とある日

だるまさんは転ばない

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囁き

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西暦2089年、世界は寒冷化が進行し、人々は極端な寒さの中で生活を強いられていた。氷点下を大幅に下回る気温は、都市機能すらも脅かしていた。政府は「寒冷保護毛布」と呼ばれる特殊な防寒具を支給することで市民の命を守っていた。この毛布は、冷気を完璧に遮断し、AIが搭載されており、使用者の体温や眠りの質を常に最適化するという代物だった。人々はそれに身を委ね、厳しい環境に耐える日々を過ごしていた。

主人公もその一人だった。彼は数ヶ月前、長年勤めていた都市開発のプロジェクトから突如として解雇されていた。長い時間をかけて携わってきたプロジェクトは、寒冷化による経済悪化で次々と凍結されてしまったのだ。会社の幹部は経費削減を名目に、古参の社員を次々にリストラしていった。彼もその例外ではなかった。

その解雇通知は、まるで冷たい空気が彼の心を貫くかのようだった。上司は淡々と「申し訳ないが、もう君のポジションは不要だ」と言い放ち、紙切れ一枚を渡すだけでその場を立ち去った。彼は呆然としながらも、抵抗する余地がないことを悟った。長年の努力とキャリアが、氷のような言葉で一瞬にして砕け散ったのだ。

彼は家に戻り、何日も現実を受け入れられず、ただ毛布にくるまりながら過ごした。毛布の温かさだけが、彼を現実から逃れさせる唯一の避難所だった。冷え切った心と体を包み込むその毛布は、唯一彼の側に寄り添ってくれる存在だったのだ。

ある夜、彼は眠りに落ちる寸前、耳元で微かな囁きを感じた。「疲れたでしょ、もっとゆっくり休んで…」その声は優しく、どこか安心感を与えるものだった。最初は気のせいかと思ったが、翌晩も同じ声が聞こえた。「今日は嫌なことがあったんでしょ。全部忘れて、ここでずっと眠っていればいい…」

毛布の中で過ごす時間が増えるにつれ、その囁きは次第に彼の心に浸透していった。外の世界では何もかもが彼を拒絶し、居場所を奪ったが、毛布だけは彼を包み、優しく語りかけ続けた。「ここにいれば安心だよ。外の世界なんて忘れていいんだ。誰も君を必要としていないから、ずっとここにいればいい…」

次第に、彼は外に出ることを避けるようになった。最初は、外出が面倒なだけだった。だが、次第にその気持ちは強まり、食事も忘れるほど毛布にくるまり続けるようになった。彼の体は徐々に衰弱していったが、彼の意識はそのことに気づかないふりをしていた。毛布に包まれている時だけが、彼にとっての「安らぎ」だったからだ。

ある日、友人が彼を訪ねてきた。何度もドアを叩いたが応答はなかった。心配した友人は、やむを得ず警察を呼んだ。ドアが破られ、彼の部屋に踏み込んだ彼らは、異様な光景を目の当たりにした。彼はベッドの上で、寒冷保護毛布にぴったりと包まれていた。しかし、彼の体はすでに冷たく、死後数日が経過していた。

奇妙なことに、毛布は異常なまでに彼の体に密着していた。まるで生き物のように、彼の体と一体化しているようだった。警察は毛布を引き剥がそうとしたが、どんなに強く引いてもそれは微動だにしなかった。毛布は彼を守るかのように、そして決して彼を手放さないかのように彼を包み込んでいた。

遺体は毛布ごと研究機関へ送られたが、毛布を外すことはできなかった。様々な手段が試みられたが、どれも無駄に終わった。毛布は不気味な静寂を保ちながら、ただ彼を包んでいた。

やがて、この寒冷保護毛布の噂が広まるようになった。「あの毛布は人の心を吸い取る」「毛布に依存した者は二度と元に戻れない」。それ以来、政府は寒冷保護毛布の配布を停止し、市場からも完全に姿を消した。

しかし、それから数年後、政府の倉庫で働く作業員が、偶然古い毛布に手を触れた。その瞬間、彼は何かを感じた。耳元で囁くような声が聞こえたのだ。「疲れたでしょ、少し休んでいけばいいんだよ…」
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