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佐野原稔
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佐野原小夜さんから連絡をもらった。
病院に電話があり、俺がオペ中だったので後で折り返した。
小夜さんの息子の稔が「渋谷HELL」で奇跡的に理性を残し、後に蓮花研究所で「Ωカメムシ」による治療で回復した。
稔の特別な体験が、北海道で起きた無差別憑依の犠牲者の多くを救った。
稔が「Ωカメムシ」の効能について俺たちに示唆してくれ、きっかけを作ってくれたのだ。
稔が《エイル》に邂逅したことで、それが繋がった。
そして俺は、以前ルイーサが言っていた稔が俺と特別な縁が結ばれていることを思い出していた。
佐野原小夜さんの用件は、やはり稔が俺に会いたがっているということだった。
小夜さんは多忙な俺に連絡をしたことを詫びながら、そういうことを話した。
「石神先生に重要なお話があるのだと言っております」
俺は驚くこともなく、承諾した。
「そうですか。では、今度の土曜日にでもお宅へ伺いましょうか」
「わざわざすみません。御足労を願って申し訳ありませんが、宜しくお願い致します」
「分かりました」
俺は3月中旬の土曜日、午後1時に佐野原家へ伺うことにした。
電話で佐野原小夜さんは俺に用件を言わなかった。
きっと稔の口から直接伝えさせたかったのだろう。
俺も同様に聞かなかったのは、そういうことだろうと感じたからだ。
土曜日の昼。
俺は以前と同じくアヴェンタドールで世田谷の佐野原家へ向かった。
運転しながら、俺は稔が受験の年だと思っていた。
成績の良いことは聞いている。
稔は妖魔を体内に取り込んだことから学校は休学しており、その後蓮花研究所に収容されていた。
そのことで稔は留年で一年遅れになっていたが、蓮花研究所で治療が終わってからは学校へ戻り、勉学に励んでいると聞いていた。
元々成績優秀でどこかの美大を目指していた。
ゆくゆくは華道の宗家家元となるはずの人物だったのだ。
もう合格発表が終わっている時期だ。
だがまさか、稔の合格の報告で俺を呼び出したわけではないだろう。
そうであれば、稔の用件とは何か。
俺には想像がついていた。
1時前に佐野原家へ着き、以前と同じように小夜さんにガレージを開けてもらい、アヴェンタドールを車庫へ入れた。
着物姿の小夜さんが出迎えてくれ、家の中へ入れてもらう。
「石神先生、お忙しいのに本当に申し訳ございません」
「いいえ。みなさんはお元気ですか?」
「はい、大伯母も先生の手術のお陰ですっかり元気になりました。今も宗家として活躍しております」
「そうですか」
稔の話は出なかった。
俺は応接間に通され、お茶を出された。
和室で見事な年輪を浮かばせる一枚板のテーブルに座った。
床の間には桃を中心とした活花が飾られ、良寛と思われる掛け軸が掛かっていた。
掛け軸は茶掛であり、シンプルであるがひっそりとした気品がある。
品の良い和菓子も出される。
まだ稔は顔を出していない。
稔の妹の瑞葉が挨拶に来て、一緒に座った。
「石神先生、少しお話ししておきたいことがありまして」
「はい、何でしょうか?」
小夜さんは困った顔をしていた。
それは苦悩と共に、言葉を選んでいるようだった。
既に決まってしまった未来に、尚も納得したくない、という表情だった。
「私は稔を大伯母の宗家を継ぐ人間にと考えて来ました」
「はい、そうでしょうね」
それはよく分かっている。
小夜さんも才能はあるのだろうが、大伯母のみづゑさんはまだまだ壮健で、万一のことが無ければ小夜さんは宗家を継がないつもりだっただろう。
そして息子の稔に修行させ、次の宗家にしたいと考えていた。
実際に稔には才能があった。
俺も蓮花研究所で稔の活花を見ている。
大らかで華麗な手前で、俺も稔の才能の大きさを感じていた。
あの時の稔は、自分の運命への諦念で、華道は諦めていたが。
だから俺が無理にやらせたのだ。
