闇天狗

九影歌介

文字の大きさ
上 下
14 / 17

ササメ 13

しおりを挟む
●その、三日前の夜


 戸を叩いても、しばらく誰も出てこなかった。
 三度目で、ようやく家の中で物音がした。
 答える声はなく、いきなり戸が開いた。
「どちらさまかね」
 戸の正面に立っていた獻瑪は、もろに母と目が合った。老けた。目尻と、額、それから口の周りにできた皺が、離れていた年月を獻瑪に感じさせた。
 よっ。とか、ただいま、とか。おどけて言うつもりだった。だが、母を目の前にしたら、そんな言葉は一切出てこなかった。
 胸が詰まって、何も言えない。口を開けば、嗚咽しかもれなかったかもしれない。
「獻瑪」
 母が急に相好を崩した。そしてそのまま泣き顔になった。
「獻瑪、よく帰ってきたね。心配したんだよ」
 獻瑪は、母に抱き着かれていた。
「大きくなって。獻瑪、獻瑪」
 考えてみれば、母が泣くことなど滅多になかった。元気な母だった。昔はよく怒鳴られて、殴られたりもした。だから、今度も一発ぐらい頬を叩かれるかもしれないと思っていたのに、それはなかった。
 ただただ自分の名を呼んで泣き崩れる母に、獻瑪は自分が知らぬうちに両親を深く傷つけていたことを知った。
「ごめん、母ちゃん」
 奥歯を噛んで泣いた。迎えてくれる者がいるなんて、思いもしなかった。いや、心の底ではそれを期待していて、ただそれを裏切られるのが怖かっただけなのだ。
「いいんだよ。このバカ息子が」
 母は獻瑪の頭をくしゃくしゃに撫でた。
「父ちゃんも待ってるよ。あれ、そこの可愛いお嬢ちゃんは誰だね」
 母は聞いておいて、癒簾が答える前に「あ!」と声をあげた。
「あんたまさか、噂になっていた天狗様かい。じゃあ、一緒にいた人間ってのが、獻瑪あんただったのか。あんれまあ」
 母はいつもの調子を取り戻していた。拍子抜けした。昔からこんな感じだった。獻瑪はもう少し親子再開の感動に浸りたかったが、仕方ない。これが、母ちゃんだ。
「とにかく、中に入んな。この島じゃ天狗の評判はあんまりよくないからね。さあさ」
 獻瑪と癒簾はせわしなく家に招き入れられ、居間の机の側に座らされた。寒さをしのぐために、床には毛皮が敷き詰められている。その上に足の長い机と、椅子が置いてあるのだ。
「おきゃくさんか?」
 居間の奥で寝転んでいた小太りの男が、こちらを振り返って目を瞠った。父だ。父もやはり老いていた。白髪は増え、顎には髭を伸ばしていた。
「獻瑪。獻瑪じゃないか」
 獻瑪は、「ども」と苦笑いを浮かべた。
「ばかもんが! 今までどこでなにをしておったのだ。生きておったならなぜ連絡をしてこんのだ」
 こちらは、予想通りゲンコツが飛んできた。脳天を襲う父の拳は痛かったが、昔思ったほどの威力はなかった。
「いってえな、いきなり殴ることねえだろ」
「うるさい。父さんたちがどれだけ心配したと思ってるんだ!」
「悪かったと思ってるよ。でも、まあ、帰ってきたんだからいいじゃん」
 獻瑪は父から目をそらし、さりげなく璃石の姿を探した。居間にはいない。訊きたかったが、まだそこまで踏み込めるほど打ち解けてはいない。だが、思っていたようなわだかまりはなかった。もっと、疎外感を感じるものかと思っていた。自分はもうこの家の子ではないと思っていた。だが、ここには、昔と変わらぬ獻瑪の居場所があった。用意されていた。待っていてくれたのだ。
 ゲンコツの痛みも、なんだかありがたいような気がした。
「ありがとな」自然に、そう言えた。だが言ってしまってからやはり照れくさい。
 獻瑪は椅子を引いて座りつつ、癒簾のことを父に紹介した。
「て、天狗様!?」天狗といえば王家であることは浸透している。父は生真面目に、その場で拝礼しようとした。が、癒簾がそれを止めた。
「わたしはただ獻瑪のおともだちとしてまねかれただけなので。どうか、気軽に」
 にこりと癒簾が笑えば、空気が和む。
 父も母も、癒簾にすぐに心を許したようだった。
 久しぶりの母の手料理を食べてから、母が淹れてくれたお茶を皆で飲んだ。
「このぷかぷか浮いているのはなんですか」
 癒簾が湯呑の中を指差していった。茶の表面にいくつも浮かんでいる白い丸のことを言っているのだろう。
「これは、花の油だよ」
 母が答えた。
「お茶に油をいれるのですか?」
「ほら、この島はすごく寒いだろう。だから、熱いお茶を淹れてもすぐに冷めちまう。でも、この花の油を浮かせておけば冷めにくいし、香りもよくなるからね。夏の前の春、雪が薄くなった頃にしか花を咲かせない貴重な花なんだよ」
