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終章「実井寧々子の墓標」
その五
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書斎に吹き込んだ初夏の風の音が、いやに鮮明に聞こえた。爽やかに晴れた外の世界を隔てるように、七本屋の書斎にはひっそりとした影と鈍色の空気が横たわっている。座布団に座した『彼女』と同じ目線で向かい合った菅谷は、淀みの中に流れ込んだ風を浅く吸い、のどごし悪く飲み下した。
「……だんまりですか? わたくしに何か話したいことがあったのでしょう」
――『実井寧々子が面会を望んでいる』と話を持ち出せば、菅谷は喜色を浮かべて七本屋にやって来た。六年もの間ずっと探し続けていたお嬢様とやっと話ができる、という彼の心境を考えれば、その笑顔もむべなるかなといった感じではあるが――その喜びを分かち合おうという人物は誰一人いない。彼を迎えに行った唯助も、店にやってきた彼を迎えた三八も、すべてを知った上で襖越しに立ち会っている今、その目は冷ややかだ。察しの悪い菅谷は実井寧々子との感動の再会を思い描いていたようだが、三八の書斎で待っていた当の『彼女』からも白眼視されて、自分だけがこの場で浮いていることを悟った。
そしてそこから数分の沈黙を経て、今に至っている。
「……っぴ、ピアノを、」
菅谷は彼女の視線に促される形で、ぎこちなく話し始める。
「お母様のピアノを、ど、どうか引き取っては、くれませんか」
やっとの思いで告げられた菅谷の願いを聞いて、彼女は嘆くようにため息をついた。
「――ピアノは受け取れません。たとえピアノが帰りたがっていたのだとしても、その帰るべき場所はこの世のどこにもありません」
「そ、そんな……っ!」
悲鳴のような、今にも泣きそうな菅谷の声。やってきた時は喜色に満ちていた彼の表情は、誰の目にも明らかに、そして見るも無惨に、絶望に染め上げられていく。
しかし、彼女は菅谷の切ない表情に心を痛めたりはしない。取り合うことなく、淡々と話を続ける。
「貴方は仰っていたそうですね。あるべき場所に、ピアノを帰してあげたいのだと。本当はお母様の音色をもう一度聞きたいけれど、それは叶わないから、せめて娘のわたくしのもとに届けにきたと。
わたくしがピアノを弾かないとしても、同じことを仰るおつもりですか?」
唯助が聞き取りをした時点で『手前勝手だ』と評した菅谷のことである。ピアノを見た彼女がそれを奏でるとは限らない――ピアノを奏でようという気を起こすとは限らない――その可能性もあるということは考えていなかったのだろう。母と自身が奏でていた懐かしいピアノを前にすれば、彼女はまたピアノの音色を聞かせてくれる……菅谷はそんな夢物語を心に描いていたのかもしれないが、現実はそう都合良くいかないものだ。彼は絶句していた。
「菅谷様、わたくしはもうピアノを弾けません。あんなに大きなものをこの家に置いては商売もままなりませんから、あっても無駄というものです」
彼女は予め用意していた答えを、叩きつけるように言い放った。申し訳なさの欠片もなく、徹頭徹尾冷淡に突っぱねる。
「お、お嬢様っ……そんな、こと」
菅谷からしてみればあのピアノはただのモノではない。これは彼女の母――実井小夜子が生前大切に使っていたものだ。娘である寧々子とて一生懸命に練習していた思い出深いピアノなのだから、単なる粗大ごみを見るような目でにべもなく扱える品ではないはずなのだ。あまりにも冷酷な言い捨てに菅谷が絶句していると、
「菅谷様。実井寧々子は死んだのですよ」
