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第119話 忘却と放浪
しおりを挟むいつもの通りの時間に目を覚ます。
窓から見える景色は穏やかで、木々にとまる鳥たちも眠たげに小さな声で鳴いていた。そろそろ秋も終わりかけて、冬の準備に入っているのだろう。動物たちの姿も徐々に見えなくなっている。
そろそろストーブを物置から出した方が良いかななんて考えながら、のんびりと起き上がる。特にやることもないし、本当はもっと寝ていても良いのだが、いつもの癖でこの時間に起きてしまう。
顔を洗って、階下に降りていくと、美味しそうなスープの匂いが漂ってきた。
「おはようごぜぇます! 旦那さま!」
メイド服を着た髭面の男が俺に声をかけてきた。名前をど忘れしたが……えーと……誰だったか。
「どうしましたか、旦那さま。あっしの顔に何か付いていますか?」
綺麗とは言わない顔が俺に向く。
そうだ、思い出した。住み込みで働いてくれているニックだ。
「おはよう、ニック。今日も旨そうなもの作ってるな」
「へぇ! 旦那さまに精力をつけてもらおうと思いまして、とびっきりのやつをお作りしました!」
「ははは、冗談はよせよ」
「がははは」
嬉しそうに大笑いするニックに苦笑いを向ける。
……本当につまらない冗談だ。
今の俺には精力をつけようが、もてあますだけなのに。コトコトと煮立った鍋から香る匂いは、本当に美味しそうなだけに、残念だ。
「ところでニック、なんでお前、女物のメイド服なんか着てるんだ」
「ありゃ。旦那さまがメイド服が良いっておっしゃったんじゃないですか! フリルの付いた可愛いやつ。覚えていらっしゃらないんで?」
「今すぐ脱いでくれ」
「……そうですかぁ」
朝からとんでもないものを見た。
確かにメイド服は好きだが、むさくるしい男に着てもらいたいなんて言った覚えもないし、思ったこともない。着るなら俺に見えないところにして欲しい。
慌ててメイド服を脱ぎ始めるニックを見ながら、ため息をつく。そろそろニックにも休みをあげた方が良さそうだ。あいつもかなり疲れが来ているらしい。
「アンクさーん」
コンコンと扉が軽くノックされる。
「ナ……」
誰かの名前を口にしようとして、やめる。多分、窓の外の人間はそんな名前の人間じゃない。
扉を開けると、顔なじみの郵便局員がぺこりと挨拶して、新聞と郵便物を差し出してきた。
「今日も良い天気ですね! 秋晴れって良いもんですなぁ!」
「あぁ、何か面白いニュースはあったか?」
「何も! おかげさまで平和そのものです」
山ほどの郵便物を渡してきた配達員は、爽やかな笑顔で去っていった。俺の家はサラダ村から少し離れているので、こうして郵便物をまとめて送ってもらっている。
椅子に座って、新聞を開いてみたが、彼が言った通り何も面白そうなことはなかった。どこそこの村で牛が産まれたとか、それくらいのこと。俺が『異端の王』を倒してからというものの、世界は平和そのものだった。
新聞にはちょうど、俺がインタビューを受けた記事が載っていて派手な見出しがつけられていた。
「『たった1人で世界を救った男』……か」
仲間の1人くらい見繕ってくれたって良いのにと、俺を呼び出した女神に愚痴りたいことは何度もあったが、顔も思い出せない彼女が今どこにいるのかも分からない。『異端の王』を倒したから、お役御免ということだろうか。
適当に流し読みしながら時間を潰していると、ニックがスープの入った鍋をテーブルの上に置いた。
「お待たせしました、旦那さま。朝食です!」
「良い香りだな。何かいつもと違うスパイス使った?」
「さすが、旦那さま。庭で育ったハーブと、仕入れたスパイスを使ってますぜ」
「へぇ……」
スプーンですくって口に入れると、すっきりと酸味のある味わいと、奥深さのあるコクを感じた。鶏ガラの出汁もしっかり出ていて、高級料理店のものと比べても遜色の味わいだった。
「うまいな」
「そうですか、光栄でさぁ!」
「まったく、お前が料理下手だったら、3秒で追い出していたところだよ」
ニックはとことん料理がうまい。
