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六章『花、熱る 後編』
その一
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「ナナヱは加峯家のために結婚しないといけないのです。良き家柄の方のもとへ嫁がねば、女としてのお役目も果たせないお前は認めないと」
ナナヱは木偶の坊なので――と、語る目は、その歳の子供とは思えないほど冴えた色をしていた。怒りや悲しみなどもはや無い――というわけではないのだろうけれど。強いて言うなら、諦めとか、悟りだろうか。喉元に言葉の刃を突きつけられているその状況を、いつものことのように受け入れてしまっているような印象だった。
「ナナヱはたった一人の子供。でも、加峯家の槍術がまるで使えないのです。槍術が使えぬのであれば養子を取らせるから、お前は別の形でお家に尽くしなさいと、大祖母様には言われました」
「それで夏目家にゆかりがあるおれに娶ってもらおうと必死だったのか」
夏目家に嫁いだとなれば、四大武家同士の繋がりが出来る。ようは、政略結婚の道具になって、ナナヱは家の役に立とうとしていたというわけだ。
「けどよ、ナナヱ。初めて会った時に話した通り、おれは夏目家とは縁を切ってる。本当のことを言えば、夏目の血なんか一滴も継いでない、元孤児なんだ」
夏目家には長期間世話にはなっていたものの、今はこうして出奔しているし、絶縁した状態だ。政略結婚を狙うなら、おれを選んだところで利益はないはずだ。
もっと他のところに理由があったのではないか――と、穏やかな声で問いかけた。
「……寅松が、懐いたから」
少しの沈黙を経て、ナナヱがそう言った。
「寅松は、本当に良き人にしか懐かないのです。あの子は元々捨て猫で、人間に虐められていた子だから。たとえ飼われている加峯家の人間でさえ、簡単には懐きません。寅松は、ナナヱの道標なのです。寅松が懐いた良き人についていけば、きっと家人も納得するだろう、と思ったのです」
はっきり言って、おれはナナヱのその考えに言葉を失った。ナナヱは加峯家に相応しい結婚相手を捕まえなければ、認めてもらえないと思っている。おれのように拾われた元孤児ではなく、正真正銘、加峯家に生を受けた子供なのに――親や親族に受け入れられていないと感じている。加峯家の呪縛は、どれだけこの子の自己肯定感を抑圧し続けたのだろう。本来頑張る必要のないことで、この子は頑張ろうとしていた。
そんな彼女が真っ先に頼ったのは人間ではなく、たった一匹の猫だった。彼女にとって、周囲の人間は猫一匹よりも信用するに値しないのだ。
「穀潰し、なのです。ナナヱは役立たずの穀潰し。結婚してお家の縁を繋ぐこともできなければ、お前はただの穀潰し。と」
ナナヱから繰り返し紡がれる言葉に、ぴきり、と自分のこめかみに青筋が立ったのを、はっきりと感じた。煮え立った溶岩のような、喉の奥からせり上がってきた苦い熱を、努めて飲み下す。ここで反射的に怒鳴ってはナナヱを萎縮させてしまう。しかし、どんなに怒りを隠そうとも顔にははっきりと出ていたようで、ナナヱはおれの前で初めて目を丸くした。
「なんで、そんなこと言われなきゃならねえんだよ……」
いくら必死に抑えてもあまりあるおれの怒りは、震える声となって表出する。ナナヱはおれの怒りに一度驚きはしたものの、ほんの数秒経てば諦念に満ちた目に戻っていた。
「仕方ないのです。ナナヱはまだ十二、お家の役には立てない子供なのです。だから、お役に立てることを今からでも証明しないと、ナナヱは本当に加峯家の穀潰しになってしまいます」
