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終章「実井寧々子の墓標」
その二
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霧の中にいるようだった。
ひんやりとした細かい水滴が肌を撫でてきて、もの寂しさを覚える。す、と薄く息を吸ってみると、澄んだ空気が肺に滑り込んでくる。なんとなく空間に馴染んでいなかった自分の体が浄化されて、一体化していくような気がした。
音が聞こえてくる。最初は何の音かも分からないほど曖昧だったのが、次第に形を帯びてくる。長く続くひとつの音ではなく、雨のようにぽつぽつと連鎖する、音の粒だった。聞き馴染みはないものの、その音は耳に心地よく響いてきて、この空間に馴染み始めたおれを招いているようにも思えた。
――重く沈んでいた瞼を、ゆっくりと開ける。そこは木々に囲まれた、青い空間だった。日の光の届かない、濃い霧が満ちた雑木林。その中に、清廉な音色が響いている。
――思い出した。これは、おれも一度だけ聞いた音色だ。あの時に聞いたものはあまりにも稚拙だったから、すぐに気づかなかったのだ。実井邸の夢で見た、一番最後の古ぼけた記憶――とん、ぴん、といった、不揃いな音たち。てんでばらばらに鳴らされていた音たちが、今はひとまとまりの旋律を奏でているのだ。
――一体、誰がこれを演奏しているのだろう。おれはそれを確かめるべく、林の奥へ足を進めた。
霧のおかげで空気がかなり湿っぽい。身につけている服ごと全身をしっとりと濡らされて、しまいには全てを浸されてしまいそうな気がする。嫌な感覚ではない。むしろ、もっと浸りたい。濡れた土の匂いをまとった空気を吸う。この神聖な空間に身を浸して、内も外も浄化されてしまえば、耳馴染みのない旋律もこの体に染み込ませられるような気がして。
音の大きさからしてかなり音源に近づいているはずだが、濃霧のせいで影も見えやしない。おれは音色を奏でているその姿をしかと捉えるまで近づいた。もう音の発生源から零距離といったところまで近づいて、ようやくその実態がはっきりと姿を見せた。
「……!」
と、同時に。相手の方もおれに気づいたらしい。
「……唯助、さん?」
相手の方からしてみれば、誰もいなかったはずの霧の向こうから突然人がやってきたのだから、気づいたというよりも吃驚しただろう。
そして、おれもやっと相手の顔を認識すると、同様に驚いた。
「音音、さん」
椅子に腰をかけていたその人は、まさしく七本音音そのものだった。――おれが最も会いたかった人物。会うべきだった人物。
「驚かせてすみません。その、すごくいい音色だったから、音のする方角を辿ってたらここに着いて」
けれど、目の前の音音さんはいつもと雰囲気が違った。彼女の少女時代――実井寧々子とも少し違う。髪を三つ編みに結った洋服姿の彼女は、あどけないあの頃の少女ではなく、落ち着きを払った大人の女性だ。
「いい音色、ですか。お母様からは、ついぞ褒められることはありませんでしたね」
彼女は自嘲した。
おれは気づいた。目の前の音音さんは、七本音音でありつつも、実井寧々子でもあるのだ。あるいは、実井寧々子のまま大人になった彼女――とでも言うべきなのかもしれない。
「洋琴奏者だったお母様は、もうずっと前に亡くなりました。このピアノは元々、お母様の持ち物だったのです。お父様がお母様の為にと、昔贈ったものだと聞いています」
おれは、ピアノを生で見るのは初めてだった。
黒く塗られた、大きくて重厚な器械。半開きになった蓋の中には、無数の弦と、人間の歯のような部品が整然と並んでいる。彼女が手元のボタンのようなものをとん、と押すと、並んだ歯のような部品がひとつ、ぽんと飛び出る。
