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ササメ 6
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変装は成功だった。
町は夜でも、立ち並ぶ灯りにともされて明るい。だが、髷も整え、着流し姿で歩く獻瑪のことを、昼間の褌屋と気づく者はいなかった。二、三人、褌を売りつけた者とも近くですれ違ったが、まるで気づかずに通りすぎたので、獻瑪は完全にほっとしていた。
「もうすぐだよ」
ご機嫌で、鼻唄をうたいながら癒簾を店へと案内しているときであった。
「キャアアアアアアアアアアアアア」と、裏通りの方から女性の悲鳴が聞こえてきた。
「大変。なにごとかな」
癒簾は、止める間もなく声のしたほうへ走っていってしまった。野次馬というよりは、正義感なのだろう。さすが、姫といったところか、だが獻瑪にとっては「冗談じゃねえよ」である。
厄介ごとに巻き込まれるのは御免だと、反対方向へ立ち去ろうとしたところをいきなり足首を掴まれ、「ぎゃっ」と地面へ倒された。
「おい、やめろ」と言うのに、獻瑪はそのままずるずると足をひきずられていく。かげの仕業だ。
「なにすんだよ、てめえ」
と喚いたころには既に現場に着いていた。人だかりができ始めている。一軒の家を取り囲んでいた。ごく普通の農家だ。その粗末な長屋の入口に、癒簾が立ち尽くしていた。目は見開き、口に手を当てて驚いている。
獻瑪は仕方なく、癒簾の側へ寄った。血生臭い。嫌な予感がする。
「どうした」
声をかけ、だが、答えを聞く必要はなかった。
家の方を振り向くと、そこには人間の食い散らかされた痕が残っていた。
「うっ」獻瑪はその悲惨な光景にたちまち吐気を催して、こらえきれず道端に吐いた。癒簾はよく耐えているものと思う。
なにしろ、部屋中に肉片が散らばっているのだ。ほとんど白骨の死体があって、その側に目玉が二つ転がっている。その周りには、肉の小片が喰いちぎられた着物と共にところどころに散らばっていて、壁や床いたるところ血まみれであったのだ。
人間の仕業じゃねえな。と思うのと、右の小指の爪が疼くのとは同時であった。
鬼か――。
獻瑪に戦慄が走った。
恐らく、これは使い鬼が人間を喰った痕であろう。使鬼は目玉を喰わぬと習った。だが、実際に使鬼に襲われた残骸を目にするのは初めてであった。文献で読んだのと同じ惨状ではあるが、そのむごさに受ける衝撃は想像以上のものだった。
おれは、こんなやつらを相手にしようとしていたのか。
使鬼に心はない。
躊躇を知らぬ相手に、ためらってばかりいる自分の術が通じるものなのか。獻瑪は途端に自信がなくなった。
そのとき、人垣をかきわけて血相かえて跳び出してきた子どもがいた。八つくらいであろうか。
「母ちゃん! 父ちゃん!」
泣き叫んで、家に近寄ろうとするその子どもを、側にいた者たちが押しとどめていた。
断じて、親のあのような姿を見せられない。
獻瑪は、子どもを見た。日焼けした、活発そうな男の子だ。目がくりっとしていて、眉は凛々しい。どこにでもいる、普通の子どもだ。だが、この瞬間、子どもは普通の日常を失ったのだ。当たり前のようにいた母、父は、鬼に喰われてしまった。家の前には竿があった。長いのと短いの、二本。親子で、よく釣りにいったのかもしれない。それももうできなくなる。
失われた、奪われたものの大きさを思い、獻瑪は唇を噛んだ。かつて、同じような思いに捕らわれたことがある。その人の幸せを蝕む黒い塊の処理の仕方を、少年もいつかは学ぶであろう。だが、そうして生きていくことはできても、失われたものは決して戻ってはこない。深く傷ついた心は、癒えても傷痕を残す。
そういう、取り返しのつかぬことをもたらした鬼が、許せなかった。
だが――おれにできることは、なにもない。
獻瑪は、家の裏へ回った。長屋の取り囲む、共同の井戸端に、今はだれもいない。ただ、月影だけが揺らめいている。
獻瑪は、井戸から水をすくって己の身にかけた。
頭から、何度も何度もかけて頭を冷やした。口を漱いだ。冷たい井戸の水に、身体が冷え切ったところで、獻瑪は桶を捨て、表へ戻った。
癒簾は、子どもをなだめているところであった。
獻瑪は、それには声をかけずに惨状の広がる家の中へと入った。空気は乾燥しているはずなのに、じめっとした匂いがそこに立ち込めている。まるで、死にきれぬ父と母の魂がそこにさ迷っているかのようであった。
獻瑪は、二つの白骨の間に両膝をつき、爪先はたてたまま手近の肉片を拾った。
胸を突くような痛みが獻瑪を襲う。肉に残った思いが、獻瑪の中へ流れてくるのかもしれなかった。
「ごめんな。おれには、ただ肉体を繕うことしかできねえんだ」
獻瑪は、白骨に手をかざし、肉片を額の前に掲げ、呪文を唱えた。
次第に、肉片はずずとあつまり、白骨に投げつけられたように張り付いていく。
ほとんどは喰われてしまった。内臓など一つも残っていない。だが、それでも見た目だけは元のように戻せる。その者の顔を知らずとも、それは身体が記憶しているから。
今、名も知らぬ男と女は、徐々に生前の姿を取戻し初めている。
それも、鬼導術。
かつての使鬼は骨をも喰っていったという。弔う物のない悲しさに耐えきれず、鬼導師たちはわずかな肉体の破片からでも、その姿を再生できる術を編み出したのだ。ただの慰みに過ぎない。それでも、すがりたかったのだ。
獻瑪の腕ならば、髪の毛一本あれば元の姿を取り戻すことができる。これだけ骨も肉も残っていれば、再生は困難ではない。
ほんの、握り飯一つ食べるほどの時間だけで、今獻瑪の目の前には、二人の男女が並んで寝転んでいる。一人は仰向けに、もう一人はそれをまもるかのようにうつぶせに倒れている。
衣類までは、元に戻せない。流された血の痕を、消すこともできない。
獻瑪は、男女に投げ出されていた夜具をかけてやり、自らの着物の袖で壁に飛び散った血を拭い始めた。
他に布があるのをちぎって使えばよいのに、そこまで、頭がまわらなかった。
こすっても、血はなかなか消えなくて、悔しくなった。涙が、溢れてくる。
成人してもう随分たつのに。大の大人が、泣くなんて。でも、止まらなかった。悔しくて悔しくて、仕方がなかった。
「どうして、どうして消えないんだよ」
壁を叩いたって、消える訳じゃない。傷痕が、血の痕が消えるわけじゃない。
知らず、かつての自分に重ね合わせていた。
なんで、こんな目に遭わなきゃいけないのか。人間はなんで鬼なんかに怯えていきなきゃいけないのか。
あの子どもが何をしたというのだ。おれが、何をした。璃石が、何をしたっていうんだ。
「獻瑪」
癒簾が呼んでいると気づいたが、振り向けなかった。
会ったばっかりで、こんな情けない顔見せられない。
でも、考えてみれば、癒簾には情けない姿しか見せてない。
「なかなか、消えねえな」
振り向いて獻瑪が笑顔を作ると、癒簾は首を振った。
「あとは、わたくしが」
かげが癒簾の足下から出たかと思うと、一瞬にして家の中を黒い壁が包み込んだ。それは、目隠しであろう。術をかけるのは癒簾だ。
天井も、床もまっ黒くなったかと思った瞬間、癒簾の聞き取れぬ言葉が響いて、光が散った。
次の瞬間、獻瑪は知らぬ場所にいると思った。だが、それはさっきと同じ場所であった。
目の前には男女の遺骸がある。だが、今はきれいな顔をして目を閉じている。その周りに飛び散っていた血は、跡形もなく消え去っていた。
「これ、癒簾が?」
癒簾は肯いた。笑んではいない。
「今は、これくらいしかできませんが。もう、このような悲劇はおこしません」
