご』にあった通りだ。小生はあの子の譚を読み解くのに失敗した。小生は読み解く側ではなく、もう当事者なんだよ。だから、小生が出る幕じゃなかったのさ」
その台詞が、答えだった。唯助の成長のためとか、修行のためとかいうのは、ただの後付けなのだろう。自分には手出しできないと分かっている以上、唯助に頼むしかなかったから。過去の失敗から、自分は彼女という譚の読み解き手として不適格だと、十分に理解していたから。
彼は、愛する人の救済を唯助に託したのだ。
「ありがとう、唯助。良い仕事ぶりだったよ」
「……いいんですか。こんなんで」
「いいのさ。君は立派に役目を果たした」
譚の読み解き手として、あくまで正しい行動を貫いた。出しゃばって譚をねじ曲げることなどせず、誘導することもなく。最後まで余計な手出しをすることなく、彼女の末を見守ったのだと。
「これ捨てといて」
落とした煙草の吸殻を履物でじりじり踏み消しつつ、三八が言う。あぁはいはい、といつもの調子で素直に返事をしかけた唯助だったが、
「っておい、自分で捨てろよ。部屋に灰皿あるじゃねえか」
と文句を言った。しかし三八は弟子の小言などまるで聞いておらず、既に外の通りへ向かって歩き出していた。
「そろそろ迎えに行くよ。留守番よろしく」
そのまま歩いていこうとする三八を、慌てて引き止める唯助。
「傘を持っていった方が」
空はもう雨模様だ。埃っぽい匂いもするし、いつ降り出してもおかしくない。しかし、三八は傘を取りに行こうとする唯助を
「いや、いい」
と制止する。
「少し濡れてこようと思ってるから」
正直、唯助は風邪をひかれたら困ると言いたかった。しかし、ここでそれを言うのはいささか無粋なので、あえて飲み込んだ。

*****

辺りの地面を霧雨が濡らし始める。棚葉町の東端にある神社の石段を、雨に追われながら足早に降りていく人々。その流れにただ一人逆らうように、三八は下駄で一歩ずつ踏みしめて石段を昇る。雨霧の景色によく映える赤い鳥居をくぐり抜け、参拝客もいなくなった本殿の脇を通り抜け、松の木がそこかしこに植えられている敷地のその奥へ迷うことなく歩を進める。三八が予想した通り、彼女はそこに居た。
「……みや様」
足音に気づいた彼女が振り返る。一人にしてほしいと言ったのに、と文句を言いたげな目で見てくる彼女を、三八は笑っていなした。
「迎えに来たよ」
「まだ戻りたくありません」
「じゃあここで待っていようかな」
「濡れますよ」
「そのつもりで来たからね」
「わたくしの傘になるおつもりですか」
いつかの台詞を皮肉って言う彼女。しかし三八は、それこそ皮肉だと言わんばかりに笑って、首を横に振る。
「小生はボロ傘だよ。君の雨よけにもなってやれなかった、ね」
かつて少女だった彼女に対し、三八は傘になってやろうなどと大見得を切った。降り注いだ冷たい雨から彼女を救えるつもりでいた。――そんな根拠のない自信を持っていたかつての自分に対する、皮肉であった。
「まったく情けないよ。小生は、君に何もしてあげられていない」
幾多の譚たちを読み解いては本に紡ぎ、大陽本でも指折りの腕を持つと称された譚本作家――そんな彼も、己が妻の譚を読み解くことだけはできなかった。心から愛した妻であるからこそ、失敗した。今回の彼にできたのは、弟子の力を信じ、託して祈ることだけだったのだ。
「……行き先も告げていないのに、よくわかりましたね」
夫が大層落ち込んでしまったのを見て、罪悪感を覚えた彼女はそっと話題を変える。
「そりゃ、町の東端にある七本屋からさらに東に向かったんだから、行き先なんてここしか思いつかないよ」
「それもそうでした」
会話はここで途切れる。辺りの景色もすっかり霞んだ中、湿気にただ身を晒すだけの時間が続く。
「あんな依頼、迷うまでもなくさっさと断ってしまえばよかった」
おもむろに、薄く開いた口がその胸の内を吐露し始める。
「そんなの自明なのに、どうしてこうも中途半端になってしまったのでしょうね」
あれだけの仕打ちを受けたのなら、態度次第では許すなんて生ぬるい対応をとる必要もなかった。唯助がそうしていいと言った通り、最後まで拒絶したまま、会わないと貫き通せばよかったのだ。そうすれば、期待を裏切られる怒りと悲しみを味わわずに済んだだろうに。
彼女の問いかけに対して、三八は
「分からない。君の心は、君にしか分からないから」
と前置きをした上で、
「ただ、あえて答えるなら、憎み続けることはとても消耗するからじゃないかな」
と答える。
今、彼女が虚脱感を抱えてここに立っているように。人に激情を抱くというのは、それだけ心を削っていくということに他ならないのだ。
「……みや様、お聞きしてもよろしいですか」
「なんだい」
彼女は少し躊躇ったあと、後ろめたそうに三八から目を背けながら尋ねた。
「今のみや様は、ご自身のお母様のことを、どう思っていらっしゃるのですか」
彼女の絞り出すような声に対し、三八は思いの外、さらりとあっけなく答えた。
「愛していたよ。ずっと愛し続けられると信じて疑わなかったし、できれば愛していたかった」
母に貰った愛と、母から受けた苦痛の狭間で悶えていた彼も、自らの譚に向き合って結をつけている。それまでの道程にいくつもの葛藤があったことを、妻である彼女は知っていた。
だから、彼の言った『消耗』という言葉は、彼女の胸にもすとんと落ちた。