彼女の手元には白と黒に塗り分けられた細長いボタンが、これまた海苔がついた歯のように規則正しく並んでいた。
「考えあぐねていたのです。このピアノを、わたくしはどうするべきなのか」
彼女は、巨大な楽器を前に途方に暮れていた。先ほどからいたずらに、手元の歯のひとつを指で押して音を鳴らしている。
おれは今聞くべきところではないと知りつつも、少し気になったことを聞いてみた。
「これ、どんな仕組みで音が鳴ってるんです?」
蓋の中の歯を触ってみる。並んだ歯の中の一つをちょっとだけ摘んでみると、意外と軽い力で持ち上がった。
「それはハンマーと言うのですよ。手元の鍵盤を押すと、ハンマーが弦を叩いて音が鳴るんです」
彼女が試しに、とんとんとん、と三つ鍵盤を押す。それと同時に三つのハンマーが、ぽんぽんぽん、と順番に浮き上がって弦を叩き、たんたんたん、と連続して音が鳴った。
ほー……とおれは妙に感心してしまって、音音さんはそれを可笑しそうに笑っていた。
「一曲、弾いてもよろしいですか」
音音さんはおもむろに口を開いて言う。おれは同じように、おもむろに頷いて返事をした。
おもむろに、彼女の両手の指がぴたりと鍵盤に添えられる。
――そうして静かに、彼女の演奏が始まった。青々とした静寂に満ちた雑木林の中、たった一人の観客を前に開かれた演奏会。
たどたどしく刻まれる音の連なりで、鍵盤を叩く指が震えているのが分かる。まるで踊っている最中の足がもつれて、いつ転けてしまうかと心配になるような危うさ。おれをここまで導いた音色は、こうして立ち止まって聞いていると、案外不安定だった。
聞いているうちに、いつの間にか音の出方が変わっているのに気づく。指先を滑らせる感じの音から、指先で叩く感じの音に、変わっている。なめらかとは言い難い微妙に不規則な音の並びは、しかし、聞いていると次第に愛おしく感じてきた。ピアノなんて弾けやしないおれでも分かる稚拙さ――なのに、それがさほど気に障らないのは、そこに魂が込められているからか。
彼女の手元から表情へ視線を移すと、彼女は陶酔しているようだった。目を閉じて、稚拙な音色を心地よさそうに奏でている。おれも真似をして、視界を閉ざしてみた。すると、ピアノの音がだんだん木々の葉を叩く軽快な雨音に聞こえてきた。降り続ける音の雨の中にいるようなこの旋律に身を委ねると、まさに夢見心地というべき快感がする。音の雨が時間をかけて、おれの体の中を満たしていくようだ。
――おれの体がとっぷりと音の雨に満たされた時、演奏は終わった。目を開けると、青い風景が再び視界に広がる。はあ、と息を吸い込む。
そこまで含めた一連の感覚が気持ちよくて、おれは思わず拍手を送っていた。
「すごく、良かったです」
どんな言葉で褒めていいのか分からなくなるほど、見事な演奏だった。聞き惚れるというのは、こういうことを言うのだろう。生まれて初めての感覚をこんなにも贅沢に味わわせてもらえたのだから、おれはとても満足していた。
音音さんは椅子から立ち上がって、ぺこりと頭を下げる。
「これは母が生前、よく弾いていた曲です。雨音と調和するように作曲されたもので、幼い頃のわたくしもこの曲が弾きたいと言っていました。父はこの曲を演奏していた母に惚れたのだそうです」
指揮者で耳も肥えていただろう実井正蔵を、ど素人の自分に重ねて考えるのはなかなか烏滸がましい気がするが、彼もおれと同じように感じていたのだとしたら、惚れ惚れしてしまうのも納得だった。
「わたくしの腕ではこの程度ですが」
「この程度なんてもんじゃないですよ。あんなにいい演奏だったのに」
「お母様のほうがもっと素敵な演奏をなさいますわ」
そりゃあ、本職の演奏家と比較すればそうなってしまうのかもしれないけれど、彼女の演奏だって十分綺麗だった。ピアノという楽器の音色自体を聞くのが初めてというずぶの素人が褒めても説得力なんてないかもしれないが、おれは本当に素晴らしいと思ったから褒めたのだ。