「癒簾――」
獻瑪は、癒簾、という女性を今ここで初めて見た気がした。
癒簾は、強いひとだ。
幸い、子どもには親戚がいた。丁度、その親戚の家に子どもは預けられていて難を免れたのだという。それが幸か不幸か、獻瑪にはわからなかった。
その後、駆けつけた親戚に癒簾はいくばくかの金を渡して、獻瑪と共にその場を去った。
それから、目当ての飯屋に入ったものの、当然のごとく箸は進まない。というのは、常識人である獻瑪だけで、癒簾の方は箸が進み過ぎるほど進んでいた。
「よ、よく食べるね」
「食べなきゃやってられないょ」
頬に食い物をいっぱいにつめこみながら、癒簾はぐびぃっと相撲取りが飲むような大きさの盃を傾けて酒を覆った。
「よ、よく飲むね」
「飲まなきゃやってられないょ」
「にしても、」と獻瑪が苦言を呈そうとしたところへ、店の主人がやってきて、「もう食材も酒も使い果たしました」帰ってくれと、なきついてきた。
無理もない、皿は洗うのも間に合わずにうず高く何本にも積み上がり、皿が足りなくなったら調理したてのものが鍋ごとでてきた。酒は酒で、樽ごと飲んで飲み干した。
それも、癒簾一人でだ。獻瑪は、ほんの一合酒を飲んだだけだし、闇天狗はものをくわないらしく現れていない。
「それで、お支払いの方なんですが、」
「おう」獻瑪は主人が持ってきた伝票を見て、卒倒するかと思った。見たことのない桁がそこには連なっている。
「ははははは」こういうとき、人はとりあえず笑ってしまうものらしい。「おうおう。ちゃんと払うから心配すんな」とりあえず、そう言った。
「左様ですか。では、お帰りの際にお呼びください」
店主はほっとしたように笑顔をつくると、下がって襖を閉めた。
獻瑪は無意味に楊枝を噛みながら、「ところで、癒簾いくらもってる」
と、最後の酒を煽っている癒簾に、今更ない恥を忍んで、聞いた。
「おかね?」
「そう、金」
「無一文だょ」
「そうか。無一文か」あと、いくら足りないかな、と考えて全額足りていないことに気づいた。
「無一文!? なんで!」
「わたくし、先程の子どもに有り金すべて渡してしまいました」
「っまじで!?」
「ええ。思い余って」
「いやいやいやいや。気持ちはわかるけど――」
獻瑪は伝票に目を落とした。どう転んだって足りやしない。っていうか足りるわけねえだろっていう額である。どうしたものか。逃げるしかない。
獻瑪はさっと立ち上がった。
「じゃ、おれはこれで」
と立ち去ろうとする獻瑪は足をすくわれつんのめり、こともあろうに壁の柱に鼻をぶつけた。
「いってえな、てめえは! さっきから足をいきなり掴むのはやめろ!」相手は、かげとわかっている。
「一国主の姫君に、お前は食い逃げをさせる気か」
と、影の中から低い声が聞こえる。
「ち」
獻瑪は舌打ちしてあぐらをかき、後ろ頭をかいた。
姫の命がなければ動けない者かと思えば、決してそうではないらしい。
「だって、仕方ねえだろうが。ねえもんは、ねえんだよ」
「ならば身体で払え」
「いやらしいこと言うやつだな」
「いやらしい意味で言ったわけではない。労働せよと申しておる!」
意外にもかげは普通に話のできるやつらしい。いや、姿を見せぬので普通とは言い切れないか。だが、姫様よりは常識が通じる。
「労働ねえ。おれ、そういうの苦手で」
獻瑪はゴロンとその場で横になった。
こういう危機はこれまでにも何度かある。大方走って逃げる、で解決してきたのだが、確かに姫が一緒となるとそうもいかない。
「心配しなくともよいょ」
獻瑪が脇をぼおりぼおりとかいていると、癒簾が樽酒と牛一頭ほども食いきったとは思えぬ涼しい顔でほほ笑んだ。
「かげに使いを出してもらい、おかねを届けてもらいましょ」
「おお。ほんとに、助かるよ」
獻瑪はパンと手を叩いて起き上った。
「けれど、かげの使いは鳥目で」
と、癒簾は影から出てきた鴉を手にのせながら言った。
鳥目というか、鳥じゃねえか。と思うが、獻瑪は相手にしないことにした。本気で言っているのだから、癒簾のぼけはボケでなく、つっこむ必要はない。こちらが疲れるだけだ。
「ただの鴉ではないので、闇夜でも飛べることは飛べるのだけど、少し時間がかかるの。戻ってくるのは今日の夜中か、明日の朝になるやも」
「そっかあ。じゃあ、それまで待ってないとだね」
「よいではありませぬか。ここはお宿でもあるみたいだし、このまま泊まってしまおうょ」
「え♪」一瞬にして広がる妄想に、途端に顔がニヤけてしまう。
「姫!」慌てたのはかげだった。
「何を言っておられる」
「どうしたの? かげから話しかけるなんて珍しいね」
影、というより床から頭だけ出した生首のかげはうわずった調子で言った。
「影は姫君のなされることに口を出してはならぬ決まり。ですが、あまりにも奔放でございます。殿方と一夜を共にするということは、つまり、その、あの、しかるべき情事がおこる可能性がありましてですね、それは、姫君として、いとはしたなき行いかと思われる次第でして、やんごとなき姫君におかれましては、あの、その、よろしからざるべくこととお思いになるのですがいかが」
「情事ってなあに?」
癒簾はきょとんとした顔で首をかしげる。
「じょうじとは、その、いろごとのことで」
「いろごとって?」
「いろごととは、男女のそのむつみあいと言いますか……」
かげの眼がぐるぐるとまわっている。と、そこで姫様は閃いたようにポンと手を叩き、明るくさっぱりと言った。
「ああ。まぐわいのことね」
「まぐ」
あえなく、かげは沈没したかと思うと、いきなり影から飛び出てげらげら笑っていた獻瑪の襟を締め上げてきた。
「おぬしからやめろと申すのだ。姫は俺の言うことはきかぬ」
小声でひそひそとかげは言ってきた。が、
「そんな怖い顔してもだめだよ。ああいう子は、だれが言ったってこうと決めたら動かないでしょう」
獻瑪の下心は見え見えらしく、かげは益々怖い顔をして獻瑪の首を締め上げた。
「ぐえっ。く、くるしい。しむ」
「姫様に妙なことをすれば、本当に殺すからな」
本当に殺す気ならばとっくに殺しているだろうと思いつつ、癒簾の影の中へもどっていくかげを見ていた。
なんだか、じゃれ合うこの感じ――前にもあったような気がするのだ。周りに振り回されるあの人の良さ、生真面目で、美男でもあるのだが決めきれない三枚目なところ。よく似たやつを、獻瑪は知っている。
璃石が、大人になっていたらあんな感じだろうかと思う。
ズキンと、爪が痛んだ気がした。だがそれは気のせいで、今痛いのは胸の奥だった。
璃石のことを思いだしてしまった。璃石に、会いたい――。
璃石は、今頃どうしているだろうか。やはり、まだ眠ったままなのだろうか。それでも、身体は成長するのだろうか。
だが、獻瑪は眠る璃石を目の前にして、なぜかそこに璃石はいないと思ったのだ。
今思い返しても、どうしてだかわからない。だが、あれはただの抜け殻だと、そう強く感じた。
ならば、中身はどこに行ったのか。
そういえば、右の爪の鬼は璃石の置き土産であったはずだ。鬼導術で与えてくれたもの、だがあのとき、璃石は隣に倒れていなかったか? ならば、この爪をくれたのは、璃石でなかったのだろうか。記憶は年月とともに曖昧になってきている。あのとき、二人の璃石がいた?
闇天狗は、あのとき仕方ない、というようなことを言わなかっただろうか。
癒簾は、今起きたことなど忘れたようすで、鴉を窓の外へ放っていた。
闇夜を飛べる鴉。それと共に、闇天狗は現れたのだ。
そして、璃石を奪った。奪った。だが、璃石は生きていた。息をしていた。だが、あれは抜け殻だった。では、闇天狗が奪ったのは、璃石の中身?
