四匹の猫と君

花見川港

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君の願い(2)

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 ほんの少し走っただけで脇腹が苦しくなった。息は荒れ、重くなった足がもつれないように気をつけるので精一杯。鈍重な荷物を引きずっていても、常ノ梅の勢いは緩まない。ここで足を動かすのをやめたとしても、引きずりながら走り続けそうだ。それは勘弁と、修治は酸素の足りてない頭で思う。

 呼吸が落ち着かない。今自分はどこを走っているのだろう。

 屋敷に入って始めに使った階段は、乱雑に積み重なった家具によって塞がれていた。二階を駆け回って、何の気配もしない部屋に入り込んでようやくひと息つく。

 修治は一度、肺の奥から息を全て吐き出し、吸って整える。完全に落ち着くまではもうしばらくかかりそうだ。

 膝をついた修治の沸騰寸前の顔からは大量の汗が滴り、首元を濡らす。不快で思わず袖口で顎下を拭った。「大丈夫?」と熱を帯びた背中をさする手の持ち主を横目で見上げる。その顔には汗一滴なく、息の乱れ一つなく、おまけに乱れていた髪もいつの間にか元通り。

「なんで、戻ってきた」

「……君がいなくなるから」

 なんの感情も読み取れない人形めいた顔を見つめる。ほっそりとした指が修治の手を掴んだ。侵食してくる他人の温度に産毛が逆立ち、振り払うこともできずに固まっていると、「ごめん」と常ノ梅はとても弱々しい声を発した。

「余計なことしたよね」

 掴んで離さない手と、真っ直ぐこちらを貫く射干玉。全てを見透かされているようで、修治はただ息を吐くことしかできなかった。

 修治の横から顰めっ面で威嚇していた猫たちが静まる。

 常ノ梅は扉を一瞥した。

「……さっきの部屋が、鷹田家長男の物だったんだろうね」

 あの部屋のベッドで寝ていた『誰か』。

 部屋の外から様子を窺っていた『彼ら』は、待っていたのだろうか。

 目覚めを。

 修治が、自分たちと同じ『目撃者』になることを。

「引き寄せられてしまったのかな」

「……」

 常ノ梅はきっと気づいている。自ら屋敷に残った修治が、鷹田家長男と同じ望みを抱いていることを。

 目を伏せる修治に、常ノ梅は朗らかに言う。

「実は僕ね。君と会ったとき、崖から飛び降りようとしていたんだ」

「……………………はあ?」

 崖の向こうに夢想を浮かべていたあのとき。あの・・常ノ梅が似たようなことを考えていたなんて、誰が思う。

 疑り深い目を向ける修治を、常ノ梅は「なんでだろうね」と笑って受け止めた。

「特に不満があったわけでも、つらいことがあったわけでもないんだけど……坂を登っていたら、急に何もかもどうでもよくなってしまって。現実味がなくなって、なにか思い切ったことがしたくなった、のかな?」

 まったくわからないでもないから、どう反応すべきか困る。

「誰もいないと思ってたのに、まさかあんなところに人がいるとは思わなくて、すごくびっくりしたんだよ」

 常に相手の心を解そうとする穏やかな常ノ梅の表情。もう、そんな表面上に浮かんだものは目に入らなかった。一つのものとしてはなく、目、口とバラバラに捉えて、その分け目から中身が見えないかと注視する。

 植物や虫、動物のように、生きることのみに尽くせればよかった。けれど人間は、生きているだけでは足りなくて、それ以外の何かを必要とする生き物だ。

 鷹田家長男は恵まれていた。それは、本人が望む前に与えられるばかりで、だから、満たされなかったのだろう。

 支配者の末裔に生まれたこの少年はどうだろう。

「お前は、自分から何かを欲したこと、ないのか?」

「……え?」

 修治は己の胸に手をあてる。

 ここに、ぽっかり空いた穴がある。きっと今を楽しめてる人は、この穴が埋まっているのだ。

 大体の人間はできているのに、望む前から手にしているのが当たり前で、享受するばかりだった男はできていなかった。空虚感がまとわりつき、だから——生きることの虚しさを自覚してしまった。

 常ノ梅清羽も、きっと——

「——いや。お前は大丈夫なんだろうな」

 修治他人を助けるために、ここまで来てくれるような奴だ。常ノ梅の胸の穴はきっとすぐに埋まる。

 人を想うことができない修治とは違って。

 目の前の美貌は、なぜか気の抜けた顔で瞬きを繰り返し、凝視してきた。相手からしたら、さきほどから唐突な物言いばかりしている己の口を修治は手で覆って、目を逸らす。

 猫の髭がひくりと揺れた。耳を立てた四対の目が扉に向く。

 ノックされたあとに「常ノ梅、松原」と聞いたことのある声が呼びかけてきた。

「古河?」

 鍵はないので、ドアノブが回れば扉はあっさり開く。廊下に佇む古河の存在に、不自然さを感じるまでには少しかかった。喉仏が上下する代わりに、血がぷしゅぷしゅと噴いて、シャツの襟元が真っ赤に染まっている。近づきながら、挨拶するように緩やかに上げられた右手には、折れた太い棒があり、刺々しい折られた面を下に、常ノ梅の首目掛けて振り下ろされた。

 常ノ梅は修治を後ろに庇いながら避ける。

 ——どこ行くんだ常ノ梅。

「どいてくれ、古河君」

 ——俺を置いていくのか?

「君のことはあとで迎えに来るから」

 ——いいや、ダメだ。ダメだダメだダメだ。どこにもイかせない。だって不公平だろ。俺だけ、なんで、俺はまだ、お前たチはナンでナンデオレガナンデナンデナンデ——

「『どいてくれ!』」

 また心臓を突くような声が常ノ梅の口から発せられた。自分に向けられたものではないからか、さきほどよりも衝撃は弱い。

 古河は、血走った目を見開いたまま石のように固まり、常ノ梅はその隙をついて修治の手を引いて再び走り出した。

 ——ミャア

 振り返った修治の胸を、旋風のように横からきた手が力強く押し出し、修治の体は吹き抜けの手すりを乗り越えて宙に投げ出される。

 驚く常ノ梅の隣で、白い顔の女がにたりと笑っていた。
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