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ササメ 5
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●その、十日前
雲一つない、よい天気であった。
温かな風につい眠くなる。獻瑪は大きく伸びをした。この日の当たる心地よさは年中寒い故郷では経験のなかったことだ。だがその故郷も離れて十年以上がたつ。淋しくない、とは言えないが、淋しいと泣き言をいうことはもっと許されない。
獻瑪はあのまま、無謀にも海へ飛び込み泳げるだけ泳いだ。力尽きたところへ運よく通りかかった舟に助けてもらって、それからは本土で一人生きてきたのだ。
問題ない。一人にも慣れた。
獻瑪は気持ちを切り替えて、商店の立ち並ぶほうへと歩きだした。
快い陽気につられてか、町を行き交う人も多い。
「さすが城下だなあ」
ふと首を傾ければ、手の届きそうなところにそびえたつ城が見える。赤い支柱が天へ突きぬけていて、その周りを瓦屋根の建物が幾重にも重なっている。ここからは、土台のほうまでは見ることができない。すぐ側に見えても、距離はかなりあるからだ。相当に大きな建物なのだ、あの城は。
「まあ、天狗界の王将が住んでいるんだから、当たり前か」
その敷地は広大だという。噂によれば、おそらく獻瑪の故郷の宇秧島がすっぽり収まってしまうほどらしい。
獻瑪は反物屋と簪屋の建物の間が少し開いているのを見つけそこに向かった。柳の木が一本生えていて、それで間が広くとってあるのだろう。何故斬り斃さなかったのか、不思議に思う間もなく、木の背後に祠があるのを見つけた。
獻瑪はその祠の前にしゃがみこんだ。建物の間にあるせいで、日の当たることはなく、そこだけ暗くじめりとしていた。土まで湿っている。
獻瑪はふいに、右手の小指が痛むのを感じた。正確には、小指の爪だ。見ると、血塗られたように爪全体が赤くなっている。
獻瑪はニヤリと笑った。そうすると、白い歯がむき出しになるのは子どもの頃から変わらない。
「やっと見つけたぞ」
獻瑪は祠の石に手をかけた。長四角に切り取った石がたてられて、封の文字が彫られている。右手の小指の爪がズキズキと痛んだ。
間違いない。ここに、鬼が眠っている。
指先の痛みが動かぬ証拠であった。獻瑪の小指の爪は、使い鬼でできている。璃石の置き土産だ。それは、鬼に反応する。
あの時――璃石を失い島を出た獻瑪は目的を失って、これから先どう生きていけばよいのかわからないでいた。けれど、どんなに辛くとも璃石にすくわれた命を無駄にするようなことはできない。
そんなとき、ふと小指を見ると爪が変色していた。といっても、気味の悪い色でなくて、まるで水晶のように透き通る、不思議な物体が獻瑪の小指にはついていたのだ。光の具合で、黄色く見えることに気づいた。
これは、鬼の角か。
どうやったのかは、獻瑪にわかるはずもない。ただ、璃石は失った爪の代わりになると思い、きっと鬼の角を獻瑪の小指に付けたのだ。お陰で痛みもなく、恐ろしい感染症にもかからずに済んだ。
鬼なら、鬼に反応するだろうと。
直感が告げた。
煮え切らずにいた。納得しきれずにいた獻瑪に、その爪は目的をもたらしてくれた。
鬼を、倒す――。
そうすればきっと、璃石を助けることもできる。そう信じて獻瑪は鬼を探す旅を始めたのだ。
けれど、鬼は容易には見つからなかった。あのとき、確かに鬼はいたはずなのに。璃石をさらってからというもの、鬼はなりをひそめてしまったのだ。
だが、闇天狗は何事もなかったかのように天狗へ仕えているらしい。ただ、少し前に闇天狗の長が反乱を企んだとして処罰されている。代わりに今は、その弟である闇天狗が王将の側近となっているらしいが、鬼との関係性は見いだせなかった。
けれど、それで中央へのぼってみようという気にもなった。僻遠の地を鬼が襲ったことから、中央から遠いところへ鬼は潜んでいるのだろうと思っていたが、その足跡すら見つからない。あちこち探りながらの旅であったから、随分時間がかかってしまったが、ようやく城下へ入ったのだ。
どうやらそれは正しかったらしい。
かつて鬼は天狗に封じられたと言い伝えられている。そのとき、あまりにも鬼の力が強力なため、天狗は鬼を分散させたのだそうだ。それは、この城下に点在している。この祠が、その一つであろう。
しかし、鬼はこの祠の中に封じられている。爪はそう告げる。だとすると、鬼は力のすべてを回復したわけではなく、別の場所に本体が潜んでいるのであろう。本土を旅してみて、鬼の復活を知っている者が全くいないことに驚いた。宇秧島でも、鬼を実際に見たのは獻瑪だけであって、子がさらわれたのも天狗の命だと思っている者もいた。
だが、確実に鬼は復活してどこかに隠れているのだ。
放っておけば大変なことになる。使鬼くらいならば獻瑪でも倒せるだろう。だが、鬼が力をつければ人間の敵う相手ではない。
天狗が鬼の復活をまだ知らないのだとしたら、この窮状を訴え、力になってもらわねばならない。
だが、どうやって王将に謁見したものか。拝謁を願い、はいそうですかと入れてくれる身分ではない。
天狗界の王将である鳴子天狗様は雲の上のお方だ。庶民で城に入れるのは、豪商くらいなものだ。
「まあ、祠のこともわからんし。ぼちぼちと考えるかな」
獻瑪はさっきから行き交う人にちらちらと見られては、クスクスと笑われているのに気が付いていた。構わず、店支度を始める。
無理もないのだ。獻瑪は褌を身体に何本もぶら下げて歩いているのだ。どこに行っても、笑われはするが、
「都会はブスが多いな」獻瑪は辟易とした。
笑うなら堂々と笑えばいいものを、小馬鹿にしたような態度で、人を見下げた視線で片頬あげて笑う娘どもはなんともブサイクだ。
田舎町の娘たちのほうがよっぽど可愛いし、きれいだ。だが、流石に城下だけあって、町人の着ているものはどこか垢ぬけている。
着こなしも違うのだろう。少し崩したり、わざと胸元を開けたり帯を緩めたりなどしておしゃれにしている。こういう感覚は、中央でなくば育たぬものであろう。
「まあ、興味ないけどね」
一人でいると、人間独り言が多くなるものである。
「こんなもんかな」と、立てた竿に褌を飾り終えると、獻瑪は背負っていた三味線を前に回してきて、調律を始めた。目の前で、長い杖からイカの足のようにぶら下がった色とりどりの褌が、風になびいている。ちなみに三味線にも同じように褌がぶら下がったり、巻かれたりしてある。獻瑪特性の三味線だ。撥は持たない。右手の小指の爪があれば、弦は弾ける。
ベンッ。と、獻瑪は弦を鳴らして大声を張り上げた。
「さあさあ皆の衆。この町にもふんど師がやってきた」
なにそれ、と町人たちが笑いつつも獻瑪の前で足を止めていく。
「ふんど師の褌は、はけば幸せになる魔法の褌さ」
嘘っぱちである。だが、嘘も方便である。
「隣町の男は褌一本買って富くじの大当たりさ。別の男は買わずに、ばくちで大負けしたよ。またある女は三本買って、美男の亭主を手に入れたってさ。さあさ、幸せの褌。買わなきゃ損する魔法の褌。数量限定、本日限りの特売だよ。一本十両、売り切れ後免。さあ、買った買った」
と三味線を時折弾きながら唄うように言えば、たちまち客が押し寄せて――こない。
「兄ちゃん、耳が痛いぜ」
「あんた音痴だねえ」
なんて、興ざめした町人たちはそそくさと獻瑪の前から立ち去っていった。こんなに虚しいことはない。田舎ならばこれで売れたのに。
「都会なんて嫌いだ」
思わずうなだれると、そこへ天使の声が聞こえた。
「おひとつくださいな」
「毎度!」顔を上げると、幸運にも若い姉ちゃんだ。顔はいまいちだけど。
「どれがいい?」
「そうだねえ。どれも、魔法の褌なのかい」よく見ると、上等な着物を着ている。刺繍など、金糸だ。相当裕福なところのお嬢ちゃんらしい。これは売れるな、と踏んだ。
「ああ、そうだよ。ちなみに、おねえちゃんの願い事はなんだい」
「このおできがさ、」と、姉ちゃんは自分の頬を指差した。確かにそこに栗ぐらいのでっかいできものがある。
「なるほど、それがなくなって欲しいんだね」
「そうなんだよ。あたしの美貌が台無しだろう」
冗談を言っているのかと思えば、姉ちゃんは真顔で溜息をついている。やっぱり相当なお嬢様だ。
「そ、そうだね」獻瑪はひきつった笑い方をしながら、桃地の桜模様が可愛らしい褌を肩から一枚外して姉ちゃんに見せた。
「これなんかどうかな。女人に人気だよ」
「いいねえ。気に入ったよ」
姉ちゃんは褌をほとんど見ずに言った。ふんどしの柄より、風で鬢が乱れたことのほうが重要らしく、しきりに髪を撫でている。
「でも、これで本当におできが直るのかい。医者も見放したおできだよ。そうじゃなきゃ、褌一枚十両は高いよあんた」
要するに、御利益だけが欲しいのだ。ならば、仕方ない。
「治る治る。金を払った瞬間に治っちまうさ」
「ほんとかよ。でも、まあ、ものはためしだからね」