この子は、そんな言葉に――穀潰しなどという言葉に怯えているのか。そんな言葉で、周囲の大人に脅されていたのか。こんな小さな子供を、大人たちは縛り付けたのか。
よその家庭事情にズカズカと踏み入るのはおれの流儀ではないのだが、ナナヱに穀潰しなどという言葉を使った人間がこの場にいたら、おれは堪忍袋の緒が切れてそいつを殴り飛ばしていたかもしれない。ナナヱの目を見ていると、胸を押し潰さんばかりの切なさが迫ってくる。
「十二なんてまだ小学生だろ。そんなガキに穀潰しなんて言葉を使って、役目を背負わせる方がおかしい」
「でも、幼いうちから加峯家の者としての自覚を持つべきだと」
「加峯家の人間であったとしてもだ、お前がそうまでしてお家に尽くす必要なんかないだろ。そんなの身売りと同じだ」
「身売り?」
「乱暴な言い方すりゃ、自分の身を投げ打って男釣って来いっつってんのと一緒だよ」
「?」
ナナヱは首を傾げる。おれの言っている意味がよく分かっていないらしい。
夜這いなどという行為をしなければならないと考えるほど追い詰められている彼女の状態が、果たしてどれだけ深刻なのか――それがどういうことなのか、当の彼女が理解していないことが、おれにとってはなによりも嘆かわしかった。激しい怒りを通り越して、もはや深い悲しみまで覚えてしまうほどだった。
「なあ、ナナヱ。お前、学校は通ってるのか?」
「ええ、通っております」
「友達と遊んだりするか?」
「? はい、遊びます」
「なにをして遊ぶんだ?」
「色々です。鬼ごっこだったり、貝拾いだったり」
「勉強はしてるか?」
「勿論、きちんとしています。……嘘です。本当は少しサボってます」
「……そうか。それなら、まだ安心だ」
「? 勉強をサボっているのに?」
本気で、安心した。ナナヱは怒っていたおれが、今度は安心したなどと言っているのが不思議で仕方ないのだろう。わけがわからないと言いたげに首をひねっている。
「あぁ、悪い。ちゃんと説明しないと分からねえよな。安心したってのは、お前が学校ではちゃんと普通の生活をしてるってことだよ」
「普通の生活?」
「お前くらいの子供はな、同じくらいの友達と戯れて、好きなことして遊んで、勉強を適当にこなしてるくらいが丁度いいんだ。家のための結婚なんて考えなくたっていい。いや、本来なら幾つだとしても、自分を追い詰めてまで家に尽くす必要はないはずなんだ」
学校教育を受けさせてもらえている点は、おれや唯助よりもまともと言えるのかもしれない。同世代の子供と自由に遊んだりできていることについても同様だ。
「お前が加峯家の人間から何を言われて育ってきたのかは知らねえけど、これだけは言える。加峯家なんてほんのちっぽけな世界なんだ。家の外に出てみろ、お前の中の常識なんざ簡単にひっくり返されるぞ」
おれにとって、七本屋で過ごした半年間は実に濃厚だった。世間の一般常識を知り、本のことについて一から学び、弟と数年ぶりに自由に遊び回り、不思議な体験もたくさんした。
たった半年で、夏目家にいた大人たちから植え付けられた固定観念がほとんど覆されてしまったのだ。その衝撃は今でも忘れられない。
「おれは夏目家っていう狭い世界に閉じこもってたから、養父の跡を継げなかったらもう駄目なんだって思ってた。弟は外に逃がさねえとって発想できたのに、自分だけは逃げられないって思ってたんだ。でも、そんなことはねえんだよ。おれも外に飛び出てみたら、色んな人がおれを助けてくれた」