「魂――」獻瑪は呟いていた。
そうだ。闇天狗は、璃石の魂だけを奪っていったのだ。
どうして今までこんな簡単なことに気づかなかったのだろう。それは、目をそらしていたからだ。まともに向き合って、考えるのが怖かったのだ。
母は言ったではないか。獻瑪が璃石を助けたと。獻瑪があの闇天狗の妨害をしたから、璃石の魂が、わずかに璃石の身体へ残ってしまったのかもしれない。
そうなら、本当に璃石を助けることができるかもしれない。
「闇天狗は、奪った子の魂をどうするんだ」
璃石の魂をすべて返してもらえばいい。そうすれば、璃石は蘇るはずだ。
「え?」と振り返ったのは癒簾だけで、じれったくて獻瑪はそのままかげへ呼びかけた。
「おまえら闇天狗は、奪った魂をどうするかって聞いてるんだよ。大切なことなんだ、答えろ!」
癒簾が、獻瑪の剣幕に驚き、かげへ現れるように言った。
畳の上へ現れたかげはひざをつき、癒簾の前に頭を垂れている。
「獻瑪があなたに聞いてる。答えてあげて」
癒簾に促されると、かげはわずかに顔をあげ、頭巾からはみでた長い前髪の間から獻瑪をねめつけた。
「奪うとは無礼なことを。闇天狗は己らで生み出した魂を影と融け合わせその形を作るのだ。魂は闇天狗となる」
魂を影と融け合わせてその形を作る。魂は、闇天狗となる。
「ってことは、璃石も闇天狗に――」
聞かせようと思って言った言葉ではなかった。ただ、口をついて出ていたその言葉に、かげの目が見開いた。気が、した。気のせいか、かげはもう無表情に戻っている。
「璃石ってだれ?」
癒簾が獻瑪とかげの顔を交互に見て言った。
獻瑪には答える余裕がない。
かげは「存じ上げません」と言ってさっさとかげに戻ってしまった。
「前髪長えんだよ、あいつ」
そのせいでわずかに覗く眼さえもよく見えない。表情がわからない。何を思って、何を考えているのか。だが、かげは璃石という名に反応しなかったか? もしかしたら、かげは璃石のことを知っているのかもしれない。それでああいう態度をとるのだとしたら、仲間のことは他言してはいけない決まりでもあるのか。
それとも、かげが――。
そうだ、ともちがう、とも今は言いきれない。
まあ、焦らないほうがいい。ああいう頑固者は追求されれば余計に固く口を閉じるものだ。やっと、手掛かりを掴んだのだ。それに、璃石の弱点は大体わかった。
獻瑪はニヤリとして杯に残っていた酒を煽った。
「獻瑪は、闇天狗に詳しいんだね」
料理を平らげてしまったので、癒簾が手持無沙汰に渇き物をガジガジと噛みながら言った。ホタテの貝ひもを伸ばして乾かしたもので、旨い。
「そう?」
「りしってだあれ? りしって人が、闇天狗に魂を奪われたの?」
獻瑪は目を瞠った。
見かけによらず聡い。
「いや、」隠すことでもないのだが、口に出すには重い。
聞かれたくないこととわかったのか、癒簾は話題を変えた。
「さっきの術もすごかったね。獻瑪は、ただの褌屋さんじゃないね」
だがこちらの話題も歓迎できない。
それを承知で訊ねているのか、癒簾のようなものはこういうときに読めない。
「まあ、昔とった杵柄っていうか」我ながら爺臭いことを言う。よくよく動揺している証だ。
「呪術の一種だよ」獻瑪は気を取り直して笑った。
「それを言うなら、癒簾の術も凄かったじゃないか。おれ、天狗の妖術を見たの初めてだよ」
「ぁぁ、」癒簾は褒められたことに何故か心苦しいような表情をしてうつむいた。
「わたしはまだまだだょ……」
その癒簾の気持ちは痛いほどわかった。獻瑪も自分の無力さには辟易している。
「でも、そんなこと言っていられないょ。もう、誰も泣かせない。今日のようなことはもう、絶対に……」
獻瑪はその言葉に胸を打たれた。
当たり前だ。癒簾だって、気にしていない訳がなかったのだ。だが、切り替えてもう前を見ていたのだ。鬼に親を喰われた子どもの不幸を、いたずらに悲しんで嘆いていただけでは何の解決にもならない、うかうかしているうちに、また次の犠牲者が出る。
「いったい、だれがどうしてあのようなひどいことをするのかな」
獻瑪にはわかっていることだった。
あれは、鬼の仕業だ。
教えるべきか、否か。
姫、とはいえ、所詮姫、なのだ。
真実を知ったところで小娘に何ができよう。鬼と対峙するとなれば、それなりの準備も覚悟も必要になる。今、鬼がどれほど力をつけているかもわからない。居場所もわからない。なにしろ闇の申し子だ。隠れることにかけては、天をも欺く才を持つ。
姫が知らぬということは、きっと天狗の王もその復活を知らないのか。
絶望に似た気持ちが胸を渦巻いた。姫に伝え、王にしかるべき対応をしてもらうべきだろう。だが、なにかそう簡単にはいかぬような気がしている。ただの勘でしかないが、獻瑪の勘はよくあたる。
それに――鬼が復活したのは、獻瑪の知る限り十年以上も前のこと。そのときに、天狗は無能だった。少なくとも、獻瑪にはそう思えた。天狗は、なにも助けてくれなかったのだ。
それは、天狗が鬼の復活を知らなかったから。
知らないことさえ罪と思わずにはいられないが、知っていて放念したのだとはもっと思いたくない。
しかし、あのときは天狗が鬼の存在に気づいていなかったとしても、鬼が世に出ずにずっと隠れ続けていた訳ではないのだ。いや、出てきたのは使鬼だけではあるが、使鬼を操れるのは鬼だけと、天狗が知らぬはずもない。
やはり、天狗は鬼の復活には気づいているだろう。知らぬのは姫だけだ。
僻遠の地とはいえ、宇秧島の少年が知っていることを世の王将である天狗が知らないとはどうしても思えないのだ。天狗は、人間にとっては、限りなく神に近い存在なのだ。間違いがあるはずのない存在だと、人間は信じている。
「ああいうことは、よく町では起こることなの?」
ふと、癒簾がおおまじめな顔をして聞いてきた。
「え? いや、ないけど」
「そうだょね。いぇ、わたしは今日生まれて初めて城から出たので」
「ああ、そうなんだ」そういえば、「なんで町にいたの? 供もたった一人だけで」
「かげがいれば百人力だょ」と癒簾は笑ってから答えた。
「ずっと、城の外へは行ってみたかったの。町の様子は、教書や教師から話に聞いてぃたけど、聞けばきくほど行ってみたくなって。それに、いずれはわたしもこの国を背負って立つ身でしょ。ならば、その国に住む民の暮らしを知っておくことも必要かと思ったのです」
「あー、よくある話ね。でも折角遊びにきたのに、あんなところに出くわすなんて、ついてなかったね」
「ぃぇ、逆だょ。良いことばかりであるはずがないもの。町の、あらゆるもんだいを見つけるためにわたしは町に出たの。だから、ああいうことがあるんだと知れてよかった」
「そっか。でも、あれは滅多にあることじゃないから」
「そうだとおっしゃってたね。あの、獻瑪にはなにかわかることがあるのでは?」
「ぇ、なんで」
「さきほどの――呪術とおっしゃいましたが、あれは再生術だょね。わたし、いちぶしじゅう見てた。それに、他の町人の方との反応がちがう。だれも近づけぬところへ、あなたは自らむかっていった」
勇ましい御姿だったょ。
という言葉に獻瑪は思わずでれっとした。
「わかることがあるなら、教えてください。今日のことは父の耳にもすでに入っているでしょうが、わたしにもできることはしたいのです」
獻瑪は、迷いながらも口を開いた。癒簾に言ったところで、状況を変えられるとは思わないが、かと言って知りたがっているものを無下にするのは可愛そうだと思った。
「熄俎は知ってるよね」
癒簾は肯く。まどろっこしいが、鬼の存在に気づいた要因である爪のことはあまり話したくないので、鬼のことを伝えるにはこの方向からしかない。