姉ちゃんがふんど師に十両もの大金を渡したところで、獻瑪は素早く右小指の爪を姉ちゃんのおできにひっかけた。
「ほらな。嘘じゃなかっただろう」
「なんだって」
姉ちゃんは頬に手を当て、おできのあるはずのところを何度も指で撫でて目を瞠った。そこはまっさらのきれいな肌がある。爪の鬼がデキモノを喰ったのだ。
「か、鏡」慌てながら姉ちゃんは手鏡を取り出し顔を眺め……
「ほ、本当だよお。おできがなくなった! ちょっとこの褌屋本物だよおっ」
でっかい声である。耳がジンジン痛いが我慢した。何しろ、さっきはシラケたお客たちが次々戻ってきて、次々褌を買っていったのだ。
結果、手元には三百両という大金が残った。
庶民の年収に近い額だ。うはうはである。こんなにうまくいくことは滅多にない。
「天の恵みだ」いや、それもこれも璃石の置き土産のお陰だ。これで屋根のある宿にも、美味い飯にも、きれいな姉ちゃんにもありつける。いや、璃石さまさまだ。
「ありがたや~ありがたや~♪」
獻瑪は人のはけた通りで、鼻唄をうたいつつもさっさか店じまいをした。長居は無用である。何しろいんちきなのだ。さっき褌を買っていた者たちが、願いの敵わぬことに気づく前に、さっさと退散せねばならない。
獻瑪は褌を並べていた杖を二つに折り腰に差すと、三味線を背負ってその場を立ち去ろうとした。だが、ふと足を止める。
「おや、これはなんとも」
きれいな姉ちゃんが簪を選んでいるのが目に入ったのだ。
色は白く、頬は桃色に染まり、唇はふっくらと潤っている。横から見るとまつ毛は長く、上にくるんと向いている。大きな目は、キラキラ輝いている。
――一人だ。
根っからのスケベ心が働いた。いかんと思っていても、気づけば
「御嬢さん」なんて、声をかけてしまっている。
「全部ください」
「え?」
獻瑪と、簪屋の店主の声がはからずも重なった。
「なに、全部かい?」
「うん。この台のものぜんぶ」にこりとして言う。その笑顔にますます惚れた。
「お嬢さん、思いきりがいいねえ」
御嬢さんは今獻瑪に気づいたような顔で振り返った。事実、今気づいたのだろう。
「あ、ごめんなさい。欲しいもの、ありました?」
なんだ、性格もいいじゃないか。獻瑪は笑顔を作って言った。
「いや、いいんだよ。ただ、一番似合う簪を、おれが君に贈り物としてあげたかったなと思ってね」
御嬢さんはきょとんとしていた。
「ええと、あなたが買ったものを、わたしにあげたい。ということは、わたしがあなたからその簪代をもらえばいいのかな」
今度はこちらがきょとんとする番だった。お嬢さんが何を言いたいのかわからない。
しばし考えて、「ああ」と合点がいった。
「それでもいいけど、それだとおれが君から簪を買ったことになってしまうから、一度簪を店に返品してそれをおれが買って君に贈る、というのがいいんじゃないかな」って、なにそのめんどくさい過程。だが、
「なるほど!」御嬢さんは目をキラキラさせた。「ごめんなさい、わたし算術が苦手で」
「算術?」
「じゃあ、一つお店にお返ししますね。どれがいいですか」
と、御嬢さんは折角袋へ入れてもらったばかりの簪を実際にまた台へばらまいてしまった。
「いやいやいやいや」獻瑪は慌ててそれを袋へしまった。
「あんたら、本当に買う気あんの! 御代がまだだよ」
「すみませんっ」折角商売がうまく言ったのに、ここで問題を起こしたら元も子もない。獻瑪は先程の売り上げから簪代百両を、
「百両もすんのかよ!」と盛大に文句を言いつつも支払い、御嬢さんの手をどさくさに紛れて握り、商店街から逃げ出した。
木戸があって、そこをくぐると左手に河原が広がっている。そこへ二人は駆けおり、獻瑪は御嬢さんの手を放した。
「どうして、走ったのですか」御嬢さんははあはあ息を切らしている。
「あのね、あれはただの口説き文句だから!」
獻瑪は、さっき言いたかったことをやっと言えてスッキリした。
「クドキモンク?」
と、御嬢さんは異国の言葉でも聞いたような顔で首をかしげる。なんだこの浮世離れした感じは。
そういえば、着ているものも普通じゃない。さきほどの金持ちの娘を上回る上等な着物を着ている。身に着けているものもそうだ。簪も、金じゃねえか。
「いや、なんでもない。それより君、どこの子」
「あ、申し遅れました。わたくしはでございます」
と、癒簾は獻瑪の前で腰を直角に折って頭を下げた。なんだろう、この丁寧さ。
「あ、わた、わたくしはふんど師の獻瑪でございます」
獻瑪は慌てて同じように挨拶を返した。
漂う気品。まるでどっかの姫みたいだ。だが、姫が一人きりで歩いている訳もない。他に供もいないところを見ると、よほど箱入りに育てられたどこか裕福な家のお嬢様なのであろう。
「素敵なお着物をきてらっしゃいますねえ」癒簾は、獻瑪を見て言った。嫌味ではないらしい。
「頭など爆発していて、なんと躍動的で力強くいらっしゃることか」
「爆発って、ただの寝癖……」ちょんまげをしたまま眠ったので、髷がぐしゃぐしゃになっているだけのことである。
「襟など左右で黄色と赤と分けて」
「いや、ただの継ぎ接ぎ……」
「裾を短めにして着こなして、」
「仕立て直す金がないだけで……」
「このひらひらしたものが、とても色彩豊かでお美しいです。これは、なんですか?」
褌を知らないとは、マジか。
可愛い子のすることは、大方許してしまう獻瑪だが、さすがにあ然とした。
癒簾は、獻瑪の肩から袈裟がけにして足下まで垂らしてある売り物の褌を、珍らかなものでも見るような目つきで眺めているのだ。
相変わらず瞳がキラキラとしている。どんな涙腺をしているんだろうか。
「癒簾は下着、は、はかないの?」ってことは!? の先を想像して鼻血が出そうになった。
「まあ、下着なのですねこれは。どうだったかしら」
と、いきなり癒簾が自らの着物の裾をめくるので鼻血は噴出した。
「あらっ、大変。お血が、」
癒簾は袂から手拭いを出すと獻瑪の鼻血を吹いてくれた。
「大丈夫でございますか」
手拭いは良き香りがする。
「ダイジョウブデス。タマッテイルダケデス」
「そんなに鼻血って溜まるものなのですね」
「……」可愛いし、いい子なんだが、とてつもなくズレている。
「こちらは、随分渋い御色ですね」
癒簾が枯草色の褌を眺めていた。
「ああ、それは男物だよ。最近の流行色で、若い男性に人気なんだよ」
「そうなのですか。それじゃあ、これを二本売って頂けますか」
「これを? 男物だよ?」
「はい。殿方にさしあげるので」
「がびーん」と口に出してしまっていた。
「花瓶?」
「いや、なんでもありません……。因みに花瓶じゃありません」
なんだよ。彼氏がいるならいると初めから言ってくれよ。おれの動き出したこの恋心はどうしてくれるんだ。
「じゃあ、二本で五十両ね」
腹いせにふっかけてみれば、
「わかりました」と、容易に払うし。
「褌一本二十五両もするわけないでしょうが!」
「そうなのですか」
「そうだよ。量販店で買えば一本一両ってもんだよ」実際元値はそんなものである。獻瑪は他で安く仕入れたのを柄を少し変えたりなどして高い値段で金持ちに売りつけているのだ。
「すみません。あまり世間を知らなくて」
獻瑪は困った顔の癒簾を見て、罪悪感にさいなまれた。溜息をついた。
「いや、ごめん。おれが悪かったよ。ふんどしは二本で二十両でいいよ」
ここでまけないところが我ながらせこいと思うが、おまんまがかかっているのでこちらも譲れない。払える者には払ってもらう。そえがおれの理念。
「毎度。でも、なんで二本も? どうせなら違う柄にすればいいのに」
獻瑪は料金を受け取り、褌を癒簾に渡した。
「同じのがいいんです」ぽっと顔を赤らめながら言う癒簾を見てわかった。
「なるほど、お揃いにするんだ」
「まあ。どうしてお分かりに」
癒簾は照れたように頬を手で挟む。顔を赤くして、ほんとうに可愛いなあと思う。
「女の子の考えることくらいわかるよ」
君をお持ち帰りできなくて残念だ。
その言葉は胸にしまって、獻瑪は歩み出した。
「じゃあ、またどこかで」
いつの間にか町は夕日に照らされている。赤い空に背を向けて、獻瑪が目指すは、遊郭。
「そろそろ店も開く頃だろう。まったく、女の子の下着姿見ただけで鼻血出すなんて情けないぜ。あ、」
鼻に突っ込んだままの手拭いに気づいて、獻瑪は立ち止まった。
やべ、返さなきゃコレ。
と、鼻から手拭いを引き抜くが、よりによって白地であったので血みどろ~である。
これを返すよりかは、新しい褌をあげたほうがいいだろう。今度売る時のために、まだ可愛い柄のもいくつか残っている。
獻瑪が引き返そうと踵を返すと、さっきいたところにまだ癒簾が立っているのが見えた。
獻瑪は顔をしかめた。
癒簾は、地面に向かって一人でしゃべっているように見える。それも、手振りをまじえて。
やっぱり、おつむがちょっとアレな人だったのだろうか。
だが、ひどく楽しそうなようすである。
