余命僅かの悪役令息に転生したけど、攻略対象者達が何やら離してくれない

上総啓

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4巻

4-1

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   プロローグ


聖者せいじゃ薔薇園ばらぞの』の世界に転生して、早くも十年が経とうとしていた。
 誰からも愛されなかった成瀬なるせとしての前世とは異なり、今世ではたくさんの愛情をもらって、僕は自分の運命を覚悟しながらもそれなりに前向きに生きていた。
 今まで、ゲームにはなかったたくさんの出来事が起こったわけだけれど……その中でも一番大きな事件を挙げるなら、やはり大公家の運命をくつがえした例の件だろう。


 大公家のシナリオを改変した影響は大きかった。
 ゲーム本編では、ライネスを攻略対象者として成り立たせるために『大公家の悲劇』は必須の過去ストーリーだった。それを変更したために、帝国全体の動きがゲームとズレ始めたのだ。
 その中でも最大の差は、生きていれば作中最強とまで呼ばれた、大公フレデリック・ヴィアスが生存したことである。
 ゲームでは、大公の死によって帝国にあらゆる変化が起こった。
 一つは、皇族の次に権威を持つ大公の座を、若くしてライネスが継いだこと。
 そして両親の死で心を閉ざしてしまったライネスは、他の領地との交流を絶ち、北部を完全な鎖国状態にしてしまった。そのため、今のように他地域との活発な交流もなく、ましてやエーデルス公爵家と懇意になることもない。
 しかし現実の大公家は、周囲と盛んな交流をする家門となった。
 また、ゲーム内では、フレデリック・ヴィアスの死によって、皇太子レナードが孤独になる。
 他人を信頼しない皇太子が唯一心を開いていた従兄弟、ライネスが北部に閉じこもってしまったせいで、レナードが孤独を突き付けられることになるのだ。
 ただでさえ冷酷無慈悲な人物であるレナードの、最後の良心ともいえる部分が完全に壊されてしまうのである。
 これは、後にゲームで描かれる、レナードから悪役フェリアルへの悪逆な仕打ちを激化させる原因にもなった。けれど、現実ではライネスとレナードの交流が絶たれることはなく、大公家の平穏が戻ったことで、むしろ二人の間には以前よりも強固な信頼関係が生まれた。
 つまり、大公家の件で、他の攻略対象者たちの過去ストーリーにも変化が生じただけでなく、キャラクター達の本来の人物像までが大きくズレ始めたのだ。
 多少シナリオが変わってしまうことは覚悟していたけれど、まさかここまで大きく変化が起きてしまうなんて。
 中でも最近一番困っていること──それは、悪役フェリアルの過去編にも予想外の変化が起こったことだ。
 兄様たちやレオたちに散々鈍いと言われる僕でも、ゲームと現実の違いについては察している。
 それは、ゲームとは全く異なる悪役の交友関係や、攻略対象者たちの動き、心情だ。
 弟を憎悪する公爵家の双子は、弟にとても甘く優しい兄達に。
 聖者を崇拝し、悪役フェリアルを嫌悪するはずの皇太子は、聖者への執着が見られない穏やかな友人に。
 全てを失い壊れてしまった大公子は、全てを取り戻して平穏を手にした良き理解者に。
 悪役フェリアルの周囲を取り巻く人間関係も、環境も、全てがゲームと異なる方向へ進んでいる。
 今のところ『運命』が発動する様子もない。
 それは今の僕にとっては良いことかもしれないけれど、だからこそ焦燥も増していく。
 こんなに幸福を味わってしまって、いざ『運命』が発動した時に突然全てを失ってしまったらどうすればいいのか。
 もしかすると、ゲームの開幕から終幕まで常に悪役で在り続けたフェリアルよりも、ずっと深い絶望を突き付けられる結果になるのではないかと。
 そう思うと、幸せなはずの今この瞬間も、なんとか早く『運命』が発動して、正しいシナリオに戻ってほしいと本能が望んでしまう。
 けれど、そんな思いに反して現実はゲームから逸脱していくばかり。
 この先のシナリオが果たしてゲーム通りに進むのかどうか、僕は内心かなり不安になり始めていた。




