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終章「実井寧々子の墓標」
その四
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「――彼が、大好きでした。温かく接してくれた彼が……いつもいつも、孤独なわたくしを気にかけてくれた、優しい彼が大好きでした。彼に褒めてもらいたかったから、ピアノも練習し続けました」
母にはついぞ褒めてもらえなかった――本物の洋琴奏者である実井小夜子は、自身の娘にピアノの才能がないと分かっていたから、正直に娘を評価をしただけのことなのかもしれない。彼女は、それを子供心に寂しく感じていたのだろう。
母にはもらえなかった褒め言葉を与えてくれた菅谷に懐くのは、子供ならば当然のことだ。――けれど。
「あんな秘密、知りたく、なかった。知りさえしなければ、きっと好きなままでいられた……」
彼女はもう菅谷を受け入れられなくなってしまった。真実を見てしまった彼女にとって、菅谷は苦痛を想起させる対象でしかなくなったのだ。
「なにも、信じられなくなって、怖くなりました」
誠実だと信じていた相手の、不実な真相を知ってしまった。信じていた相手に、その気持ちを裏切られてしまった。幼い彼女の心を深く抉るには、十分すぎた。
「本当は分かっているのです。わたくしは、あの方が酷く憎らしいのです。……憎まずにはいられない自分が、酷く悲しいのです」
できれば二度と会いたくなかった顔だっただろう。菅谷に会えば、彼女は忘れていたかった記憶をもう一度思い出してしまうし、そうなれば菅谷を憎まずにはいられない。彼女が愛していた父は、菅谷が不義を働いたせいで歪んでしまったようなものなのだから。
きゅっと唇を引き結んだ彼女に、胸が締め付けられる。零れ落ちた涙が、雨粒のようにピアノの鍵盤へ落ちていった。彼女の様子を見かねたその時、背中をさすって慰めてあげようかとも考えた。けれど、それは自分の役目ではないような気がして、おれは手を引っこめる。
「……唯助さん。貴方は実井家の跡地へ行って、その眼で実井家の譚を見てきたと仰っていましたね。どうかわたくしに語ってはくれませんか。もう一度、実井寧々子の見つめ直したいのです」
今はもう憎い相手とはいえ、彼や両親とあの家で過ごした日々は、今の彼女にとっても宝物なのかもしれない。だからこそ、彼女は憎しみと愛おしさの間で揺れ動いている。――どっちつかずの心に、決着をつけようとしている。
「なら、おれの口から語るよりもいい方法がありますよ」
「え?」
おれの口から語られる譚は、所詮おれという窓越しに見た譚だ。彼女の求める真実に近いとは言い難い。けれどここは、彼女の夢だ。彼女の譚、彼女の心の有り様を映した世界だ。
「貴方にとっての真実の譚はここにあります」
「それは……どういうことでしょうか?」
「行けば分かりますよ」
おれは雑木林を歩き出す。濃霧が立ち込めていて分かりにくいが、足元には草があまり生えていない、道のようなものがあるのだ。ここが彼女の譚で形成された空間だと言うのなら、この道を辿った先に譚の断片があるはずなのだ。
*****
濃霧の道をよく目を凝らしながら進むと、その道の果てに一軒の建物が見えた。周囲の木々を押しのけるように建つ、西洋式の豪邸だった。
「わたくしの、家……?」
火事でなにもかも焼けてしまう前の、在りし頃の実井邸。おれも調査の時に写真でその姿を見ているが、実際に(というのもどうなのか)目の前に建っているのを見ると、その壮大さに圧倒される。
「中に入ってください。行けばきっと見えますから」
「どこへ行けば良いのですか」
「貴方が行こうと思った場所に」