と、彼女が告げる。唐突な物言いに目が点になる菅谷。
「貴方がわたくしの中に実井寧々子を見ているのでしたら、それは亡霊です」
「亡、霊……?」
「ええ」
たった二文字の間に、彼女の声が一際沈み込む。低く、暗く、海の底のような計り知れないものへと変じる。
菅谷は彼女の深い影の一端に触れて、元々小さい肝をさらに縮こませた。この時の彼女の目は肝の据わった唯助ですら寒気を禁じ得ないのだから、今その目を向けられている菅谷は尚更だ。彼女の見たことのない表情を前に冷や汗をかき、乾いた舌は声もなく空回るばかりで、目線は彼女を見ようにも見れないという有様である。
「実井寧々子と実井正蔵は、貴方たちのせいで死んだのですよ。――仮に実井正蔵の亡霊もここにいたのなら、どんな顔で貴方を見ていたのでしょうね?」
「…………ッッッ!?!?」
意味深に紡がれた彼女の言葉――その言葉の意図ばかりは、菅谷もすぐに解したらしい。絶望に染まっていた彼の顔が、さらに色濃く青みを帯びた。
「菅谷様。どうしてお父様が貴方を遠方へ追いやったのか、その理由に心当たりがないというわけではありませんでしょう」
「そっ、それは……!」
鉢から出された金魚のように口を開閉させる菅谷に、彼女は初めて笑顔を見せた。――憫笑であった。
菅谷は蛇に睨まれた蛙のように、ただただそこに座している。泳ぎがちだった視線も、今や彼女の冷たい目に釘付けだ。
「菅谷様、わたくしは貴方が好きでした。されど、母と浮気していた貴方を、娘であるわたくしが笑顔で迎えられると思いましたか?」
感動の物語を描いていた、呆れた夢想家であった。どの面下げて彼女に会いに来たのかと怒鳴られる展開くらい、心のどこかで一度は予想しても良かったはずなのに。
「……っも、申し訳ございませんッ! あ、あれは、魔が差して、気の迷いでっ……申し訳ございません!」
菅谷は身を硬直させたまま、釘付けのままに口だけを動かして謝罪を始める。恐慌をきたした彼の口はさらに、求めてもいない弁明まで喋り始めた。
「よ、余命はもう、僅かだと、っだから最期だけは、自分の心に素直になりたいのだと、……それが、あまりにも、切実で――」
冷ややかな彼女の視線が、さらに凍りつく。
零度以下まで冷えきったその目に気づいているのかいないのか。厳冬の吹雪の中に身を置いているような凄まじい震撼ぶりで、彼の口だけが動き続ける。
「っは、初めは、お断りしたのです! でも、一度だけでいいから、頼むと……最期だけは、あ、愛した人と、そう言われて、同情心からつい、応じてしまって……! し、しかし奥様は、ほ、本当は、最初から、旦那様との結婚は、望んでいなかったと……」
彼女の前でよくもまあそんなことを抜かせたものだ――もしこの場に三八か唯助がいたなら、怒髪天を衝くままに叫んでいたかもしれない。実際には襖の向こう側で状況を見守っていた彼らだが、やはりそれでも腹には据えかねて、怒鳴り込んでやろうかと立ち上がった。その時だった。
「もう結構です!!」
それよりも先に、怒気を含んだ彼女の声が部屋の空気を揺らす。
「なにが『ピアノの声が聞こえる』ですか! なにが『あるべきところへ帰したい』ですか! あのピアノのことをなにも知らないで! あれは父が、愛する母にその証として贈ったものです!」
一途な父の愛情とは裏腹に、母は許嫁の父を愛してはいなかった。そんな当人たちの心模様など、他人が口出しできる領域ではない。両者の感情の食い違いを咎める権利など、誰にもありはしない。――さりとて。
「皮肉なものですよ。お父様の愛の証たるピアノが、愛を踏みにじった貴方の自己満足で買い戻されたなんて」