「へえ。いい香りですね」癒簾は、茶の湯気を吸いこみながら笑った。
「璃石もそれが好きだったよ」ひょんなところからその話は出た。思い出を語るように、母は言った。
「そういえば、獻瑪が捨てられているのを見つけたのも、この花を摘みにいったときだったね」
「そうなんだ」それは初耳である。獻瑪は相槌だけ打って、茶を飲んだ。甘く、爽やかな香りが口の中に広がった。
「獻瑪、」母が改まって獻瑪を見つめた。「あんたは変な負い目を感じていたみたいだけど、母さんいつも言ってたろ。あんたは、うちの子だよ」
 獻瑪は茶を飲んだ。少し、苦味もある。
「けどね、璃石はうちの子じゃなかったんだ」
「おい」
 慌てて制す父に、母は穏やかに言った。
「もう獻瑪だって知っているよ。そうだろ、獻瑪」
「それって、璃石が闇天狗の子だったって話?」
 父は溜息をつき、母は肯いた。
「私らは元々子どもができなくてね、毎日毎日天に子が授かるようにってお願いしていたんだ。そうしたらある日闇天狗が夢枕に立ってね。ひとに聞いていた通りだったよ。子を産み、一人前になるまで育ててほしいとね」
 母は湯呑を包むようにして持ち、茶を一口すすってまた話し始めた。
「私らはそれを引き受けたんだ。そうしてすぐに子が宿った。それが璃石だよ。元気で丈夫な、綺麗な子だった。これが闇天狗の子なのかと、わたしは初め信じられなかったよ。でも、闇天狗の子だったんだ。その証拠に、瞳が瑠璃色だったのさ」
「璃石はわしたちの子だ」
 たまりかねたように父が言った。父は、まだ璃石が奪われたことを納得していないようだった。
「そうですとも。わたしたちの大事な子だよ。でも、もともとは闇天狗に返す約束だった子なんだ」
「しかしあんな奪い方はないだろう。隣村では、誰一人闇天狗が子を迎えにくることなど知らされていなかったらしいぞ。あんなのはただの人さらいだ」
「ねえ、それ、どういうことなの」
 獻瑪は身をのりだした。
「闇天狗が子を人間に授けるには、人間が肯じなければならないんだろ」
「いいや。別に無理やり子を宿すことだってできるさ。今までだって、何度かそういうことはあったし、鬼が闇天狗を支配しているときなんて人間の都合なんて聞いた試がなかったというよ」
「じゃあ、璃石の場合が特別だったってこと?」
「そうみたいだね。わたしも詳しいことはわからないけどさ、闇天狗の中でも、族長ほどの地位にいるひとみたいだったからね」
 獻瑪は、立ち上がっていた。
「どうしたんだい」
「いや、」
 今、わかりかけたものがあった。
 闇天狗の族長という言葉だ。族長、つまり帆蔵だけが天狗に許されて子をなしたのではないだろうか。禁じられていることを、そうそう他の闇天狗に許しが出るはずもない。
 鬼が、闇天狗に自らの糧のために子をつくらせたのだと思っていた。だが、その手引きをしていたのは、帆蔵ではない。別の闇天狗だ。その闇天狗が、帆蔵がもし子を成すことを許されていると知っていたら、その虚に付け込んで同時に子をつくろうと画策したかもしれない。禁じられていることなのだ。平常、そうそう簡単にはできないことである。そこで、得たものか作ったものかはわからないが、この機会を利用した。
 そして、その闇天狗を命に反して大量に生ませたことを帆蔵のせいにしてしまえば……。
「帆蔵って闇天狗は、処刑されたと言ったよな」
 癒簾がけげんそうに獻瑪を見ながら肯く。
「処刑の罪は、――謀叛か?」
 癒簾は首を振った。
「ごめんなさい。くわしいことは……」
 癒簾が知らぬのは仕方ない。だがもしそうだとしたら、帆蔵ははめられたんじゃないのか?
 いや、でも謀反の罪を犯した男の息子を、愛娘の護衛に着かせるだろうか?
 また、わからなくなった。
 獻瑪は、椅子にもどって息を吐いた。
 わかるのは、闇天狗の中に帆蔵を陥れたものがいるかもしれないということ。そしてその者が、王家の滅亡を願っているということ。
 璃石は、なにかとんでもない陰謀に巻き込まれているのではないだろうか。利用されるがために生み出された子であるなら、哀しすぎる。
 誰だ、鬼を蘇らせたのは。
 誰だ、鬼に餌を与えているのは。
 誰が、璃石を苦しめている。
「わからないことが多すぎる」獻瑪は頭を掻きむしった。
「ばかがいくら考えても仕方ないだろうに」
 母が容赦なくそう言って笑った。
「ばかとはなんだよ」むっとして獻瑪が言い返すと、母はにやりと笑った。
「あんたは昔から考えるよりまえに身体が動く子だったろう。そういうほうが向いてるんだ。うだうだ考えてないで、さっさと食って、くそして寝ちまえ」