彼女は戸惑い気味に、豪邸の扉を開ける。暗がりにわずかな青い光が入り込む。青く照らされたその先には、先日のおれが見た通りの広い玄関があった。中に入れば、天井には鈴蘭を模した形の照明があり、玄関の奥には木製の手すりがついた二階への階段もある。床には塵ひとつなく、天井も蜘蛛の巣ひとつない。掃除が細やかに行き届いた空間だ。彼女はそれらの内装を確かめるように見てから、左手に進んだ。
家の奥に進むと、内装や調度品の数々がかつての実井家の財力を物語ってくる。どれを見ても、決して成金的な俗っぽさや無粋さを感じさせない。今更ながら、この人は本当に生粋の華族のお嬢様だったのだなぁと実感する。
葡萄色の絨毯の上を彼女が行く。踏みしめる足の感触も一つ一つ確かめるように。長い廊下に並ぶ扉の前をいくつか通り抜けて、彼女はその突き当たり、一番奥にあった扉の前で静止する。
「……ここ」
おおよそ等間隔で並んでいた扉たちの中で、この扉だけがずいぶん距離を置いて設置されていた。その距離から考えると、ここの部屋だけはかなり広い間取りになっているのだろう。
彼女は扉の取っ手に手をかけつつも、しばらくはその手をひねらずにいた。す、と彼女の呼吸音が聞こえる。意を決したように、彼女が扉を開けた。
「……ない」
彼女が小さく呟く。
部屋の中は廊下よりも明るい。窓から注いだほのかな青い光で満たされていた。
「楽器が、ない」
部屋の中をあちこち見回しながら、彼女は呟く。
「ここはなんの部屋だったんですか?」
「演奏用のお部屋ですよ。ここにピアノやヴァイオリンなどの楽器があったはずなのです。楽譜も本棚の中に置いていたはずなのですけれど……」
ピアノは外にあったから良いとして、他の楽器や楽譜は彼女の言う通り、どこにもなかった。一応、部屋にあった戸棚や洋箪笥の引き出しの中も探してみたが、やはり見つからない。
「まあ、あったところで……わたくしはどの楽器もまともに演奏できませんでしたけれどね」
音楽家の娘なのに、とため息をつく彼女。もしかすると、彼女にとってはピアノ以外の楽器はそれほど重要なものではなかったのかもしれない。音楽の道は考えてなかったと聞いているから、それを反映した風景とも言えるのか。
考察していると、「あ」という彼女の声が聞こえた。
「奥に何かが引っかかっていますね」
彼女は部屋の隅にあった小さな洋箪笥の引き出しを開けて、その奥に手を突っ込んでいた。どうやら引き出しの奥に何かが挟まっているらしい。よいしょと彼女が掴み出したのは、古びた薄い冊子だった。見れば、表紙に外国語で言葉が綴られている。……情けないことだが、おれは大陽本語以外の言語が欠片も読めなかった。
「これ、なんて書いてあるんです?」
恥を忍んで聞くと彼女は
「『ソルフェージュ』と読むのですよ。楽譜を読む練習をするための楽譜です」
と答えてくれる。
彼女が開いた冊子の中身は、五本線の上に黒丸が配置された、奇妙な図形の集合体だ。おれは楽譜がどんなものか知らなかったから、ちょうど天道虫くらいの大きさの黒い点が沢山並んでいたのが、おびただしい数の虫が這っているように見えた。
「……そういえば、小さい頃はこれを使って練習していましたね」
楽譜に指を這わせながら、彼女は懐かしさに目を細める。
――その時だった。
唐突に、部屋の照明がついた。薄暗かった部屋全体が明るくなったのだ。お互いに顔を見合せたが、勿論、おれも彼女も照明のスイッチには手を伸ばしていない。
突然の事態に驚いているところへさらに、部屋の入口から、どこかで聞いた覚えのある無邪気な女の子の声が聞こえたような気がした。……重ねて情けないことだが、おれは幽霊嫌いでもあるので鳥肌が立っていたし、多分顔も青ざめていた。