「日、または月の光が失われる日だょね」
「じゃあ、大熄俎もわかるよね」
「はい。この世の一切の光が闇に呑まれるひととき」
「そう。それじゃあ、熄俎のときには、天の加護が弱まるのは?」
「知ってるょ。天狗の王となった者には天からの御加護、特に守護が与えられ不死となるのだけど、」
「そうなんだ」
「その守護は大熄俎の間は消えてしまうの。だから大熄俎には気を付けろと父にきつく言われてたょ」
獻瑪はあ然とした。
「その、熄入りの日が今日だって知ってる?」
癒簾は、きょとんとしている。
「熄入りって、大熄に向かう十日前のことだょ」
「そうだょ。そんで、今日がその十日前」
「大熄って、十年に一度だときいたけど」
「だから、今年がその十年に一度の年」
「あら、」
「あら、じゃないよ。そんなときに城を抜け出してきたらまずいだろ。熄入りから守護はどんどん弱くなっていくんだろ」
「ええ。でも、わたしは王位を継承しているわけでないのであまり関係ないかな。守護をもつのは父だけだから」
「なに?」
「守護は王将にしか与えられぬものなのだょ。だから、わたしには守護がないの。でも、璃石がいるから大丈夫」
にこりと癒簾は笑って言う。
「でも、大熄の年が今年だったなんて、気づかなかった。ということは、城の結界も弱くなっているのだょね。だったら、城にいてもいなくても同じってことだから、わたし城に戻らなくてもいいかな」
一国の姫が結界のあるなしで城に戻らなくていいということにはならないと思うが、なにか事情がありそうだ。
「なんで、戻りたくないの?」
獻瑪が訊くと、癒簾は少し口を尖らせた。
「だって、今戻ったらきっと危ないからってまた部屋に閉じ込められちゃう。わたし、そんな窮屈な生活はもういや。それに、町で困っている人を助けてあげたいの。今の話でわかったのわたし」
癒簾が獻瑪をまっすぐに見て言った。大きな瞳に長いまつげ、瞳が潤んでいるのはいつものことだが、その中にははっきりと強い意志がうかがえる。
「守護の弱まるときを狙って人間を襲って食べるなんて、鬼の仕業に違いない」
驚いたことに、的を射ている。
「鬼のことはよく勉強したの。王家の御先祖さまが、その守護を盾に、闇に通じる力を借りて鬼を地の底に封じ込めたんだって。それからもう何千年もたっているもの。きっと封印も弱まって、鬼が復活したのね」
「そこまでわかっていて、わざわざ危険な町の中にいるの? 熄入りしたとはいえ、結界はまだ有効なんだ。姫様は城に戻ったほうがいいとおれは思うんだけど」
だが癒簾はにこりと笑ってだが請け負わない。
「獻瑪は優しいのだね。でも、わたしはもう決めたの。城には戻らないよ。獻瑪も、手伝ってくれるよね、鬼退治」
「おれ!?」
声が裏返ってしまった。冗談ではない。いや、もともと鬼を探してはいた。いたのだが、町屋での惨状に完全にビビっている。
「鬼退治って簡単に言うけど、そんな桃太郎さんみたいにうまくはいかないよ。やっぱり相手にするなら沢山兵を呼んできて――」
「そういうのは父がするから。わたしはわたしなりのやり方で町の人をたすけたいの」
「それはさ」獻瑪はこめかみを掻きつつ、言った。
「ただの姫様のわがままなんじゃないのかな」
「わがまま?」
癒簾は傷ついたような顔をこちらに向けた。
「ごめん。だけどやっぱり、危険なことなんだよ。癒簾が町の人のことを思う気持ちはわかるけど、でも、ただやりたいって気持ちだけで行動するのは他の人に迷惑をかけることにもなる」
癒簾はしゅんとしてしまった。だが、癒簾の命にかかわることなのだ。これだけは言わなければいけない。
「癒簾は、いずれ国をしょって立つ身なんだろう。王が、癒簾を町に出してくれないというなら、今はまだそのときじゃないんだろう。癒簾が町に残って、それで助けられる者もいるかもしれない。だけど、何の考えも備えもなしに無茶なことをしようとすれば、かえって町の人を危険にさらすことにもなりかねないんだよ」
もし町に癒簾がいて危機が瀕したら、兵たちは誰を差し置いても、
癒簾を助けようとするだろう。その影に、犠牲となってしまう者がいるかもしれない。
「だから、帰ろう城へ。おれも、癒簾ともっと一緒にいたいけどさ」
「……確かに、そうかもしれない。ごめんなさい、世間知らずで」
「いいんだよ、わかってくれれば。明日になったら、城の近くまで送るからさ。今日は風呂に入ってゆっくり休もう」
相手は姫だ。これが最後の一夜になろう。ならば、今夜のうちにムフフなことをしておかねばなるまい。
「ムフフ……」
と、妄想を膨らませているといきなり後ろ頭をどつかれて、振り向くとかげが立っていた。
「なんだよ、お前。あれ、癒簾は?」
部屋を見回すが癒簾の姿が見えない。
「おぬしが風呂へ行けと言ったのであろう」
「あ、流石に風呂まではついていかないんだ」
「行く」かげはムスっとしたようすで答えた。
「え、行くの!?」
「かたときも影は姫の側を離れぬものだ。だが、残念なことに、影に入っている間は外の世界は砂絵のようにしか見えぬのだ」
「つまり、白黒?」
「ほとんど黒だな。輪郭がおぼろげに白く見える程度だ」
「それもまたいいじゃねえか」
「初めはよいが、もっとはっきりと見たくなるものぞ」
かげは腕を組んで、肯いてみせた。そんな難しい顔をするようなことでもあるまいに。かげは突然我に返ったようすで、
「って、何を言わすかこの不届きものめが」
「驚くよ! なんだその逆ギレ。てめえが勝手に言ったんだろうが。ていうか、なんでお前ここに残ったんだよ」
「おぬしが鼻の下伸ばしてムフフと笑っておったからだ」
「どういうこと?」
「のぞくつもりであったろう」
「ば! か、そんなことおれがするかよ。おれはこれでも開放的なスケベなんだ。のぞきをするのはてめえみたいなムッツリだろうが」
「む! っつりとはいささか無礼な」
「第一、おれがのぞきをしそうだとどうしてお前がここに残ることになるんだよ」
「姫の影に入ってしまっていたら、おぬしの覗きに気づき阻止せんとしたとき、姫の裸を見ることになってしまうであろうが」
「おいしいじゃねえか」
「おいしいよな。はっ! ば、ばかもの! 俺はおぬしとは違うのだ。断じてそのようなことができるか」
「その年で何言ってんだか。おれとあんまりかわらないだろ。女の身体を知らないわけでもあるまいし。それともドーテー?」
「おぬしに答える義理はないわ。大体、ちゃらちゃらしたおぬしの考えが基準になると思うなよ」
「あ、なんだよそれ。おれのどこがちゃらちゃらしてんだよ」
「ちゃらちゃらしているうえにちゃらんぽらんではないか。このちゃら男め」
「誰がちゃら男だ! お前なんかド変態じゃねえか」
「なんだと。褌ぶら下げて平然と城下を歩き回るおぬしにだけは言われたくないわ」
「それには理由があるんだよ」
「どこに褌ぶら下げて歩く公然とした理由があるというんだ」
「おぬしに答える義理はない」獻瑪はかげの言い方を真似て舌を出した。
これでやりこめた! と思ったが、かげはふっと哀れみの表情を浮かべて言った。
「よいのだぞ。趣味は、人それぞれ。そういう性癖も中にはあろう。俺は否定せぬよ」
「な、てめえ、なんかむかつく! だから違うって言ってんだろうが!」
いよいよ埒の開かなくなったとき、廊下のほうで騒然とする気配があった。女性の悲鳴のようなものが聞こえたのだ。
獻瑪とかげが顔を見合わせ、かげは顔色をかえて部屋を飛び出した。獻瑪も後を追う。どうやら、騒ぎは大風呂のほうだ。
「しまった」
かげは風のような速さで廊下の先へ走り抜けていき、一瞬で姿が見えなくなった。
獻瑪が遅れて風呂場へ駆けつけると、目を疑う光景がそこにはあった。