一途に母を愛し続けた父の魂がこうまで屈辱的に蹂躙されたのは、彼女にとって許しがたいことであった。彼女の怒りは、冷静の殻を突き破って、ついにむき出しになる。
「貴方たちの不義のせいで、父は長年苦しんでいました。愛していた母と、信頼していた使用人に裏切られた父の苦しみは、死ぬことでしか安寧を得られぬほど壮絶でありました」
かてて加えて、一人で抱え込んで苦しんでいた愛娘に何もしてやれなかった、親としての自責――それらにもがき悶えた末に、実井正蔵は壊れてしまった。愛娘の寧々子ですら癒やせないほどの深手を、その心に負ったのだ。
「もう二度とここへはいらっしゃらないで。ピアノはいりませんので、どうぞお好きになさってください」
彼女は毒のこもった吐息と共に吐き捨てると、襖の向こうで待機していた二人へ呼びかける。
「みや様、唯助さん。話は以上です。お付き合いさせてしまって申し訳ありませんでした」
二人は今度こそ襖を開け放つ。その時には、菅谷はただ憮然として、立ち上がる気力も失っていた。さながら大嵐にすべてを攫われたかのような面持ちで。
「菅谷殿、貴殿の依頼に対する答えは以上だ。お引き取り願おう」
三八は懐から取り出した紙煙草を咥え、火をつける。吹き抜けていく風に乗って、煙草の煙が菅谷の鼻をかすめる。しかし、それでも立ち上がれない様子の菅谷を見かねると、三八は
「唯助。すまないが彼を送ってくれ」
と指示を出す。唯助は舌打ちでもしそうな顔でそれに頷くと、菅谷の腕を引いて立ち上がらせた。
「お、嬢様……っ」
それでもまだ何か言いたげな菅谷だったが、彼女は既に彼に対して背中を向けていた。唯助に引っ張られる形で歩き出した彼に、彼女は背を向けたまま、永訣の言葉を送った。
「どうか母と幸せになってくださいまし」
*****
「お嬢様……」
棚葉町の東端から離れ、中心部にやってきた頃。唯助の後ろでとぼとぼ歩いていた菅谷は、未練がましく彼女を呼んでいた。
「私は……どうして……」
そんなことばかりをぶつぶつ繰り返す彼にいい加減うんざりしていた唯助だったが、このまま菅谷を電車に突っ込んで送り返すつもりはなかった。懐中時計を取り出し、電車の時間までかなりの余裕があることを確認すると、菅谷をわざと人気の少ない路地へ導く。
棚葉町の人々が集まる駅舎に向かっていたはずの菅谷が、辺りの静けさに違和感を抱いた頃。ぴたりと足を止めた唯助が、背を向けたまま語りかける。
「菅谷さん。なんであの場で言い訳した」
「……っ」
短く、しかし鋭く咎める唯助に、萎縮した菅谷はただ「申し訳ありません……」と小さく謝ることしかできない。それでも謝ったところでどうしようもないのだから、唯助はただ呆れて嘆息を漏らすだけだ。
「――なあ。あんた、本当はちゃんと謝ろうとしてたんじゃないのか?」
唯助の口から投げかけられた言葉は、菅谷の胸の中に、波紋のように広がる。弾かれたように顔を上げて、驚愕のままに唯助を見る彼。
「実井正蔵から遠方に追いやられたって時点で、さすがにあんたも気づいてただろ。浮気がバレたって」
「……っ、っ」
菅谷は鋭い刃物で胸を刺されたかのような表情を浮かべる。
「な、ぜ……それを……?」
「姐さんが怒っているのを見た瞬間、あんなに分かりやすく怯え始めたんだ。大体察しはつくよ」
疚しいと感じていることがなければ、彼女が見せた怒りにああまで怯える必要は無いはずだ。唯助は二人が話し合いを始める直前まで、菅谷を観察していたのである。
「ピアノを帰してやりたいってのも本心だったのかもしれねえ。でも、それは方便でもあって、真の目的は謝る方だったんだろ」