『ねえねえ、早く。こっちにきて』
女の子の声が、さらに形を帯びてくる。彼女もその声を聞くと、ぎくりと肩を揺らしていた。……怖がりがおれだけじゃなくて心底良かった。おれと彼女はお互いに青い顔で見合わせつつ、同時に声がした入口の方へゆっくりと振り返った。
「「……え?」」
そこにいたのは、四、五歳くらいの女の子だった。伸ばした黒髪を可愛らしいリボンで結った着物姿の女の子が、開けっ放しにしていた扉から入ってきたのだ。
おれと彼女が声を出したのは、いつの間にか部屋の真ん中にピアノが置かれていたからだ。先ほどまで外の林にあったはずのピアノが、最初からそこにあったかのように鎮座している。
「あれは寧々子さん、ですか?」
女の子のつぶらな黒い瞳と口元の黒子は、彼女にも共通した特徴だ。彼女はこくりと頷いた。
「……ええ。わたくしは、幼少期は着物を着ていましたから」
おれの言葉に応えてはくれるが、彼女の視線は女の子に釘付けだった。
女の子は部屋の外にいる誰かを手招いている。すると、少し遅れて――洋服姿の小太りな丸眼鏡の男が部屋に入ってきた。
「菅谷、様……」
男は、紛れもなく菅谷だった。しかし、目の前にいる菅谷の見た目はおれの記憶よりも若いように見える。
『お嬢様、廊下を走ってはいけませんよ』
『だって、早く弾きたかったんだもの』
女の子は諌められたことに対して、ぷくぷく頬をふくらませていた。
『はは、今日はずいぶん張り切っているね、寧々子』
困った様子の菅谷の後ろからさらにもう二人、部屋の中に入ってくる。
「お父様……お母様……」
入ってきた男の方の顔は、おれもすぐに分かった。実井邸の譚で既に見ていた実井正蔵――その若かりし姿だ。察するに、その隣の女性は彼女の母・実井小夜子だろう。髪型の違いなどはあるが、顔立ちは驚くほど彼女とよく似ていた。
『ねえねえ、見ててね』
幼い寧々子はピアノの椅子へ、袖を振り回してぱたぱた走り寄る。そのまま椅子の上に自力でよじ登ろうとするが、着物の裾が乱れてしまうと菅谷が止める。可愛らしい娘の姿に笑みを零す夫妻。菅谷は寧々子を抱き上げて椅子に座らせると、彼女の体格に合わせて椅子を高く調節してやっていた。
『見ててね?』
『ええ、見ておりますよ』
二度同じことを言って念を押す寧々子に、菅谷は微笑みで返す。愛くるしい子供に対して大人が向ける、まさにそんな眼差しだった。菅谷や両親に見守られているのを確認した寧々子は、小さな手指をいっぱいに伸ばして、ピアノを弾き始めた。
奏でられたのは、曲とも言えない音の連なりだった。先ほど聞いた彼女の演奏は拙いなりに両手がきちんと連動していたが、寧々子の演奏は両手の動きもてんでばらばらだ。とん、ぴん、たたん、と鍵盤を押して鳴らしているだけの、滑稽であどけない演奏である。
――そうか、とおれは悟った。
これこそ、おれが実井邸で見た、最古の譚の欠片――古ぼけていた記憶の再生。幼い寧々子が奏でるその音は、おれがあの時聞いた音と同じだった。
短い短い演奏を終えて、寧々子は椅子から降りると、まるで本物の奏者のように丁寧なお辞儀をしてみせた。
『お上手ですよ、お嬢様。前よりずっと上達されています。しかも暗譜までなさったのですね』
音楽のいろはも分からないおれは正直、今のは上手だったのか? などと考えていたが、相手は子供なのだからあえて言うまい。
しかし菅谷は、小さな演奏家に大きな拍手と惜しみない賛辞を贈っていた。大っぴらに褒めちぎられて照れくさそうに笑う寧々子。
『ねえ、わたくしが大人になったらね、演奏会を開くの』
そして、彼女は無邪気な笑顔のまま、その胸に抱いた夢を語り始めた。
『指揮はお父様で、お母様と一緒に弾くの。いろんな場所で、いろんな人に見てもらうの。菅谷さんもきっと見にいらしてね!』