「ここは、雨の日の池か何かか?」
と、見紛うほどの大量の蛙が伸びたかげの周りを飛び跳ねていた。外に通じる窓は割られて風が吹き抜けている。
残念ながらそこに裸の女はいなかった。皆逃げてしまったのだ。いや、そんなことを残念がっている場合ではない。
そこから、癒簾の姿が消えていたのだ……。
町は夜でも、立ち並ぶ灯りにともされて明るい。だが、髷も整え、着流し姿で歩く獻瑪のことを、昼間の褌屋と気づく者はいなかった。二、三人、褌を売りつけた者とも近くですれ違ったが、まるで気づかずに通りすぎたので、獻瑪は完全にほっとしていた。
「もうすぐだよ」
ご機嫌で、鼻唄をうたいながら癒簾を店へと案内しているときであった。
「キャアアアアアアアアアアアアア」と、裏通りの方から女性の悲鳴が聞こえてきた。
「大変。なにごとかな」
癒簾は、止める間もなく声のしたほうへ走っていってしまった。野次馬というよりは、正義感なのだろう。さすが、姫といったところか、だが獻瑪にとっては「冗談じゃねえよ」である。
厄介ごとに巻き込まれるのは御免だと、反対方向へ立ち去ろうとしたところをいきなり足首を掴まれ、「ぎゃっ」と地面へ倒された。
「おい、やめろ」と言うのに、獻瑪はそのままずるずると足をひきずられていく。かげの仕業だ。
「なにすんだよ、てめえ」
と喚いたころには既に現場に着いていた。人だかりができ始めている。一軒の家を取り囲んでいた。ごく普通の農家だ。その粗末な長屋の入口に、癒簾が立ち尽くしていた。目は見開き、口に手を当てて驚いている。
獻瑪は仕方なく、癒簾の側へ寄った。血生臭い。嫌な予感がする。
「どうした」
声をかけ、だが、答えを聞く必要はなかった。
家の方を振り向くと、そこには人間の食い散らかされた痕が残っていた。
「うっ」獻瑪はその悲惨な光景にたちまち吐気を催して、こらえきれず道端に吐いた。癒簾はよく耐えているものと思う。
なにしろ、部屋中に肉片が散らばっているのだ。ほとんど白骨の死体があって、その側に目玉が二つ転がっている。その周りには、肉の小片が喰いちぎられた着物と共にところどころに散らばっていて、壁や床いたるところ血まみれであったのだ。
人間の仕業じゃねえな。と思うのと、右の小指の爪が疼くのとは同時であった。
鬼か――。
獻瑪に戦慄が走った。
恐らく、これは使い鬼が人間を喰った痕であろう。使鬼は目玉を喰わぬと習った。だが、実際に使鬼に襲われた残骸を目にするのは初めてであった。文献で読んだのと同じ惨状ではあるが、そのむごさに受ける衝撃は想像以上のものだった。
おれは、こんなやつらを相手にしようとしていたのか。
使鬼に心はない。
躊躇を知らぬ相手に、ためらってばかりいる自分の術が通じるものなのか。獻瑪は途端に自信がなくなった。
そのとき、人垣をかきわけて血相かえて跳び出してきた子どもがいた。八つくらいであろうか。
「母ちゃん! 父ちゃん!」
泣き叫んで、家に近寄ろうとするその子どもを、側にいた者たちが押しとどめていた。
断じて、親のあのような姿を見せられない。
獻瑪は、子どもを見た。日焼けした、活発そうな男の子だ。目がくりっとしていて、眉は凛々しい。どこにでもいる、普通の子どもだ。だが、この瞬間、子どもは普通の日常を失ったのだ。当たり前のようにいた母、父は、鬼に喰われてしまった。家の前には竿があった。長いのと短いの、二本。親子で、よく釣りにいったのかもしれない。それももうできなくなる。
失われた、奪われたものの大きさを思い、獻瑪は唇を噛んだ。かつて、同じような思いに捕らわれたことがある。その人の幸せを蝕む黒い塊の処理の仕方を、少年もいつかは学ぶであろう。だが、そうして生きていくことはできても、失われたものは決して戻ってはこない。深く傷ついた心は、癒えても傷痕を残す。
そういう、取り返しのつかぬことをもたらした鬼が、許せなかった。
だが――おれにできることは、なにもない。
獻瑪は、家の裏へ回った。長屋の取り囲む、共同の井戸端に、今はだれもいない。ただ、月影だけが揺らめいている。
獻瑪は、井戸から水をすくって己の身にかけた。
頭から、何度も何度もかけて頭を冷やした。口を漱いだ。冷たい井戸の水に、身体が冷え切ったところで、獻瑪は桶を捨て、表へ戻った。
癒簾は、子どもをなだめているところであった。
獻瑪は、それには声をかけずに惨状の広がる家の中へと入った。空気は乾燥しているはずなのに、じめっとした匂いがそこに立ち込めている。まるで、死にきれぬ父と母の魂がそこにさ迷っているかのようであった。
獻瑪は、二つの白骨の間に両膝をつき、爪先はたてたまま手近の肉片を拾った。
胸を突くような痛みが獻瑪を襲う。肉に残った思いが、獻瑪の中へ流れてくるのかもしれなかった。
「ごめんな。おれには、ただ肉体を繕うことしかできねえんだ」
獻瑪は、白骨に手をかざし、肉片を額の前に掲げ、呪文を唱えた。
次第に、肉片はずずとあつまり、白骨に投げつけられたように張り付いていく。
ほとんどは喰われてしまった。内臓など一つも残っていない。だが、それでも見た目だけは元のように戻せる。その者の顔を知らずとも、それは身体が記憶しているから。
今、名も知らぬ男と女は、徐々に生前の姿を取戻し初めている。
それも、鬼導術。
かつての使鬼は骨をも喰っていったという。弔う物のない悲しさに耐えきれず、鬼導師たちはわずかな肉体の破片からでも、その姿を再生できる術を編み出したのだ。ただの慰みに過ぎない。それでも、すがりたかったのだ。
獻瑪の腕ならば、髪の毛一本あれば元の姿を取り戻すことができる。これだけ骨も肉も残っていれば、再生は困難ではない。
ほんの、握り飯一つ食べるほどの時間だけで、今獻瑪の目の前には、二人の男女が並んで寝転んでいる。一人は仰向けに、もう一人はそれをまもるかのようにうつぶせに倒れている。
衣類までは、元に戻せない。流された血の痕を、消すこともできない。
獻瑪は、男女に投げ出されていた夜具をかけてやり、自らの着物の袖で壁に飛び散った血を拭い始めた。
他に布があるのをちぎって使えばよいのに、そこまで、頭がまわらなかった。
こすっても、血はなかなか消えなくて、悔しくなった。涙が、溢れてくる。
成人してもう随分たつのに。大の大人が、泣くなんて。でも、止まらなかった。悔しくて悔しくて、仕方がなかった。
「どうして、どうして消えないんだよ」
壁を叩いたって、消える訳じゃない。傷痕が、血の痕が消えるわけじゃない。
知らず、かつての自分に重ね合わせていた。
なんで、こんな目に遭わなきゃいけないのか。人間はなんで鬼なんかに怯えていきなきゃいけないのか。
あの子どもが何をしたというのだ。おれが、何をした。璃石が、何をしたっていうんだ。
「獻瑪」
癒簾が呼んでいると気づいたが、振り向けなかった。
会ったばっかりで、こんな情けない顔見せられない。
でも、考えてみれば、癒簾には情けない姿しか見せてない。
「なかなか、消えねえな」
振り向いて獻瑪が笑顔を作ると、癒簾は首を振った。
「あとは、わたくしが」
かげが癒簾の足下から出たかと思うと、一瞬にして家の中を黒い壁が包み込んだ。それは、目隠しであろう。術をかけるのは癒簾だ。
天井も、床もまっ黒くなったかと思った瞬間、癒簾の聞き取れぬ言葉が響いて、光が散った。
次の瞬間、獻瑪は知らぬ場所にいると思った。だが、それはさっきと同じ場所であった。
目の前には男女の遺骸がある。だが、今はきれいな顔をして目を閉じている。その周りに飛び散っていた血は、跡形もなく消え去っていた。
「これ、癒簾が?」
癒簾は肯いた。笑んではいない。
「今は、これくらいしかできませんが。もう、このような悲劇はおこしません」