  【フェリアルの家庭教師】


 ライネスとの出会いから早くも一年以上が経ち、兄様達は高等部の二年生に進級した。
 皆がいない生活にも慣れてきて、十歳の誕生日を控えた僕も、そろそろお兄さんへ成長するために何かしら新たなことをしようと考え始めていた。
 そんなある日。それは、ゲームの本編開始を四年後に控えた、寒い冬の朝のことだった。
 僕はいつもよりも早起きして、自室のソファで数枚の調査報告書と向き合っていた。

「むぅ……」

 報告書の内容は、ずばり僕の家庭教師候補たちのものだ。
 実は兄様達が学園へ入学したタイミングで、僕にも家庭教師をつけてはどうかという話が邸内で挙がっていた。色々あったせいで、それが先延ばしになっていたのだ。
 色々というのは、主に大公家のことだ。
 しかし、最近では慌ただしい日常もだいぶ落ち着いてきた。そういうわけなので、改めて家庭教師の話が持ち上がったというわけである。
 けれど僕は、一向に家庭教師を決められないでいた。
 その理由こそ、たった今難しい顔で向き合っているこの調査報告書である。
 僕は調査報告書に目を走らせ、ぐったりと項垂うなだれた。

「みんな、いいひとじゃなさそう……」
「えぇ、えぇ、その通りです。今回集まった志願者も全員調べ尽くしましたが、今回も! やはり揃いも揃ってフェリアル様の家庭教師には相応ふさわしくない者ばかりでした!」

 今回もダメそうだと呟くと、傍に立っていた侍従のシモンがうんうんと頷いた。
 緩くまとめられた茶髪のお団子がはらりと揺れ、夏の木の葉のような緑色の瞳が真剣な色をびる。
 そんなシモンの真面目な様子を見て、僕は難しい表情を浮かべて唸った。
 実は、この調査報告書は僕が正式に頼んだものじゃない。
 初めは履歴書だけ確認していたのだが、僕に家庭教師をつけるという話を嗅ぎつけたシモンが、独断で志願者たちの身元調査を始めたのである。
 シモンが僕に押し付け……持ってくる報告書の内容は、どれも詳細で正確なものだった。そして、その全てに調査対象者の悪い調査結果が記されていた。
 まるで、なんとか悪いところをアピールしようとでもしているのかと、そう思ってしまうくらいの執念深い調べようだ。
 今まさに読み進めているこの報告書なんかも良い例である。

「この人は、家族がいるのに浮気してて……こっちの人は、お酒を飲むとよくあばれる……」
「ね? どいつもこいつもダメダメでしょう? 今回も全員落とすべきです!」

 僕の家庭教師に! と志願してくる先生たちは、みんな頭のいい人ばかりだ。
 実際に学園で講師をしている人や、留学経験のある学者さん、秀才と名高い数学の教師まで。
 お給料が魅力的な公爵家の求人ともなると、志願者も素晴らしい経歴を持つ人でいっぱいだ。
 けれどシモン曰く、その素晴らしい経歴を持った志願者たちは全員、裏では教師として相応ふさわしくない言動をしているらしい。そしてそれは、シモンが与えてくる報告書を読む限り事実なのだ。
 とはいえ一般的には履歴書だけ見て決めるわけだし、調査報告書まで加味しなくても……
 家庭教師というものが貴族の令息に求められるのだから、多少は……と思いつつ、僕は報告書から顔を上げる。

「でもみんな、お仕事はまじめにしてるみたい。それなら、プライベートのことは、ちょっとくらいおめめをつむっても──」
「駄目です! ぜぇーッたい! 駄目!」

 採用基準を緩めてもいいのでは? と遠回しに告げると、シモンは顔をしかめて首を振った。
 あんまりにも盛大に否定されたものだから、思わずびっくりして固まってしまう。
 シモンは拳を握り締めて力説した。

「子供にとって、教師という存在は今後の人格形成にも強く影響する重要な存在なんですよ⁉ フェリアル様の家庭教師ともなると、非の打ち所がない完璧な者にしかその役割は任せられません!」

