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【満たすもの】
しおりを挟む目を開けると、私が作り出した世界の半分は崩れかけてしまっていた。私が作り出した巨大な箱は、巨大な鉾で貫かれたかのように巨大な穴が開いていた。真っ青な空にぽっかりと開いた大穴の先には、朝焼けのあかね色が見えた。
心臓が鼓動している。
今までのものとは違う。新しい心臓が私に芽生えている。
「レイナ、おはよう」
……私がこの世界で最初に見たものが彼だったことに感謝しよう。
私の胸に手を当てて、彼は祈るように手を載せた。血で真っ赤に染まった顔をほころばせて、彼は嬉しそうに笑っていた。
「……おはようございます、アンクさま」
「なんとか間に合ったよ。いやぁ、ひどい目にあった」
「本当に無茶をするんですから」
「あぁ、自分でもそう思う」
私が負わせた彼の傷は完全に回復していた。腹の傷口も、えぐられた左腕もすっかり元通りになっている。
変わったことと言えば、ただ1つ。
彼の身体を流れる魔力はどす黒いものに変貌していた。
「もう……すでに『異端の王』になってしまったのですね」
「思っていたより実感がないな。もっとこう魔王っぽく進化するのかと思ったら、案外そんなこともない。むしろよりいつも身体の調子が良いくらいだ」
「私はむしろ非常に気だるいです。自分の一部がぽっかり抜け落ちてしまったみたいです」
「……多分、俺のせいだな。心臓を抜き取った時に、他の記憶も食べてしまったみたいだ。レイナの子ども時代からずっと遡ってきたみたいな、不思議な感じがする」
彼はそう言って、自分の頭の調子を確かめるようにコンコンと叩いてみせた。
そんな冗談めいた彼の仕草は、いつも通りのはずなのに妙におかしく思えた。
まるで長い夢を見ているみたいに。
「あの、アンクさま……」
「ん?」
「お、怒っていますか……?」
そう聞くと、彼は肩をすくめて言った。
「怒っていないよ、腹は立ったけれど」
「それは怒っているというのではないですか」
「腹が立ったのはレイナに対してじゃない。もう全部見てしまったから、怒れる訳ないじゃないか」
「怒ってください……私はずっと間違ったことをしていましたから」
本当は背負わなくて良い苦しみを彼に背負わせてしまった。
私が何もしなければ、彼は『異端の王』なんかにならずに済んだのに。心臓を食べて酷い苦しみを味わう必要なんてなかったのに。
「……ごめんなさい」
もっと早く自分の欲望に気がついていれば。もっと早く自分に素直に生きていれば。
「謝る必要なんてない」
「ですが……」
「謝る必要なんてないんだ」
身体をきつく抱きしめられる。
彼の身体からは血の匂いがした。まだ温かい彼の血液はルビーの宝石みたいに真っ赤だった。
頬を合わせると私の髪が赤く滲んだ。
「俺の望みは叶った。これ以上の結末を俺は望まない。思えばずっとこの場所を目指していたような気がする。救われなかった人を救うことが出来た。後悔を取り戻すことが出来た。巻き戻せないはずの時間を跳び、やり直すことが出来た。だから、こうして、こうやって君を抱きしめることが出来て、俺はもう十分救われた」
「アンクさま……」
「ありがとう、レイナ。君のおかげで俺は本当の英雄になることが出来た。大切なものとか、目に映るものを守ることが出来る英雄になることが出来た」
彼は手に力をこめた。
私を抱きしめる手の力は痛いほどに強かった。その痛みが今はなにより心地良かった。
「……私にとっては、あなたは最初からずっとヒーローです」
あの森で会った時からずっと。
私を死の淵から救い出してくれた時から、ずっと変わらずに。深い闇の中にあった私の命は、あの時を境に光の中へ引っ張り出された。
今までのことが脳裏を駆け巡る。
私にとっては彼と経験したものの全てが、夜空に弾ける花火のようだった。眩しくて煌びやかな未経験なものばかりだった。
それは幸福な日々だった。
「レイナ」
唇を合わせる。
背中に手を回して、彼の身体の動きに応える。
……今が1番幸福だ。
朝焼けは西の空から広がり、徐々に東の端へとたどり着こうとしていた。目を瞑っていた世界は目覚め始めて、徐々に正しいものへと戻ろうとしていた。
「アンク」
それでもあの紅が世界を覆うまで、世界は私たち2人だけのものだった。世界を隠していた箱が完全にバラバラになり、散り散りになって取り払われるまで、私たちは幸福でいられた。
1秒でも長くあなたといること。1ミリでも近くにあなたの存在があること。
行き過ぎたワガママだ。1人で生きることが出来ないなんて、私たちはなんて不完全な生き物なんだろう。
『気をつけて、僕たちの欲望は底無しだから』
知っている。
けれど気をつけようもない。目の前が崖の淵だと知ろうとも、私たちはその果てを知らずにはいられない生物だ。
「どうか……」
天幕が引いていく。
東の地平線がいくつもの層を混じり合わせながら、やがて1つになろうとしていた。群青と曙を重ね合わせながら、上空に彩雲が立ち上る。
朝が来る。
私の願いが終わる。幸福な時間が離れようとしている。
それを口に出してしまうと、本当に叶わなくなってしまうと恐怖があった。けれど、私はそれを言葉にせずにはいられなかった。
「どうか……帰ってきてください……私たちの家へ。ずっと……ずっと待っていますから」
彼はそれを聞くとちょっと困った顔をしていた。首を傾げると、それからにっこりと笑って言った。
「あぁ、約束だ」
地平線の先から光が顔をのぞかせる。
長い眠りから目を覚まし、世界を正しいものへと変えていく。全てを見通す目が地上から間違ったものを連れ去っていく。
私が掴んでいた彼の体温も、いつの間にか嘘のように消えて無くなってしまった。私の掌に残されたものは朝の光の粒だけだった。
「約束……ですよ」
その不確かな希望を、私はしばらく眺めていた。
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