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ゴールド
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9月に入り、急に涼しくなった。
院長室に呼ばれた。
「石神、入ります!」
「おう、座れ」
院長室の机には、双子の写真が飾ってある。
俺が贈ったものだ。
毎日ゴリラの恐ろしい目に触れているのかと思うと、ちょっと嫌な気分になる。
「実はな、お前が休んでいる間に入院した女性がいてな」
「はぁ」
「末期がんで、余命は一ヶ月ということだ」
「そうなんですか」
そういう患者は常にいる。
麻痺したとは思いたくもないが、やはりまったく動揺はない。
「その患者が何か?」
「うん、実は俺の友人の奥さんでなぁ」
「はぁ」
「できるだけのことはしたいと思っているんだが、どうにもご本人が入院生活に不慣れでな」
「はい」
「お前に何とかしてもらいたい」
「はぁ?」
詳しく聞くと、院長の友人である旦那さんは既に10年以上前に亡くなっており、院長の知り合いということでその奥様が、うちの病院で面倒を見ることになったらしい。
元は埼玉に住んでおられたが、地元の病院からの転院だ。
ペイン治療も充実していることもあって、院長が引き受けたとのことだ。
まあ、治療もしないでただ寝かせて置いてくれる病院はねぇ。
渡りに船ということで追い払われた、というのが実情だろう。
終末医療の病棟は、特別な看護師がつく。
寿命が尽きることを認識した患者は、千差万別の反応を見せる。
中には運命を受け入れられずに、手こずる患者もいる。
院長の友人の奥さんという五十嵐さんも、その一人ということだ。
ベテランのナースがついて対処しているが、どうにもならないらしい。
俺が病棟へ行くと、早速看護師と揉めている場面だった。
「家に帰りたいと言っているのです。何度も申し上げているのに!」
「そのお体では無理です。担当医師の許可を取ってからにしてください」
「ここは刑務所ですか? なぜあなたに私は縛られるのですか」
まあ、よくある遣り取りだ。
「あ、石神先生!」
看護師が俺の顔を見てホッとした顔をする。
「どうも、お邪魔いたします」
「あなたは?」
「はい、医師の石神と申します。五十嵐様がうちの院長の知り合いということで、一度ご挨拶をと思いまして」
「ではあなたにお願いします。私を家に帰してください」
「分かりました。では私が担当医に話して、許可をもらいましょう」
「ほんとうですか!」
「はい。少しお待ちください」
「石神先生!」
「まあ、待てよ。俺が何とかするから」
「はぁ」
「石神先生、僕は責任を取りませんよ」
「分かってるよ。もちろん何かあれば責任は俺だ。院長にもちゃんと話を通すから」
「でも」
「君は必要な機材や薬を手配してくれ。一泊で帰るよ」
「はぁ、分かりました。本当にお願いしますよ」
「ああ、ありがとうな」
俺は担当医を説き伏せ、あの特別仕様車を手配する。
明日には使えるようだ。
「五十嵐さん、明日、ご自宅へお送りしますよ。俺が運転ですが、よろしいですか?」
「ああ、本当に! 石神先生、ありがとうございます」
五十嵐さんは心底喜んでくれた。
体力は相当に落ちているはずだが、気力は充実している。
この様子ならば、丁寧に看護すれば一泊くらいは大丈夫だろう。
翌日、俺は五十嵐さんの自宅へ向かう。
自宅には、娘さんが毎日来ているらしい。
たしか、旦那さんが亡くなってから独り暮らしと聞いていたが。
「お嬢さんはご自宅で何かなさっているんですか?」
車を運転しながら聞いてみた。
五十嵐さんは痛み止めの点滴を入れている。
この車には、そういう装備もあるのだ。
「ええ、犬の面倒を頼んでいるんです」
五十嵐さんは、ご主人を亡くしてから犬を飼い始めたらしい。
ゴールデンレトリバーの子犬を友人から譲り受け、ずっと可愛がっているのだと。
「ゴールドがいてくれたお蔭で、主人を亡くしても寂しくはなかったんですよ」
五十嵐さんは、少しずつその犬「ゴールド」の話をしてくれた。
無理をなさらず、辛ければ寝てくださいと言ったが、俺に聞いて欲しいらしい。
「でも、娘は面倒がっているようで、私は心配なんです。ですからワガママを言ってしまい、申し訳ありません」