 ものすごく早口でまくし立てられ、はわわ……と仰け反った。
 どこで息をしていたのだろう。シモンったら、なんだかいつもの余裕がなくて様子がおかしい。

「シ、シモン、ちょっぴり、おちついて……」
「落ち着いてどうするんですか! フェリアル様はもっと焦ってください!」
「はわわ……」
「家庭教師ですよ⁉ 家庭教師! どんだけ重要な案件かちゃんと分かってます⁉」

 ひえぇ、と涙ぐむ。シモンが本気すぎてちょっぴり怖いよぅ。

「で、でも、先生は教えるひとだから……お勉強、きちんと教えてくれるひとならそれで……」
「舐めないでください! お勉強を教えるだけならその辺の馬鹿でも出来ますでしょうが!」
「ぴえぇ……」

 いつになく感情的なシモンを前に、思わず情けない声を漏らしてしまった。
 どうやら家庭教師の案件は、シモンの過保護センサーをそれはもう強く刺激してしまったらしい。

「あ、あの、でも、そろそろ決めなきゃ……」

 シモンの様子を窺うように小声で語る。
 採用を慎重に判断するのも大事なことだけれど、いい加減誰にするか決めないといつまでも勉強を始められない。
 それに、僕に優秀な家庭教師をと人材を探してくれているお父様にも、そろそろいい人を採用出来たと報告してあげたいし……
 そう言うとシモンは顔をしかめたまま、ふと短いため息を吐いた。

「……仕方ないですね。それなら、ひとまず一番マトモそうな人間を仮採用しましょう」
「かり、さいよう……?」

 聞き慣れない言葉にぱちくりと瞬く。
 シモンは強く頷くと、反論を許さない硬い声でセリフを続けた。

「三日間だけ授業をしていただいて、フェリアル様の教師に相応ふさわしい人材だと判断したら正式に雇います。それでいいですね?」
「えっと……」
「いいですねッ⁉」
「ひゃっ、ひゃい!」

 シモンの圧に押され、僕はこくこくっと涙目で頷くことしか出来なかった。


 家庭教師の仮採用はあっさりと進み、あっという間に授業初日が訪れた。
 あれだけ教師選びが難航していたのが嘘のようだ。最大の壁だったシモンが、正式な採用ではないからと渋々ながらも納得してくれたのが大きかった。
 授業用に用意してもらった部屋のドアを開き、僕は緊張しつつ、先生と顔を合わせた。
 仮採用した教師は、留学経験のある地方貴族の男性、アドルフ先生だ。
 年齢はお父様と同じくらい。中肉中背で平凡な顔立ちの温厚そうな人である。

「先生、はじめまして。フェリアルです」

 教卓と机がぽつんと向かい合っていて、それ以外は黒板があるくらいのシンプルな部屋。お行儀よく机につく僕の斜め後ろには、なぜかシモンが控えている。
 授業だから、先生と二人きりでいいって言ったのにな……なんて、困惑が湧き上がるけれどシモンには何も言わない。
 今回の家庭教師の件、シモンはずっとピリピリしているからあまり刺激しないようにしないと。
 僕が背筋を伸ばして返事を待っていると、アドルフ先生はにっこりと微笑んだ。

「はい、初めましてフェリアル君。授業を担当するアドルフです」

 その言葉に、僕は思わず笑顔になった。
 すごい、なんていうかものすごく、授業っぽい!
 僕もお勉強を教わるお兄さんの年齢になったんだ! とほくほく喜んでいると、そのなごやかな空気を切り裂くように、背後から冷淡な声が聞こえてきた。

「失礼ですが、フェリアル様のことは敬称を付けてお呼びください。教師といえども公爵家の令息に対して最低限の礼儀は払っていただかないと」

 漂い始めていたいい感じの雰囲気は、シモンの言葉によって木っ端微塵になった。
 アドルフ先生は目を見開くと、一歩後ろに下がって胸に手を当てる。

「おっと……これは申し訳ございません。フェリアル様、よろしくお願いいたします」
「えっ、あ……」

 先生が改めて僕に頭を下げる。
 さっきの親しみやすさは掻き消え、堅苦しい笑みと声を向けられたことに少し悲しくなった。
 確かにシモンの言う通り、僕は公爵令息で先生は地方貴族だけれど……でも、今は教師と生徒という関係なのだ。重視すべき関係性は後者じゃないのだろうか。