どうしようか。と、獻瑪が考えあぐねていると目を疑うようなことが起こった。
癒簾が怒ったように地団駄を踏むと、癒簾の影から黒い両手が生えるように伸び出てきたのだ。
癒簾はそれに驚きもせず、むしろにこりとして当然のようにその手の上へ今獻瑪から買った褌を置いた。
「なんじゃ、ありゃ……」
獻瑪が茫然としていると、土手の上に人影が現れた。
「げ、」
獻瑪は近くの木の陰へ身を隠した。
見るからにヤクザものだった。大柄で派手な着物を着た男の後ろに、二人子分がくっついている。三人そろって顎が割れているところを見ると、もしかしたら兄弟かもしれない。だが、見事に体格は三人違う。親分風の大柄な男は筋肉質で、あとはデブとガリだ。だがぶっとくて一直線なお揃いの眉をつけているところを見るとやっぱり兄弟だろう。
「さて、やっぱり退散しようか」
ヤクザと言っても、役人の手下に成り下がっているやからもいる。いんちき商売がばれて獻瑪を探しているのかもしれない。現に、ヤクザの親分はきょろきょろと辺りを見回している。
獻瑪がこそこそとそこから逃げ出そうとしたときだ、
「おう、嬢ちゃん。その褌どこで買った」
げっと思わず振り返った。
「この褌がどうかなすったのですか」
「おう。その褌を売ってた男は詐欺師よ。法外な値で褌を売りつけて、さっさと姿をくらましやがったのよ。そんでそいつをとっつかまえてさらし首にするのよ」
さすが城下と言うべきか。御沙汰が早い。
「まあ、穏やかでない話ですね」癒簾は眉を潜めた。さぞかし獻瑪に幻滅したことであろう。これで完全にこの恋は終わりだ。短い春だった……。いや、春もきてないか。
「って、呑気にそんなこと言ってる場合じゃねえ。逃げないと」
「ですが、この褌を売ってくれたお方はもう行ってしまいましたよ」
「おう、どっちへ行った」
「あちらへ」
獻瑪はぎょっとしたが、驚いたことに癒簾は獻瑪がいるのとは別の方角を指している。ただの考えなしのおばかではなかったのか。
「あっちか。わかった。おめえら」
「へい」
ふたりのでこぼこ子分は、親分の一言で癒簾の指した方角へ走って行く。これで助かった。と、思いきや親分がまだその場に残っていた。
「嬢ちゃん、かわいい顔してるねえ」
親分が乱暴に癒簾の顎を掴むと、くらいつきそうなほど癒簾に顔を近づけた。
「俺と、いいことしねえか」
「いいこと?」
これはマズイ。今までの癒簾のようすからして、いいこと、と訊けばするする、なんて答えてしまいそうだ。
「します」にこりと笑って、癒簾は予想を裏切らずにそう答えました。
「だめだって! 売り飛ばされるぞ!」
獻瑪は木の陰から飛び出してしまっていた。
「なんだ、てめえは。あ、てめえ、褌屋!」
「はっ。しまった」
と思ってももう遅い。
親分は首から下げていた笛を吹き鳴らした。甲高い音が辺りに響く。たちまち、人数が獻瑪の背後に現れた。
「ぎゃあああっ」獻瑪が駆けだすとそいつらが追いかけてくる。だが、前方には親分がいる。
しかも、親分の向こう側には別の子分が現れている。総勢二十名はおろうか。厄介なことになった。
獻瑪は親分が待ち受けて殴り掛かってくるのをするりとかわした。だが、前後左右を既に取り囲まれてしまっていて他に逃げ場がない。「た、助けてっ」こともあろうに獻瑪は癒簾をたてにして後ろに隠れた。
「なんだ、こいつは。女を盾にして情けねえやろうだな」
「情けなくないやつが詐欺なんかするか」
「開き直りやがった」さすがの親分もあ然である。
「嬢ちゃん、そこをどきやがれ。そのすっとこどっこいを俺が始末してやる」
親分ははだけた裾から筋骨たくましい足を見せ、刀を抜くと鞘を後ろへ放り捨てた。その凄みに、獻瑪は腰を抜かしそうだったが、癒簾はきっぱりと言った。
「どきませぬ」
「なんだって。そのおたんちんを庇うってえのか」
「おちんちんでも、弱い者いじめはいけませぬ」
間違ってる! と、思った次の瞬間、「かげ。いじめっ子を成敗するのです」と癒簾が言った。
それから、獻瑪には何が起きたのかほとんどわからなかった。
うわっ。とか、ひょええっ。とか、どがごふっ。なんて悲鳴が聞こえたような気がするが、一瞬の後その場に立っているのは癒簾と獻瑪と、それから黒づくめの男。
男は、獻瑪の前に立った。男の姿は、異様だった。黒の着物に、裾を絞った黒の袴。黒頭巾をかぶり、裾は長く垂らしている。顔にはやはり黒の覆面を巻いていて、だがそこからのぞく眼にだけ色がある。
瑠璃――。
獻瑪が何事か言葉を発しようとしたそのとき、雨のようにその男の下へ何かが落ちてきた。ドサドサドサと、それは大から小へ、塔のように男の両の腕へ積み重なり、それでも足りずに今度は頭の上へ、だがわずか一つが両腕にも頭上にものりきらずこぼれた。と、思いきや男は足先をひょいと伸ばしてそれを足の甲に載せる。
男が漫談芸人のような滑稽な恰好で受け止めたそれらは、反物やら化粧道具やら籠やら鍋や釜、さっきの簪の包みもあるところをみればどうやら買い物したてのものらしい。
ぱちぱちぱちと、拍手が聞こえて振り向くと癒簾が満面の笑みを浮かべている。
「さすが影。わたしの荷をよごさずにいてくれてありがとう」
「は」
と、男が頭を下げた瞬間、頭の上の鍋、釜が地面へ落ちて盛大に音をたてた。
「こ、これは申し訳ありませぬ」慌てた瞬間に、両腕に乗っていた荷も、足先の荷もすべて地面に落ちた。だが、男はそのままの格好で静止している。
「ぶっ」思わず獻瑪は吹き出してしまった。
得体の知れぬ大男と思ったものが、これはとんだ間抜けものだ。
「も、申し訳ありませぬ」男は癒簾に土下座して謝った。「すぐに、荷を」
男が荷を片付けようとすると、突然「ここここ」という鶏の鳴くのに似た声が辺りに響いた。
新手の敵か――。
一瞬緊張が走るが、なんとそれは人の笑い声であった。しかも、わらっているのは癒簾。
尋常でない笑い方に獻瑪が茫然としていると、癒簾は袖を口元にあて、笑いの止まらぬようすで言った。
「おちんちんでなく、おたんちんでしたね」
「そこ!? ってゆうか今!?」
ついていけない、と愕然とし、落とした獻瑪の肩をポンと一つ男が叩き、わかるぞ、とでも言いたげに肯いた。
だが、男が獻瑪に関わったのはそれだけで、その後は恐るべき速さで荷物を片付けると、消えた。
男は、大量の荷物とともに獻瑪の前から消えたのだ。
獻瑪は、河原に長く伸びている癒簾の影を踏んだ。男はそこに吸い込まれるようにして消えたのだ。
「無理ですよ。影の中にはかげしか入れませぬ」
癒簾が、ここここ、と笑いながら言った。
「影って、じゃあ、今の男は君の影なの」
「はい」癒簾がにこりと笑って答える。残念な子だが、やっぱり、可愛いことは可愛い。笑顔がいい。笑い方は抜きにして。
「随分強い影なんだね」
辺りを見回せば、二十を超す数の男たちがのされて倒れている。それも、ただの男じゃないのだ。すぐ側で倒れている親分など、役人も怖がるほどの暴れ者。と、噂されていたやつだ。体つきを見ても、並みの者ではかなわないだろう。それを、一瞬で。しかも、前後左右、距離の離れている敵を同時に。
――人間の仕業ではない。獻瑪は、男の瞳の色が気になっていた。人間に、ああいう色の瞳を持つものはいない。少なくとも、十年以上この天狗界を旅をしてきて、獻瑪は出会ったことがなかった。
「かげはわたしの護衛なのです。とても頼りになるんですよ。あ、でも影のことは他言無用でおねがいしますね」
にこりと笑う癒簾につられて獻瑪も笑みながら、影の本当の苦労がどのあたりなのか、この御嬢さんは気づいていないのだろうなと思って少し同情した。
「それでは、ごきげんよう」
癒簾は深々と獻瑪に頭を下げると、くるりと背を向けて歩き出そうとする。
「ちょ、ちょっと待って」
「はい?」
「なにか、お礼させてよ」
「おれいですか?」
「うん。助けてもらったお礼」無論、もう少し一緒にいたいという下心がある。獻瑪はちゃんと影から伸び出た手が褌を受け取ったことを覚えている。あれがかげだったのだとしたら、家来への褒美と受け取れる。とういうことはだ、獻瑪にもまだ望みはある。
「なにがいいかな。とりあえず、この後一緒に食事でもどう?」
――それに、どうしても確かめたいことがあった。
かげは、闇天狗なのではないだろうか。
子どもの頃、獻瑪からすべてを奪った闇天狗。あれから二度と出会うことはなかった。王家に仕えているときいたが、その噂は間違いだったのだろうか。
癒簾に仕えていたあのかげという男、あのとき見た闇天狗に似ている気がした。だが、獻瑪たちを襲った闇天狗とは別の者であろう。
あの闇天狗はもっと大きかったし、記憶がおぼろげではあるが、覆面をせずとも肌まで黒かった気がする。対して、癒簾の護衛であるかげという男は闇天狗にしては小柄で、そういえば羽もなかったようだ。それに、覆面から覗く肌は、人間と同じ色をしていた。