自分が終わるからといって、自分が向かう道を止めることはダメだと言った。
「人間は成し遂げることが人生ではない。向かい続けることだけだ」
稔は俺の言葉を受け止め、花を活けた。
だが、奇跡的に自分が助かり、再び元の道へ向かうはずだった。
稔も、自分がまだ道を歩けると知って、あの時は喜んでいたのだ。
「稔は《湖坊小河流》を継がないと申しております」
「そうですか」
「はい。石神先生は、もうお判りでしょうか」
「……」
小夜さんも、瑞葉も顔を伏せていた。
俺の返事を聞くのを怖がっている。
「稔君とはもう話し合っているのですね?」
「はい、何度も。でも稔の決意は固いようです」
「俺に止めて欲しいと考えられてますか?」
小夜さんが顔を上げた。
「いいえ。もちろん、もしもそうして頂けるものであれば、どんなに嬉しい事か。でも稔の気持ちも理解出来るのです。あの子は命を石神先生に救って頂いたのですから」
「いいえ、俺の方こそ、稔君のお陰で本当に助かったのです。感謝しているのは俺の方で」
「稔は石神先生に自分を捧げたいと申しております」
「……」
「実を言えば、私たちも稔を無事に戻して下さった石神先生へはどんなに感謝しても足りません。そう思っております。ですから、稔が決めたことには深く反対は出来ないのです。あの子が生きて戻ってくれただけで、本当は十分なのです」
「ですが、稔君が《湖坊小河流》の宗家になることは、小夜さんの夢だったのでしょう」
「はい、その通りで御座います。ですが、あの子にはあの子の運命がございます。それは稔のもので、私のものではありません」
「そうですね」
全くその通りだ。
親として、家族としての強い愛情や思いはあるのだろう。
だが、人間として、小夜さんは辛い選択をしようとしている。
今こうやって俺に話しているのは、そうすることで自分の最後の決意をしたいのだ。
「すみませんでした。私たちには稔を止めることは出来ません。石神先生、どうか稔に会ってやって下さい」
「分かりました」
席を立って、俺は小夜さんに稔の部屋へ案内された。
もう小夜さんは何も言わなかった。
病院に電話があり、俺がオペ中だったので後で折り返した。
小夜さんの息子の稔が「渋谷HELL」で奇跡的に理性を残し、後に蓮花研究所で「Ωカメムシ」による治療で回復した。
稔の特別な体験が、北海道で起きた無差別憑依の犠牲者の多くを救った。
稔が「Ωカメムシ」の効能について俺たちに示唆してくれ、きっかけを作ってくれたのだ。
稔が《エイル》に邂逅したことで、それが繋がった。
そして俺は、以前ルイーサが言っていた稔が俺と特別な縁が結ばれていることを思い出していた。
佐野原小夜さんの用件は、やはり稔が俺に会いたがっているということだった。
小夜さんは多忙な俺に連絡をしたことを詫びながら、そういうことを話した。
「石神先生に重要なお話があるのだと言っております」
俺は驚くこともなく、承諾した。
「そうですか。では、今度の土曜日にでもお宅へ伺いましょうか」
「わざわざすみません。御足労を願って申し訳ありませんが、宜しくお願い致します」
「分かりました」
俺は3月中旬の土曜日、午後1時に佐野原家へ伺うことにした。
電話で佐野原小夜さんは俺に用件を言わなかった。
きっと稔の口から直接伝えさせたかったのだろう。
俺も同様に聞かなかったのは、そういうことだろうと感じたからだ。
土曜日の昼。
俺は以前と同じくアヴェンタドールで世田谷の佐野原家へ向かった。
運転しながら、俺は稔が受験の年だと思っていた。
成績の良いことは聞いている。
稔は妖魔を体内に取り込んだことから学校は休学しており、その後蓮花研究所に収容されていた。
そのことで稔は留年で一年遅れになっていたが、蓮花研究所で治療が終わってからは学校へ戻り、勉学に励んでいると聞いていた。
元々成績優秀でどこかの美大を目指していた。
ゆくゆくは華道の宗家家元となるはずの人物だったのだ。
もう合格発表が終わっている時期だ。
だがまさか、稔の合格の報告で俺を呼び出したわけではないだろう。
そうであれば、稔の用件とは何か。
