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一章
5.獣人奴隷と殺人鬼
しおりを挟むドスッ!!と鈍い音が聞こえたのは、ジャックが俺に唇を寄せ始めた直後だった。
ぽかんと地面に仰向けに倒れる俺の上から、ふいにジャックの姿が忽然と消える。
なにごと!と辺りを見渡し、少し先に脇腹を抱えて蹲るジャックを見つけてぎょっと目を見開いた。
「──主様に触れるな」
ひょいっと筋肉質な太い片腕に抱き起され、腕の腹を座面にするように抱っこされる。片腕だけでもずっしりとした安定感があって、まるで丸太の椅子みたいだ。
そして、同時に頭上から聞こえた低い声にピタッと硬直した。聞き覚えのあるこの声は、確か普段は『御意』やらの単語しか口にしていなかったはずだけれど……?
ぱちくり瞬きながらそっと頭上を見上げる。
そこにあったのは、獲物を見据えるような獰猛な瞳。捕食する寸前のような目をジャックに向けたガウは、初めの一言以降は何も言わずに口を閉ざした。
「はっ……なんなのお前。お前こそ、僕の天使に触れるなよ」
ゆらりと立ち上がるジャック。音もなく裾から取り出したのは、切れ味の鋭そうな折り畳み式ナイフだ。
さっきまで浮かべていた甘い笑みと頬の火照りは完全に消え失せている。無表情と光の無い真っ黒な瞳は、小説の挿絵で見た『切り裂きジャック』そのものだった。
途端に湧き上がる焦燥と緊張感。早くジャックを止めないと大変なことになる。俺のガウが三枚おろしにされてしまう……!
はわわっ……!と冷や汗を掻きながら、俺は慌ててぱっと両手を掲げ、危うい雰囲気のジャックに向かってくわっと声を上げた。
「ジャ、ジャック!だめ!すてい!おすわり!」
俺の叫びを耳にした途端、ジャックは何やらハッとした様子で息を呑んだ。
目を見開いたまま、突如力を失ったように地面に膝をつく。さっきまで青白ささえ感じた肌色も、俺の指示を聞いた途端赤く染まった。
ぽーっと頬を染めて呆然とするジャックが心配になって、慌ててガウの肩をぽんぽんと叩く。どうしよう、ジャックがかちこちに固まってしまった。
「ガウ、おろせ。ジャックがおかしい」
「仰る通り奴は可笑しいです。近寄らない方が宜しいかと」
「うむ。それはそうだが……って、むむっ!?」
ガウのことだから、命令したらすぐに下ろしてくれるとばかり。
そう思っていたから、まさか言葉が返ってくるとは思わずなぬーっ!?と驚いてしまった。
ガ、ガウが喋った……!『御意』以外の単語を……いや、文章を口にした……!
「あ、あぅ、あぇ……?ガウ、喋った……?」
思わずぽかんと零れた呟きに、ガウは過剰なくらいビクッと反応した。
かと思うとむぐっと口を噤み、ほんの少しだけ顔を強張らせて俺から目を逸らす。
やべっとかまずい!とか、明らかに何かを悔いたり焦ったりしているような表情だ。
気になってじーっと見つめると、やがて俺の全く逸れない視線に観念したのか、ガウが沈んだ声を小さく上げた。
「……申し訳ございません。家畜同然の下賤な獣人如きが声を発してしまい」
そのセリフを最後に口を閉ざしたガウ。
全くもって予想外の言葉に数秒頭が混乱し、ぐるぐると理解を求める思考が絶えず巡る。
ガウの言葉の意味を全て理解した瞬間、あまりの衝撃にサーッと顔が青褪めた。
「な、なっ、ガウ、まさか……!」
まさか、奴隷が貴族に声を聞かせるのは不敬だからと、そう考えていたとでも言うのか。
ガウは俺のことが気に入らなくて声を聞かせてくれなかったわけじゃなく、奴隷が声を発するなんて不敬な行為だからと不安で……?