 こここここ。と、癒簾がおかしそうに笑う。獻瑪は恥をかかされたような気になって、腹を立てて部屋を出た。
 廊下は酷く寒い。床も冷たかった。同じところに立っていられない。だが、その冷たい空気が頭を冷やした。
 獻瑪の推測が正しければ、鬼を蘇らせ、族長である帆蔵を追い落とせるのは、獻瑪の知っている者の中ではあの男しかいないだろう。
 そうだとしたら、猶予はない。
 だが、そいつが継承に気づいていなければあと三日、いや、二日は鳴子天狗が殺されることはないだろう。
 璃石が、それを鬼に告げていなければよいが。
 まだ、機会はある。癒簾は鬼に喰われてはいないし、鳴子天狗もまだ生きているであろう。
 鬼の力は完全にはなりきらぬまま大熄俎の日を迎える。
 その一時だけ凌げれば、なんとかなるかもしれない。
 頭が冴えてきていた。
 今、獻瑪には自分が何をすればいいのか、何ができるのか、はっきりと見えていた。
 力がないのなら、ある力を利用すればいいのだ。獻瑪には、それができる。
 獻瑪は、大きく息を吸って吐き、暖気の籠る部屋に戻った。
「癒簾。あした城へ戻ろう」
 癒簾は何も問い返さず、うんと肯いた。
 獻瑪は微笑んだ。
 不安そうな表情をしている母と父に向けて、胸を叩いた。
「おれは自慢の息子だろ。これでも、一人前の鬼導師なんだ」
「自分で言ってちゃ世話ないね」母が笑って言った。
「本当だな」父も相槌を打って笑う。「だが、お前の腕は認めておる」
 父のくぼんだ瞳が獻瑪を捕えた。
 璃石をあの時救えなかったことを、父はどれだけ後悔したのだろうか。
「ただ、わしの下で大人になってもらいたかったがな」
 父は皮肉を言って笑い、また一つ、溜息をついた。
「守ろう守ろうとばかりして、結局守れなかった。そうして手を離れて戻ってきたと思ったら、ちゃんと大人になっている。子どもとは、いずれにしろそういうものなのかもしれないな」
 子である獻瑪にとって、父の気持ちはわかりにくい。何を言おうとしているのか、よくわからなかった。
「闇天狗は、一人前になった子を受け取りにくる。そう約束したんだ。わしは、まだ璃石が子どもだとばかり思っていた。けれど、十二にもなれば、子は己で考える。己で行動を選べる。一人前だったんだ。璃石はあのとき、自分から闇天狗の下へ帰ったんだ。わしは、見ていたよ。ちゃんと見ていたのに、納得できなかった。裏切られたような気もしていたのだろうな。だが、それはただの執着であったな。親は、子を一人でいきていけるまで育てるのが仕事だ」
 父は、腕にはめていた数珠をはずして獻瑪に渡した。
「我らが束ねる鬼導師の数も少なくなっている。これからは、難しい時代になるかもしれん。それでも、お前は受け取る気があるのなら、これを託そう」
「これは――」
 父は、にやりと笑って「我が家の当主の証だ。まあ、ただの飾りだがな」
 獻瑪はそれを受け取って、右手にはめた。
 もう、そこには小指の先からがない。だが、とるにたらぬものだ。そこを失うことによって、獻瑪はもっと大事なものを得た。
 それを、父も母もまるでわかっているかのように、獻瑪の小指を見ても何も触れようとしなかった。
「鬼導師か」あんなに、無意味な術だと修行を嫌っていたのに。今では当主の証である数珠を腕に据えている。
 不思議なものだと思った。
「行く前に、璃石に会え。あいつは、離れにいる」
 父が、そう言った。
 
しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

異世界転生雑学無双譚 〜転生したのにスキルとか貰えなかったのですが〜

ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:1,250pt お気に入り:34

13歳女子は男友達のためヌードモデルになる

青春 / 完結 24h.ポイント:170pt お気に入り:9

甘い婚約~王子様は婚約者を甘やかしたい~

恋愛 / 完結 24h.ポイント:1,166pt お気に入り:391

片思いの相手に偽装彼女を頼まれまして

恋愛 / 完結 24h.ポイント:3,759pt お気に入り:19

鬼との約束

BL / 完結 24h.ポイント:134pt お気に入り:1

Stride future

青春 / 連載中 24h.ポイント:0pt お気に入り:0

ラブホ

青春 / 連載中 24h.ポイント:0pt お気に入り:0

処理中です...