「癒簾――」
獻瑪は、癒簾、という女性を今ここで初めて見た気がした。
癒簾は、強いひとだ。
幸い、子どもには親戚がいた。丁度、その親戚の家に子どもは預けられていて難を免れたのだという。それが幸か不幸か、獻瑪にはわからなかった。
その後、駆けつけた親戚に癒簾はいくばくかの金を渡して、獻瑪と共にその場を去った。
それから、目当ての飯屋に入ったものの、当然のごとく箸は進まない。というのは、常識人である獻瑪だけで、癒簾の方は箸が進み過ぎるほど進んでいた。
「よ、よく食べるね」
「食べなきゃやってられないょ」
頬に食い物をいっぱいにつめこみながら、癒簾はぐびぃっと相撲取りが飲むような大きさの盃を傾けて酒を覆った。
「よ、よく飲むね」
「飲まなきゃやってられないょ」
「にしても、」と獻瑪が苦言を呈そうとしたところへ、店の主人がやってきて、「もう食材も酒も使い果たしました」帰ってくれと、なきついてきた。
無理もない、皿は洗うのも間に合わずにうず高く何本にも積み上がり、皿が足りなくなったら調理したてのものが鍋ごとでてきた。酒は酒で、樽ごと飲んで飲み干した。
それも、癒簾一人でだ。獻瑪は、ほんの一合酒を飲んだだけだし、闇天狗はものをくわないらしく現れていない。
「それで、お支払いの方なんですが、」
「おう」獻瑪は主人が持ってきた伝票を見て、卒倒するかと思った。見たことのない桁がそこには連なっている。
「ははははは」こういうとき、人はとりあえず笑ってしまうものらしい。「おうおう。ちゃんと払うから心配すんな」とりあえず、そう言った。
「左様ですか。では、お帰りの際にお呼びください」
店主はほっとしたように笑顔をつくると、下がって襖を閉めた。
獻瑪は無意味に楊枝を噛みながら、「ところで、癒簾いくらもってる」
と、最後の酒を煽っている癒簾に、今更ない恥を忍んで、聞いた。
「おかね?」
「そう、金」
「無一文だょ」
「そうか。無一文か」あと、いくら足りないかな、と考えて全額足りていないことに気づいた。
「無一文!? なんで!」
「わたくし、先程の子どもに有り金すべて渡してしまいました」
「っまじで!?」
「ええ。思い余って」
「いやいやいやいや。気持ちはわかるけど――」
獻瑪は伝票に目を落とした。どう転んだって足りやしない。っていうか足りるわけねえだろっていう額である。どうしたものか。逃げるしかない。
獻瑪はさっと立ち上がった。
「じゃ、おれはこれで」
と立ち去ろうとする獻瑪は足をすくわれつんのめり、こともあろうに壁の柱に鼻をぶつけた。
「いってえな、てめえは! さっきから足をいきなり掴むのはやめろ!」相手は、かげとわかっている。
「一国主の姫君に、お前は食い逃げをさせる気か」
と、影の中から低い声が聞こえる。
「ち」
獻瑪は舌打ちしてあぐらをかき、後ろ頭をかいた。
姫の命がなければ動けない者かと思えば、決してそうではないらしい。
「だって、仕方ねえだろうが。ねえもんは、ねえんだよ」
「ならば身体で払え」
「いやらしいこと言うやつだな」
「いやらしい意味で言ったわけではない。労働せよと申しておる!」
意外にもかげは普通に話のできるやつらしい。いや、姿を見せぬので普通とは言い切れないか。だが、姫様よりは常識が通じる。
「労働ねえ。おれ、そういうの苦手で」
獻瑪はゴロンとその場で横になった。
こういう危機はこれまでにも何度かある。大方走って逃げる、で解決してきたのだが、確かに姫が一緒となるとそうもいかない。
「心配しなくともよいょ」
獻瑪が脇をぼおりぼおりとかいていると、癒簾が樽酒と牛一頭ほども食いきったとは思えぬ涼しい顔でほほ笑んだ。
「かげに使いを出してもらい、おかねを届けてもらいましょ」
「おお。ほんとに、助かるよ」
獻瑪はパンと手を叩いて起き上った。
「けれど、かげの使いは鳥目で」
と、癒簾は影から出てきた鴉を手にのせながら言った。
鳥目というか、鳥じゃねえか。と思うが、獻瑪は相手にしないことにした。本気で言っているのだから、癒簾のぼけはボケでなく、つっこむ必要はない。こちらが疲れるだけだ。
「ただの鴉ではないので、闇夜でも飛べることは飛べるのだけど、少し時間がかかるの。戻ってくるのは今日の夜中か、明日の朝になるやも」
「そっかあ。じゃあ、それまで待ってないとだね」
「よいではありませぬか。ここはお宿でもあるみたいだし、このまま泊まってしまおうょ」
「え♪」一瞬にして広がる妄想に、途端に顔がニヤけてしまう。
「姫!」慌てたのはかげだった。
「何を言っておられる」
「どうしたの? かげから話しかけるなんて珍しいね」
影、というより床から頭だけ出した生首のかげはうわずった調子で言った。
「影は姫君のなされることに口を出してはならぬ決まり。ですが、あまりにも奔放でございます。殿方と一夜を共にするということは、つまり、その、あの、しかるべき情事がおこる可能性がありましてですね、それは、姫君として、いとはしたなき行いかと思われる次第でして、やんごとなき姫君におかれましては、あの、その、よろしからざるべくこととお思いになるのですがいかが」
「情事ってなあに?」
癒簾はきょとんとした顔で首をかしげる。
「じょうじとは、その、いろごとのことで」
「いろごとって?」
「いろごととは、男女のそのむつみあいと言いますか……」
かげの眼がぐるぐるとまわっている。と、そこで姫様は閃いたようにポンと手を叩き、明るくさっぱりと言った。
「ああ。まぐわいのことね」
「まぐ」
あえなく、かげは沈没したかと思うと、いきなり影から飛び出てげらげら笑っていた獻瑪の襟を締め上げてきた。
「おぬしからやめろと申すのだ。姫は俺の言うことはきかぬ」
小声でひそひそとかげは言ってきた。が、
「そんな怖い顔してもだめだよ。ああいう子は、だれが言ったってこうと決めたら動かないでしょう」
獻瑪の下心は見え見えらしく、かげは益々怖い顔をして獻瑪の首を締め上げた。
「ぐえっ。く、くるしい。しむ」
「姫様に妙なことをすれば、本当に殺すからな」
本当に殺す気ならばとっくに殺しているだろうと思いつつ、癒簾の影の中へもどっていくかげを見ていた。
なんだか、じゃれ合うこの感じ――前にもあったような気がするのだ。周りに振り回されるあの人の良さ、生真面目で、美男でもあるのだが決めきれない三枚目なところ。よく似たやつを、獻瑪は知っている。
璃石が、大人になっていたらあんな感じだろうかと思う。
ズキンと、爪が痛んだ気がした。だがそれは気のせいで、今痛いのは胸の奥だった。
璃石のことを思いだしてしまった。璃石に、会いたい――。
璃石は、今頃どうしているだろうか。やはり、まだ眠ったままなのだろうか。それでも、身体は成長するのだろうか。
だが、獻瑪は眠る璃石を目の前にして、なぜかそこに璃石はいないと思ったのだ。
今思い返しても、どうしてだかわからない。だが、あれはただの抜け殻だと、そう強く感じた。
ならば、中身はどこに行ったのか。
そういえば、右の爪の鬼は璃石の置き土産であったはずだ。鬼導術で与えてくれたもの、だがあのとき、璃石は隣に倒れていなかったか? ならば、この爪をくれたのは、璃石でなかったのだろうか。記憶は年月とともに曖昧になってきている。あのとき、二人の璃石がいた?
闇天狗は、あのとき仕方ない、というようなことを言わなかっただろうか。
癒簾は、今起きたことなど忘れたようすで、鴉を窓の外へ放っていた。
闇夜を飛べる鴉。それと共に、闇天狗は現れたのだ。
そして、璃石を奪った。奪った。だが、璃石は生きていた。息をしていた。だが、あれは抜け殻だった。では、闇天狗が奪ったのは、璃石の中身?