「っ……先生! 敬称はなくて、大丈夫です!」
「え、ですが」
「いいんです! 僕がいいので、いいんです!」

 ピシッと挙手して宣言すると、先生は僕の後ろを窺うような様子を見せながらも「フェリアル様が仰るなら……」と頷いた。
 よし。シモンはこれから説得しよう。
 僕はふんすっと意気込みつつ振り返った。

「シモ──ッぴぇ!」
「……」

 普段の甘く蕩けるような笑みは鳴りを潜め、そこには感情の読めない無機質な表情があった。
 シモンの心が仄暗く沈んでいる時、澄んだ緑の瞳に現れる真っ黒な深淵。それが顔を覗かせている。漆黒に染まったシモンの瞳が、僕にまっすぐ向けられた。

「シ、シモン、あの」

 どうしてだろう。どうして、シモンは今回の件にこんなにも警戒を見せているのだろう。
 よくわからないから困惑する。シモンに暗い視線を向けられることに慣れていない僕は、上手く言葉を紡げずに身体を震わせることしか出来なかった。

「……他でもないフェリアル様のご判断なら、俺は何も言いませんよ」

 淡々と語るシモンに何も返すことが出来ず、気まずい空気の中、そっと姿勢を戻す。
 ちらりと顔を上げると、先生は僕の視線にこめられた意図をすぐ察して頷いてくれた。

「それでは、授業を始めましょう。最初なので、まずは基礎を学びましょうか」
「は、はいっ。よろしくおねがいします」

 そうして授業が始まると、だんだん硬い空気はほぐれていった。
 授業の科目は歴史で、基礎的な帝国の史実や、神殿と皇族の関係性などを学ぶことになった。
 先生の言う通り、これは基礎の基礎だ。絵本に描いてあるような知識だから、僕でもスラスラ理解できる易しい授業だった。
 教え方も優しくて、僕が理解に追い付けずにいるとしっかり説明してくれる。理想的な先生という感じで、僕は初日にもかかわらず早くも先生を正式に採用したくなっていた。
 教科書として設定された本を開き、先生を呼ぶ。

「せんせ、あの、これって」
「うん? どれどれ……あぁ、歴代皇室の家系図ですか。この辺り、名前が似通っている先代が多くてややこしいですよね」

 レオナルドやらレイナルドやら、なんだかこんがらがってしまいそうな名前続きの家系図だ。
 それに加えて、皇室の歴史は初代に近付くにつれ神殿との関係が親密になっていくから、ある世代を境に洗礼名まで増えて暗記が難しくなっている。
 ぐぬぬ……と唸っていると、先生はクスクスと笑いながら教科書を手に持ち、皇室の細かい史実が記されたページを開いた。

「こういうのは、物語だと思って史実と一緒に覚えるのがいいですよ。ただの暗記科目と思うより、読書をする感覚で見れば自然と頭に入ると思います」
「むぅ、なるほど……」

 プライベートな記録まで記された史実を、どれどれと思いながら読んでみる。
 七代目皇帝のレオナルドさんはおっちょこちょいな性格で、よく式典に冠を忘れて参加していた。
 九代目皇帝のレイナルドさんは病弱で、剣術の腕はイマイチだけれど誰よりも頭脳明晰だった。
 ……ふむふむ。確かに、本を読んでいると思えばとっても覚えやすいかも!

「す、すごい! 先生、ありがとうございます、とっても覚えやすいです!」

 ふおぉっと瞳を輝かせると、先生は一度ぱちくりと目を丸くした。
 けれどすぐにニコリと笑みを浮かべ、ふと教科書を机に置いて僕に腕を伸ばしてきた。

「……む?」

 ぽん、と頭にのった重みに呆然とする。
 無意識に視線は背後に向かって、驚きで止まったままの意識は自然とシモンに向いた。

「……ぁ、れ?」

 ──いない。いつの間に席を外したのか、シモンは部屋からいなくなっていた。
 授業の邪魔をしないようにと気を遣ったのかもしれない。
 もしくは僕の頑固な態度に嫌気がさしたのかも。
 理由は分からないけれど、とにかくシモンがいない現状が、なんだかすごく不安で……