そんなの、そんなの……っ。
「ッ……主様?」
ガウの腕に乗せていたお尻をぐっと上げる。びっくり顔の頭を抱え込んで、後頭部に手を回して、もふもふの耳にそっと触れると、ガウはビクッと体を震わせた。
「なっ、主様!下賤な獣人の耳に触れるなど、主様の御手が穢れてしまいます……!」
「そんなわけないだろ!ばかっ!」
仰け反って俺の手から逃れようとするガウをぎゅっと拘束し、離れられないように強く抱き締める。
ガウがぴくっと肩を揺らして硬直した。俺が素を曝け出して叫んだことに驚いたらしい。
ぎゅうっと強く抱き締めて、そして耳元で囁く。お馬鹿なガウでも分かるように、しっかりと。
「俺はガウの声、とっても大好きだぞ。もふもふの耳もすごくかわいい。ずっと触ってみたかったけど……ガウが怒るかもって思って、触れなかったんだ」
金色のもふ耳をもみもみと撫でながら語ると、ガウは徐々にぽわぁっと頬を染め始めた。
「ま、まさか……奴隷の私が主様を拒絶するなど、許されざる事です。ですが、この獣耳は下賤な獣人の象徴……高貴なご身分の主様が触れるなど……」
「この癒やしの耳が穢れだと?そんなことを言うやつは俺がぶっとばしてやる」
こんなにもふもふで触り心地も良くて最高なのに。
ふすふすと鼻をケモ耳に突っ込んで匂いを吸い込み、やがてふしゅーっと息を吐き出す。やっぱりケモ耳は最高だ。とっても可愛い。
今度ケモ耳を穢れだなんて言ったらガウでもぶっとばすからな、と言うと、ガウは何やら熱っぽく涙を溜めた瞳をへにゃりと細めた。
「なんとお美しい御心を抱えていらっしゃるのか……主様、私は貴方様をお慕い申し上げております」
「ん?ふふ、俺もガウのこと大好きだぞ」
よく分からないけれど、なんか突然好きだよーと言われたので俺も同じ言葉を返した。
なーんだ、ガウは俺を嫌っているわけじゃなかったんだな。思わぬタイミングで誤解が解けてラッキーだ。
俺も大好きだぞガウ。これで俺達、お互い信頼のある主従として上手くやっていけそうだな!
「──そんな……ご主人様、もう僕を捨てて浮気するの……?」
ガウとぎゅーっと抱き締め合っていた時、ふいに聞こえてきたか細い声にハッとする。
しまった!ガウに気を取られてジャックのことをすっかり忘れていた!
慌てて振り返りジャックの姿を確認。さっきまで頬を染めて跪いていたはずのジャックは、青白い顔でこちらを見つめながらも、俺の指示を守るようにお座りしたままだった。
「はわわっ……ガウ!おろせ、ジャックのところに行かないと」
ガウは一瞬ムスッと拗ねた顔をしたけれど、すぐに俺を地面に下ろして無表情で姿勢を正した。なんだろう、ガウってば急に感情豊かになった気がする……。
様子のおかしいガウに首を傾げながらも、てくてくと駆け足でジャックに駆け寄る。
ぺたんと座り込んだ状態で涙を流すジャックに目を見開き、慌てて声を掛けた。
「ジャック、どうした?悲しいのか?」
「悲しいよ……僕のこと愛してくれるって言ったのにぃ……ご主人様が浮気なんてするからぁ……」
しくしくと切なげな姿を見せるジャックに心が軋む。
そ、そんな顔をされたら俺まで悲しくなるじゃないか……。
前世から、人の泣き顔には弱いのだ。俺が病弱なばかりにたくさん両親を悲しませて、泣かせて……けれど、二人の涙を止める術さえ俺にはなくて。そんな自分が情けなかった。
だから、人の涙にはとことん弱い。マフィアのくせに軟弱な!と思われるかもしれないけれど、これに関しては前世の自分の癖だから、何を言われたってどうしようもない。
ルカ・ベルナルディじゃない。“俺”が嫌なのだ。ルカの性格ならこんなことしないって分かっているけれど、それでも“俺”が、ジャックの涙に耐えられない。
──だから、俺はぎゅっとジャックを抱き締めた。
「……へ、ご主人、さま?」
「泣くなジャック。俺はジャックが大好きだぞ、だって家族になるんだもん。でも、ガウも同じくらい大好きだ。ガウもジャックと同じ、俺の家族だから」
「……あの獣人も、家族?」
「そうだぞ!ガウも家族だ。だからお前たちは……そうだな、兄弟だ!ジャックとガウは兄弟だから、仲良くするんだぞ。いいな?」
ジャックの朱殷色の髪をわしゃわしゃと撫でる。
俺の言葉にジャックは目を見開いて数秒固まり、やがてちょっぴり不満げに眉尻を下げながらもこくりと頷いた。
「ご主人様は僕だけの天使だけど……ま、しょうがないかぁ。ご主人様が言うなら受け入れないとねぇ」
ジャックが呟いた返事にうむと頬を緩める。よかった、どうなることかと思ったけど、どうやら納得してくれたみたいだ。
首元にスリスリと顔を埋めるジャックをぽんぽんと撫でる。
“あの”切り裂きジャックを仲間に引き入れるのに成功したことで安心したのだろうか。突然襲ってきた重いくらいの安堵に力が抜けて、がくっと膝をついてしまった。
「主様……ッ!」
「ご主人様?」
そういえばずっと雨に打たれていたし、スラム街の危険な空気に体を強張らせながら長い距離を歩いた。気付かない内に疲労が溜まっていたのかもしれない。
ジャックの胸元にぽすっと倒れ込み、なんだか火照った体を持て余しながら目を閉じる。
この調子で生存ルートのための作戦を進めないと……なんて思いながらも、やる気とは裏腹に意識はスーッと遠のいていった。
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