実井正蔵が死に、娘は行方不明。生死すら分からない彼女を、しかし彼は六年間も必死に探し続けたのだ。
実井寧々子に会いたい。彼女に謝罪したい。そして叶うなら、あの頃のようにとまではいかずとも、彼女と話がしたい。
――それが、菅谷の本当の願いだった。
「必死に探し続けてようやく話ができたのに、なんで最初の時点で浮気のことを謝らなかった。彼女に問い詰められるまで黙ってた。しかも言い訳まで並べやがって」
彼が寧々子の母と犯した罪は到底許されるものではない。しかし、実井寧々子の生存を切に願う彼の気持ちそのものが決して偽りではないことは、どこをどう見ても疑いようがない。
――だからこそ、唯助は無念でならなかった。
「正直に謝りさえすれば、姐さんはあんたを許すつもりだったんだ。でも、あんたの取った態度でその気持ちも失せちまったんだろうさ」
彼女も完全に菅谷を拒んでいたわけではなかったのだから、菅谷があと少し勇気を出していたら、ここまで惨い結果にはならなかっただろう。六年間も心配して探し続けてくれた菅谷に情のひとつでもかけるべきなのかと、彼女は最後まで思い悩んでいた。しかし、最終的には菅谷を見限り、話を切り上げてしまったのである。
菅谷は唯助の追及にたじろいで、もたもたと答える。
「怖く、なってしまったのです。お嬢様が、お嬢様ではないような、酷く恐ろしい目をしていたので」
臆病風に吹かれ、挫けて、つい保身に走ってしまったのだと言う。
「そりゃそうだわな。大事な家庭をぶち壊したあんたを、優しい目で迎えられるわけねえわな」
己の罪を咎める相手から逃げたくなる気持ちは、唯助とて分からないでもない。しかし、菅谷はよりにもよって、一番取るべきではない行動を取ってしまった。心の弱さゆえに、取り返しのつかない選択肢を自ら選んでしまった。
「今更言うかって話だけどよ。あんた、実井寧々子に会う資格なんか端からなかったんじゃねぇの」
「っ……!」
唯助の口から放たれた咎めの刃が、菅谷の胸を深く貫く。菅谷は胸を押さえて呻くが、それだけでは終わらない。止まらない。
「小夜子さんの想いをきっぱり断れない。寧々子さんの前で正直に謝ることもできない。分別もつかなきゃけじめもつけられない。そんなどうしようもない人間を許そうとしていた優しい人の前でも、結局あんたは言い訳を並べるだけだった」
あれでは彼女も怒って当然だ。むしろ、よくあそこまで怒鳴らずに耐えていたものだ。戯れ言に神経を逆撫でされるまで、最後の最後まで、彼と冷静に話し合いをしようとしていたものだ。
「あんた大人として恥ずかしくないの?」
彼が自分と似ていると同情し、共感していたという実井寧々子とは雲泥の差だ。同じ気弱な性格だとしても、菅谷はあまりにも逃げ腰すぎたのだ。
「ここまで何しに来たんだよ」
「す、すみません」
最初こそ必要以上に気を遣いまくる誠実な人柄なのかとも思ったが、今や何度も下げられる頭には価値の欠片も感じなかった。彼は善人などではなく、善良とも言えない。心根が悪ではなかっただけ、悪人と称するにはあまりにも弱すぎただけだ。
「もうどうしようもないよ。あんたは最後の機会を与えられてもなお、逃げ続けたんだから」
ふん、と鼻を鳴らして、唯助は菅谷を睨む。あらん限りの憤怒をぶつけるように、睨み据える。
「あんたは一生後悔し続けながら生きろ。実井寧々子から向けられた怒りも憎しみも、残さず全部背負っていけ。あんたにできることはもうそれしかない」
これがもし三八の言葉であれば、より確実な呪詛となったのだろう。それでも唯助とて同じ愛子だ、せめて普通の人間のそれよりは効力があってほしい。生き地獄のほうが、あるかも分からない地獄の呵責よりよほど相応しい罰になるだろうから。
