貸本屋七本三八の譚めぐり ~実井寧々子の墓標~

茶柱まちこ

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終章「実井寧々子の墓標」

その三

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「お母さんはもしかして、菅谷と浮気していたんじゃないですか?」
彼女は、驚く。それはもう見事に、目を丸くして、口を軽く開けて、驚く。
自分の予想が外れていなかったのだと確信した。
「よく、分かりましたね。てっきり、わたくしの口から言うべきことかと思っていました。どうして分かったのですか」
「ほとんど勘で当てにいったようなものです」
とはいえ、振り返ってみれば全くの当てずっぽうというわけでもなかったように思う。この予測を導き出すための要素は、手帳をよく見返せば転がっていた。
――聞き取りの時点で、菅谷がやたら実井寧々子の母を褒めちぎっていたこと。おれは菅谷の抱いている感情が並々ならぬものだと感じた。
――『空の鳥かご』の読み解きで、実井正蔵と実井寧々子が不自然に母の話題を避けていたという記録を見た時も、おれの脳裏にはその疑惑が浮かんでいた。
おれの頭の隅で常にちらついてはいたものの、曲解を防ぐためあえてミツユキに言わなかった憶測――けれど、当てずっぽうにも近かったこの予想が、結局最後まで覆らなかったのだ。
直感とは、脳の様々な知識や経験から無意識の間に弾き出されるものらしい。おれも無意識のうちに、転がっていた要素を拾っていたのかもしれない。
「さすが、みや様が認めた弟子ですね。本当に驚きました」
「それほどでもないですよ」
名探偵のように、名推理で真相をずばり当てたわけでもない。いくつか浮かんだ予想のうち、最初から直感で浮かんでいたものがたまたま当たっただけだ。その偶然自体はすごいとは思ったが、おれ自身が特別すごいことをしたわけではない。
「じゃあ、お父さんがおかしくなったのは、それが原因ということですか?」
「少なくとも、お父様を苦しめた元凶はそういうことなのでしょうね」
でも、と彼女は目を伏せながら言う。
「お母様と菅谷様の関係に最初に気づいたのは、わたくしでした」
一度伏せた目を再びおれに真っ直ぐ向けてくる。おれは彼女が覚悟を決めたように見えた。
「お母様が亡くなる、数日前のことでした。その時は夜で、わたくしは大雨と雷の音が怖くて、一人で眠れずにいました。なので、お母様のベッドに寄せてもらおうとしたのです。……その時に、聞いてしまったのですよ」