「……ならばナナヱも、外に出たら何か変わるのでしょうか? 世助様のように、なにか」
「ああ、絶対変わる。尋常小学校を卒業したら、修行の旅にでも出てみたらどうだ。お前は普通の女の子よりも断然強いし、知恵も回るしさ、十分いけると思うぜ。寅松だって賢いし、お前の相棒として一緒に連れてけばいい」
「……旅、旅ですか」
つい勢いづいたことを言ってしまったような気もするが、ナナヱの反応は思ったよりも悪くないらしい。彼女の目にほのかな光が灯ったように見えた。
「……ナナヱ、は」
しかし、まだ覚束無いその色は、彼女の逡巡とした心を映している。
ナナヱは確かに、何かを言おうとして――それを喉の奥に押しやって、口元で少しだけ笑って見せた。
「……やはり、世助様は優しいのです。寅松は鼻がよくきくのです」
「別に言うほど――」
優しかねえよ、と言いかけた時。続きの台詞は突如として阻まれた。
宿のどこかから――別の階から、おれ以外の誰かの悲鳴が上がった。
「なんだ?」
一人ではなく、男も女も混じった複数の悲鳴だった。直後に、がちゃがちゃと大きな物音が響く。まさか、リツも悲鳴をあげた中にいやしないだろうか。いや、彼女はそんなに弱い女ではない、と刹那の合間にそんな思考が駆け巡る。そしてそれよりも早く――ナナヱが一も二もなくその場から駆け出していた。
「待て、ナナヱ! 無闇に動くな!」
ナナヱはおれの制止も振り切って、全力で走る。その足の速さたるや、思わず目を見張るほどだった。おれはすぐにナナヱを追いかけて階段を駆け下りたはずだが、ナナヱがどこの階のどの場所へ向かって行ったのか、あっという間に分からなくなってしまった。
「あぁもう、だから待てって言ったのに……!」
先ほどの悲鳴や騒音の発生源を辿ろうにも、悲鳴を耳にした客がざわざわと騒ぎながら出てくるせいで、位置が特定できない。焦りながらもどこへ向かえばいいのか分からなくなっていたおれの足元から、
「にゃ~ぅっ! ぶにゃ~ぅ!」
と変わった猫の鳴き声がする。言わずもがな、その声の主は寅松だった。
「寅松! ナナヱがどこに行ったかわかるか?」
「にゃ~ぅ!」
寅松はついてこいと言うようにひと声大きく鳴いて、廊下を一直線に駆け抜けていく。集まりだした客たちの隙間を器用に縫って、飛び越えて、迷うことなく――別の階段を駆け下りて一階の玄関へとおれを導いた。
*****
現場は野次馬たちの悲鳴や怒号が入り乱れていて、がちゃがちゃという騒音がさらに状況を混沌の渦へ陥れていた。
「お客様に手出しはさせないのです!」
そこへ、ひときわ威勢のいい少女の声が辺りにパァンと響き渡る。口調からして、明らかにナナヱのものだった。
寅松を追いかけて人の波を押しのけた先には、訓練用の木製の槍を構えて睨みを利かせるナナヱと――一体の赤い鎧がいた。
「ひぃいっ!」
と、鎧の目の前にいた中年の女性が怯えた声を上げる。それもむべなるかな、鎧は大陽本人離れした巨体だった。天井を突き破らんばかりの赤い巨躯で、その右手にはぎらりと光る鋭い槍を携えている。戦う術を持たない者が見れば恐怖でしかないだろう。
「お嬢様! 危のうございます!」
鎧武者の背後で、ナナヱが槍を高く掲げていた。ナナヱは旅館の仲居が止めようとするのにも構わず、その槍を投げつけた。
「てぇいっ!」
遠くの鳥を撃ち落とすほどの威力を秘めたナナヱの一撃は、鎧武者の右肩をまっすぐに貫き、粉砕する。鎧武者はいっときふらつきつつなんとか持ちこたえたが、接合部を破壊された腕は、人だかりの先頭にいた人物の足元へがしゃん! と音を立てて落ちた。