寧々子は、とびきりの笑顔を菅谷に向ける。菅谷はそれを見て、大層嬉しそうに頷いた。
『ええ、必ず。必ず参ります。楽しみにしていますよ、お嬢様』
……その笑顔が取り繕ったものであるとは、思えなかった。四歳か五歳頃の彼女が菅谷と交わしたという約束は、幼いなりの精一杯の愛情表現であって、それはきっと菅谷の胸にも温かく響いていたのだ。
――それなのに、菅谷の想いが彼女に届くことは、彼女の心に響くことはなかった。のちに、この少女の母である小夜子と菅谷が、道ならぬ恋をしてしまったせいで。
「う、うぅ……っ」
途端、おれの横で光景を見続けていた彼女が、膝から崩れ落ちた。
「ううう……~っ!」
彼女は咽び泣いていた。菅谷と両親と過ごした、優しく温かい日々――薄れかけていた愛しい譚を前にして。
かつての実井邸には、胸を締めつけるほどに幸せな家族の姿が、確かにあった。
*****
再生されていた記憶はやがて停止した。舞台の終幕を告げるかのように、照明が消える。
それからしばらく泣いていた彼女が、ようやく落ち着きを見せた頃に
「大丈夫ですか?」
と声をかけた。涙を拭いながら、彼女が頷く。
「『結』は、見い出せそうですか?」
「ええ」
詰め物をしたような苦しい声ではあったが、彼女ははっきりと答えた。
「……でも、もう少しだけ待ってください。覚悟を決める時間が、欲しいのです」
彼女は顔を上げる。頬は濃く赤みを帯び、長い睫毛はまだ乾かぬ涙で濡れている。
「彼を咎め、憎しみの目を向ける覚悟が、わたくしにはまだできないのです」
けれど、潤んだ目には一点の濁りもない。雨で全てが洗い流された後のように澄んでいた。
「菅谷を許さない。そういうことですか?」
「そういう訳ではありません。けれど、彼にはわたくしの憎しみを知ってもらいたいのです。そうでなければ、父があまりにも浮かばれませんから」
憎しみをぶつける、ではなく。憎しみを知ってもらうのだと、彼女は言う。そこに滲んでいるのは憎しみというよりも、怒りだった。彼女が長らく蓋をしてしまい込んでいた、誰にも悟らせなかった――積年の怒り。
「……分かりました」
覚悟が決まっていないとは言っても、心は決まっていたようだった。ならば、おれも最後まで読み解く者としての役目を全うしようと、心に決めた。
「貴方の『結』を最後まで見届けさせてもらいます」
「……ありがとう、唯助さん」
彼女はおれの方へ向き直ると、苦しそうに微笑みながら礼を言った。
「わたくし、やっと向き合えた。ようやく、自分の気持ちを見つめられたのです」
屋敷の外に充満していた霧が晴れていく。窓のそばに立つ彼女の微笑みに、鮮やかな青い光の筋が差し込む。彼女の白い肌や、たっぷりの黒髪、光沢のある洋服の生地も、鮮やかな青に満たされていく。
「不思議。息苦しいはずなのに、久しぶりに生きた心地がするのです」
――外を見ると、空には目にも鮮やかな月輪が浮かんでいた。喉を刺すほど冷たく冴え渡った光が照らすのは、夜の精霊とでも言いたくなるような、美しい女性の姿。
おれは彼女の心が映し出すその光景に、見とれてしまっていた。
母にはついぞ褒めてもらえなかった――本物の洋琴奏者である実井小夜子は、自身の娘にピアノの才能がないと分かっていたから、正直に娘を評価をしただけのことなのかもしれない。彼女は、それを子供心に寂しく感じていたのだろう。
母にはもらえなかった褒め言葉を与えてくれた菅谷に懐くのは、子供ならば当然のことだ。――けれど。
「あんな秘密、知りたく、なかった。知りさえしなければ、きっと好きなままでいられた……」
彼女はもう菅谷を受け入れられなくなってしまった。真実を見てしまった彼女にとって、菅谷は苦痛を想起させる対象でしかなくなったのだ。