俺には想像がついていた。
1時前に佐野原家へ着き、以前と同じように小夜さんにガレージを開けてもらい、アヴェンタドールを車庫へ入れた。
着物姿の小夜さんが出迎えてくれ、家の中へ入れてもらう。
「石神先生、お忙しいのに本当に申し訳ございません」
「いいえ。みなさんはお元気ですか?」
「はい、大伯母も先生の手術のお陰ですっかり元気になりました。今も宗家として活躍しております」
「そうですか」
稔の話は出なかった。
俺は応接間に通され、お茶を出された。
和室で見事な年輪を浮かばせる一枚板のテーブルに座った。
床の間には桃を中心とした活花が飾られ、良寛と思われる掛け軸が掛かっていた。
掛け軸は茶掛であり、シンプルであるがひっそりとした気品がある。
品の良い和菓子も出される。
まだ稔は顔を出していない。
稔の妹の瑞葉が挨拶に来て、一緒に座った。
「石神先生、少しお話ししておきたいことがありまして」
「はい、何でしょうか?」
小夜さんは困った顔をしていた。
それは苦悩と共に、言葉を選んでいるようだった。
既に決まってしまった未来に、尚も納得したくない、という表情だった。
「私は稔を大伯母の宗家を継ぐ人間にと考えて来ました」
「はい、そうでしょうね」
それはよく分かっている。
小夜さんも才能はあるのだろうが、大伯母のみづゑさんはまだまだ壮健で、万一のことが無ければ小夜さんは宗家を継がないつもりだっただろう。
そして息子の稔に修行させ、次の宗家にしたいと考えていた。
実際に稔には才能があった。
俺も蓮花研究所で稔の活花を見ている。
大らかで華麗な手前で、俺も稔の才能の大きさを感じていた。
あの時の稔は、自分の運命への諦念で、華道は諦めていたが。
だから俺が無理にやらせたのだ。
自分が終わるからといって、自分が向かう道を止めることはダメだと言った。
「人間は成し遂げることが人生ではない。向かい続けることだけだ」
稔は俺の言葉を受け止め、花を活けた。
だが、奇跡的に自分が助かり、再び元の道へ向かうはずだった。
稔も、自分がまだ道を歩けると知って、あの時は喜んでいたのだ。
「稔は《湖坊小河流》を継がないと申しております」
「そうですか」
「はい。石神先生は、もうお判りでしょうか」
「……」
小夜さんも、瑞葉も顔を伏せていた。
俺の返事を聞くのを怖がっている。
「稔君とはもう話し合っているのですね?」
「はい、何度も。でも稔の決意は固いようです」
「俺に止めて欲しいと考えられてますか?」
小夜さんが顔を上げた。
「いいえ。もちろん、もしもそうして頂けるものであれば、どんなに嬉しい事か。でも稔の気持ちも理解出来るのです。あの子は命を石神先生に救って頂いたのですから」
「いいえ、俺の方こそ、稔君のお陰で本当に助かったのです。感謝しているのは俺の方で」
「稔は石神先生に自分を捧げたいと申しております」
「……」
「実を言えば、私たちも稔を無事に戻して下さった石神先生へはどんなに感謝しても足りません。そう思っております。ですから、稔が決めたことには深く反対は出来ないのです。あの子が生きて戻ってくれただけで、本当は十分なのです」
「ですが、稔君が《湖坊小河流》の宗家になることは、小夜さんの夢だったのでしょう」
「はい、その通りで御座います。ですが、あの子にはあの子の運命がございます。それは稔のもので、私のものではありません」
「そうですね」
全くその通りだ。
親として、家族としての強い愛情や思いはあるのだろう。
だが、人間として、小夜さんは辛い選択をしようとしている。
今こうやって俺に話しているのは、そうすることで自分の最後の決意をしたいのだ。
「すみませんでした。私たちには稔を止めることは出来ません。石神先生、どうか稔に会ってやって下さい」
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もう小夜さんは何も言わなかった。
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