「……えっ!?」
ナナヱは驚く。ぐるりと振り返った鎧武者の、痛みに堪えた感じのないその様子に驚く。
驚きはそれだけに留まらない。
「な、なんだこれ!?」
野次馬の一人が周囲に見せつけるように、落ちた腕を高く掲げている。人間に手でぎゅっと握り込まれたその籠手には――明らかに中身がなかった。
それがまずかったか――鎧武者が失った自分の腕を取り返そうと、その野次馬へ目を向ける。
「うひぃっ!?」
鎧武者に睨まれ怯えた野次馬は、鎧武者に向かって中身のない篭手を投げつけた。再び床へ落ちる鎧の籠手。すると、生き物一ついないはずの空洞の籠手は、独りでに床を這い出した。大きな芋虫のように手指を動かして床を移動する籠手は、鎧武者の足元から右肩へ、まるで糸で手繰り寄せられるように登り――再びぴったりと接続する。
一度接合を断たれた腕が、また元通りに再生してしまったのだ。
「――ナナヱ! 逃げろ!」
「え――きゃうっ!?」
鎧武者がナナヱに狙いを定めたので注意を促すも、鎧武者は大股であっという間に彼女との距離を詰めて、抵抗させる間もなくその小さな身体を抱え上げてしまった。
「その子を放せ―― ッ!?」
おれはナナヱを取り返そうとしたが、鎧武者が放った槍の一撃に怯んでしまった。槍の嫌なところである――正面から放たれる突き攻撃は、距離感が狂いやすい。視覚を使った錯覚の攻撃に、おれは見事に騙されてしまった。
「離すのです! はーなーせーっ!」
一瞬の隙をつき、鎧武者は暴れるナナヱを脇に抱えて連れ去ろうとする。完全に出遅れたおれを置いて、鎧武者が宿の暖簾をくぐろうとしたその時だった。
「えいッ!」
暖簾の向こう側から、誰かの健脚が隙間を縫って乱入してくる。下駄すら履いていない素足による蹴りは鎧武者の顔面へ直撃し、後ろへ大きくのけぞらせた。
「うきゃっ!?」
甲冑が倒れる音と共に、床へ倒れ込むナナヱ。幸い、床には絨毯が敷いてあったため、落ちても大事には至らなかった。
「リツ、いいところに!」
暖簾の死角を利用し、宿の外側から跳び蹴りを喰らわせたリツは、寝間着姿のままで髪も下ろした状態だった。
「ど、うして……」
「うるさくて眠れなかったからぶっ飛ばしに来たのよ」
まるで安眠を妨げられた腹いせのように言うリツだが、勇敢で優しい彼女のことだ。寝間着のまま部屋を飛び出して、事態の収束のために加勢しに来てくれたのだろう。リツが助けてくれたのを意外に思ったのか、ナナヱは呆然とした様子でリツを見上げ、対するリツは鎧武者をキッと睨んでいる。
昨日ナナヱと手合わせした場所から持ってきたのか、リツの右手には訓練用の槍があった。ただし、刀使いの彼女が使いやすいようにするためか、半分くらいの長さにへし折られていたけども。
「なに、あれ。不審者?」
「いや、中身は空だ」
「じゃあ、また禁書の悪戯かなにかで動いてるの?」
「……そう言いたいけど、多分違う」
鎧武者は確かに、厳つい見た目をしているせいで威圧的な気迫をまとっているように見えるものの――禁書というには、独特の嫌な感じがしない。しかし、以前にもどこかで感じたことのある類の気配だった。
「あれは加峯家に伝わる甲冑の一つなのです! それにあの槍も、ご先祖さまが使っていたもの――この宿の玄関に飾ってあったものです!」
ナナヱが答える。同時に、むくりと起き上がった鎧武者の視線が、再びナナヱのほうへ向く。
野次馬さえも逃げ出したこの状況、おれやリツには目もくれないのを見るに――こいつの狙いは客ではなくナナヱということだ!