「なにも、信じられなくなって、怖くなりました」
誠実だと信じていた相手の、不実な真相を知ってしまった。信じていた相手に、その気持ちを裏切られてしまった。幼い彼女の心を深く抉るには、十分すぎた。
「本当は分かっているのです。わたくしは、あの方が酷く憎らしいのです。……憎まずにはいられない自分が、酷く悲しいのです」
できれば二度と会いたくなかった顔だっただろう。菅谷に会えば、彼女は忘れていたかった記憶をもう一度思い出してしまうし、そうなれば菅谷を憎まずにはいられない。彼女が愛していた父は、菅谷が不義を働いたせいで歪んでしまったようなものなのだから。
きゅっと唇を引き結んだ彼女に、胸が締め付けられる。零れ落ちた涙が、雨粒のようにピアノの鍵盤へ落ちていった。彼女の様子を見かねたその時、背中をさすって慰めてあげようかとも考えた。けれど、それは自分の役目ではないような気がして、おれは手を引っこめる。
「……唯助さん。貴方は実井家の跡地へ行って、その眼で実井家の譚を見てきたと仰っていましたね。どうかわたくしに語ってはくれませんか。もう一度、実井寧々子の見つめ直したいのです」
今はもう憎い相手とはいえ、彼や両親とあの家で過ごした日々は、今の彼女にとっても宝物なのかもしれない。だからこそ、彼女は憎しみと愛おしさの間で揺れ動いている。――どっちつかずの心に、決着をつけようとしている。
「なら、おれの口から語るよりもいい方法がありますよ」
「え?」
おれの口から語られる譚は、所詮おれという窓越しに見た譚だ。彼女の求める真実に近いとは言い難い。けれどここは、彼女の夢だ。彼女の譚、彼女の心の有り様を映した世界だ。
「貴方にとっての真実の譚はここにあります」
「それは……どういうことでしょうか?」
「行けば分かりますよ」
おれは雑木林を歩き出す。濃霧が立ち込めていて分かりにくいが、足元には草があまり生えていない、道のようなものがあるのだ。ここが彼女の譚で形成された空間だと言うのなら、この道を辿った先に譚の断片があるはずなのだ。
*****
濃霧の道をよく目を凝らしながら進むと、その道の果てに一軒の建物が見えた。周囲の木々を押しのけるように建つ、西洋式の豪邸だった。
「わたくしの、家……?」
火事でなにもかも焼けてしまう前の、在りし頃の実井邸。おれも調査の時に写真でその姿を見ているが、実際に(というのもどうなのか)目の前に建っているのを見ると、その壮大さに圧倒される。
「中に入ってください。行けばきっと見えますから」
「どこへ行けば良いのですか」
「貴方が行こうと思った場所に」
彼女は戸惑い気味に、豪邸の扉を開ける。暗がりにわずかな青い光が入り込む。青く照らされたその先には、先日のおれが見た通りの広い玄関があった。中に入れば、天井には鈴蘭を模した形の照明があり、玄関の奥には木製の手すりがついた二階への階段もある。床には塵ひとつなく、天井も蜘蛛の巣ひとつない。掃除が細やかに行き届いた空間だ。彼女はそれらの内装を確かめるように見てから、左手に進んだ。
家の奥に進むと、内装や調度品の数々がかつての実井家の財力を物語ってくる。どれを見ても、決して成金的な俗っぽさや無粋さを感じさせない。今更ながら、この人は本当に生粋の華族のお嬢様だったのだなぁと実感する。
葡萄色の絨毯の上を彼女が行く。踏みしめる足の感触も一つ一つ確かめるように。長い廊下に並ぶ扉の前をいくつか通り抜けて、彼女はその突き当たり、一番奥にあった扉の前で静止する。
「……ここ」
おおよそ等間隔で並んでいた扉たちの中で、この扉だけがずいぶん距離を置いて設置されていた。その距離から考えると、ここの部屋だけはかなり広い間取りになっているのだろう。