「魂――」獻瑪は呟いていた。
そうだ。闇天狗は、璃石の魂だけを奪っていったのだ。
どうして今までこんな簡単なことに気づかなかったのだろう。それは、目をそらしていたからだ。まともに向き合って、考えるのが怖かったのだ。
母は言ったではないか。獻瑪が璃石を助けたと。獻瑪があの闇天狗の妨害をしたから、璃石の魂が、わずかに璃石の身体へ残ってしまったのかもしれない。
そうなら、本当に璃石を助けることができるかもしれない。
「闇天狗は、奪った子の魂をどうするんだ」
璃石の魂をすべて返してもらえばいい。そうすれば、璃石は蘇るはずだ。
「え?」と振り返ったのは癒簾だけで、じれったくて獻瑪はそのままかげへ呼びかけた。
「おまえら闇天狗は、奪った魂をどうするかって聞いてるんだよ。大切なことなんだ、答えろ!」
癒簾が、獻瑪の剣幕に驚き、かげへ現れるように言った。
畳の上へ現れたかげはひざをつき、癒簾の前に頭を垂れている。
「獻瑪があなたに聞いてる。答えてあげて」
癒簾に促されると、かげはわずかに顔をあげ、頭巾からはみでた長い前髪の間から獻瑪をねめつけた。
「奪うとは無礼なことを。闇天狗は己らで生み出した魂を影と融け合わせその形を作るのだ。魂は闇天狗となる」
魂を影と融け合わせてその形を作る。魂は、闇天狗となる。
「ってことは、璃石も闇天狗に――」
聞かせようと思って言った言葉ではなかった。ただ、口をついて出ていたその言葉に、かげの目が見開いた。気が、した。気のせいか、かげはもう無表情に戻っている。
「璃石ってだれ?」
癒簾が獻瑪とかげの顔を交互に見て言った。
獻瑪には答える余裕がない。
かげは「存じ上げません」と言ってさっさとかげに戻ってしまった。
「前髪長えんだよ、あいつ」
そのせいでわずかに覗く眼さえもよく見えない。表情がわからない。何を思って、何を考えているのか。だが、かげは璃石という名に反応しなかったか? もしかしたら、かげは璃石のことを知っているのかもしれない。それでああいう態度をとるのだとしたら、仲間のことは他言してはいけない決まりでもあるのか。
それとも、かげが――。
そうだ、ともちがう、とも今は言いきれない。
まあ、焦らないほうがいい。ああいう頑固者は追求されれば余計に固く口を閉じるものだ。やっと、手掛かりを掴んだのだ。それに、璃石の弱点は大体わかった。
獻瑪はニヤリとして杯に残っていた酒を煽った。
「獻瑪は、闇天狗に詳しいんだね」
料理を平らげてしまったので、癒簾が手持無沙汰に渇き物をガジガジと噛みながら言った。ホタテの貝ひもを伸ばして乾かしたもので、旨い。
「そう?」
「りしってだあれ? りしって人が、闇天狗に魂を奪われたの?」
獻瑪は目を瞠った。
見かけによらず聡い。
「いや、」隠すことでもないのだが、口に出すには重い。
聞かれたくないこととわかったのか、癒簾は話題を変えた。
「さっきの術もすごかったね。獻瑪は、ただの褌屋さんじゃないね」
だがこちらの話題も歓迎できない。
それを承知で訊ねているのか、癒簾のようなものはこういうときに読めない。
「まあ、昔とった杵柄っていうか」我ながら爺臭いことを言う。よくよく動揺している証だ。
「呪術の一種だよ」獻瑪は気を取り直して笑った。
「それを言うなら、癒簾の術も凄かったじゃないか。おれ、天狗の妖術を見たの初めてだよ」
「ぁぁ、」癒簾は褒められたことに何故か心苦しいような表情をしてうつむいた。
「わたしはまだまだだょ……」
その癒簾の気持ちは痛いほどわかった。獻瑪も自分の無力さには辟易している。
「でも、そんなこと言っていられないょ。もう、誰も泣かせない。今日のようなことはもう、絶対に……」
獻瑪はその言葉に胸を打たれた。
当たり前だ。癒簾だって、気にしていない訳がなかったのだ。だが、切り替えてもう前を見ていたのだ。鬼に親を喰われた子どもの不幸を、いたずらに悲しんで嘆いていただけでは何の解決にもならない、うかうかしているうちに、また次の犠牲者が出る。
「いったい、だれがどうしてあのようなひどいことをするのかな」
獻瑪にはわかっていることだった。
あれは、鬼の仕業だ。
教えるべきか、否か。
姫、とはいえ、所詮姫、なのだ。
真実を知ったところで小娘に何ができよう。鬼と対峙するとなれば、それなりの準備も覚悟も必要になる。今、鬼がどれほど力をつけているかもわからない。居場所もわからない。なにしろ闇の申し子だ。隠れることにかけては、天をも欺く才を持つ。
姫が知らぬということは、きっと天狗の王もその復活を知らないのか。
絶望に似た気持ちが胸を渦巻いた。姫に伝え、王にしかるべき対応をしてもらうべきだろう。だが、なにかそう簡単にはいかぬような気がしている。ただの勘でしかないが、獻瑪の勘はよくあたる。
それに――鬼が復活したのは、獻瑪の知る限り十年以上も前のこと。そのときに、天狗は無能だった。少なくとも、獻瑪にはそう思えた。天狗は、なにも助けてくれなかったのだ。
それは、天狗が鬼の復活を知らなかったから。
知らないことさえ罪と思わずにはいられないが、知っていて放念したのだとはもっと思いたくない。
しかし、あのときは天狗が鬼の存在に気づいていなかったとしても、鬼が世に出ずにずっと隠れ続けていた訳ではないのだ。いや、出てきたのは使鬼だけではあるが、使鬼を操れるのは鬼だけと、天狗が知らぬはずもない。
やはり、天狗は鬼の復活には気づいているだろう。知らぬのは姫だけだ。
僻遠の地とはいえ、宇秧島の少年が知っていることを世の王将である天狗が知らないとはどうしても思えないのだ。天狗は、人間にとっては、限りなく神に近い存在なのだ。間違いがあるはずのない存在だと、人間は信じている。
「ああいうことは、よく町では起こることなの?」
ふと、癒簾がおおまじめな顔をして聞いてきた。
「え? いや、ないけど」
「そうだょね。いぇ、わたしは今日生まれて初めて城から出たので」
「ああ、そうなんだ」そういえば、「なんで町にいたの? 供もたった一人だけで」
「かげがいれば百人力だょ」と癒簾は笑ってから答えた。
「ずっと、城の外へは行ってみたかったの。町の様子は、教書や教師から話に聞いてぃたけど、聞けばきくほど行ってみたくなって。それに、いずれはわたしもこの国を背負って立つ身でしょ。ならば、その国に住む民の暮らしを知っておくことも必要かと思ったのです」
「あー、よくある話ね。でも折角遊びにきたのに、あんなところに出くわすなんて、ついてなかったね」
「ぃぇ、逆だょ。良いことばかりであるはずがないもの。町の、あらゆるもんだいを見つけるためにわたしは町に出たの。だから、ああいうことがあるんだと知れてよかった」
「そっか。でも、あれは滅多にあることじゃないから」
「そうだとおっしゃってたね。あの、獻瑪にはなにかわかることがあるのでは?」
「ぇ、なんで」
「さきほどの――呪術とおっしゃいましたが、あれは再生術だょね。わたし、いちぶしじゅう見てた。それに、他の町人の方との反応がちがう。だれも近づけぬところへ、あなたは自らむかっていった」
勇ましい御姿だったょ。
という言葉に獻瑪は思わずでれっとした。
「わかることがあるなら、教えてください。今日のことは父の耳にもすでに入っているでしょうが、わたしにもできることはしたいのです」
獻瑪は、迷いながらも口を開いた。癒簾に言ったところで、状況を変えられるとは思わないが、かと言って知りたがっているものを無下にするのは可愛そうだと思った。
「熄俎は知ってるよね」
癒簾は肯く。まどろっこしいが、鬼の存在に気づいた要因である爪のことはあまり話したくないので、鬼のことを伝えるにはこの方向からしかない。
「日、または月の光が失われる日だょね」
「じゃあ、大熄俎もわかるよね」
「はい。この世の一切の光が闇に呑まれるひととき」
「そう。それじゃあ、熄俎のときには、天の加護が弱まるのは?」