「とんでもないですよ。それほど可愛がっている家族なんですから、五十嵐さんのご心配はよく分かります」
「本当にありがとうございます」
五十嵐さんは涙ぐんで礼を言った。
誰にだって大事なものはある。
それが他人に理解できなくたって、本人には命よりも大事なことがあるのだ。
1時間ほどで五十嵐さんの自宅へ着き、俺がチャイムを押した。
連絡してあったので、すぐに娘さんが出てくる。
「ああ、本当に来たのね」
心底面倒そうな顔をする。
俺が何か言うべきものではない。
人それぞれに事情はあるものだ。
五十嵐さんは挨拶もそこそこに自宅へ入られた。
一匹の犬が駆け寄って、五十嵐さんに飛びついた。
「ああ、ゴールド。まあこんなに痩せてしまって!」
五十嵐さんは涙を流しながら犬を抱きしめていた。
居間に着くなり、五十嵐さんは激しい調子で娘さんをなじる。
娘さんも反論するが、どうも犬の面倒はほとんど見ていなかったらしい。
30分もしないうちに、五十嵐さんは娘さんを追い出した。
「石神先生、私、ここで最後まで暮らすことにしました」
当然そう言うだろうことは、先ほどの遣り取りを見ていて思っていた。
「五十嵐さん、私のことは少しでも信頼していただけますか?」
五十嵐さんは突然の言葉に、理解できないようだった。
「はぁ、それは今日のこともありますし、石神先生は信頼できる方だと思っておりますが」
「それでしたら申し上げたいのですが、そのゴールドをうちでお預かりするというのはいかがでしょうか?」
「え、ゴールドを?」
「はい」
ここでは暮らせないとは言わない。
そう言えば五十嵐さんは断固拒否するだろう。
しかし、毎日の末期がんの苦痛は、病院でなければ耐えられない。
五十嵐さんの状況は、既に麻薬の使用が必要だった。
「もちろん院長の許可を得て、それからうちの子どもたちにも了解させた上でのお話です。ですが、私は必ずそうするつもりでいます。五十嵐さんのご信頼がいただければ、是非うちで大事なゴールドのお世話をさせて下さい」
五十嵐さんは少し考えているようだった。
結局、ここに自分がいても、ゴールドの世話は難しい。
それを納得してくれた。
「それでは石神先生。宜しくお願いいたします」
「お任せください!」
そうして、突然ではあったが、ゴールドが我が家に来ることとなった。
子どもたちは大層喜んでくれた。
院長室に呼ばれた。
「石神、入ります!」
「おう、座れ」
院長室の机には、双子の写真が飾ってある。
俺が贈ったものだ。
毎日ゴリラの恐ろしい目に触れているのかと思うと、ちょっと嫌な気分になる。
「実はな、お前が休んでいる間に入院した女性がいてな」
「はぁ」
「末期がんで、余命は一ヶ月ということだ」
「そうなんですか」
そういう患者は常にいる。
麻痺したとは思いたくもないが、やはりまったく動揺はない。
「その患者が何か?」
「うん、実は俺の友人の奥さんでなぁ」
「はぁ」
「できるだけのことはしたいと思っているんだが、どうにもご本人が入院生活に不慣れでな」
「はい」
「お前に何とかしてもらいたい」
「はぁ?」
詳しく聞くと、院長の友人である旦那さんは既に10年以上前に亡くなっており、院長の知り合いということでその奥様が、うちの病院で面倒を見ることになったらしい。
元は埼玉に住んでおられたが、地元の病院からの転院だ。
ペイン治療も充実していることもあって、院長が引き受けたとのことだ。
まあ、治療もしないでただ寝かせて置いてくれる病院はねぇ。
渡りに船ということで追い払われた、というのが実情だろう。
終末医療の病棟は、特別な看護師がつく。
寿命が尽きることを認識した患者は、千差万別の反応を見せる。
中には運命を受け入れられずに、手こずる患者もいる。
院長の友人の奥さんという五十嵐さんも、その一人ということだ。
ベテランのナースがついて対処しているが、どうにもならないらしい。
俺が病棟へ行くと、早速看護師と揉めている場面だった。
「家に帰りたいと言っているのです。何度も申し上げているのに!」
「そのお体では無理です。担当医師の許可を取ってからにしてください」
「ここは刑務所ですか? なぜあなたに私は縛られるのですか」
まあ、よくある遣り取りだ。
「あ、石神先生!」
看護師が俺の顔を見てホッとした顔をする。
「どうも、お邪魔いたします」
「あなたは?」