――唯助はそう願って、絶望的な表情を浮かべる菅谷に枷をつけるように吐いた。
「これ以上逃げるなよ。死んで償うなんて絶対に許さないからな」
「……だんまりですか? わたくしに何か話したいことがあったのでしょう」
――『実井寧々子が面会を望んでいる』と話を持ち出せば、菅谷は喜色を浮かべて七本屋にやって来た。六年もの間ずっと探し続けていたお嬢様とやっと話ができる、という彼の心境を考えれば、その笑顔もむべなるかなといった感じではあるが――その喜びを分かち合おうという人物は誰一人いない。彼を迎えに行った唯助も、店にやってきた彼を迎えた三八も、すべてを知った上で襖越しに立ち会っている今、その目は冷ややかだ。察しの悪い菅谷は実井寧々子との感動の再会を思い描いていたようだが、三八の書斎で待っていた当の『彼女』からも白眼視されて、自分だけがこの場で浮いていることを悟った。
そしてそこから数分の沈黙を経て、今に至っている。
「……っぴ、ピアノを、」
菅谷は彼女の視線に促される形で、ぎこちなく話し始める。
「お母様のピアノを、ど、どうか引き取っては、くれませんか」
やっとの思いで告げられた菅谷の願いを聞いて、彼女は嘆くようにため息をついた。
「――ピアノは受け取れません。たとえピアノが帰りたがっていたのだとしても、その帰るべき場所はこの世のどこにもありません」
「そ、そんな……っ!」
悲鳴のような、今にも泣きそうな菅谷の声。やってきた時は喜色に満ちていた彼の表情は、誰の目にも明らかに、そして見るも無惨に、絶望に染め上げられていく。
しかし、彼女は菅谷の切ない表情に心を痛めたりはしない。取り合うことなく、淡々と話を続ける。
「貴方は仰っていたそうですね。あるべき場所に、ピアノを帰してあげたいのだと。本当はお母様の音色をもう一度聞きたいけれど、それは叶わないから、せめて娘のわたくしのもとに届けにきたと。
わたくしがピアノを弾かないとしても、同じことを仰るおつもりですか?」
唯助が聞き取りをした時点で『手前勝手だ』と評した菅谷のことである。ピアノを見た彼女がそれを奏でるとは限らない――ピアノを奏でようという気を起こすとは限らない――その可能性もあるということは考えていなかったのだろう。母と自身が奏でていた懐かしいピアノを前にすれば、彼女はまたピアノの音色を聞かせてくれる……菅谷はそんな夢物語を心に描いていたのかもしれないが、現実はそう都合良くいかないものだ。彼は絶句していた。
「菅谷様、わたくしはもうピアノを弾けません。あんなに大きなものをこの家に置いては商売もままなりませんから、あっても無駄というものです」
彼女は予め用意していた答えを、叩きつけるように言い放った。申し訳なさの欠片もなく、徹頭徹尾冷淡に突っぱねる。
「お、お嬢様っ……そんな、こと」
菅谷からしてみればあのピアノはただのモノではない。これは彼女の母――実井小夜子が生前大切に使っていたものだ。娘である寧々子とて一生懸命に練習していた思い出深いピアノなのだから、単なる粗大ごみを見るような目でにべもなく扱える品ではないはずなのだ。あまりにも冷酷な言い捨てに菅谷が絶句していると、
「菅谷様。実井寧々子は死んだのですよ」
と、彼女が告げる。唐突な物言いに目が点になる菅谷。
「貴方がわたくしの中に実井寧々子を見ているのでしたら、それは亡霊です」
「亡、霊……?」
「ええ」
たった二文字の間に、彼女の声が一際沈み込む。低く、暗く、海の底のような計り知れないものへと変じる。