彼女は扉の取っ手に手をかけつつも、しばらくはその手をひねらずにいた。す、と彼女の呼吸音が聞こえる。意を決したように、彼女が扉を開けた。
「……ない」
彼女が小さく呟く。
部屋の中は廊下よりも明るい。窓から注いだほのかな青い光で満たされていた。
「楽器が、ない」
部屋の中をあちこち見回しながら、彼女は呟く。
「ここはなんの部屋だったんですか?」
「演奏用のお部屋ですよ。ここにピアノやヴァイオリンなどの楽器があったはずなのです。楽譜も本棚の中に置いていたはずなのですけれど……」
ピアノは外にあったから良いとして、他の楽器や楽譜は彼女の言う通り、どこにもなかった。一応、部屋にあった戸棚や洋箪笥の引き出しの中も探してみたが、やはり見つからない。
「まあ、あったところで……わたくしはどの楽器もまともに演奏できませんでしたけれどね」
音楽家の娘なのに、とため息をつく彼女。もしかすると、彼女にとってはピアノ以外の楽器はそれほど重要なものではなかったのかもしれない。音楽の道は考えてなかったと聞いているから、それを反映した風景とも言えるのか。
考察していると、「あ」という彼女の声が聞こえた。
「奥に何かが引っかかっていますね」
彼女は部屋の隅にあった小さな洋箪笥の引き出しを開けて、その奥に手を突っ込んでいた。どうやら引き出しの奥に何かが挟まっているらしい。よいしょと彼女が掴み出したのは、古びた薄い冊子だった。見れば、表紙に外国語で言葉が綴られている。……情けないことだが、おれは大陽本語以外の言語が欠片も読めなかった。
「これ、なんて書いてあるんです?」
恥を忍んで聞くと彼女は
「『ソルフェージュ』と読むのですよ。楽譜を読む練習をするための楽譜です」
と答えてくれる。
彼女が開いた冊子の中身は、五本線の上に黒丸が配置された、奇妙な図形の集合体だ。おれは楽譜がどんなものか知らなかったから、ちょうど天道虫くらいの大きさの黒い点が沢山並んでいたのが、おびただしい数の虫が這っているように見えた。
「……そういえば、小さい頃はこれを使って練習していましたね」
楽譜に指を這わせながら、彼女は懐かしさに目を細める。
――その時だった。
唐突に、部屋の照明がついた。薄暗かった部屋全体が明るくなったのだ。お互いに顔を見合せたが、勿論、おれも彼女も照明のスイッチには手を伸ばしていない。
突然の事態に驚いているところへさらに、部屋の入口から、どこかで聞いた覚えのある無邪気な女の子の声が聞こえたような気がした。……重ねて情けないことだが、おれは幽霊嫌いでもあるので鳥肌が立っていたし、多分顔も青ざめていた。
『ねえねえ、早く。こっちにきて』
女の子の声が、さらに形を帯びてくる。彼女もその声を聞くと、ぎくりと肩を揺らしていた。……怖がりがおれだけじゃなくて心底良かった。おれと彼女はお互いに青い顔で見合わせつつ、同時に声がした入口の方へゆっくりと振り返った。
「「……え?」」
そこにいたのは、四、五歳くらいの女の子だった。伸ばした黒髪を可愛らしいリボンで結った着物姿の女の子が、開けっ放しにしていた扉から入ってきたのだ。
おれと彼女が声を出したのは、いつの間にか部屋の真ん中にピアノが置かれていたからだ。先ほどまで外の林にあったはずのピアノが、最初からそこにあったかのように鎮座している。
「あれは寧々子さん、ですか?」
女の子のつぶらな黒い瞳と口元の黒子は、彼女にも共通した特徴だ。彼女はこくりと頷いた。
「……ええ。わたくしは、幼少期は着物を着ていましたから」
おれの言葉に応えてはくれるが、彼女の視線は女の子に釘付けだった。
女の子は部屋の外にいる誰かを手招いている。すると、少し遅れて――洋服姿の小太りな丸眼鏡の男が部屋に入ってきた。