「夢の中だから、まだこうやって弾けたのでしょう。もう長年ピアノには触れていませんから、現実ではきっと弾けなくなっていると思います」
至極残念そうに言う彼女。その台詞の内容に、おれは引っ掛かりを覚える。
「明晰夢、というのでしょうか。ここは」
彼女は、今いるこの場所が夢の中だと自覚していた。濃霧の感触が、湿土の踏み心地が、演奏の快感が、こんなにも生々しさを持って迫ってくるのに。彼女ははっきりと、ここが現実でないことを自覚していた。
――おれは、この夢が何なのか、既に知っている。
「心眼の夢――」
まさか、自分だけでなく音音さんも夢を見ている立場だとは思わなかった。それはつまり、ここに立っている音音さんは夢の一部ではなく、彼女本人――おれと同じく、肉体のない自我そのものということだ。
「もしかして、これが心に直に……?」
「心に、直に?」
おれが呟いた独り言を、音音さんがそっくりそのまま繰り返して尋ねてくる。
「珱仙先生が言ってたんです。これが、心眼の真の力だって。譚本を介することなく、当事者の口を介することもなく、もっと根源的な譚……当事者の心に、直に聞くことができるって」
だとするなら、目の前の彼女は。洋服をまとった、実井寧々子のまま大人になったような彼女は。取り繕ったところのない、彼女の心そのもの――ということになるのだろう。
彼女は今、七本音音と実井寧々子のどちらでもない。そんなどっちつかずの曖昧な状態にあるのだ。
「……なるほど。この姿は過去を断ち切れていなかったわたくしの心の有様、ということですか」
彼女も理解が早い。旦那ならともかく、彼女がおれの言葉をそんなにすぐ理解するとは思わなかった。旦那の言う通り、彼女は元から聡い人なのだろう。
「貴方がここにやってきたということは、ついにこの時が来たということですね」
「……はい」
そう。おれは今から、とても残酷なことを聞かなければならなかった。彼女も前々からそれを覚悟しているのだろうけれど、いざその場面になると、胸があまりに痛い。
「おれが調べられた範囲のことは、すべて見させてもらいました。実井邸に残された譚の欠片も、旦那が紡いだ『空の鳥かご』も。貴方たち夫婦が、どうして過去を隠しながら、寄り添うことになったのかも」
「…………」
「先日、おれは貴方の変わりように恐怖を覚えました。おれの知っている音音さんらしくない、暗くて冷たい目」
あの時、おれは彼女が二重人格なのかと思ったりもしたが、違った。あれはれっきとした彼女という人格の、隠れた一面なのだ。
温かくて優しい、慈愛に満ちた表の面。暗く冷たい、自虐に満ちた裏の面。――まるで、表裏一体の月のようだ。
「あれは、おれが知らなかっただけの、紛れもない貴方の一面だと分かりました。……怖がって、すみませんでした」
彼女に面と向かって言ったわけではないにしろ、幽霊なんて酷い言い方もしてしまった。失礼極まりない行為をしていたことを、おれは彼女に詫びた。
「良いのですよ。仕方のないことだと思います。わたくしのああいう一面を知っているのは、みや様くらいでしたから。こちらこそ、あの時は嫌な態度をとってしまって申し訳ありませんでした」
だから、顔をお上げになって。
と、彼女は丁寧な口調で言う。おれが頭を上げると同時に、今度は彼女が頭を下げた。
「じゃあ、これでおあいこってことで」
「そうですね」
頭を上げた彼女の口元が、ゆるりと弧を描く。
「さて……なにから話すべきでしょうか。やはり、あの方についてでしょうか」
彼女は俯いて、迷っていた。けれど、おれはここに来る前から、最初にこれを聞こうと心に決めていたことがあった。
「音音さん。おれからひとつ尋ねてもいいですか」
「ええ、構いませんよ」