菅谷は彼女の深い影の一端に触れて、元々小さい肝をさらに縮こませた。この時の彼女の目は肝の据わった唯助ですら寒気を禁じ得ないのだから、今その目を向けられている菅谷は尚更だ。彼女の見たことのない表情を前に冷や汗をかき、乾いた舌は声もなく空回るばかりで、目線は彼女を見ようにも見れないという有様である。
「実井寧々子と実井正蔵は、貴方たちのせいで死んだのですよ。――仮に実井正蔵の亡霊もここにいたのなら、どんな顔で貴方を見ていたのでしょうね?」
「…………ッッッ!?!?」
意味深に紡がれた彼女の言葉――その言葉の意図ばかりは、菅谷もすぐに解したらしい。絶望に染まっていた彼の顔が、さらに色濃く青みを帯びた。
「菅谷様。どうしてお父様が貴方を遠方へ追いやったのか、その理由に心当たりがないというわけではありませんでしょう」
「そっ、それは……!」
鉢から出された金魚のように口を開閉させる菅谷に、彼女は初めて笑顔を見せた。――憫笑であった。
菅谷は蛇に睨まれた蛙のように、ただただそこに座している。泳ぎがちだった視線も、今や彼女の冷たい目に釘付けだ。
「菅谷様、わたくしは貴方が好きでした。されど、母と浮気していた貴方を、娘であるわたくしが笑顔で迎えられると思いましたか?」
感動の物語を描いていた、呆れた夢想家であった。どの面下げて彼女に会いに来たのかと怒鳴られる展開くらい、心のどこかで一度は予想しても良かったはずなのに。
「……っも、申し訳ございませんッ! あ、あれは、魔が差して、気の迷いでっ……申し訳ございません!」
菅谷は身を硬直させたまま、釘付けのままに口だけを動かして謝罪を始める。恐慌をきたした彼の口はさらに、求めてもいない弁明まで喋り始めた。
「よ、余命はもう、僅かだと、っだから最期だけは、自分の心に素直になりたいのだと、……それが、あまりにも、切実で――」
冷ややかな彼女の視線が、さらに凍りつく。
零度以下まで冷えきったその目に気づいているのかいないのか。厳冬の吹雪の中に身を置いているような凄まじい震撼ぶりで、彼の口だけが動き続ける。
「っは、初めは、お断りしたのです! でも、一度だけでいいから、頼むと……最期だけは、あ、愛した人と、そう言われて、同情心からつい、応じてしまって……! し、しかし奥様は、ほ、本当は、最初から、旦那様との結婚は、望んでいなかったと……」
彼女の前でよくもまあそんなことを抜かせたものだ――もしこの場に三八か唯助がいたなら、怒髪天を衝くままに叫んでいたかもしれない。実際には襖の向こう側で状況を見守っていた彼らだが、やはりそれでも腹には据えかねて、怒鳴り込んでやろうかと立ち上がった。その時だった。
「もう結構です!!」
それよりも先に、怒気を含んだ彼女の声が部屋の空気を揺らす。
「なにが『ピアノの声が聞こえる』ですか! なにが『あるべきところへ帰したい』ですか! あのピアノのことをなにも知らないで! あれは父が、愛する母にその証として贈ったものです!」
一途な父の愛情とは裏腹に、母は許嫁の父を愛してはいなかった。そんな当人たちの心模様など、他人が口出しできる領域ではない。両者の感情の食い違いを咎める権利など、誰にもありはしない。――さりとて。
「皮肉なものですよ。お父様の愛の証たるピアノが、愛を踏みにじった貴方の自己満足で買い戻されたなんて」
一途に母を愛し続けた父の魂がこうまで屈辱的に蹂躙されたのは、彼女にとって許しがたいことであった。彼女の怒りは、冷静の殻を突き破って、ついにむき出しになる。
「貴方たちの不義のせいで、父は長年苦しんでいました。愛していた母と、信頼していた使用人に裏切られた父の苦しみは、死ぬことでしか安寧を得られぬほど壮絶でありました」