「菅谷、様……」
男は、紛れもなく菅谷だった。しかし、目の前にいる菅谷の見た目はおれの記憶よりも若いように見える。
『お嬢様、廊下を走ってはいけませんよ』
『だって、早く弾きたかったんだもの』
女の子は諌められたことに対して、ぷくぷく頬をふくらませていた。
『はは、今日はずいぶん張り切っているね、寧々子』
困った様子の菅谷の後ろからさらにもう二人、部屋の中に入ってくる。
「お父様……お母様……」
入ってきた男の方の顔は、おれもすぐに分かった。実井邸の譚で既に見ていた実井正蔵――その若かりし姿だ。察するに、その隣の女性は彼女の母・実井小夜子だろう。髪型の違いなどはあるが、顔立ちは驚くほど彼女とよく似ていた。
『ねえねえ、見ててね』
幼い寧々子はピアノの椅子へ、袖を振り回してぱたぱた走り寄る。そのまま椅子の上に自力でよじ登ろうとするが、着物の裾が乱れてしまうと菅谷が止める。可愛らしい娘の姿に笑みを零す夫妻。菅谷は寧々子を抱き上げて椅子に座らせると、彼女の体格に合わせて椅子を高く調節してやっていた。
『見ててね?』
『ええ、見ておりますよ』
二度同じことを言って念を押す寧々子に、菅谷は微笑みで返す。愛くるしい子供に対して大人が向ける、まさにそんな眼差しだった。菅谷や両親に見守られているのを確認した寧々子は、小さな手指をいっぱいに伸ばして、ピアノを弾き始めた。
奏でられたのは、曲とも言えない音の連なりだった。先ほど聞いた彼女の演奏は拙いなりに両手がきちんと連動していたが、寧々子の演奏は両手の動きもてんでばらばらだ。とん、ぴん、たたん、と鍵盤を押して鳴らしているだけの、滑稽であどけない演奏である。
――そうか、とおれは悟った。
これこそ、おれが実井邸で見た、最古の譚の欠片――古ぼけていた記憶の再生。幼い寧々子が奏でるその音は、おれがあの時聞いた音と同じだった。
短い短い演奏を終えて、寧々子は椅子から降りると、まるで本物の奏者のように丁寧なお辞儀をしてみせた。
『お上手ですよ、お嬢様。前よりずっと上達されています。しかも暗譜までなさったのですね』
音楽のいろはも分からないおれは正直、今のは上手だったのか? などと考えていたが、相手は子供なのだからあえて言うまい。
しかし菅谷は、小さな演奏家に大きな拍手と惜しみない賛辞を贈っていた。大っぴらに褒めちぎられて照れくさそうに笑う寧々子。
『ねえ、わたくしが大人になったらね、演奏会を開くの』
そして、彼女は無邪気な笑顔のまま、その胸に抱いた夢を語り始めた。
『指揮はお父様で、お母様と一緒に弾くの。いろんな場所で、いろんな人に見てもらうの。菅谷さんもきっと見にいらしてね!』
寧々子は、とびきりの笑顔を菅谷に向ける。菅谷はそれを見て、大層嬉しそうに頷いた。
『ええ、必ず。必ず参ります。楽しみにしていますよ、お嬢様』
……その笑顔が取り繕ったものであるとは、思えなかった。四歳か五歳頃の彼女が菅谷と交わしたという約束は、幼いなりの精一杯の愛情表現であって、それはきっと菅谷の胸にも温かく響いていたのだ。
――それなのに、菅谷の想いが彼女に届くことは、彼女の心に響くことはなかった。のちに、この少女の母である小夜子と菅谷が、道ならぬ恋をしてしまったせいで。
「う、うぅ……っ」
途端、おれの横で光景を見続けていた彼女が、膝から崩れ落ちた。
「ううう……~っ!」
彼女は咽び泣いていた。菅谷と両親と過ごした、優しく温かい日々――薄れかけていた愛しい譚を前にして。
かつての実井邸には、胸を締めつけるほどに幸せな家族の姿が、確かにあった。