「あっ、あの、せんせ」

 柔らかく僕の頭を撫でる手は、一向に離れる気配がない。
 硬直したままなんとか声を上げると、先生はようやく僕の頭から手を離した。

「あぁ、すみません。可愛らしい反応を見せるので、つい」

 明るい笑い声が耳に届き、そろりと視線を上げる。

「フェリアル君は、素直でとっても可愛いですね」

 照れたような、困ったような色が宿る先生の笑顔は、悪いものには見えなかった。
 けれど、けれど、どうしてだろう。なんだか、ゾワッとした感覚がどうしても止まなくて。

「……ぁ、あ、えへへ」

 優しい先生に対して、一瞬でも後ろめたい感情を持ってしまったことが申し訳ない。
 複雑な気持ちをどうしていいか分からない僕は、先生の気分を害さないようにと、ただ愛想笑いをこぼすことしか出来なかった。


 その日の夜。
 仮授業の一日目を無事に終えた僕は、明日の予習のために自室で教科書を読んでいた。
 ついさっき湯浴みを終えたばかりなので、今はシモンが僕の髪のお手入れをしてくれている。いつもならわいわいと談笑を楽しんでいるところだけれど、なんとなく気まずくて、僕はシモンと一言も口をきかず予習に取り組んでいた。
 その時だった。
 ずっと黙り込んでいたシモンが恐る恐るといったように口を開いた。

「……あの、フェリアル様」

 振り向くと、櫛で優しく僕の髪をかす動作はそのままに、シモンは不安そうな顔で僕の返事を待っていた。
 その姿を見てなんだか胸がじんと熱くなった僕は、教科書を閉じてそっとテーブルに置いた。

「うん。なぁに?」

 もう一度振り返ってそう聞く。
 手持ち無沙汰に膝上で手遊びしながら、今度は僕がシモンの答えを待つ。
 短い沈黙の後、蝋燭の火が淡く照らす寝室に、小さな声が静かに響いた。

「今日は、本当にすみませんでした……フェリアル様の傍に他人が近付くのは滅多にないことなので、心配してしまって……侍従の立場で出過ぎた態度をとってしまいました」

 櫛が離され、今度はシモンが手櫛で僕の髪を優しく撫でる。
 その手つきはとても安心感があって、脱力しそうなほど心地良くて、先生に撫でられた時とはまったく異なるその温かさで。僕は思わず視界を滲ませた。

「……ううん、いいの。シモンは、なんにもわるくないの。僕の方こそ、ごめんなさい……っ」

 その時、僕はようやく自覚した。
 どうやら日中から、ずっと緊張で身体が強張っていたらしい。たぶん、先生に『可愛い』と言われて頭を撫でられたあの時からだ。
 どうしてかは分からないけれど、僕はあの時の先生の対応があまり好きではなかったらしい。

「ごめっ……! ごめんね、しもんっ……ぼく、僕のこと、きらいにならないでぇ……っ」

 ぽたぽた、と膝にのせた手に大粒の涙が零れ落ちる。
 強張っていた身体から一気に力が抜けて、涙腺が決壊してしまったようだ。

「フェリアル様……」

 切実な感情が籠った声が背後から聞こえたかと思うと、シモンは急かされるように駆け足でこちらに回り込み、僕の正面に膝をついた。

「あぁ、そんなっ……フェリアル様、泣かないで……」

 シモンの大きな手が僕の両頬を包み込む。涙を全て受け止めようとする骨ばった手に、僕もそっと自分の手を重ねた。
 あぁ、これだ。求めていた温もりは、まさにこれだ。
 シモン、僕の大好きなシモン。勉強を頑張って、頭が良くなって、僕はただ他でもないシモンに褒めてもらいたかった。
 毎日ポカをする、至らない僕のお世話をしてくれるシモン。そんなシモンに、僕は実はやればできる子なんだよって、こんなに賢い子なんだよって、そう自慢したくて。
 家庭教師を雇う件について前向きだったのも、そんな下心が一番大きかったのだ。
 いつもの甘い笑顔で『流石フェリアル様、天才です!』と、いい子いい子と褒めてほしかった。
 あんな冷たい目を向けられたかったわけじゃない。僕はただ、ただ……