かてて加えて、一人で抱え込んで苦しんでいた愛娘に何もしてやれなかった、親としての自責――それらにもがき悶えた末に、実井正蔵は壊れてしまった。愛娘の寧々子ですら癒やせないほどの深手を、その心に負ったのだ。
「もう二度とここへはいらっしゃらないで。ピアノはいりませんので、どうぞお好きになさってください」
彼女は毒のこもった吐息と共に吐き捨てると、襖の向こうで待機していた二人へ呼びかける。
「みや様、唯助さん。話は以上です。お付き合いさせてしまって申し訳ありませんでした」
二人は今度こそ襖を開け放つ。その時には、菅谷はただ憮然として、立ち上がる気力も失っていた。さながら大嵐にすべてを攫われたかのような面持ちで。
「菅谷殿、貴殿の依頼に対する答えは以上だ。お引き取り願おう」
三八は懐から取り出した紙煙草を咥え、火をつける。吹き抜けていく風に乗って、煙草の煙が菅谷の鼻をかすめる。しかし、それでも立ち上がれない様子の菅谷を見かねると、三八は
「唯助。すまないが彼を送ってくれ」
と指示を出す。唯助は舌打ちでもしそうな顔でそれに頷くと、菅谷の腕を引いて立ち上がらせた。
「お、嬢様……っ」
それでもまだ何か言いたげな菅谷だったが、彼女は既に彼に対して背中を向けていた。唯助に引っ張られる形で歩き出した彼に、彼女は背を向けたまま、永訣の言葉を送った。
「どうか母と幸せになってくださいまし」
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「お嬢様……」
棚葉町の東端から離れ、中心部にやってきた頃。唯助の後ろでとぼとぼ歩いていた菅谷は、未練がましく彼女を呼んでいた。
「私は……どうして……」
そんなことばかりをぶつぶつ繰り返す彼にいい加減うんざりしていた唯助だったが、このまま菅谷を電車に突っ込んで送り返すつもりはなかった。懐中時計を取り出し、電車の時間までかなりの余裕があることを確認すると、菅谷をわざと人気の少ない路地へ導く。
棚葉町の人々が集まる駅舎に向かっていたはずの菅谷が、辺りの静けさに違和感を抱いた頃。ぴたりと足を止めた唯助が、背を向けたまま語りかける。
「菅谷さん。なんであの場で言い訳した」
「……っ」
短く、しかし鋭く咎める唯助に、萎縮した菅谷はただ「申し訳ありません……」と小さく謝ることしかできない。それでも謝ったところでどうしようもないのだから、唯助はただ呆れて嘆息を漏らすだけだ。
「――なあ。あんた、本当はちゃんと謝ろうとしてたんじゃないのか?」
唯助の口から投げかけられた言葉は、菅谷の胸の中に、波紋のように広がる。弾かれたように顔を上げて、驚愕のままに唯助を見る彼。
「実井正蔵から遠方に追いやられたって時点で、さすがにあんたも気づいてただろ。浮気がバレたって」
「……っ、っ」
菅谷は鋭い刃物で胸を刺されたかのような表情を浮かべる。
「な、ぜ……それを……?」
「姐さんが怒っているのを見た瞬間、あんなに分かりやすく怯え始めたんだ。大体察しはつくよ」
疚しいと感じていることがなければ、彼女が見せた怒りにああまで怯える必要は無いはずだ。唯助は二人が話し合いを始める直前まで、菅谷を観察していたのである。
「ピアノを帰してやりたいってのも本心だったのかもしれねえ。でも、それは方便でもあって、真の目的は謝る方だったんだろ」
実井正蔵が死に、娘は行方不明。生死すら分からない彼女を、しかし彼は六年間も必死に探し続けたのだ。
実井寧々子に会いたい。彼女に謝罪したい。そして叶うなら、あの頃のようにとまではいかずとも、彼女と話がしたい。
――それが、菅谷の本当の願いだった。