では、闇天狗とは別の種族なのであろうか。だが、闇天狗は影を操るときいている。ならばやはり影の中に入れるあのかげという男は、闇天狗なのではないだろうか。なかには、肌の白い者もあるのかもしれない。だが、闇天狗ならば何故癒簾に仕えているのか。確かに癒簾は裕福なところの娘であろうが、町娘に仕えるような身分ではないはずだ。そう多くいる種族ではないときく。鴉を眷属に持ち、人の姿を持った妖力の高い闇天狗は数えるほどだと。
ここで、闇天狗と思われる者に出会ったのは運命なのかもしれない。かげならば、璃石を奪ったあの闇天狗のことも知っているかもしれない。
璃石を助ける為に、鬼を倒そうと獻瑪は考えてきた。だがそれで璃石が意識を取り戻す保証はどこにもない。だが、闇天狗ならば、どうしたら璃石が助かるのかを知っているかもしれないのだ。何しろ、璃石を奪ったのは闇天狗なのだ。
それを思うと、激しく闇天狗を憎む気持ちが膨らんだ。それを意識してしまえば、普通に生活することができない。だから今まで、後悔も恨みも憎しみも、すべて気持ちの底に抑えこんで生きてきた。
忘れてしまえば、人生とは楽しいことばかりだ。
そうして、生きてきた。そうしなければ、生きてこれなかった。
たとえ、その生き方が歪み切っているものだとしても、それを教えてくれる者はおれにはいない。
獻瑪は、ずっと孤独の道を歩いてきたのだ。
「いいですね。おなかすきました」
癒簾は、しばらく獻瑪の顔を見つめていたが、やがてにっこりと笑ってうなずいた。
獻瑪はほっとしてほほ笑んだ。
「じゃあ、どこ行こうか」
「町は、まずいですよね」
「あ、」そうだった。町に戻ればまた役人に掴まってしまう。「困ったね。飯屋なんか町のほうにいかないとないよ」
「じゃあ、変装なさったらよいのですよ」
「変装?」
「ええ。わたしみたいにこのように」
「癒簾、変装してるの?」
「はい。そうですね、まずはその褌が目立ちますから、思い切って地味な御色の着物を召したらいかがでしょう。かげ、なにかない?」
と言うと、足下の癒簾の影からにゅっと手が伸びてくる。
「うわっ」かげ、という男だとわかっていてもその光景は気色の悪いものである。
かげの手には、着物が載っている。薄墨色の縦縞模様が入った、ごくごく普通の着物だ。
「よいですね」癒簾はにこりとしてそれをとりあげる。「さきほど、への土産に買ったものなのですけど、あ、侍寸というのはかげの叔父上で父の宰相をつとめていらっしゃる方なのです。さあ、どうぞ」
「はあ」獻瑪は着物を受け取った。生地が柔らかい。上等なものだ。
「あ、これは気づかずに。お手伝いさしあげましょう」
癒簾が獻瑪のに手を伸ばして解こうとするので、獻瑪は慌てながらも丁重にそれをお断りした。
さすがに目の前で裸になるのは憚れるので、木の陰へ行き着替えつつ疑問に首をかしげる。
癒簾は、なんのために変装などしておるのか。宰相とは、天狗界でいえば王将の補佐官であるはずだが、癒簾は父の宰相という言い方をした。すると、ひょっとして癒簾は――。
という考えが頭をよぎるが、「ないない」と獻瑪は自ら一笑に付した。
獻瑪は荷を藪の中へ隠し、今日の稼ぎの入った財布だけ懐に入れると待っている癒簾の下へ向かった。もう随分日は翳っている。
「いやあ、おれ今とんでもないこと考えちゃったよ」
とんでもないこと?
と、小首をかしげる癒簾に、
「変装してる、なんて言うからさ。癒簾が天狗の姫様かなとか考えちゃったよ」
「あら、」
「まったく。まっさか、国を治める天狗の姫君がこんな町中にいるはずないのにねえ。笑っちゃうよねえ」
「ここここ。よくおわかりになりましたね」
「そうでしょう。え?」
獻瑪は足を止めた。あと五歩ほど先に、急に得体のしれなくなった娘が立っていた。
「せっかく変装していたのに、姫とばれてしまうなんて」
「は? まじめに、姫なの、癒簾」
「はい。かげ、ばれてしまったからにはこのお方を始末――」
と、癒簾の言葉の終わらぬうちに獻瑪は足下をすくわれていた。
「待って!」と癒簾が止めてくれなくば、今獻瑪の首に突き付けられている刃が、獻瑪の喉笛を砕いていたことだろう。
「そうではなくて、始末、しないといけないかしらと訊こうとしたの。でも、やっぱり弱い者いじめはいけないよね。かげ、控えて」
かげは、武器を腰帯にしまった。刀かと思ったが、それは黒羽でできた扇子で、先端に錐のような鋭いものがついていたようだ。
「ち」
かげはすんなり消えてくれたが、舌打ちしやがった。
「あいつ、おれに何か恨みでもあんの」
「すみません」と、癒簾は腰を抜かしたおれに親切に手を貸してくれる。主人のこの優しさを見習えってんだ、まったく。
「そうではないの。かげは、わたしの身を守るのがかげのしごとなもので。わたしが天狗姫とだれかにばれたときには、その者を始末するようにと侍寸に言いつけられているの」
「へ、へえ」の割には、あんまり身分を隠そうという気が伝わってこないのだが。
「でも、弱い者いじめはいけないもの。わたしが、許します」
「それはありがとう。でも、さっきからその弱い者ってのやめてくれるかな」
「これは、ご無礼を」癒簾は本当にすまなそうにして頭を下げる。嫌味ではないのだ。「わたし、城のなかのことしかわからなくて。弱い者はお守りしなければいけないのだと教わってきたもので」
「いや、それはいいんだけどさ。おれ、これでも強いほうなんだよ。そりゃ、天狗や闇天狗には敵わないけどさ」
獻瑪はさりげなくかまをかけた。だが、
「あなたは弱き者ですよ」
癒簾がきっぱりはっきりそう言うので、獻瑪の言葉に対してどう癒簾が反応したのか見る余裕を失った。
なんだよ、弱き者って。
「おれが、弱いっていうのか?」俄に、怒りが滲みあがってくる。
「ええ。およわいです」
嫌味でも皮肉でもなく、本気でそう思って言っているからたちが悪い。
「おれのどこが弱いんだよ。そりゃ、ヤクザを見て逃げ出すようなおれだけど、でも、おれはこれでも」
鬼導術にかけては誰にも負けない自信がある。
だが、それのなにを誇れる。
鬼導術ごときでは、誰も、何も救えやしない。なんの助けにもならない。璃石を奪われ、あれから腕も磨いてきた。だが、それが役に立ったことなど一度もない。ただ、その唯一の取り柄を失うのが怖いばかりに、修行を続けてきただけのことだ。
「あなたが弱いというのは、心のことですよ」
癒簾が言った。
「お心が、弱いのです」
獻瑪は、何も言い返せなかった。その場に膝をつき、打ちひしがれたいような気分に襲われた。
心が、弱い――。
腹が立ったのは、癒簾に真実を言われているからだ。嫌味でも皮肉でもなく、ただただ親切をみたまま、感じたまま、そのままに裸で目の前につきつけられ、獻瑪は目をそらしていた自分の欠陥を思い知らされた。
「でも、大丈夫ですよ。人は、だんだんと強くなれるものですから」
癒簾はにこりと笑って言った。
不覚にも、この言葉が心に刺さった。
こんなおれでも、強くなれるってのか。
逃げてたんだ、おれは。
わかっている。本当は、逃げていた。
鬼を倒す、なんて思っても、本当にはできないことをわかっていた。でも、璃石を助けたいのだけは、その気持ちだけは本当だったんだ。でも、怖くて、立ち向かうのが怖くてずっと、自分に言い訳をしながらふらふらして過ごしてきただけだった。
そういう自分の嘘を。今全部癒簾につきつけられた気がした。
でも、大丈夫だと、
「ひとは、己が弱いと知ったところからが始まりなのかもしれませんね」
なんて笑う。癒簾は、獻瑪の思っていたよりも大人で、色んなことをわかっているひとなのかもしれない。おばかだと思っていた、じぶんのほうがばかで、あなどっていた自分がとてつもなく恥ずかしい。
「さて、なに食べましょうか。変装も完璧ですし、これなら町に堂々と入れるね」
飾り気のない癒簾の笑顔を見て、こうまで自分の生き方がばかばかしく思えたことがない。もう、獻瑪は褌で着飾ることをしないだろう。人に己をどう見せようとするか、それはときに重要なことかもしれないが、だが必要以上にそれをするのはただの臆病だ。獻瑪は、人の眼が怖かった。憐れな子と、同情を受けるのも嫌だったし、かと言ってみすぼらしい恰好を笑われるのはもっと嫌だった。けれど、同じ笑われるにしても自ら妙ななりで人を笑わせてしまえば気が楽になることを覚えた。そうして、褌屋のふんど師と名乗り、ふんどしぶらさげて歩く変な男を演じてきた。だが、もうその必要もないのだと、急に思えたのだ。
それに、目的の一つも達成されたようだ。褌で目立っていればどこかでまた璃石に会えるかもしれないと思っていた。だが、闇天狗は見つけた。癒簾はさきほど獻瑪がかまをかけたとき、否定も肯定もしなかった。だが、よく考えればかげが闇天狗でないならば、闇天狗とは何か、を獻瑪に問うてくるはずだ。獻瑪は、ついにかげへつながる手掛かりを得たのだ。
「町ん中なら、おれ旨い店知ってるよ」
己の笑顔も、今までになく自然に笑えているような気がした。
「ほんとうですか。楽しみです」
「じゃ、行こうか」