「……あのピアノ、どうなるのでしょうね」
父が売り払ったピアノを、追い出された後の菅谷はわざわざ大枚をはたいて買い戻したという。そこにはどんな想いがあったのか――今となってはもう、考えたくもない。
けれど、実井家の譚が詰まった核とも言えるあのピアノの行く末には、やはり思いを馳せてしまう。あの男のもとに置かれ続けるのか、別の誰かのものになるのか、流れ流れた先で知らない誰かのための音色を奏でるのか――。
「君は、どうなってほしい?」
「分かりません。けれど、彼の手からピアノが離れたのならば、あれはただのモノに戻るだけなのでしょうね」
それならそれで良い。譚の核になるよりも、その方がピアノにとっては幸せなのかもしれない、と目を閉じて語る。
「小生も一つ、聞いていいかな」
「なんでしょう」
「どうして、今回の譚を本に紡ぐことを拒んだのかな」
答えをあえて聞く必要はない。三八には彼女のおおよその考えがもう分かっていた。それでも聞いたのは、彼女自身の言葉で確かめたかったからだ。
「必要がないからですよ」
彼女は淡々と答える。
「実井寧々子にとっての譚は、『空の鳥かご』だけで十分です。勿論、結を紡げばこの心のしこりもいくらか楽になるのかもしれません。……でも、後世の人々にこんな譚を見られるのは、なんだか嫌なんですもの」
だから、実井家という音楽一家があったという譚は、ただ彼女の胸の中に残っていればいい。 そして、いつか彼女の譚に終わりが来て、彼女が墓に入ったなら――証のない譚は、無いも同然になる。
「こういう『結』だって、ありですよね。黙って消して、何も遺さずに行くのも」
「……ああ」
薄く笑って見せる彼女に、三八はこくんと頷いて返した。
「君がそう思うのなら、それでいいんだ」
彼女のしっとりした髪に、三八の手が触れる。そのまま彼女の背中に手をやる。
三八は彼女の細い体を抱きしめた。彼女の陶器のような体は、外気に長い間晒されて冷えきってしまっていた。それに追い打ちをかけるように、雨粒の勢いが次第に増してくる。
「……あぁ、温かい」
彼女は三八の腕の中に沈みこんで、幸せそうに零した。
「よく頑張った」
三八の手が彼女の背中をさする。
彼女は三八の腕の中、息遣いに合わせて上下する胸に頬を寄せた。藍染の衣服に染みついた煙草の匂いに、ふんわりと包み込まれる。染み込む体温に、穏やかな鼓動と呼吸。雨音も遠くのもののように聞こえた。
「ありがとう、ございます……」
そこから何をするでもなく、彼女はただ目を閉じて、三八に抱きしめられていた。何度も感じた匂いと人肌の感触に、彼女はしばし身を委ねる。
数秒置いて、彼女を抱きしめたまま三八が言う。
「帰ろう。風邪を引いたら厄介だ」
「まだ帰りたくないのですが……」
「なら、小生は一旦店に戻るよ。桶でも持って銭湯に行こう。とにかく体を冷やすのは良くない」
まだ抱擁を味わっていたかった彼女は、雨粒がいよいよ大きくなってきているのを恨めしく思った。名残惜しく離れた彼女の頭を優しく撫でる三八。
「ゆっくり風呂に浸かったら、土産に菓子でも買って帰ろう。唯助もきっと疲れているから」
「……ええ、そうですね。彼にも改めてお礼を言わないと」
「壊れた建具を直すのも手伝ってもらわないとだしね、対価の前払いだ」
「わたくしも何かお手伝いできませんか?」
「あぁ、頼む。でも、まずはゆっくりとお眠り。君が眠るまで、小生が色々な譚を語って聞かせよう。先ほどのように、ただ抱きしめ合って夜を過ごすのもいい」
「……ええ、分かりました」
音音が微笑んで返すと、三八もまた笑みを深くする。冷えた手をどちらからともなく伸ばして、ごく自然な流れで絡め合って、握り合う。


――その日、唐突に梅雨入りした棚葉町。住人たちが雨に降られて家路を急ぐ中、かの夫妻だけは傘と桶を手に、仲睦まじげに通りを歩いていたという。

*****

譚とは心である。ゆえに、盤根錯節に絡まり合う譚の糸は必ずしも綺麗にほどけるとは限らない。爪の先を立ててほどこうとしても、ぐちゃぐちゃに絡まった糸はいぼのように固くなり、ほどこうにもほどけなくなる。
思い通りに結べないのもまた譚の理。そんな譚は最終的に切らざるを得なくなる。
切って捨てて、また新たに結び直す。
思い通りにいかない譚に折り合いをつけて、折り目をつける。
彼女も――七本音音もまた、そうして譚を紡ぎ、歴史の流れを生きていく。
支えとなってくれたかの人の手を取って、跡を濁さず歩いていく。



『貸本屋七本三八の譚めぐり ~実井寧々子の墓標~』・了
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みんなの感想(1件)

住庭月
2022.01.14 住庭月

22話、読了(〃∇〃)/

……ミツユキ様…、ヽ(´Д`;)…ドンマイです

そして
心眼 の真の本領が、、、
ドキドキです|ू•ω•)

応援!∠( ゚д゚)/フレー!!

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