「必死に探し続けてようやく話ができたのに、なんで最初の時点で浮気のことを謝らなかった。彼女に問い詰められるまで黙ってた。しかも言い訳まで並べやがって」
彼が寧々子の母と犯した罪は到底許されるものではない。しかし、実井寧々子の生存を切に願う彼の気持ちそのものが決して偽りではないことは、どこをどう見ても疑いようがない。
――だからこそ、唯助は無念でならなかった。
「正直に謝りさえすれば、姐さんはあんたを許すつもりだったんだ。でも、あんたの取った態度でその気持ちも失せちまったんだろうさ」
彼女も完全に菅谷を拒んでいたわけではなかったのだから、菅谷があと少し勇気を出していたら、ここまで惨い結果にはならなかっただろう。六年間も心配して探し続けてくれた菅谷に情のひとつでもかけるべきなのかと、彼女は最後まで思い悩んでいた。しかし、最終的には菅谷を見限り、話を切り上げてしまったのである。
菅谷は唯助の追及にたじろいで、もたもたと答える。
「怖く、なってしまったのです。お嬢様が、お嬢様ではないような、酷く恐ろしい目をしていたので」
臆病風に吹かれ、挫けて、つい保身に走ってしまったのだと言う。
「そりゃそうだわな。大事な家庭をぶち壊したあんたを、優しい目で迎えられるわけねえわな」
己の罪を咎める相手から逃げたくなる気持ちは、唯助とて分からないでもない。しかし、菅谷はよりにもよって、一番取るべきではない行動を取ってしまった。心の弱さゆえに、取り返しのつかない選択肢を自ら選んでしまった。
「今更言うかって話だけどよ。あんた、実井寧々子に会う資格なんか端からなかったんじゃねぇの」
「っ……!」
唯助の口から放たれた咎めの刃が、菅谷の胸を深く貫く。菅谷は胸を押さえて呻くが、それだけでは終わらない。止まらない。
「小夜子さんの想いをきっぱり断れない。寧々子さんの前で正直に謝ることもできない。分別もつかなきゃけじめもつけられない。そんなどうしようもない人間を許そうとしていた優しい人の前でも、結局あんたは言い訳を並べるだけだった」
あれでは彼女も怒って当然だ。むしろ、よくあそこまで怒鳴らずに耐えていたものだ。戯れ言に神経を逆撫でされるまで、最後の最後まで、彼と冷静に話し合いをしようとしていたものだ。
「あんた大人として恥ずかしくないの?」
彼が自分と似ていると同情し、共感していたという実井寧々子とは雲泥の差だ。同じ気弱な性格だとしても、菅谷はあまりにも逃げ腰すぎたのだ。
「ここまで何しに来たんだよ」
「す、すみません」
最初こそ必要以上に気を遣いまくる誠実な人柄なのかとも思ったが、今や何度も下げられる頭には価値の欠片も感じなかった。彼は善人などではなく、善良とも言えない。心根が悪ではなかっただけ、悪人と称するにはあまりにも弱すぎただけだ。
「もうどうしようもないよ。あんたは最後の機会を与えられてもなお、逃げ続けたんだから」
ふん、と鼻を鳴らして、唯助は菅谷を睨む。あらん限りの憤怒をぶつけるように、睨み据える。
「あんたは一生後悔し続けながら生きろ。実井寧々子から向けられた怒りも憎しみも、残さず全部背負っていけ。あんたにできることはもうそれしかない」
これがもし三八の言葉であれば、より確実な呪詛となったのだろう。それでも唯助とて同じ愛子だ、せめて普通の人間のそれよりは効力があってほしい。生き地獄のほうが、あるかも分からない地獄の呵責よりよほど相応しい罰になるだろうから。
――唯助はそう願って、絶望的な表情を浮かべる菅谷に枷をつけるように吐いた。
「これ以上逃げるなよ。死んで償うなんて絶対に許さないからな」
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