二人が連れ立って歩く道は既に暗く、影も闇の中に消えている。
二人の後についてくる黒いものは影なのか闇なのか。闇と思えば恐ろしく、影なのだとおもえば心強い。
少し灯りがあれば、それはすぐに影と形を成す。
闇の中で、影を見つけるには、ただそこに影があると信じるしかないのかもしれない。
雲一つない、よい天気であった。
温かな風につい眠くなる。獻瑪は大きく伸びをした。この日の当たる心地よさは年中寒い故郷では経験のなかったことだ。だがその故郷も離れて十年以上がたつ。淋しくない、とは言えないが、淋しいと泣き言をいうことはもっと許されない。
獻瑪はあのまま、無謀にも海へ飛び込み泳げるだけ泳いだ。力尽きたところへ運よく通りかかった舟に助けてもらって、それからは本土で一人生きてきたのだ。
問題ない。一人にも慣れた。
獻瑪は気持ちを切り替えて、商店の立ち並ぶほうへと歩きだした。
快い陽気につられてか、町を行き交う人も多い。
「さすが城下だなあ」
ふと首を傾ければ、手の届きそうなところにそびえたつ城が見える。赤い支柱が天へ突きぬけていて、その周りを瓦屋根の建物が幾重にも重なっている。ここからは、土台のほうまでは見ることができない。すぐ側に見えても、距離はかなりあるからだ。相当に大きな建物なのだ、あの城は。
「まあ、天狗界の王将が住んでいるんだから、当たり前か」
その敷地は広大だという。噂によれば、おそらく獻瑪の故郷の宇秧島がすっぽり収まってしまうほどらしい。
獻瑪は反物屋と簪屋の建物の間が少し開いているのを見つけそこに向かった。柳の木が一本生えていて、それで間が広くとってあるのだろう。何故斬り斃さなかったのか、不思議に思う間もなく、木の背後に祠があるのを見つけた。
獻瑪はその祠の前にしゃがみこんだ。建物の間にあるせいで、日の当たることはなく、そこだけ暗くじめりとしていた。土まで湿っている。
獻瑪はふいに、右手の小指が痛むのを感じた。正確には、小指の爪だ。見ると、血塗られたように爪全体が赤くなっている。
獻瑪はニヤリと笑った。そうすると、白い歯がむき出しになるのは子どもの頃から変わらない。
「やっと見つけたぞ」
獻瑪は祠の石に手をかけた。長四角に切り取った石がたてられて、封の文字が彫られている。右手の小指の爪がズキズキと痛んだ。
間違いない。ここに、鬼が眠っている。
指先の痛みが動かぬ証拠であった。獻瑪の小指の爪は、使い鬼でできている。璃石の置き土産だ。それは、鬼に反応する。
あの時――璃石を失い島を出た獻瑪は目的を失って、これから先どう生きていけばよいのかわからないでいた。けれど、どんなに辛くとも璃石にすくわれた命を無駄にするようなことはできない。
そんなとき、ふと小指を見ると爪が変色していた。といっても、気味の悪い色でなくて、まるで水晶のように透き通る、不思議な物体が獻瑪の小指にはついていたのだ。光の具合で、黄色く見えることに気づいた。
これは、鬼の角か。
どうやったのかは、獻瑪にわかるはずもない。ただ、璃石は失った爪の代わりになると思い、きっと鬼の角を獻瑪の小指に付けたのだ。お陰で痛みもなく、恐ろしい感染症にもかからずに済んだ。
鬼なら、鬼に反応するだろうと。
直感が告げた。
煮え切らずにいた。納得しきれずにいた獻瑪に、その爪は目的をもたらしてくれた。
鬼を、倒す――。
そうすればきっと、璃石を助けることもできる。そう信じて獻瑪は鬼を探す旅を始めたのだ。
けれど、鬼は容易には見つからなかった。あのとき、確かに鬼はいたはずなのに。璃石をさらってからというもの、鬼はなりをひそめてしまったのだ。
だが、闇天狗は何事もなかったかのように天狗へ仕えているらしい。ただ、少し前に闇天狗の長が反乱を企んだとして処罰されている。代わりに今は、その弟である闇天狗が王将の側近となっているらしいが、鬼との関係性は見いだせなかった。
けれど、それで中央へのぼってみようという気にもなった。僻遠の地を鬼が襲ったことから、中央から遠いところへ鬼は潜んでいるのだろうと思っていたが、その足跡すら見つからない。あちこち探りながらの旅であったから、随分時間がかかってしまったが、ようやく城下へ入ったのだ。
どうやらそれは正しかったらしい。
かつて鬼は天狗に封じられたと言い伝えられている。そのとき、あまりにも鬼の力が強力なため、天狗は鬼を分散させたのだそうだ。それは、この城下に点在している。この祠が、その一つであろう。
しかし、鬼はこの祠の中に封じられている。爪はそう告げる。だとすると、鬼は力のすべてを回復したわけではなく、別の場所に本体が潜んでいるのであろう。本土を旅してみて、鬼の復活を知っている者が全くいないことに驚いた。宇秧島でも、鬼を実際に見たのは獻瑪だけであって、子がさらわれたのも天狗の命だと思っている者もいた。
だが、確実に鬼は復活してどこかに隠れているのだ。
放っておけば大変なことになる。使鬼くらいならば獻瑪でも倒せるだろう。だが、鬼が力をつければ人間の敵う相手ではない。
天狗が鬼の復活をまだ知らないのだとしたら、この窮状を訴え、力になってもらわねばならない。
だが、どうやって王将に謁見したものか。拝謁を願い、はいそうですかと入れてくれる身分ではない。
天狗界の王将である鳴子天狗様は雲の上のお方だ。庶民で城に入れるのは、豪商くらいなものだ。
「まあ、祠のこともわからんし。ぼちぼちと考えるかな」
獻瑪はさっきから行き交う人にちらちらと見られては、クスクスと笑われているのに気が付いていた。構わず、店支度を始める。
無理もないのだ。獻瑪は褌を身体に何本もぶら下げて歩いているのだ。どこに行っても、笑われはするが、
「都会はブスが多いな」獻瑪は辟易とした。
笑うなら堂々と笑えばいいものを、小馬鹿にしたような態度で、人を見下げた視線で片頬あげて笑う娘どもはなんともブサイクだ。
田舎町の娘たちのほうがよっぽど可愛いし、きれいだ。だが、流石に城下だけあって、町人の着ているものはどこか垢ぬけている。
着こなしも違うのだろう。少し崩したり、わざと胸元を開けたり帯を緩めたりなどしておしゃれにしている。こういう感覚は、中央でなくば育たぬものであろう。
「まあ、興味ないけどね」
一人でいると、人間独り言が多くなるものである。
「こんなもんかな」と、立てた竿に褌を飾り終えると、獻瑪は背負っていた三味線を前に回してきて、調律を始めた。目の前で、長い杖からイカの足のようにぶら下がった色とりどりの褌が、風になびいている。ちなみに三味線にも同じように褌がぶら下がったり、巻かれたりしてある。獻瑪特性の三味線だ。撥は持たない。右手の小指の爪があれば、弦は弾ける。
ベンッ。と、獻瑪は弦を鳴らして大声を張り上げた。
「さあさあ皆の衆。この町にもふんど師がやってきた」
なにそれ、と町人たちが笑いつつも獻瑪の前で足を止めていく。
「ふんど師の褌は、はけば幸せになる魔法の褌さ」
嘘っぱちである。だが、嘘も方便である。
「隣町の男は褌一本買って富くじの大当たりさ。別の男は買わずに、ばくちで大負けしたよ。またある女は三本買って、美男の亭主を手に入れたってさ。さあさ、幸せの褌。買わなきゃ損する魔法の褌。数量限定、本日限りの特売だよ。一本十両、売り切れ後免。さあ、買った買った」
と三味線を時折弾きながら唄うように言えば、たちまち客が押し寄せて――こない。
「兄ちゃん、耳が痛いぜ」
「あんた音痴だねえ」
なんて、興ざめした町人たちはそそくさと獻瑪の前から立ち去っていった。こんなに虚しいことはない。田舎ならばこれで売れたのに。
「都会なんて嫌いだ」
思わずうなだれると、そこへ天使の声が聞こえた。
「おひとつくださいな」
「毎度!」顔を上げると、幸運にも若い姉ちゃんだ。顔はいまいちだけど。
「どれがいい?」
「そうだねえ。どれも、魔法の褌なのかい」よく見ると、上等な着物を着ている。刺繍など、金糸だ。相当裕福なところのお嬢ちゃんらしい。これは売れるな、と踏んだ。
「ああ、そうだよ。ちなみに、おねえちゃんの願い事はなんだい」
「このおできがさ、」と、姉ちゃんは自分の頬を指差した。確かにそこに栗ぐらいのでっかいできものがある。
「なるほど、それがなくなって欲しいんだね」
「そうなんだよ。あたしの美貌が台無しだろう」
冗談を言っているのかと思えば、姉ちゃんは真顔で溜息をついている。やっぱり相当なお嬢様だ。
「そ、そうだね」獻瑪はひきつった笑い方をしながら、桃地の桜模様が可愛らしい褌を肩から一枚外して姉ちゃんに見せた。
「これなんかどうかな。女人に人気だよ」
「いいねえ。気に入ったよ」
姉ちゃんは褌をほとんど見ずに言った。ふんどしの柄より、風で鬢が乱れたことのほうが重要らしく、しきりに髪を撫でている。
「でも、これで本当におできが直るのかい。医者も見放したおできだよ。そうじゃなきゃ、褌一枚十両は高いよあんた」
要するに、御利益だけが欲しいのだ。ならば、仕方ない。
「治る治る。金を払った瞬間に治っちまうさ」