「……っ、懲らしめに来たのですか。ナナヱのことを……」
ナナヱは唇をくっくっと噛んで、鎧を睨みつけた。その額に、冷や汗のようなものが滲んでいた。
ナナヱは木偶の坊なので――と、語る目は、その歳の子供とは思えないほど冴えた色をしていた。怒りや悲しみなどもはや無い――というわけではないのだろうけれど。強いて言うなら、諦めとか、悟りだろうか。喉元に言葉の刃を突きつけられているその状況を、いつものことのように受け入れてしまっているような印象だった。
「ナナヱはたった一人の子供。でも、加峯家の槍術がまるで使えないのです。槍術が使えぬのであれば養子を取らせるから、お前は別の形でお家に尽くしなさいと、大祖母様には言われました」
「それで夏目家にゆかりがあるおれに娶ってもらおうと必死だったのか」
夏目家に嫁いだとなれば、四大武家同士の繋がりが出来る。ようは、政略結婚の道具になって、ナナヱは家の役に立とうとしていたというわけだ。
「けどよ、ナナヱ。初めて会った時に話した通り、おれは夏目家とは縁を切ってる。本当のことを言えば、夏目の血なんか一滴も継いでない、元孤児なんだ」
夏目家には長期間世話にはなっていたものの、今はこうして出奔しているし、絶縁した状態だ。政略結婚を狙うなら、おれを選んだところで利益はないはずだ。
もっと他のところに理由があったのではないか――と、穏やかな声で問いかけた。
「……寅松が、懐いたから」
少しの沈黙を経て、ナナヱがそう言った。
「寅松は、本当に良き人にしか懐かないのです。あの子は元々捨て猫で、人間に虐められていた子だから。たとえ飼われている加峯家の人間でさえ、簡単には懐きません。寅松は、ナナヱの道標なのです。寅松が懐いた良き人についていけば、きっと家人も納得するだろう、と思ったのです」
はっきり言って、おれはナナヱのその考えに言葉を失った。ナナヱは加峯家に相応しい結婚相手を捕まえなければ、認めてもらえないと思っている。おれのように拾われた元孤児ではなく、正真正銘、加峯家に生を受けた子供なのに――親や親族に受け入れられていないと感じている。加峯家の呪縛は、どれだけこの子の自己肯定感を抑圧し続けたのだろう。本来頑張る必要のないことで、この子は頑張ろうとしていた。
そんな彼女が真っ先に頼ったのは人間ではなく、たった一匹の猫だった。彼女にとって、周囲の人間は猫一匹よりも信用するに値しないのだ。
「穀潰し、なのです。ナナヱは役立たずの穀潰し。結婚してお家の縁を繋ぐこともできなければ、お前はただの穀潰し。と」
ナナヱから繰り返し紡がれる言葉に、ぴきり、と自分のこめかみに青筋が立ったのを、はっきりと感じた。煮え立った溶岩のような、喉の奥からせり上がってきた苦い熱を、努めて飲み下す。ここで反射的に怒鳴ってはナナヱを萎縮させてしまう。しかし、どんなに怒りを隠そうとも顔にははっきりと出ていたようで、ナナヱはおれの前で初めて目を丸くした。
「なんで、そんなこと言われなきゃならねえんだよ……」
いくら必死に抑えてもあまりあるおれの怒りは、震える声となって表出する。ナナヱはおれの怒りに一度驚きはしたものの、ほんの数秒経てば諦念に満ちた目に戻っていた。
「仕方ないのです。ナナヱはまだ十二、お家の役には立てない子供なのです。だから、お役に立てることを今からでも証明しないと、ナナヱは本当に加峯家の穀潰しになってしまいます」
この子は、そんな言葉に――穀潰しなどという言葉に怯えているのか。そんな言葉で、周囲の大人に脅されていたのか。こんな小さな子供を、大人たちは縛り付けたのか。
