上 下
186 / 220

【パトレシア(No.11)】

しおりを挟む

 彼が私の知らない誰かの名前を呼んだ。
 真っ暗な倉庫の中には、山のように積もった屍鬼ヴェータラの死骸があった。高い天井に届きそうなほど、何百という黒焦げになった死骸の上に彼女は立っていた。

「アンク……?」

 その山の頂上。
 血に染まった金色の髪をなびかせた女は、アンクの方を見ると嬉しそうに笑った。

「あは……なんか、夢みたい」

 それだけ言うと、彼女の身体は糸が切れたように崩れ落ちた。死骸の頂上から力なく転がり落ちてきた身体を、アンクが抱きとめた。

「パトレシア……っ!」

 落ちてきた彼女の身体を見て、アンクは絶句した。致命傷をいくつも負っている。大腿だいたい部と腹部からの出血がひどい。今まであそこで立っていたのが不思議なくらい、彼女の身体は傷つけられていた。

 止血しようと当てた布が、あっという間に真っ赤に染まっていく。暗くても分かるほどの深紅の血は、彼女の傷が動脈まで達していることを示していた。

「やっぱりアンクだ……夢じゃない」

 目を開けたパトレシアが、震える手をアンクの頬においた。その感覚を確かめるように、彼女は血まみれの手で何度もアンクの顔を撫でた。

「久しぶり……会えて嬉しいよ。こんな最悪な場所で、アンクが来てくれて良かった」

「早く……治療を」

「無理無理、もう身体の感覚がないもん。脚も動かないし、息をするのだってきつい……」

 彼女の言葉は徐々に消えそうなほどに小さくなっていく。彼女の身体を抱きしめるアンクの身体も震えて、いつもより小さく見えた。

「リタは大丈夫だよ……先にみんなを避難させてくれたから、ここにはいない。他の人もあそこから逃げたから」

 パトレシアはそう言って、うず高く積まれた屍鬼ヴェータラの死骸の奥を指差した。倉庫の床下からカンテラで照らされた地下道が見えた。

「搬入用の地下道。隣町まで繋がっている……アンクもあそこから……逃げて」

「ずっと1人で戦っていたのか」

「……うん」

 この倉庫には屍鬼ヴェータラ以外の死体がなかった。パトレシアがたった1人でここを守っていたのだろう。彼女の奮闘の跡は、煉瓦造りの倉庫の壁や床に深々と刻まれていた。

「本当は手こずるような敵じゃないんだけれどね……数が多すぎたのと……あと、自分を見誤っちゃった」

 死骸の1点にパトレシアは目を向けた。
 大量に積み上げられた死骸の中に、既視感きしかんのある金髪が見えた。年老いた2人の顔立ちはどことなくパトレシアに似ている。

「だから……言ったのにね……自業自得だって。お金なんて……すがりついてまで、求めるようなものじゃないって」

「パトレシアの……家族……」

「馬鹿だね。早く逃げれば良かったのに……私もちゃんと止めれば良かったのにね」

 パトレシアは小さく息を吐いて、一筋の涙を垂らした。

「私も自業自得……結局、私は最後まで覚悟を決められなかった。あの人たちを、この都市を憎むことも愛することも出来なかった。だから一手見誤った。あの人たちが屍鬼ヴェータラになって襲い掛かってきたとき、私は拳を振り下ろすのをためらってしまった」

 屍鬼ヴェータラは死者に取り憑く魔物だ。
 人間を殺し、その人間に取り憑いて増殖する。人口の多いこの都市で、パンデミックのように広がったことは想像に難くない。

 パトレシアは自分の腹部に空いた穴に手を置きながら言った。

「それがこの傷。ねぇ、アンク。私、初めて失敗しちゃった。結局何を守りたいか、何を大切にしなきゃいけないか、それを見つけ出すことが出来なかった」

「そんなの……俺にだって分からない」

「そう……? アンクは何もかも分かっているように見えたけれど。私と最初にあった時からずっと、あなたは私の知らないものを見ている」

「……早くこんなところから逃げれば良かったんだ」

「逃げる決断も出来なかった。今覚えば……変な意地だったね。負けるもんかって思ってイザーブに残ったんだけれど……私は……逃げることから逃げていたんだと思う」

 すっと目を閉じて、パトレシアは言った。

「親が嫌いだった。この都市が嫌いだった。金と腐敗の匂いがする全てのものが嫌いだった。私は正しく生きたいと思っていた。正しく生きたいと思っていたからこそ…………私は何1つ捨てることが出来なかった。憎みたかったのに、憎みきることが出来なかった。愛したいのに、愛し切ることが出来なかった。中途半端な私が……こういう結末で終わるのは当然だったんだよ」

 パトレシアの言葉を聞くアンクは唇を噛み締めて、悔しそうな表情をしていた。拳を震わせてやり場の無い怒りで、目に涙を貯めていた。

 そんなアンクの顔を見ながら、パトレシアはフッと笑った。

「ねぇ、笑ってよ。アンクに暗い顔させちゃったら、私死んでも死に切れない」

「そんなこと、言うな……!」

「言うよ。だってアンクはこれから多くの人を救う大英雄になるんでしょ。私なんかにつまずいていたら、誰も救うことなんて出来ないよ」

 1つ1つの言葉をしっかり噛みしめるように、パトレシアは言った。

「ちゃんと進んでよ。私の好きな人。私のたった1つの確かな欲望。あなたを見失ってしまったら、私には本当に何も残らないから」

「……」

「ねぇ……ちゅーしてよ。ちゅー」

「俺は……」

「お願い、早く。私が、まだ私であるうちに」

 その言葉に何も言わずに頷いて、アンクはパトレシアと唇を重ね合わせた。束の間の接吻せっぷんの後、パトレシアは穏やかな表情で天井を見上げていた。

「……とても良かった。これなら死ぬのも悪く無いね」

「馬鹿なこと言うなよ……」

「ふふ……」

 それが最後の言葉だった。パトレシアの手から力が抜けていくのが分かる。流れた血は床に広がり、毒々しい花のような模様を描いていた。

 すすり泣くようなアンクの声を、私はしばらく黙って聞いていた。

しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

異世界転生雑学無双譚 〜転生したのにスキルとか貰えなかったのですが〜

ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:1,265pt お気に入り:33

じゃあ勇者でお願いします。

ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:7pt お気に入り:211

腹黒上司が実は激甘だった件について。

恋愛 / 完結 24h.ポイント:859pt お気に入り:139

異世界召喚されたユウキのスキルを知った女性達は今日も彼を愛する

ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:28pt お気に入り:1,279

規格外で転生した私の誤魔化しライフ 〜旅行マニアの異世界無双旅〜

ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:1,627pt お気に入り:139

仲良しな天然双子は、王族に転生しても仲良しで最強です♪

ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:887pt お気に入り:307

処理中です...