「ほんとかよ。でも、まあ、ものはためしだからね」
姉ちゃんがふんど師に十両もの大金を渡したところで、獻瑪は素早く右小指の爪を姉ちゃんのおできにひっかけた。
「ほらな。嘘じゃなかっただろう」
「なんだって」
姉ちゃんは頬に手を当て、おできのあるはずのところを何度も指で撫でて目を瞠った。そこはまっさらのきれいな肌がある。爪の鬼がデキモノを喰ったのだ。
「か、鏡」慌てながら姉ちゃんは手鏡を取り出し顔を眺め……
「ほ、本当だよお。おできがなくなった! ちょっとこの褌屋本物だよおっ」
でっかい声である。耳がジンジン痛いが我慢した。何しろ、さっきはシラケたお客たちが次々戻ってきて、次々褌を買っていったのだ。
結果、手元には三百両という大金が残った。
庶民の年収に近い額だ。うはうはである。こんなにうまくいくことは滅多にない。
「天の恵みだ」いや、それもこれも璃石の置き土産のお陰だ。これで屋根のある宿にも、美味い飯にも、きれいな姉ちゃんにもありつける。いや、璃石さまさまだ。
「ありがたや~ありがたや~♪」
獻瑪は人のはけた通りで、鼻唄をうたいつつもさっさか店じまいをした。長居は無用である。何しろいんちきなのだ。さっき褌を買っていた者たちが、願いの敵わぬことに気づく前に、さっさと退散せねばならない。
獻瑪は褌を並べていた杖を二つに折り腰に差すと、三味線を背負ってその場を立ち去ろうとした。だが、ふと足を止める。
「おや、これはなんとも」
きれいな姉ちゃんが簪を選んでいるのが目に入ったのだ。
色は白く、頬は桃色に染まり、唇はふっくらと潤っている。横から見るとまつ毛は長く、上にくるんと向いている。大きな目は、キラキラ輝いている。
――一人だ。
根っからのスケベ心が働いた。いかんと思っていても、気づけば
「御嬢さん」なんて、声をかけてしまっている。
「全部ください」
「え?」
獻瑪と、簪屋の店主の声がはからずも重なった。
「なに、全部かい?」
「うん。この台のものぜんぶ」にこりとして言う。その笑顔にますます惚れた。
「お嬢さん、思いきりがいいねえ」
御嬢さんは今獻瑪に気づいたような顔で振り返った。事実、今気づいたのだろう。
「あ、ごめんなさい。欲しいもの、ありました?」
なんだ、性格もいいじゃないか。獻瑪は笑顔を作って言った。
「いや、いいんだよ。ただ、一番似合う簪を、おれが君に贈り物としてあげたかったなと思ってね」
御嬢さんはきょとんとしていた。
「ええと、あなたが買ったものを、わたしにあげたい。ということは、わたしがあなたからその簪代をもらえばいいのかな」
今度はこちらがきょとんとする番だった。お嬢さんが何を言いたいのかわからない。
しばし考えて、「ああ」と合点がいった。
「それでもいいけど、それだとおれが君から簪を買ったことになってしまうから、一度簪を店に返品してそれをおれが買って君に贈る、というのがいいんじゃないかな」って、なにそのめんどくさい過程。だが、
「なるほど!」御嬢さんは目をキラキラさせた。「ごめんなさい、わたし算術が苦手で」
「算術?」
「じゃあ、一つお店にお返ししますね。どれがいいですか」
と、御嬢さんは折角袋へ入れてもらったばかりの簪を実際にまた台へばらまいてしまった。
「いやいやいやいや」獻瑪は慌ててそれを袋へしまった。
「あんたら、本当に買う気あんの! 御代がまだだよ」
「すみませんっ」折角商売がうまく言ったのに、ここで問題を起こしたら元も子もない。獻瑪は先程の売り上げから簪代百両を、
「百両もすんのかよ!」と盛大に文句を言いつつも支払い、御嬢さんの手をどさくさに紛れて握り、商店街から逃げ出した。
木戸があって、そこをくぐると左手に河原が広がっている。そこへ二人は駆けおり、獻瑪は御嬢さんの手を放した。
「どうして、走ったのですか」御嬢さんははあはあ息を切らしている。
「あのね、あれはただの口説き文句だから!」
獻瑪は、さっき言いたかったことをやっと言えてスッキリした。
「クドキモンク?」
と、御嬢さんは異国の言葉でも聞いたような顔で首をかしげる。なんだこの浮世離れした感じは。
そういえば、着ているものも普通じゃない。さきほどの金持ちの娘を上回る上等な着物を着ている。身に着けているものもそうだ。簪も、金じゃねえか。
「いや、なんでもない。それより君、どこの子」
「あ、申し遅れました。わたくしはでございます」
と、癒簾は獻瑪の前で腰を直角に折って頭を下げた。なんだろう、この丁寧さ。
「あ、わた、わたくしはふんど師の獻瑪でございます」
獻瑪は慌てて同じように挨拶を返した。
漂う気品。まるでどっかの姫みたいだ。だが、姫が一人きりで歩いている訳もない。他に供もいないところを見ると、よほど箱入りに育てられたどこか裕福な家のお嬢様なのであろう。
「素敵なお着物をきてらっしゃいますねえ」癒簾は、獻瑪を見て言った。嫌味ではないらしい。
「頭など爆発していて、なんと躍動的で力強くいらっしゃることか」
「爆発って、ただの寝癖……」ちょんまげをしたまま眠ったので、髷がぐしゃぐしゃになっているだけのことである。
「襟など左右で黄色と赤と分けて」
「いや、ただの継ぎ接ぎ……」
「裾を短めにして着こなして、」
「仕立て直す金がないだけで……」
「このひらひらしたものが、とても色彩豊かでお美しいです。これは、なんですか?」
褌を知らないとは、マジか。
可愛い子のすることは、大方許してしまう獻瑪だが、さすがにあ然とした。
癒簾は、獻瑪の肩から袈裟がけにして足下まで垂らしてある売り物の褌を、珍らかなものでも見るような目つきで眺めているのだ。
相変わらず瞳がキラキラとしている。どんな涙腺をしているんだろうか。
「癒簾は下着、は、はかないの?」ってことは!? の先を想像して鼻血が出そうになった。
「まあ、下着なのですねこれは。どうだったかしら」
と、いきなり癒簾が自らの着物の裾をめくるので鼻血は噴出した。
「あらっ、大変。お血が、」
癒簾は袂から手拭いを出すと獻瑪の鼻血を吹いてくれた。
「大丈夫でございますか」
手拭いは良き香りがする。
「ダイジョウブデス。タマッテイルダケデス」
「そんなに鼻血って溜まるものなのですね」
「……」可愛いし、いい子なんだが、とてつもなくズレている。
「こちらは、随分渋い御色ですね」
癒簾が枯草色の褌を眺めていた。
「ああ、それは男物だよ。最近の流行色で、若い男性に人気なんだよ」
「そうなのですか。それじゃあ、これを二本売って頂けますか」
「これを? 男物だよ?」
「はい。殿方にさしあげるので」
「がびーん」と口に出してしまっていた。
「花瓶?」
「いや、なんでもありません……。因みに花瓶じゃありません」
なんだよ。彼氏がいるならいると初めから言ってくれよ。おれの動き出したこの恋心はどうしてくれるんだ。
「じゃあ、二本で五十両ね」
腹いせにふっかけてみれば、
「わかりました」と、容易に払うし。
「褌一本二十五両もするわけないでしょうが!」
「そうなのですか」
「そうだよ。量販店で買えば一本一両ってもんだよ」実際元値はそんなものである。獻瑪は他で安く仕入れたのを柄を少し変えたりなどして高い値段で金持ちに売りつけているのだ。
「すみません。あまり世間を知らなくて」
獻瑪は困った顔の癒簾を見て、罪悪感にさいなまれた。溜息をついた。
「いや、ごめん。おれが悪かったよ。ふんどしは二本で二十両でいいよ」
ここでまけないところが我ながらせこいと思うが、おまんまがかかっているのでこちらも譲れない。払える者には払ってもらう。そえがおれの理念。
「毎度。でも、なんで二本も? どうせなら違う柄にすればいいのに」
獻瑪は料金を受け取り、褌を癒簾に渡した。
「同じのがいいんです」ぽっと顔を赤らめながら言う癒簾を見てわかった。
「なるほど、お揃いにするんだ」
「まあ。どうしてお分かりに」
癒簾は照れたように頬を手で挟む。顔を赤くして、ほんとうに可愛いなあと思う。
「女の子の考えることくらいわかるよ」
君をお持ち帰りできなくて残念だ。
その言葉は胸にしまって、獻瑪は歩み出した。
「じゃあ、またどこかで」
いつの間にか町は夕日に照らされている。赤い空に背を向けて、獻瑪が目指すは、遊郭。
「そろそろ店も開く頃だろう。まったく、女の子の下着姿見ただけで鼻血出すなんて情けないぜ。あ、」
鼻に突っ込んだままの手拭いに気づいて、獻瑪は立ち止まった。
やべ、返さなきゃコレ。
と、鼻から手拭いを引き抜くが、よりによって白地であったので血みどろ~である。
これを返すよりかは、新しい褌をあげたほうがいいだろう。今度売る時のために、まだ可愛い柄のもいくつか残っている。
獻瑪が引き返そうと踵を返すと、さっきいたところにまだ癒簾が立っているのが見えた。
獻瑪は顔をしかめた。
癒簾は、地面に向かって一人でしゃべっているように見える。それも、手振りをまじえて。
やっぱり、おつむがちょっとアレな人だったのだろうか。