よその家庭事情にズカズカと踏み入るのはおれの流儀ではないのだが、ナナヱに穀潰しなどという言葉を使った人間がこの場にいたら、おれは堪忍袋の緒が切れてそいつを殴り飛ばしていたかもしれない。ナナヱの目を見ていると、胸を押し潰さんばかりの切なさが迫ってくる。
「十二なんてまだ小学生だろ。そんなガキに穀潰しなんて言葉を使って、役目を背負わせる方がおかしい」
「でも、幼いうちから加峯家の者としての自覚を持つべきだと」
「加峯家の人間であったとしてもだ、お前がそうまでしてお家に尽くす必要なんかないだろ。そんなの身売りと同じだ」
「身売り?」
「乱暴な言い方すりゃ、自分の身を投げ打って男釣って来いっつってんのと一緒だよ」
「?」
ナナヱは首を傾げる。おれの言っている意味がよく分かっていないらしい。
夜這いなどという行為をしなければならないと考えるほど追い詰められている彼女の状態が、果たしてどれだけ深刻なのか――それがどういうことなのか、当の彼女が理解していないことが、おれにとってはなによりも嘆かわしかった。激しい怒りを通り越して、もはや深い悲しみまで覚えてしまうほどだった。
「なあ、ナナヱ。お前、学校は通ってるのか?」
「ええ、通っております」
「友達と遊んだりするか?」
「? はい、遊びます」
「なにをして遊ぶんだ?」
「色々です。鬼ごっこだったり、貝拾いだったり」
「勉強はしてるか?」
「勿論、きちんとしています。……嘘です。本当は少しサボってます」
「……そうか。それなら、まだ安心だ」
「? 勉強をサボっているのに?」
本気で、安心した。ナナヱは怒っていたおれが、今度は安心したなどと言っているのが不思議で仕方ないのだろう。わけがわからないと言いたげに首をひねっている。
「あぁ、悪い。ちゃんと説明しないと分からねえよな。安心したってのは、お前が学校ではちゃんと普通の生活をしてるってことだよ」
「普通の生活?」
「お前くらいの子供はな、同じくらいの友達と戯れて、好きなことして遊んで、勉強を適当にこなしてるくらいが丁度いいんだ。家のための結婚なんて考えなくたっていい。いや、本来なら幾つだとしても、自分を追い詰めてまで家に尽くす必要はないはずなんだ」
学校教育を受けさせてもらえている点は、おれや唯助よりもまともと言えるのかもしれない。同世代の子供と自由に遊んだりできていることについても同様だ。
「お前が加峯家の人間から何を言われて育ってきたのかは知らねえけど、これだけは言える。加峯家なんてほんのちっぽけな世界なんだ。家の外に出てみろ、お前の中の常識なんざ簡単にひっくり返されるぞ」
おれにとって、七本屋で過ごした半年間は実に濃厚だった。世間の一般常識を知り、本のことについて一から学び、弟と数年ぶりに自由に遊び回り、不思議な体験もたくさんした。
たった半年で、夏目家にいた大人たちから植え付けられた固定観念がほとんど覆されてしまったのだ。その衝撃は今でも忘れられない。
「おれは夏目家っていう狭い世界に閉じこもってたから、養父の跡を継げなかったらもう駄目なんだって思ってた。弟は外に逃がさねえとって発想できたのに、自分だけは逃げられないって思ってたんだ。でも、そんなことはねえんだよ。おれも外に飛び出てみたら、色んな人がおれを助けてくれた」
「……ならばナナヱも、外に出たら何か変わるのでしょうか? 世助様のように、なにか」
「ああ、絶対変わる。尋常小学校を卒業したら、修行の旅にでも出てみたらどうだ。お前は普通の女の子よりも断然強いし、知恵も回るしさ、十分いけると思うぜ。寅松だって賢いし、お前の相棒として一緒に連れてけばいい」