「知ってるょ。天狗の王となった者には天からの御加護、特に守護が与えられ不死となるのだけど、」
「そうなんだ」
「その守護は大熄俎の間は消えてしまうの。だから大熄俎には気を付けろと父にきつく言われてたょ」
獻瑪はあ然とした。
「その、熄入りの日が今日だって知ってる?」
癒簾は、きょとんとしている。
「熄入りって、大熄に向かう十日前のことだょ」
「そうだょ。そんで、今日がその十日前」
「大熄って、十年に一度だときいたけど」
「だから、今年がその十年に一度の年」
「あら、」
「あら、じゃないよ。そんなときに城を抜け出してきたらまずいだろ。熄入りから守護はどんどん弱くなっていくんだろ」
「ええ。でも、わたしは王位を継承しているわけでないのであまり関係ないかな。守護をもつのは父だけだから」
「なに?」
「守護は王将にしか与えられぬものなのだょ。だから、わたしには守護がないの。でも、璃石がいるから大丈夫」
にこりと癒簾は笑って言う。
「でも、大熄の年が今年だったなんて、気づかなかった。ということは、城の結界も弱くなっているのだょね。だったら、城にいてもいなくても同じってことだから、わたし城に戻らなくてもいいかな」
一国の姫が結界のあるなしで城に戻らなくていいということにはならないと思うが、なにか事情がありそうだ。
「なんで、戻りたくないの?」
獻瑪が訊くと、癒簾は少し口を尖らせた。
「だって、今戻ったらきっと危ないからってまた部屋に閉じ込められちゃう。わたし、そんな窮屈な生活はもういや。それに、町で困っている人を助けてあげたいの。今の話でわかったのわたし」
癒簾が獻瑪をまっすぐに見て言った。大きな瞳に長いまつげ、瞳が潤んでいるのはいつものことだが、その中にははっきりと強い意志がうかがえる。
「守護の弱まるときを狙って人間を襲って食べるなんて、鬼の仕業に違いない」
驚いたことに、的を射ている。
「鬼のことはよく勉強したの。王家の御先祖さまが、その守護を盾に、闇に通じる力を借りて鬼を地の底に封じ込めたんだって。それからもう何千年もたっているもの。きっと封印も弱まって、鬼が復活したのね」
「そこまでわかっていて、わざわざ危険な町の中にいるの? 熄入りしたとはいえ、結界はまだ有効なんだ。姫様は城に戻ったほうがいいとおれは思うんだけど」
だが癒簾はにこりと笑ってだが請け負わない。
「獻瑪は優しいのだね。でも、わたしはもう決めたの。城には戻らないよ。獻瑪も、手伝ってくれるよね、鬼退治」
「おれ!?」
声が裏返ってしまった。冗談ではない。いや、もともと鬼を探してはいた。いたのだが、町屋での惨状に完全にビビっている。
「鬼退治って簡単に言うけど、そんな桃太郎さんみたいにうまくはいかないよ。やっぱり相手にするなら沢山兵を呼んできて――」
「そういうのは父がするから。わたしはわたしなりのやり方で町の人をたすけたいの」
「それはさ」獻瑪はこめかみを掻きつつ、言った。
「ただの姫様のわがままなんじゃないのかな」
「わがまま?」
癒簾は傷ついたような顔をこちらに向けた。
「ごめん。だけどやっぱり、危険なことなんだよ。癒簾が町の人のことを思う気持ちはわかるけど、でも、ただやりたいって気持ちだけで行動するのは他の人に迷惑をかけることにもなる」
癒簾はしゅんとしてしまった。だが、癒簾の命にかかわることなのだ。これだけは言わなければいけない。
「癒簾は、いずれ国をしょって立つ身なんだろう。王が、癒簾を町に出してくれないというなら、今はまだそのときじゃないんだろう。癒簾が町に残って、それで助けられる者もいるかもしれない。だけど、何の考えも備えもなしに無茶なことをしようとすれば、かえって町の人を危険にさらすことにもなりかねないんだよ」
もし町に癒簾がいて危機が瀕したら、兵たちは誰を差し置いても、
癒簾を助けようとするだろう。その影に、犠牲となってしまう者がいるかもしれない。
「だから、帰ろう城へ。おれも、癒簾ともっと一緒にいたいけどさ」
「……確かに、そうかもしれない。ごめんなさい、世間知らずで」
「いいんだよ、わかってくれれば。明日になったら、城の近くまで送るからさ。今日は風呂に入ってゆっくり休もう」
相手は姫だ。これが最後の一夜になろう。ならば、今夜のうちにムフフなことをしておかねばなるまい。
「ムフフ……」
と、妄想を膨らませているといきなり後ろ頭をどつかれて、振り向くとかげが立っていた。
「なんだよ、お前。あれ、癒簾は?」
部屋を見回すが癒簾の姿が見えない。
「おぬしが風呂へ行けと言ったのであろう」
「あ、流石に風呂まではついていかないんだ」
「行く」かげはムスっとしたようすで答えた。
「え、行くの!?」
「かたときも影は姫の側を離れぬものだ。だが、残念なことに、影に入っている間は外の世界は砂絵のようにしか見えぬのだ」
「つまり、白黒?」
「ほとんど黒だな。輪郭がおぼろげに白く見える程度だ」
「それもまたいいじゃねえか」
「初めはよいが、もっとはっきりと見たくなるものぞ」
かげは腕を組んで、肯いてみせた。そんな難しい顔をするようなことでもあるまいに。かげは突然我に返ったようすで、
「って、何を言わすかこの不届きものめが」
「驚くよ! なんだその逆ギレ。てめえが勝手に言ったんだろうが。ていうか、なんでお前ここに残ったんだよ」
「おぬしが鼻の下伸ばしてムフフと笑っておったからだ」
「どういうこと?」
「のぞくつもりであったろう」
「ば! か、そんなことおれがするかよ。おれはこれでも開放的なスケベなんだ。のぞきをするのはてめえみたいなムッツリだろうが」
「む! っつりとはいささか無礼な」
「第一、おれがのぞきをしそうだとどうしてお前がここに残ることになるんだよ」
「姫の影に入ってしまっていたら、おぬしの覗きに気づき阻止せんとしたとき、姫の裸を見ることになってしまうであろうが」
「おいしいじゃねえか」
「おいしいよな。はっ! ば、ばかもの! 俺はおぬしとは違うのだ。断じてそのようなことができるか」
「その年で何言ってんだか。おれとあんまりかわらないだろ。女の身体を知らないわけでもあるまいし。それともドーテー?」
「おぬしに答える義理はないわ。大体、ちゃらちゃらしたおぬしの考えが基準になると思うなよ」
「あ、なんだよそれ。おれのどこがちゃらちゃらしてんだよ」
「ちゃらちゃらしているうえにちゃらんぽらんではないか。このちゃら男め」
「誰がちゃら男だ! お前なんかド変態じゃねえか」
「なんだと。褌ぶら下げて平然と城下を歩き回るおぬしにだけは言われたくないわ」
「それには理由があるんだよ」
「どこに褌ぶら下げて歩く公然とした理由があるというんだ」
「おぬしに答える義理はない」獻瑪はかげの言い方を真似て舌を出した。
これでやりこめた! と思ったが、かげはふっと哀れみの表情を浮かべて言った。
「よいのだぞ。趣味は、人それぞれ。そういう性癖も中にはあろう。俺は否定せぬよ」
「な、てめえ、なんかむかつく! だから違うって言ってんだろうが!」
いよいよ埒の開かなくなったとき、廊下のほうで騒然とする気配があった。女性の悲鳴のようなものが聞こえたのだ。
獻瑪とかげが顔を見合わせ、かげは顔色をかえて部屋を飛び出した。獻瑪も後を追う。どうやら、騒ぎは大風呂のほうだ。
「しまった」
かげは風のような速さで廊下の先へ走り抜けていき、一瞬で姿が見えなくなった。
獻瑪が遅れて風呂場へ駆けつけると、目を疑う光景がそこにはあった。
「ここは、雨の日の池か何かか?」
と、見紛うほどの大量の蛙が伸びたかげの周りを飛び跳ねていた。外に通じる窓は割られて風が吹き抜けている。
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そこから、癒簾の姿が消えていたのだ……。
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