――叶うことなら、私も貴方と一緒になりたかった――
――本当に心の底から愛していたのは、貴方だった――
――でも、今は娘がいるから……――

彼女の口から語られた母親の台詞が、おれの喉にぐっさりと深く突き刺さった。
「部屋の中を覗いてみれば、お母様が菅谷様と話しているではありませんか。……あんなお母様の顔を、わたくしは見たことがありませんでした」
それは娘である彼女だけでなく、伴侶である彼女の父親にさえ見せたことのない顔だったのかもしれない。――母親の顔ではない、女の顔。
恋する女の顔を父親以外に見せている、自分の母親。不幸にもそれを見てしまった娘の衝撃は、果たしていかほどのものか。
「お父様とお母様は、幼い頃から結婚を決められていた許嫁でした。互いの家の当主同士が決めた結婚ですから、母に拒否権などありませんでした。けれどお父様は、お母様を深く愛して、大切になさっていました」
彼女はピアノの方へ目をやり、青く照り返すその黒い肌をそっと撫でた。
「……幼い頃のわたくしは、自分がお母様の邪魔をしているのではないかと思ってしまったのです」
それは、聡く自虐的な、彼女ならではの思考かもしれない。
『今は娘がいるから』……という言葉を聞いて、彼女は幼子らしからぬことを考えてしまったのだ。
母親は娘である自分を優先するために最愛の人を拒んでいる――ではなく、
母親は娘である――と。
人妻に言い寄っていた菅谷ではなく、その相手に愛の言葉を返した母でもなく、あろうことかなんの罪もない自分自身に、彼女は厭忌の矛先を向けたのである。
「そんな、そんなこと」
それではあまりにも彼女が哀れすぎる。おれが彼女の思考を必死に否定しようとする前に、彼女がその先を遮った。
「必死に否定しようとしました。両親はとても仲のいい夫婦でしたから、お母様はきっとお父様を愛していたと。わたくしにも一心に愛情を注いでくださったと、自分に言い聞かせて信じようとしました。……でも、できなかったのです。菅谷様を見る度に、あの雷雨の夜に受けた衝撃を思い出してしまうのです」
「……っ!」
思い出す。
菅谷は実井正蔵が最後まで解雇しなかった使用人だ。娘がよく懐いているから、娘のことを気にかけてくれる親切な人だったから。――正蔵から見た彼は、そんな人物だったのだ。
そのことを思い出して、おれは怖気が走った。
「母が菅谷様とそんな関係にあったことは、父にはとても言えませんでした。父は母亡き後も愛していましたから。ただでさえ、片親になって不安を感じていたお父様に、余計な心配を掛けたくなかったのです」
聡い彼女は父を想っていたからこそ、父の心に傷をつけさせまいとずっと耐え続けていた。
母親の浮気相手から接触されることに。その度に受ける苦痛に――思い出される自己への嫌忌に、悲鳴ひとつ上げることもなく耐えていた。
「正蔵さんは、そのことに気づかなかったんですか」
幼い子供が抱えるにはあまりにも重すぎる。いくら彼女が聡いからといって、それだけの重荷を隠せるわけがない。
案の定、彼女は首を横に振って答えた。
「少なくとも、わたくしがつらい思いをしているということには気づいておられました。ですから、大丈夫かと、なにか心配事があるのではないかと、幾度も聞かれました」
それでも、頑なに彼女は口を割らなかったのだという。尋常小学校でいじめられ、最愛の母まで亡くしたという状況であれば、もっともらしい理由をつけて誤魔化すことなどいくらでもできたのだろう。
「でも、最終的には気づかれたのでしょう。お母様と菅谷様の関係に」
彼女はそう言うと、洋服のポケットから何かを取り出す。
くしゃくしゃに潰されたのを一度広げて、綺麗にたたみ直された、一枚の紙だった。
「ようやく立ち直って、お母様のお部屋の遺品整理をしていた時に、これを見つけたようなのです」
それは鉛筆で黒く塗りつぶされた便箋だった。しかし、よく見ると、鉛筆で塗りつぶされた中に、文字のようなものが白く浮き上がっている。
「……!」
丹念に綴られたその内容は、叶うことのない数多の想いの吐露――恋文だった。その一行目に、『菅谷謙純 様』という名前が確かにある。
「これ、って……」
「母の筆跡で書かれたものです」
頭の片隅を泳いでいた記憶と一枚の紙が、ばちんと繋がる。
実井正蔵が女性の部屋で手紙を片手に泣き崩れていたのは。あの場所は。彼の亡き妻の部屋だったのだ。妻が生前使っていた便箋から、実井正蔵は不幸にも知ってしまったのだ。愛し続けていた妻の不義を。信頼して娘のそばに置き続けていた使用人の、唾棄すべき真実を。
「お父様は菅谷様に遠方の仕事を与え、それから菅谷様が屋敷に来ることはなくなりました。……はそれだったのでしょうね」
実井正蔵にしてみれば、親として不甲斐ないどころの話ではないだろう。片親になって心細いであろう愛娘を守るどころか、逆に気を遣われて、残酷な我慢を強いてしまっていたのだから。
しかし、だからと言って。
「どうして、そこからああまで狂ってしまったのでしょうね。きっと、わたくしが知らないお父様の譚があったのでしょうけれど」
彼女は、濃霧に包まれた空を仰ぐ。うっすらと青く映る木々の影、その先に広がっているであろう空を見上げる。
「お父様は、わたくしの声も届かないところまで行ってしまわれた。どうやっても、戻ってきてはくれなかった」
最後は愛していた娘の心さえも置き去りにして、実井正蔵は安堵しながら焼け死んでいった。
「それで全部終わったと思ったのに。思った通りにいかないものですね、譚とは」
彼女の視線が再び、ピアノのほうへ戻る。彼女はそれっきり、なにも語らなかった。
「貴方は、どうしたいんですか」
おれがそう聞くと、彼女の視線がさらに下へ向く。言葉を選びかねているようだった。口を開いては閉じを二、三度繰り返して、その末に、ゆっくりと吐露した。
「……過去を捨てるということは、実に難しいものです。思い出が愛おしいと感じるこの心も、また事実なのでしょうから」
彼女がまとった上物の洋服。袖がゆったりと膨らんだブラウスに、厚い生地のロングスカート。菅谷の写真や『空の鳥かご』で見た少女のものとよく似た姿は、彼女の未練を映しているのかもしれない。
「唯助さん。わたくしは、菅谷様が嫌いです。もう二度と会いたくないと思っています。でも、同じくらい、彼を好きでいたいとも思っているのです。……この有様を、貴方はおかしいと思いますか」
尋ねてくる彼女自身は、少なからずそう思っているのだろう。横からみた彼女の笑みは、遅疑逡巡ちぎしゅんじゅんな自分に呆れているように見えたから。
きっと、彼女は同意を求めている。おれに、批判されようとしている。
「その判断をおれに委ねたら駄目だと思います」
おれはそうするわけにはいかなかった。たとえそれが彼女の望みだったとしても。おれは読み解く立場なのであって、彼女が自分で見出すべき結を導く立場ではない。菅谷とどう向き合うかを決めるのは、他でもない彼女だ。
「おかしいとかおかしくないとか、間違ってるとか正しいとか、そういう客観的な意見は二の次でしょう。一番重要なのは、当事者の貴方がどうしたいかじゃないんですか」
「どう、したいか……」
彼女は反芻する。反芻して、困り果てたような目で、助けを乞うような目で、おれを見る。
「会いたくないなら会わなくてもいい。でも、おれや旦那に判断を委ねて、自分は目を背けるなんてのは、一番やったら駄目なことですよ」
彼女が再会した菅谷に怯えるのは当たり前のことだし、薄れていた最悪の記憶も蘇ってしまったことだろう。だとしても、第三者が余計な口出しをしていい譚ではない。旦那もそう思っていたから、菅谷を独断で無理に追い出したりはしなかったのだろうし。
「音音さん。どうして菅谷を好きでいたいんですか。どうして、菅谷が好きだったんですか」
おれはまだ、そこを読み解けていない。過去の彼女が菅谷に懐いていたという事実は話に聞いていたし、菅谷の言ったことにも間違いはないだろう。けれど、彼女自身の口からはまだそのことを聞いていないのだ。
「思い出すのは、つらいでしょう。おれも、すごく残酷なことを貴方に聞いていると思います。でも、そうしないといけないんです」
そうしなければ、彼女はいつまでも五里霧中に彷徨い続けることになる。おれは、その迷いを断ち切らせなければならない。おれは、彼女から結を引き出すためにここまで来たのだから。
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