「……旅、旅ですか」
つい勢いづいたことを言ってしまったような気もするが、ナナヱの反応は思ったよりも悪くないらしい。彼女の目にほのかな光が灯ったように見えた。
「……ナナヱ、は」
しかし、まだ覚束無いその色は、彼女の逡巡とした心を映している。
ナナヱは確かに、何かを言おうとして――それを喉の奥に押しやって、口元で少しだけ笑って見せた。
「……やはり、世助様は優しいのです。寅松は鼻がよくきくのです」
「別に言うほど――」
優しかねえよ、と言いかけた時。続きの台詞は突如として阻まれた。
宿のどこかから――別の階から、おれ以外の誰かの悲鳴が上がった。
「なんだ?」
一人ではなく、男も女も混じった複数の悲鳴だった。直後に、がちゃがちゃと大きな物音が響く。まさか、リツも悲鳴をあげた中にいやしないだろうか。いや、彼女はそんなに弱い女ではない、と刹那の合間にそんな思考が駆け巡る。そしてそれよりも早く――ナナヱが一も二もなくその場から駆け出していた。
「待て、ナナヱ! 無闇に動くな!」
ナナヱはおれの制止も振り切って、全力で走る。その足の速さたるや、思わず目を見張るほどだった。おれはすぐにナナヱを追いかけて階段を駆け下りたはずだが、ナナヱがどこの階のどの場所へ向かって行ったのか、あっという間に分からなくなってしまった。
「あぁもう、だから待てって言ったのに……!」
先ほどの悲鳴や騒音の発生源を辿ろうにも、悲鳴を耳にした客がざわざわと騒ぎながら出てくるせいで、位置が特定できない。焦りながらもどこへ向かえばいいのか分からなくなっていたおれの足元から、
「にゃ~ぅっ! ぶにゃ~ぅ!」
と変わった猫の鳴き声がする。言わずもがな、その声の主は寅松だった。
「寅松! ナナヱがどこに行ったかわかるか?」
「にゃ~ぅ!」
寅松はついてこいと言うようにひと声大きく鳴いて、廊下を一直線に駆け抜けていく。集まりだした客たちの隙間を器用に縫って、飛び越えて、迷うことなく――別の階段を駆け下りて一階の玄関へとおれを導いた。
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現場は野次馬たちの悲鳴や怒号が入り乱れていて、がちゃがちゃという騒音がさらに状況を混沌の渦へ陥れていた。
「お客様に手出しはさせないのです!」
そこへ、ひときわ威勢のいい少女の声が辺りにパァンと響き渡る。口調からして、明らかにナナヱのものだった。
寅松を追いかけて人の波を押しのけた先には、訓練用の木製の槍を構えて睨みを利かせるナナヱと――一体の赤い鎧がいた。
「ひぃいっ!」
と、鎧の目の前にいた中年の女性が怯えた声を上げる。それもむべなるかな、鎧は大陽本人離れした巨体だった。天井を突き破らんばかりの赤い巨躯で、その右手にはぎらりと光る鋭い槍を携えている。戦う術を持たない者が見れば恐怖でしかないだろう。
「お嬢様! 危のうございます!」
鎧武者の背後で、ナナヱが槍を高く掲げていた。ナナヱは旅館の仲居が止めようとするのにも構わず、その槍を投げつけた。
「てぇいっ!」
遠くの鳥を撃ち落とすほどの威力を秘めたナナヱの一撃は、鎧武者の右肩をまっすぐに貫き、粉砕する。鎧武者はいっときふらつきつつなんとか持ちこたえたが、接合部を破壊された腕は、人だかりの先頭にいた人物の足元へがしゃん! と音を立てて落ちた。
「……えっ!?」
ナナヱは驚く。ぐるりと振り返った鎧武者の、痛みに堪えた感じのないその様子に驚く。
驚きはそれだけに留まらない。
「な、なんだこれ!?」