彼女は手を前に重ねると、これから投げかけられるであろう質問に構えた。
おれはひとつ大きめに呼吸をしてから、彼女の心に問いかけた。
「……あの、音音さん。間違っていたら大変申し訳ないんですけど――
ひんやりとした細かい水滴が肌を撫でてきて、もの寂しさを覚える。す、と薄く息を吸ってみると、澄んだ空気が肺に滑り込んでくる。なんとなく空間に馴染んでいなかった自分の体が浄化されて、一体化していくような気がした。
音が聞こえてくる。最初は何の音かも分からないほど曖昧だったのが、次第に形を帯びてくる。長く続くひとつの音ではなく、雨のようにぽつぽつと連鎖する、音の粒だった。聞き馴染みはないものの、その音は耳に心地よく響いてきて、この空間に馴染み始めたおれを招いているようにも思えた。
――重く沈んでいた瞼を、ゆっくりと開ける。そこは木々に囲まれた、青い空間だった。日の光の届かない、濃い霧が満ちた雑木林。その中に、清廉な音色が響いている。
――思い出した。これは、おれも一度だけ聞いた音色だ。あの時に聞いたものはあまりにも稚拙だったから、すぐに気づかなかったのだ。実井邸の夢で見た、一番最後の古ぼけた記憶――とん、ぴん、といった、不揃いな音たち。てんでばらばらに鳴らされていた音たちが、今はひとまとまりの旋律を奏でているのだ。
――一体、誰がこれを演奏しているのだろう。おれはそれを確かめるべく、林の奥へ足を進めた。
霧のおかげで空気がかなり湿っぽい。身につけている服ごと全身をしっとりと濡らされて、しまいには全てを浸されてしまいそうな気がする。嫌な感覚ではない。むしろ、もっと浸りたい。濡れた土の匂いをまとった空気を吸う。この神聖な空間に身を浸して、内も外も浄化されてしまえば、耳馴染みのない旋律もこの体に染み込ませられるような気がして。
音の大きさからしてかなり音源に近づいているはずだが、濃霧のせいで影も見えやしない。おれは音色を奏でているその姿をしかと捉えるまで近づいた。もう音の発生源から零距離といったところまで近づいて、ようやくその実態がはっきりと姿を見せた。
「……!」
と、同時に。相手の方もおれに気づいたらしい。
「……唯助、さん?」
相手の方からしてみれば、誰もいなかったはずの霧の向こうから突然人がやってきたのだから、気づいたというよりも吃驚しただろう。
そして、おれもやっと相手の顔を認識すると、同様に驚いた。
「音音、さん」
椅子に腰をかけていたその人は、まさしく七本音音そのものだった。――おれが最も会いたかった人物。会うべきだった人物。
「驚かせてすみません。その、すごくいい音色だったから、音のする方角を辿ってたらここに着いて」
けれど、目の前の音音さんはいつもと雰囲気が違った。彼女の少女時代――実井寧々子とも少し違う。髪を三つ編みに結った洋服姿の彼女は、あどけないあの頃の少女ではなく、落ち着きを払った大人の女性だ。
「いい音色、ですか。お母様からは、ついぞ褒められることはありませんでしたね」
彼女は自嘲した。
おれは気づいた。目の前の音音さんは、七本音音でありつつも、実井寧々子でもあるのだ。あるいは、実井寧々子のまま大人になった彼女――とでも言うべきなのかもしれない。
「洋琴奏者だったお母様は、もうずっと前に亡くなりました。このピアノは元々、お母様の持ち物だったのです。お父様がお母様の為にと、昔贈ったものだと聞いています」
おれは、ピアノを生で見るのは初めてだった。
黒く塗られた、大きくて重厚な器械。半開きになった蓋の中には、無数の弦と、人間の歯のような部品が整然と並んでいる。彼女が手元のボタンのようなものをとん、と押すと、並んだ歯のような部品がひとつ、ぽんと飛び出る。
彼女の手元には白と黒に塗り分けられた細長いボタンが、これまた海苔がついた歯のように規則正しく並んでいた。