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再生されていた記憶はやがて停止した。舞台の終幕を告げるかのように、照明が消える。
それからしばらく泣いていた彼女が、ようやく落ち着きを見せた頃に
「大丈夫ですか?」
と声をかけた。涙を拭いながら、彼女が頷く。
「『結』は、見い出せそうですか?」
「ええ」
詰め物をしたような苦しい声ではあったが、彼女ははっきりと答えた。
「……でも、もう少しだけ待ってください。覚悟を決める時間が、欲しいのです」
彼女は顔を上げる。頬は濃く赤みを帯び、長い睫毛はまだ乾かぬ涙で濡れている。
「彼を咎め、憎しみの目を向ける覚悟が、わたくしにはまだできないのです」
けれど、潤んだ目には一点の濁りもない。雨で全てが洗い流された後のように澄んでいた。
「菅谷を許さない。そういうことですか?」
「そういう訳ではありません。けれど、彼にはわたくしの憎しみを知ってもらいたいのです。そうでなければ、父があまりにも浮かばれませんから」
憎しみをぶつける、ではなく。憎しみを知ってもらうのだと、彼女は言う。そこに滲んでいるのは憎しみというよりも、怒りだった。彼女が長らく蓋をしてしまい込んでいた、誰にも悟らせなかった――積年の怒り。
「……分かりました」
覚悟が決まっていないとは言っても、心は決まっていたようだった。ならば、おれも最後まで読み解く者としての役目を全うしようと、心に決めた。
「貴方の『結』を最後まで見届けさせてもらいます」
「……ありがとう、唯助さん」
彼女はおれの方へ向き直ると、苦しそうに微笑みながら礼を言った。
「わたくし、やっと向き合えた。ようやく、自分の気持ちを見つめられたのです」
屋敷の外に充満していた霧が晴れていく。窓のそばに立つ彼女の微笑みに、鮮やかな青い光の筋が差し込む。彼女の白い肌や、たっぷりの黒髪、光沢のある洋服の生地も、鮮やかな青に満たされていく。
「不思議。息苦しいはずなのに、久しぶりに生きた心地がするのです」
――外を見ると、空には目にも鮮やかな月輪が浮かんでいた。喉を刺すほど冷たく冴え渡った光が照らすのは、夜の精霊とでも言いたくなるような、美しい女性の姿。
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三十年、ただ待ち続けた女。
そして、すべてを知った上で扉を開く、次の世代。
これは、
遅れて届いた手紙が、
人生と運命を静かに書き換えていく物語。
ネグレクトされていた四歳の末娘は、前世の経理知識で実家の横領を見抜き追放されました。これからはもふもふ聖獣と美食巡りの旅に出ます。
旅する書斎(☆ほしい)
ファンタジー
アークライト子爵家の四歳の末娘リリアは、家族から存在しないものとして扱われていた。食事は厨房の残飯、衣服は兄姉のお下がりを更に継ぎ接ぎしたもの。冷たい床で眠る日々の中、彼女は高熱を出したことをきっかけに前世の記憶を取り戻す。
前世の彼女は、ブラック企業で過労死した経理担当のOLだった。
ある日、父の書斎に忍び込んだリリアは、ずさんな管理の家計簿を発見する。前世の知識でそれを読み解くと、父による悪質な横領と、家の財産がすでに破綻寸前であることが判明した。
「この家は、もうすぐ潰れます」
家族会議の場で、リリアはたった四歳とは思えぬ明瞭な口調で破産の事実を突きつける。激昂した父に「疫病神め!」と罵られ家を追い出されたリリアだったが、それは彼女の望むところだった。
手切れ金代わりの銅貨数枚を握りしめ、自由を手に入れたリリア。これからは誰にも縛られず、前世で夢見た美味しいものをたくさん食べる生活を目指す。
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