野次馬の一人が周囲に見せつけるように、落ちた腕を高く掲げている。人間に手でぎゅっと握り込まれたその籠手には――明らかに中身がなかった。
それがまずかったか――鎧武者が失った自分の腕を取り返そうと、その野次馬へ目を向ける。
「うひぃっ!?」
鎧武者に睨まれ怯えた野次馬は、鎧武者に向かって中身のない篭手を投げつけた。再び床へ落ちる鎧の籠手。すると、生き物一ついないはずの空洞の籠手は、独りでに床を這い出した。大きな芋虫のように手指を動かして床を移動する籠手は、鎧武者の足元から右肩へ、まるで糸で手繰り寄せられるように登り――再びぴったりと接続する。
一度接合を断たれた腕が、また元通りに再生してしまったのだ。
「――ナナヱ! 逃げろ!」
「え――きゃうっ!?」
鎧武者がナナヱに狙いを定めたので注意を促すも、鎧武者は大股であっという間に彼女との距離を詰めて、抵抗させる間もなくその小さな身体を抱え上げてしまった。
「その子を放せ―― ッ!?」
おれはナナヱを取り返そうとしたが、鎧武者が放った槍の一撃に怯んでしまった。槍の嫌なところである――正面から放たれる突き攻撃は、距離感が狂いやすい。視覚を使った錯覚の攻撃に、おれは見事に騙されてしまった。
「離すのです! はーなーせーっ!」
一瞬の隙をつき、鎧武者は暴れるナナヱを脇に抱えて連れ去ろうとする。完全に出遅れたおれを置いて、鎧武者が宿の暖簾をくぐろうとしたその時だった。
「えいッ!」
暖簾の向こう側から、誰かの健脚が隙間を縫って乱入してくる。下駄すら履いていない素足による蹴りは鎧武者の顔面へ直撃し、後ろへ大きくのけぞらせた。
「うきゃっ!?」
甲冑が倒れる音と共に、床へ倒れ込むナナヱ。幸い、床には絨毯が敷いてあったため、落ちても大事には至らなかった。
「リツ、いいところに!」
暖簾の死角を利用し、宿の外側から跳び蹴りを喰らわせたリツは、寝間着姿のままで髪も下ろした状態だった。
「ど、うして……」
「うるさくて眠れなかったからぶっ飛ばしに来たのよ」
まるで安眠を妨げられた腹いせのように言うリツだが、勇敢で優しい彼女のことだ。寝間着のまま部屋を飛び出して、事態の収束のために加勢しに来てくれたのだろう。リツが助けてくれたのを意外に思ったのか、ナナヱは呆然とした様子でリツを見上げ、対するリツは鎧武者をキッと睨んでいる。
昨日ナナヱと手合わせした場所から持ってきたのか、リツの右手には訓練用の槍があった。ただし、刀使いの彼女が使いやすいようにするためか、半分くらいの長さにへし折られていたけども。
「なに、あれ。不審者?」
「いや、中身は空だ」
「じゃあ、また禁書の悪戯かなにかで動いてるの?」
「……そう言いたいけど、多分違う」
鎧武者は確かに、厳つい見た目をしているせいで威圧的な気迫をまとっているように見えるものの――禁書というには、独特の嫌な感じがしない。しかし、以前にもどこかで感じたことのある類の気配だった。
「あれは加峯家に伝わる甲冑の一つなのです! それにあの槍も、ご先祖さまが使っていたもの――この宿の玄関に飾ってあったものです!」
ナナヱが答える。同時に、むくりと起き上がった鎧武者の視線が、再びナナヱのほうへ向く。
野次馬さえも逃げ出したこの状況、おれやリツには目もくれないのを見るに――こいつの狙いは客ではなくナナヱということだ!
「……っ、懲らしめに来たのですか。ナナヱのことを……」
ナナヱは唇をくっくっと噛んで、鎧を睨みつけた。その額に、冷や汗のようなものが滲んでいた。
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