「考えあぐねていたのです。このピアノを、わたくしはどうするべきなのか」
彼女は、巨大な楽器を前に途方に暮れていた。先ほどからいたずらに、手元の歯のひとつを指で押して音を鳴らしている。
おれは今聞くべきところではないと知りつつも、少し気になったことを聞いてみた。
「これ、どんな仕組みで音が鳴ってるんです?」
蓋の中の歯を触ってみる。並んだ歯の中の一つをちょっとだけ摘んでみると、意外と軽い力で持ち上がった。
「それはハンマーと言うのですよ。手元の鍵盤を押すと、ハンマーが弦を叩いて音が鳴るんです」
彼女が試しに、とんとんとん、と三つ鍵盤を押す。それと同時に三つのハンマーが、ぽんぽんぽん、と順番に浮き上がって弦を叩き、たんたんたん、と連続して音が鳴った。
ほー……とおれは妙に感心してしまって、音音さんはそれを可笑しそうに笑っていた。
「一曲、弾いてもよろしいですか」
音音さんはおもむろに口を開いて言う。おれは同じように、おもむろに頷いて返事をした。
おもむろに、彼女の両手の指がぴたりと鍵盤に添えられる。
――そうして静かに、彼女の演奏が始まった。青々とした静寂に満ちた雑木林の中、たった一人の観客を前に開かれた演奏会。
たどたどしく刻まれる音の連なりで、鍵盤を叩く指が震えているのが分かる。まるで踊っている最中の足がもつれて、いつ転けてしまうかと心配になるような危うさ。おれをここまで導いた音色は、こうして立ち止まって聞いていると、案外不安定だった。
聞いているうちに、いつの間にか音の出方が変わっているのに気づく。指先を滑らせる感じの音から、指先で叩く感じの音に、変わっている。なめらかとは言い難い微妙に不規則な音の並びは、しかし、聞いていると次第に愛おしく感じてきた。ピアノなんて弾けやしないおれでも分かる稚拙さ――なのに、それがさほど気に障らないのは、そこに魂が込められているからか。
彼女の手元から表情へ視線を移すと、彼女は陶酔しているようだった。目を閉じて、稚拙な音色を心地よさそうに奏でている。おれも真似をして、視界を閉ざしてみた。すると、ピアノの音がだんだん木々の葉を叩く軽快な雨音に聞こえてきた。降り続ける音の雨の中にいるようなこの旋律に身を委ねると、まさに夢見心地というべき快感がする。音の雨が時間をかけて、おれの体の中を満たしていくようだ。
――おれの体がとっぷりと音の雨に満たされた時、演奏は終わった。目を開けると、青い風景が再び視界に広がる。はあ、と息を吸い込む。
そこまで含めた一連の感覚が気持ちよくて、おれは思わず拍手を送っていた。
「すごく、良かったです」
どんな言葉で褒めていいのか分からなくなるほど、見事な演奏だった。聞き惚れるというのは、こういうことを言うのだろう。生まれて初めての感覚をこんなにも贅沢に味わわせてもらえたのだから、おれはとても満足していた。
音音さんは椅子から立ち上がって、ぺこりと頭を下げる。
「これは母が生前、よく弾いていた曲です。雨音と調和するように作曲されたもので、幼い頃のわたくしもこの曲が弾きたいと言っていました。父はこの曲を演奏していた母に惚れたのだそうです」
指揮者で耳も肥えていただろう実井正蔵を、ど素人の自分に重ねて考えるのはなかなか烏滸がましい気がするが、彼もおれと同じように感じていたのだとしたら、惚れ惚れしてしまうのも納得だった。
「わたくしの腕ではこの程度ですが」
「この程度なんてもんじゃないですよ。あんなにいい演奏だったのに」
「お母様のほうがもっと素敵な演奏をなさいますわ」
そりゃあ、本職の演奏家と比較すればそうなってしまうのかもしれないけれど、彼女の演奏だって十分綺麗だった。ピアノという楽器の音色自体を聞くのが初めてというずぶの素人が褒めても説得力なんてないかもしれないが、おれは本当に素晴らしいと思ったから褒めたのだ。