なにぶん、辺鄙な場所でずっと一人で暮らしていて、自分で育てて食べるということが癖になっている。おかげで出てくるものは、いつも新鮮で味も抜群にうまい。
あっという間に完食して、安楽椅子でくつろいでいると、また眠気がやってきた。まだ正午にもなっていないのに、思わずうとウトウトしてしまう。
「やれやれ、これじゃ隠居した爺さんだ」
「どこか行ってきたらどうですかい? 家のことはやっておくので、たまには遊んできては?」
「……そうしようかな」
カサマド町に知り合いがやっていた酒場がある。
たまには顔を出してみるのも良いだろう。思えば、この前カルカットの祭りに行ってからというもの、あまり外出していない。
ニックに「なるべく早く帰るよ」と伝えて、家を出る。外はすっかり寒くなっていて、薄手のコートでは少し肌寒く感じた。
「おー、さむ」
森の中を抜けて、サラダ村の中心部も通り抜ける。新しく作ったという巨大養鶏施設には、いくつもの鶏が騒しくわめいていた。
最初に出来た時、おすそ分けということで卵を試食させてもらったが、そこまで旨いものではなかった。この辺には他にも養鶏場があったはずなのだけれど、いつの間にかなくなってしまっていて、名前も思い出せない。
「本当にジジイになった気分だ」
肩を落としながらカサマド町へと入って、しばらく歩くと、馴染みの酒場が見えてきた。
「あれ……?」
俺が知り合いの酒場だと思っていたところは、なぜかすっかり空き家になってしまっていた。店があったという気配だけはあるのだが、看板も出ていない。入り口は完全に閉ざされていて、中も見えない。
「この前まで開いていたはずなんだけれどな」
人の気配もしない。
まるで最初からもぬけの殻だったみたいに沈黙している。確かにこの酒場に良く言っていたはずのなのに、それも名前すら思い出せない。
「なんか調子狂うな……」
起きているのに、まだ眠っているような感じだ。
そんな寝ぼけたままの頭を抱えながら、適当な酒場を見つけて入る。昼過ぎにも関わらず、店内は客たちで賑わっていた。
店に入るなり、俺の姿を見た女の客たちから黄色い声が上がった。
「きゃー、アンクさまだー!」
「ねー、一緒に飲もうよー!」
目をキラキラと輝かせる女たちが、俺に寄ってきて抱え込むようにして引きずり始める。
この娘たちと飲むのも悪くはないのだが、今はちょっとそういう気分ではなかった。
「……あー、いや今日はちょっと調子悪いんだ。また今度な」
「そうなんだー、ざーんねん」
ため息をついた彼女たちは、またすぐに楽しそうに会話を始めた。そんな彼女たちに背を向けながら、俺は離れたところで、醸造酒の水割りを頼んだ。
「なんだ、やっぱり調子が悪いっていう噂は本当だったんだ」
小さなグラスを持ってきた男の店員は、俺の顔を覗き込んで言った。
「やっぱりって何だよ?」
「カルカットで倒れたって話。祭りの最中にダンスホールでぶっ倒れたんだろ。みんな心配してたよー」
「倒れた?」
初耳だった。
それにダンスホールで踊るなんて、そんな柄じゃない。キョトンとしていると、店員の女は眉をひそめた。
「え、覚えてないの。カルカットの祭り、ついこの間だろ」
「それがあったのは知っている。でも、ダンスホールなんて、俺は……誰と踊っていたんだ?」
「知らない。どっかの女でも引っ掛けたんじゃないの」
「全然記憶にない」
「……よっぽど酔ってたんだな。じゃあこの水割りは没収ぅー。代わりに牛乳でも飲んでろよ」
グラスを取り上げられて、代わりにミルクが入ったマグカップを渡される。仕方なく完飲して、店を出る。
「早く寝ろよー、なんか顔色悪いぞー」
店を出る間際、男の店員から声をかけられる。確かにあいつが言う通り、少し調子が悪いかもしれない。
店を出た後、街の喧騒がやけにうるさく聞こえた。
歩いているのに、地面がないみたいで、奇妙な気だるさが身体を覆っていた。きっと2日とか3日すれば、この違和感はなくなるはずだ。
……それにしても、何か大事なことを忘れている気がする。
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