泉の底に眠る

こうやさい

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泉の底に眠る

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『あなたが見失ったのは、健康で貴族の勤めにも立派に耐えられる女性ですか? それとも冷たい水に触れた衝撃で既に亡くなってしまった女性ですか?』
 こんな夢を繰り返し見るのは未だ未練があるからだろうか?

 おとぎ話に泉に何かを落とした人が、それを拾った人ならざるものによって代償を手にするというものがある。
 一番有名なのは斧を落とす樵だろうか? 彼は正直であった代償ごほうびに金と銀の斧ももらった。きっとその後それを売って樵はやめてしまっただろうと思う。
 余分にくれるのではなく、何か違うものに替えられる話もある。
 そして落としたものをそのまま失ってしまうことも。

 彼女は、後々のために働きに行かせてもらっていた、親戚ではあるが遙かに家格の高い貴族のお嬢さまだった。
 ただ体が弱く、しょっちゅう寝付いては、子供の社交も学習も出来ていなかった。
 庇護欲を掻き立てられ傍で守りたいと思った俺と、他に選択肢の無かった彼女が、互いにそういう感情を抱き、結婚の約束をしたこと自体には疑問を持つ人はさほどいないだろう。
 しょせんは子供だったからままごとのようなもので正式にはどうにもならない、そして彼女がいい方に考えても政略に使えるようにはならないと思われ見逃されていたのだろうが、少なくとも俺は本気だった。そう思っていた。

 だましだまし生きているような療養生活を送っていた彼女に外国から薬がもたらされたのは十を超えて幾ばくかたった頃だった。
 それがすがれる最後の希望で、これが効かなかったならばもう諦めるしかない――少なくとも俺たちはそう認識していた。
 もし効かなかったならすぐにでも死にたいと呟いた彼女はただ疲れていただけだったのだろう。楽しい想い出のあるあの泉に沈みたいと。
 比較的元気なときに抜け出して、一緒に水面を眺めていた、数少ない外出の記憶だった。
 その時と同じようにどこまでも一緒に逝くと言った俺は、あるいは状況に酔っていただけだったのかもしれない。

 どうだったにしろ心中は実際は未遂すら起こらなかった。
 認識が間違っていたのか、薬は危なげなく効き、じょじょに健康体になり、今までの遅れをほぼ取り戻した彼女は、デビュタントを無事こなし世界を広げあっさりと俺の手を離していった。
 他に選択肢が出来てしまった以上、そして本来の立場を考えれば、あるいはそれは当たり前の事なのかもしれない。
 けれど置いていかれた俺はどうすればいいか分からなかった。

 今も時々夢を見る。
 本当は彼女は水に飛び込んでいて。
 今の彼女は女神が取り替えた代償にせもので。
 本物の彼女は今も泉の底に眠っているのだと。
 俺も一緒にいけなかったのは、そして望んだものが手に入らなかったのは。
 俺が正直者ではなかったからだろうか?

 結局、彼女の幸せよりも自分の事しか考えていなかった。
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