「夢の中だから、まだこうやって弾けたのでしょう。もう長年ピアノには触れていませんから、現実ではきっと弾けなくなっていると思います」
至極残念そうに言う彼女。その台詞の内容に、おれは引っ掛かりを覚える。
「明晰夢、というのでしょうか。ここは」
彼女は、今いるこの場所が夢の中だと自覚していた。濃霧の感触が、湿土の踏み心地が、演奏の快感が、こんなにも生々しさを持って迫ってくるのに。彼女ははっきりと、ここが現実でないことを自覚していた。
――おれは、この夢が何なのか、既に知っている。
「心眼の夢――」
まさか、自分だけでなく音音さんも夢を見ている立場だとは思わなかった。それはつまり、ここに立っている音音さんは夢の一部ではなく、彼女本人――おれと同じく、肉体のない自我そのものということだ。
「もしかして、これが心に直に……?」
「心に、直に?」
おれが呟いた独り言を、音音さんがそっくりそのまま繰り返して尋ねてくる。
「珱仙先生が言ってたんです。これが、心眼の真の力だって。譚本を介することなく、当事者の口を介することもなく、もっと根源的な譚……当事者の心に、直に聞くことができるって」
だとするなら、目の前の彼女は。洋服をまとった、実井寧々子のまま大人になったような彼女は。取り繕ったところのない、彼女の心そのもの――ということになるのだろう。
彼女は今、七本音音と実井寧々子のどちらでもない。そんなどっちつかずの曖昧な状態にあるのだ。
「……なるほど。この姿は過去を断ち切れていなかったわたくしの心の有様、ということですか」
彼女も理解が早い。旦那ならともかく、彼女がおれの言葉をそんなにすぐ理解するとは思わなかった。旦那の言う通り、彼女は元から聡い人なのだろう。
「貴方がここにやってきたということは、ついにこの時が来たということですね」
「……はい」
そう。おれは今から、とても残酷なことを聞かなければならなかった。彼女も前々からそれを覚悟しているのだろうけれど、いざその場面になると、胸があまりに痛い。
「おれが調べられた範囲のことは、すべて見させてもらいました。実井邸に残された譚の欠片も、旦那が紡いだ『空の鳥かご』も。貴方たち夫婦が、どうして過去を隠しながら、寄り添うことになったのかも」
「…………」
「先日、おれは貴方の変わりように恐怖を覚えました。おれの知っている音音さんらしくない、暗くて冷たい目」
あの時、おれは彼女が二重人格なのかと思ったりもしたが、違った。あれはれっきとした彼女という人格の、隠れた一面なのだ。
温かくて優しい、慈愛に満ちた表の面。暗く冷たい、自虐に満ちた裏の面。――まるで、表裏一体の月のようだ。
「あれは、おれが知らなかっただけの、紛れもない貴方の一面だと分かりました。……怖がって、すみませんでした」
彼女に面と向かって言ったわけではないにしろ、幽霊なんて酷い言い方もしてしまった。失礼極まりない行為をしていたことを、おれは彼女に詫びた。
「良いのですよ。仕方のないことだと思います。わたくしのああいう一面を知っているのは、みや様くらいでしたから。こちらこそ、あの時は嫌な態度をとってしまって申し訳ありませんでした」
だから、顔をお上げになって。
と、彼女は丁寧な口調で言う。おれが頭を上げると同時に、今度は彼女が頭を下げた。
「じゃあ、これでおあいこってことで」
「そうですね」
頭を上げた彼女の口元が、ゆるりと弧を描く。
「さて……なにから話すべきでしょうか。やはり、あの方についてでしょうか」
彼女は俯いて、迷っていた。けれど、おれはここに来る前から、最初にこれを聞こうと心に決めていたことがあった。
「音音さん。おれからひとつ尋ねてもいいですか」
「ええ、構いませんよ」
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