「はい、医師の石神と申します。五十嵐様がうちの院長の知り合いということで、一度ご挨拶をと思いまして」
「ではあなたにお願いします。私を家に帰してください」
「分かりました。では私が担当医に話して、許可をもらいましょう」
「ほんとうですか!」
「はい。少しお待ちください」
「石神先生!」
「まあ、待てよ。俺が何とかするから」
「はぁ」
「石神先生、僕は責任を取りませんよ」
「分かってるよ。もちろん何かあれば責任は俺だ。院長にもちゃんと話を通すから」
「でも」
「君は必要な機材や薬を手配してくれ。一泊で帰るよ」
「はぁ、分かりました。本当にお願いしますよ」
「ああ、ありがとうな」
俺は担当医を説き伏せ、あの特別仕様車を手配する。
明日には使えるようだ。
「五十嵐さん、明日、ご自宅へお送りしますよ。俺が運転ですが、よろしいですか?」
「ああ、本当に! 石神先生、ありがとうございます」
五十嵐さんは心底喜んでくれた。
体力は相当に落ちているはずだが、気力は充実している。
この様子ならば、丁寧に看護すれば一泊くらいは大丈夫だろう。
翌日、俺は五十嵐さんの自宅へ向かう。
自宅には、娘さんが毎日来ているらしい。
たしか、旦那さんが亡くなってから独り暮らしと聞いていたが。
「お嬢さんはご自宅で何かなさっているんですか?」
車を運転しながら聞いてみた。
五十嵐さんは痛み止めの点滴を入れている。
この車には、そういう装備もあるのだ。
「ええ、犬の面倒を頼んでいるんです」
五十嵐さんは、ご主人を亡くしてから犬を飼い始めたらしい。
ゴールデンレトリバーの子犬を友人から譲り受け、ずっと可愛がっているのだと。
「ゴールドがいてくれたお蔭で、主人を亡くしても寂しくはなかったんですよ」
五十嵐さんは、少しずつその犬「ゴールド」の話をしてくれた。
無理をなさらず、辛ければ寝てくださいと言ったが、俺に聞いて欲しいらしい。
「でも、娘は面倒がっているようで、私は心配なんです。ですからワガママを言ってしまい、申し訳ありません」
「とんでもないですよ。それほど可愛がっている家族なんですから、五十嵐さんのご心配はよく分かります」
「本当にありがとうございます」
五十嵐さんは涙ぐんで礼を言った。
誰にだって大事なものはある。
それが他人に理解できなくたって、本人には命よりも大事なことがあるのだ。
1時間ほどで五十嵐さんの自宅へ着き、俺がチャイムを押した。
連絡してあったので、すぐに娘さんが出てくる。
「ああ、本当に来たのね」
心底面倒そうな顔をする。
俺が何か言うべきものではない。
人それぞれに事情はあるものだ。
五十嵐さんは挨拶もそこそこに自宅へ入られた。
一匹の犬が駆け寄って、五十嵐さんに飛びついた。
「ああ、ゴールド。まあこんなに痩せてしまって!」
五十嵐さんは涙を流しながら犬を抱きしめていた。
居間に着くなり、五十嵐さんは激しい調子で娘さんをなじる。
娘さんも反論するが、どうも犬の面倒はほとんど見ていなかったらしい。
30分もしないうちに、五十嵐さんは娘さんを追い出した。
「石神先生、私、ここで最後まで暮らすことにしました」
当然そう言うだろうことは、先ほどの遣り取りを見ていて思っていた。
「五十嵐さん、私のことは少しでも信頼していただけますか?」
五十嵐さんは突然の言葉に、理解できないようだった。
「はぁ、それは今日のこともありますし、石神先生は信頼できる方だと思っておりますが」
「それでしたら申し上げたいのですが、そのゴールドをうちでお預かりするというのはいかがでしょうか?」
「え、ゴールドを?」
「はい」
ここでは暮らせないとは言わない。
そう言えば五十嵐さんは断固拒否するだろう。
しかし、毎日の末期がんの苦痛は、病院でなければ耐えられない。
五十嵐さんの状況は、既に麻薬の使用が必要だった。
「もちろん院長の許可を得て、それからうちの子どもたちにも了解させた上でのお話です。ですが、私は必ずそうするつもりでいます。五十嵐さんのご信頼がいただければ、是非うちで大事なゴールドのお世話をさせて下さい」
五十嵐さんは少し考えているようだった。
結局、ここに自分がいても、ゴールドの世話は難しい。
それを納得してくれた。
「それでは石神先生。宜しくお願いいたします」
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