だが、ひどく楽しそうなようすである。
どうしようか。と、獻瑪が考えあぐねていると目を疑うようなことが起こった。
癒簾が怒ったように地団駄を踏むと、癒簾の影から黒い両手が生えるように伸び出てきたのだ。
癒簾はそれに驚きもせず、むしろにこりとして当然のようにその手の上へ今獻瑪から買った褌を置いた。
「なんじゃ、ありゃ……」
獻瑪が茫然としていると、土手の上に人影が現れた。
「げ、」
獻瑪は近くの木の陰へ身を隠した。
見るからにヤクザものだった。大柄で派手な着物を着た男の後ろに、二人子分がくっついている。三人そろって顎が割れているところを見ると、もしかしたら兄弟かもしれない。だが、見事に体格は三人違う。親分風の大柄な男は筋肉質で、あとはデブとガリだ。だがぶっとくて一直線なお揃いの眉をつけているところを見るとやっぱり兄弟だろう。
「さて、やっぱり退散しようか」
ヤクザと言っても、役人の手下に成り下がっているやからもいる。いんちき商売がばれて獻瑪を探しているのかもしれない。現に、ヤクザの親分はきょろきょろと辺りを見回している。
獻瑪がこそこそとそこから逃げ出そうとしたときだ、
「おう、嬢ちゃん。その褌どこで買った」
げっと思わず振り返った。
「この褌がどうかなすったのですか」
「おう。その褌を売ってた男は詐欺師よ。法外な値で褌を売りつけて、さっさと姿をくらましやがったのよ。そんでそいつをとっつかまえてさらし首にするのよ」
さすが城下と言うべきか。御沙汰が早い。
「まあ、穏やかでない話ですね」癒簾は眉を潜めた。さぞかし獻瑪に幻滅したことであろう。これで完全にこの恋は終わりだ。短い春だった……。いや、春もきてないか。
「って、呑気にそんなこと言ってる場合じゃねえ。逃げないと」
「ですが、この褌を売ってくれたお方はもう行ってしまいましたよ」
「おう、どっちへ行った」
「あちらへ」
獻瑪はぎょっとしたが、驚いたことに癒簾は獻瑪がいるのとは別の方角を指している。ただの考えなしのおばかではなかったのか。
「あっちか。わかった。おめえら」
「へい」
ふたりのでこぼこ子分は、親分の一言で癒簾の指した方角へ走って行く。これで助かった。と、思いきや親分がまだその場に残っていた。
「嬢ちゃん、かわいい顔してるねえ」
親分が乱暴に癒簾の顎を掴むと、くらいつきそうなほど癒簾に顔を近づけた。
「俺と、いいことしねえか」
「いいこと?」
これはマズイ。今までの癒簾のようすからして、いいこと、と訊けばするする、なんて答えてしまいそうだ。
「します」にこりと笑って、癒簾は予想を裏切らずにそう答えました。
「だめだって! 売り飛ばされるぞ!」
獻瑪は木の陰から飛び出してしまっていた。
「なんだ、てめえは。あ、てめえ、褌屋!」
「はっ。しまった」
と思ってももう遅い。
親分は首から下げていた笛を吹き鳴らした。甲高い音が辺りに響く。たちまち、人数が獻瑪の背後に現れた。
「ぎゃあああっ」獻瑪が駆けだすとそいつらが追いかけてくる。だが、前方には親分がいる。
しかも、親分の向こう側には別の子分が現れている。総勢二十名はおろうか。厄介なことになった。
獻瑪は親分が待ち受けて殴り掛かってくるのをするりとかわした。だが、前後左右を既に取り囲まれてしまっていて他に逃げ場がない。「た、助けてっ」こともあろうに獻瑪は癒簾をたてにして後ろに隠れた。
「なんだ、こいつは。女を盾にして情けねえやろうだな」
「情けなくないやつが詐欺なんかするか」
「開き直りやがった」さすがの親分もあ然である。
「嬢ちゃん、そこをどきやがれ。そのすっとこどっこいを俺が始末してやる」
親分ははだけた裾から筋骨たくましい足を見せ、刀を抜くと鞘を後ろへ放り捨てた。その凄みに、獻瑪は腰を抜かしそうだったが、癒簾はきっぱりと言った。
「どきませぬ」
「なんだって。そのおたんちんを庇うってえのか」
「おちんちんでも、弱い者いじめはいけませぬ」
間違ってる! と、思った次の瞬間、「かげ。いじめっ子を成敗するのです」と癒簾が言った。
それから、獻瑪には何が起きたのかほとんどわからなかった。
うわっ。とか、ひょええっ。とか、どがごふっ。なんて悲鳴が聞こえたような気がするが、一瞬の後その場に立っているのは癒簾と獻瑪と、それから黒づくめの男。
男は、獻瑪の前に立った。男の姿は、異様だった。黒の着物に、裾を絞った黒の袴。黒頭巾をかぶり、裾は長く垂らしている。顔にはやはり黒の覆面を巻いていて、だがそこからのぞく眼にだけ色がある。
瑠璃――。
獻瑪が何事か言葉を発しようとしたそのとき、雨のようにその男の下へ何かが落ちてきた。ドサドサドサと、それは大から小へ、塔のように男の両の腕へ積み重なり、それでも足りずに今度は頭の上へ、だがわずか一つが両腕にも頭上にものりきらずこぼれた。と、思いきや男は足先をひょいと伸ばしてそれを足の甲に載せる。
男が漫談芸人のような滑稽な恰好で受け止めたそれらは、反物やら化粧道具やら籠やら鍋や釜、さっきの簪の包みもあるところをみればどうやら買い物したてのものらしい。
ぱちぱちぱちと、拍手が聞こえて振り向くと癒簾が満面の笑みを浮かべている。
「さすが影。わたしの荷をよごさずにいてくれてありがとう」
「は」
と、男が頭を下げた瞬間、頭の上の鍋、釜が地面へ落ちて盛大に音をたてた。
「こ、これは申し訳ありませぬ」慌てた瞬間に、両腕に乗っていた荷も、足先の荷もすべて地面に落ちた。だが、男はそのままの格好で静止している。
「ぶっ」思わず獻瑪は吹き出してしまった。
得体の知れぬ大男と思ったものが、これはとんだ間抜けものだ。
「も、申し訳ありませぬ」男は癒簾に土下座して謝った。「すぐに、荷を」
男が荷を片付けようとすると、突然「ここここ」という鶏の鳴くのに似た声が辺りに響いた。
新手の敵か――。
一瞬緊張が走るが、なんとそれは人の笑い声であった。しかも、わらっているのは癒簾。
尋常でない笑い方に獻瑪が茫然としていると、癒簾は袖を口元にあて、笑いの止まらぬようすで言った。
「おちんちんでなく、おたんちんでしたね」
「そこ!? ってゆうか今!?」
ついていけない、と愕然とし、落とした獻瑪の肩をポンと一つ男が叩き、わかるぞ、とでも言いたげに肯いた。
だが、男が獻瑪に関わったのはそれだけで、その後は恐るべき速さで荷物を片付けると、消えた。
男は、大量の荷物とともに獻瑪の前から消えたのだ。
獻瑪は、河原に長く伸びている癒簾の影を踏んだ。男はそこに吸い込まれるようにして消えたのだ。
「無理ですよ。影の中にはかげしか入れませぬ」
癒簾が、ここここ、と笑いながら言った。
「影って、じゃあ、今の男は君の影なの」
「はい」癒簾がにこりと笑って答える。残念な子だが、やっぱり、可愛いことは可愛い。笑顔がいい。笑い方は抜きにして。
「随分強い影なんだね」
辺りを見回せば、二十を超す数の男たちがのされて倒れている。それも、ただの男じゃないのだ。すぐ側で倒れている親分など、役人も怖がるほどの暴れ者。と、噂されていたやつだ。体つきを見ても、並みの者ではかなわないだろう。それを、一瞬で。しかも、前後左右、距離の離れている敵を同時に。
――人間の仕業ではない。獻瑪は、男の瞳の色が気になっていた。人間に、ああいう色の瞳を持つものはいない。少なくとも、十年以上この天狗界を旅をしてきて、獻瑪は出会ったことがなかった。
「かげはわたしの護衛なのです。とても頼りになるんですよ。あ、でも影のことは他言無用でおねがいしますね」
にこりと笑う癒簾につられて獻瑪も笑みながら、影の本当の苦労がどのあたりなのか、この御嬢さんは気づいていないのだろうなと思って少し同情した。
「それでは、ごきげんよう」
癒簾は深々と獻瑪に頭を下げると、くるりと背を向けて歩き出そうとする。
「ちょ、ちょっと待って」
「はい?」
「なにか、お礼させてよ」
「おれいですか?」
「うん。助けてもらったお礼」無論、もう少し一緒にいたいという下心がある。獻瑪はちゃんと影から伸び出た手が褌を受け取ったことを覚えている。あれがかげだったのだとしたら、家来への褒美と受け取れる。とういうことはだ、獻瑪にもまだ望みはある。
「なにがいいかな。とりあえず、この後一緒に食事でもどう?」
――それに、どうしても確かめたいことがあった。
かげは、闇天狗なのではないだろうか。
子どもの頃、獻瑪からすべてを奪った闇天狗。あれから二度と出会うことはなかった。王家に仕えているときいたが、その噂は間違いだったのだろうか。
癒簾に仕えていたあのかげという男、あのとき見た闇天狗に似ている気がした。だが、獻瑪たちを襲った闇天狗とは別の者であろう。
あの闇天狗はもっと大きかったし、記憶がおぼろげではあるが、覆面をせずとも肌まで黒かった気がする。対して、癒簾の護衛であるかげという男は闇天狗にしては小柄で、そういえば羽もなかったようだ。それに、覆面から覗く肌は、人間と同じ色をしていた。