「ひぅっ、んぇ……うあぁ……っ!」

 嗚咽おえつが喉に引っかかって、下手くそな泣き声が鼻水と一緒に漏れる。
 お世辞にも上手とは言えないだろう僕の泣き顔を間近で見たシモンは、緑色の瞳を大きく揺らして、次の瞬間グッと何かを堪えるように表情を歪めた。

「あぁ、あぁッ、フェリアル様……ッ!」

 ぎゅうっと、一切の隙間も許さない強い抱擁を受ける。
 僕もすかさずシモンの首に腕を回し、涙が止まらないままシモンの肩に顔を押しつけた。
 不思議なことに、僕の耳まで濡れた感触がある。見上げるとシモンも緑色の綺麗な目からぽろぽろ涙を零していた。

「嫌いになんてなるわけないでしょう……むしろ、日中はずっと俺の方が怯えてましたよ……あんな態度をとって、フェリアル様に嫌われてしまったらどうしようって」
「ばかぁっ……! ぼくっ、ぼくのほうが、こわかったもん……!」
「いいえ、いいえ、俺の方が怖かったです! どうすればフェリアル様に許していただけるかと、頭を冷やしている間ずっと考えていたんですよ!」

 二人揃って涙をぽろぽろ零して、傍から見るときっとすごくカオスな状況だ。
 ごめんね、ごめんねとお互いに謝罪の言葉をかけ合うのは、なんだかとってもくすぐったい感じがしたけれど、抱え込んでいた不安が一斉に解消されたような気がして、僕はものすごく安堵した。

「ごめんなさい、ごめんなさいフェリアル様。俺、きちんと見守ります。フェリアル様の大切な成長過程を邪魔しないように、きちんと一歩引いたところから見守ります」

 耳元で、シモンが切なさをびた声を零す。
 それを聞いた途端、焦燥にも似た激しい感情が湧き上がる。一瞬、シモンと一緒にいられるなら家庭教師なんていらないんじゃないかとも思った。
 けれど、これは成長のために必要な大切な過程なんだと自分に言い聞かせて、溢れそうな衝動をグッと堪える。

「……ん、うん。僕も、がんばる。あと二日、おわるまで、見守っててくれる?」
「えぇ、もちろんです。少し離れたところから、俺はいつでもフェリアル様を応援しています」

 むぎゅっと抱き締め合って、これで仲直りねと二人で笑みを浮かべる。
 就寝時間になってベッドに入ってからも、お喋り出来なかった昼間の分も含めて寝落ちするまでシモンと語り合った。


   ***


 そうして迎えた、授業二日目。
 シモンとしっかり話し合い、授業の時間は僕だけで先生と会うことにした。
 だから、今日からはシモンの監視がつかない。僕はいてもいいよと言ったけれど、シモンがケジメのためと言って断ったのだ。

『遠くから見守っていますね。終わったら、頑張ったご褒美にお菓子を食べましょう』

 朝、シモンと交わした言葉を思い返して頬を緩める。
 そうこうしていると授業の時間になり、先生が教室に入ってくる。
 僕はキッチリ姿勢を正して先生に挨拶した。

「先生、おはようございます!」

 終わったらシモンとおやつ……
 そわそわと頬を染めていると、先生は上機嫌な僕を見てきょとんと瞬いた。

「おはようございます、フェリアル君。なんだか嬉しそうですね。授業が楽しみだったんですか? ふふ、感心です」
「へっ……あ、はいっ。とっても、たのしみでした」

 ニコニコと笑う先生を見上げて、一瞬ぽかんとした後に慌てて頷いた。
 シモンとのおやつが楽しみでルンルンしていたのだけれど……ま、まぁ、授業が楽しみだったのも嘘じゃないから肯定しておこう。
 僕が頷くと先生は上機嫌になって、ニコニコしながら授業の開始を宣言した。

「それじゃあ、今日は昨日より少し難しいところを勉強してみましょうか」

 難しいところ、という言葉に背筋がピンと伸びる。
 歴代の皇帝について学んだ昨日の授業も、実はそれなりに難しいと感じたのだけれど……もうあれ以上の内容になると言われるとなんだか緊張する。

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