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【聖者の薔薇園-開幕】
258.影
しおりを挟む「……なんだ、自分で来たんだね」
ドーム型の広い空間。その最奥にある祭壇に緩く腰掛ける神秘的な男性。
仄暗い瞳に見据えられてびくっと肩を揺らす。ぎこちない足取りで中央まで進むと、彼は祭壇から下りてステンドグラスから射す光を背に立ち上がった。
聖者アベルは何処にもいない。愛らしい少年の姿はそこにはなく、いるのはただ息を吞むほど美しい、文字通りの神々しさを纏った青年だけだ。
彼が一段上の場所に立っているからか、必然的に見下ろされるような構図になって少し狼狽える。圧倒的な空気に気圧されそうになったけれど、不安を何とか堪えて対峙した。
「ぼ…僕が、君に会いたくて来たの。誰かに言われたわけじゃない」
聖騎士も神官もここにはいない。僕が一人でこの場に現れたのが何よりの証拠だ。
そう言うと、マーテルは微かに目を細めた。反論してこないのを見るに、どうやら僕の言い分自体は信じてくれたみたいだ。
意思を証明することは成功した。少なくとも直ぐに何かを仕掛けることはないだろう。僕には対話の意思がある、それを示すことが出来たから。
「……それで?どんな説得を聞かせてくれるの?」
さっきの縋るような声じゃない。突き放すような冷たい声に瞳を揺らした。
マーテルの元に来るまでに色々な想いを確かめて覚悟を決めた僕と同じ。一人で頭を冷やしたマーテルも自分の中で何かしらに決着をつけたのだろうか。
彼の瞳にはもう迷いがない。あるのは恐らく今の僕と同じ、全てを決断した上での覚悟だけだ。
マーテルは何か、大きな事を企んでいる。その瞳を見て確信した。
きっと最期だからだ。お互いにもう輪廻はない。神様の寿命がどれほどなのか、そもそも神に寿命なんて存在するのか。分からないけれど、マーテルという存在が消えかけているのは確かだ。魂が繋がっているからこそ分かる。
最後だから足掻いている僕と何も変わらない。マーテルも同じ。最後だから、最後なりに何かを残そうとしている。今までとは比べ物にならない本当の力を使って。
「説得はしないよ。君のことが聞きたくて来ただけ。それがだめなことなら、止めるの」
説得はしない。聞いて、受け止めて、だめだと思ったら止める。ただそれだけ。
何を言ったって意味が無いのは自分がそうだから理解している。覚悟を持ってしまえば誰だって止まることは出来ない。他人からの説得なんて何も響かない。
マーテルは僕の言葉を聞いて眉を顰め、嘲笑するように口角を歪めた。
「相変わらず献身的だね。そんなに自己犠牲が好き?それとも…主人公にでもなったつもりかな」
献身的、自己犠牲、主人公…どれも本来の聖者アベルに相応しい言葉だ。
自嘲気味な声音が気になって首を傾げる。答えを待つマーテルに小さく呟いた。
「主人公なんていないよ」
静かな空間に響く声。マーテルが僅かに目を見開いたのが分かった。
主人公なんていない。主人公も悪役も、現実にはそんなもの存在しないのだ。誰か一人、世界にとって特別な存在を作ろうとするのは違う。
ここはゲームの世界じゃない。ただの現実だ。役者なんてどこにもいない。
「それに、自己犠牲でもない。みんなが望んでいないことは、自己犠牲じゃなくてただの我儘だよ」
みんなが望んでいない『みんなの為』は、自己犠牲なんて高尚なものじゃない。
僕がしようとしていることは全て自己満足の我儘。大切な人を守りたいなんて言いながら、そんな大切な人たちを傷付けることを良しとしている。そうしてでも守りたいと思うのは、もう自己犠牲の域を超えている。
それでも覚悟は既に固まってしまっている。僕は今のみんなの幸せを捨てて、未来のみんなの幸せを選んだのだ。
たくさんの大切な人達に、僕も大切にされているのだと。それは痛いほど理解している。全てが終わったらみんなを悲しませてしまうだろうということも。
それでも、僕はみんなの未来を選んだ。物語が終わっても、この世界が続いていくことを願って。
「はっ…本当に変わらないね。馬鹿なところなんてずっと変わらない」
「……」
「結局無欲のくせに…何が我儘だ。それを自己犠牲って言うんだろうが…」
マーテルが苛立ったように壇を下りる。祭壇を背に佇むマーテルの姿は、僕と同じで指先から透明に消えかかっていた。
気配が確かに弱まっている。いくら長い眠りで力を蓄えたといっても、やっぱり寿命には逆らえないらしい。
マーテルは徐に手を翳し、神々しいまでの光を小さく生み出した。それを天井に掲げると、光は細い糸のようになって空へ伸びていく。
硝子の天井越しに見える、天高く伸びる光の糸。聖者が覚醒した時の現象とは真逆の動きが起きたような、そんな光だ。
「何をしたの…?」と小さく問う僕にマーテルが微笑む。迷いの色が一切無い瞳にぞっとした。
「今頃あの光は蜘蛛の巣のように広がり始めている。君が消滅する頃には光が帝国全体を覆って、完全な魅了が完成するんだ」
完全な魅了…?途端に最悪の事実を理解して蒼白する。
今まで聖者が刻んで回っていた魅了の呪いは不完全なものだったのか。だから解呪の方法が都合よく簡単だったのだ。マーテルが…神が本気になれば人間なんてどうとでも出来るということ、痛いほど理解していたはずなのに。
「その様子だと、対処法は何も考えていないみたいだね。今度こそ帝国中の人間が僕の人形になるわけだ」
「っ…どうして…!?君が欲しいのは僕だって…っ」
「だからその為に今動いてるんでしょ?君の関心を全部僕に向けないと気が済まないの。僕以外を想って死ぬなんて、そんな楽な死は認めてあげない」
瞬きをした一瞬でマーテルが真正面に現れ硬直する。
両頬を冷たい手で包み込まれて表情に怯みが滲んだ。白にも金にも青にも見えた瞳の本当の色を知る。至近距離で見て初めて、瞳が淡い虹色に輝いているのだと気が付いた。
虹色の瞳に映る嫌悪と憎悪が滲んだ僕の瞳。その色に自分でも驚いて息を呑むと、マーテルの瞳と口角がゆったりと弧を描いた。
「愛じゃなくていい。僕だけ見て死んで」
その瞬間感じる奇妙な感覚。体全体を引っ張られるようなその感覚が不思議で見下ろし目を見開いた。
消えかけていた指の先から光の粉みたいに散り散りになって、マーテルの心臓辺りに吸い込まれていく。まるであるべき場所に戻っていくみたいに。
慌てて手を引っ込めたけれど、急速に指先から変化する光の勢いは止まらない。
マーテルが愉悦に塗れた笑みを浮かべて、頬を赤く染めた。
「僕達は一つになる。これで君は永遠に僕のものだ」
彼が手を伸ばす。その動きと足元の影が不自然に変形したのは殆ど同時だった。
「なっ…!!」
僕の足元から不意に見慣れた黒い触手が飛び出す。
鋭利な棘に変形したそれが、目を見開くマーテルの胸に突き刺さった瞬間。透明化がピタリと止まり、吸い込まれていた光の粉が戻ってきた。
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