では、闇天狗とは別の種族なのであろうか。だが、闇天狗は影を操るときいている。ならばやはり影の中に入れるあのかげという男は、闇天狗なのではないだろうか。なかには、肌の白い者もあるのかもしれない。だが、闇天狗ならば何故癒簾に仕えているのか。確かに癒簾は裕福なところの娘であろうが、町娘に仕えるような身分ではないはずだ。そう多くいる種族ではないときく。鴉を眷属に持ち、人の姿を持った妖力の高い闇天狗は数えるほどだと。
ここで、闇天狗と思われる者に出会ったのは運命なのかもしれない。かげならば、璃石を奪ったあの闇天狗のことも知っているかもしれない。
璃石を助ける為に、鬼を倒そうと獻瑪は考えてきた。だがそれで璃石が意識を取り戻す保証はどこにもない。だが、闇天狗ならば、どうしたら璃石が助かるのかを知っているかもしれないのだ。何しろ、璃石を奪ったのは闇天狗なのだ。
それを思うと、激しく闇天狗を憎む気持ちが膨らんだ。それを意識してしまえば、普通に生活することができない。だから今まで、後悔も恨みも憎しみも、すべて気持ちの底に抑えこんで生きてきた。
忘れてしまえば、人生とは楽しいことばかりだ。
そうして、生きてきた。そうしなければ、生きてこれなかった。
たとえ、その生き方が歪み切っているものだとしても、それを教えてくれる者はおれにはいない。
獻瑪は、ずっと孤独の道を歩いてきたのだ。
「いいですね。おなかすきました」
癒簾は、しばらく獻瑪の顔を見つめていたが、やがてにっこりと笑ってうなずいた。
獻瑪はほっとしてほほ笑んだ。
「じゃあ、どこ行こうか」
「町は、まずいですよね」
「あ、」そうだった。町に戻ればまた役人に掴まってしまう。「困ったね。飯屋なんか町のほうにいかないとないよ」
「じゃあ、変装なさったらよいのですよ」
「変装?」
「ええ。わたしみたいにこのように」
「癒簾、変装してるの?」
「はい。そうですね、まずはその褌が目立ちますから、思い切って地味な御色の着物を召したらいかがでしょう。かげ、なにかない?」
と言うと、足下の癒簾の影からにゅっと手が伸びてくる。
「うわっ」かげ、という男だとわかっていてもその光景は気色の悪いものである。
かげの手には、着物が載っている。薄墨色の縦縞模様が入った、ごくごく普通の着物だ。
「よいですね」癒簾はにこりとしてそれをとりあげる。「さきほど、への土産に買ったものなのですけど、あ、侍寸というのはかげの叔父上で父の宰相をつとめていらっしゃる方なのです。さあ、どうぞ」
「はあ」獻瑪は着物を受け取った。生地が柔らかい。上等なものだ。
「あ、これは気づかずに。お手伝いさしあげましょう」
癒簾が獻瑪のに手を伸ばして解こうとするので、獻瑪は慌てながらも丁重にそれをお断りした。
さすがに目の前で裸になるのは憚れるので、木の陰へ行き着替えつつ疑問に首をかしげる。
癒簾は、なんのために変装などしておるのか。宰相とは、天狗界でいえば王将の補佐官であるはずだが、癒簾は父の宰相という言い方をした。すると、ひょっとして癒簾は――。
という考えが頭をよぎるが、「ないない」と獻瑪は自ら一笑に付した。
獻瑪は荷を藪の中へ隠し、今日の稼ぎの入った財布だけ懐に入れると待っている癒簾の下へ向かった。もう随分日は翳っている。
「いやあ、おれ今とんでもないこと考えちゃったよ」
とんでもないこと?
と、小首をかしげる癒簾に、
「変装してる、なんて言うからさ。癒簾が天狗の姫様かなとか考えちゃったよ」
「あら、」
「まったく。まっさか、国を治める天狗の姫君がこんな町中にいるはずないのにねえ。笑っちゃうよねえ」
「ここここ。よくおわかりになりましたね」
「そうでしょう。え?」
獻瑪は足を止めた。あと五歩ほど先に、急に得体のしれなくなった娘が立っていた。
「せっかく変装していたのに、姫とばれてしまうなんて」
「は? まじめに、姫なの、癒簾」
「はい。かげ、ばれてしまったからにはこのお方を始末――」
と、癒簾の言葉の終わらぬうちに獻瑪は足下をすくわれていた。
「待って!」と癒簾が止めてくれなくば、今獻瑪の首に突き付けられている刃が、獻瑪の喉笛を砕いていたことだろう。
「そうではなくて、始末、しないといけないかしらと訊こうとしたの。でも、やっぱり弱い者いじめはいけないよね。かげ、控えて」
かげは、武器を腰帯にしまった。刀かと思ったが、それは黒羽でできた扇子で、先端に錐のような鋭いものがついていたようだ。
「ち」
かげはすんなり消えてくれたが、舌打ちしやがった。
「あいつ、おれに何か恨みでもあんの」
「すみません」と、癒簾は腰を抜かしたおれに親切に手を貸してくれる。主人のこの優しさを見習えってんだ、まったく。
「そうではないの。かげは、わたしの身を守るのがかげのしごとなもので。わたしが天狗姫とだれかにばれたときには、その者を始末するようにと侍寸に言いつけられているの」
「へ、へえ」の割には、あんまり身分を隠そうという気が伝わってこないのだが。
「でも、弱い者いじめはいけないもの。わたしが、許します」
「それはありがとう。でも、さっきからその弱い者ってのやめてくれるかな」
「これは、ご無礼を」癒簾は本当にすまなそうにして頭を下げる。嫌味ではないのだ。「わたし、城のなかのことしかわからなくて。弱い者はお守りしなければいけないのだと教わってきたもので」
「いや、それはいいんだけどさ。おれ、これでも強いほうなんだよ。そりゃ、天狗や闇天狗には敵わないけどさ」
獻瑪はさりげなくかまをかけた。だが、
「あなたは弱き者ですよ」
癒簾がきっぱりはっきりそう言うので、獻瑪の言葉に対してどう癒簾が反応したのか見る余裕を失った。
なんだよ、弱き者って。
「おれが、弱いっていうのか?」俄に、怒りが滲みあがってくる。
「ええ。およわいです」
嫌味でも皮肉でもなく、本気でそう思って言っているからたちが悪い。
「おれのどこが弱いんだよ。そりゃ、ヤクザを見て逃げ出すようなおれだけど、でも、おれはこれでも」
鬼導術にかけては誰にも負けない自信がある。
だが、それのなにを誇れる。
鬼導術ごときでは、誰も、何も救えやしない。なんの助けにもならない。璃石を奪われ、あれから腕も磨いてきた。だが、それが役に立ったことなど一度もない。ただ、その唯一の取り柄を失うのが怖いばかりに、修行を続けてきただけのことだ。
「あなたが弱いというのは、心のことですよ」
癒簾が言った。
「お心が、弱いのです」
獻瑪は、何も言い返せなかった。その場に膝をつき、打ちひしがれたいような気分に襲われた。
心が、弱い――。
腹が立ったのは、癒簾に真実を言われているからだ。嫌味でも皮肉でもなく、ただただ親切をみたまま、感じたまま、そのままに裸で目の前につきつけられ、獻瑪は目をそらしていた自分の欠陥を思い知らされた。
「でも、大丈夫ですよ。人は、だんだんと強くなれるものですから」
癒簾はにこりと笑って言った。
不覚にも、この言葉が心に刺さった。
こんなおれでも、強くなれるってのか。
逃げてたんだ、おれは。
わかっている。本当は、逃げていた。
鬼を倒す、なんて思っても、本当にはできないことをわかっていた。でも、璃石を助けたいのだけは、その気持ちだけは本当だったんだ。でも、怖くて、立ち向かうのが怖くてずっと、自分に言い訳をしながらふらふらして過ごしてきただけだった。
そういう自分の嘘を。今全部癒簾につきつけられた気がした。
でも、大丈夫だと、
「ひとは、己が弱いと知ったところからが始まりなのかもしれませんね」
なんて笑う。癒簾は、獻瑪の思っていたよりも大人で、色んなことをわかっているひとなのかもしれない。おばかだと思っていた、じぶんのほうがばかで、あなどっていた自分がとてつもなく恥ずかしい。
「さて、なに食べましょうか。変装も完璧ですし、これなら町に堂々と入れるね」
飾り気のない癒簾の笑顔を見て、こうまで自分の生き方がばかばかしく思えたことがない。もう、獻瑪は褌で着飾ることをしないだろう。人に己をどう見せようとするか、それはときに重要なことかもしれないが、だが必要以上にそれをするのはただの臆病だ。獻瑪は、人の眼が怖かった。憐れな子と、同情を受けるのも嫌だったし、かと言ってみすぼらしい恰好を笑われるのはもっと嫌だった。けれど、同じ笑われるにしても自ら妙ななりで人を笑わせてしまえば気が楽になることを覚えた。そうして、褌屋のふんど師と名乗り、ふんどしぶらさげて歩く変な男を演じてきた。だが、もうその必要もないのだと、急に思えたのだ。
それに、目的の一つも達成されたようだ。褌で目立っていればどこかでまた璃石に会えるかもしれないと思っていた。だが、闇天狗は見つけた。癒簾はさきほど獻瑪がかまをかけたとき、否定も肯定もしなかった。だが、よく考えればかげが闇天狗でないならば、闇天狗とは何か、を獻瑪に問うてくるはずだ。獻瑪は、ついにかげへつながる手掛かりを得たのだ。
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