限界王子様に「構ってくれないと、女遊びするぞ!」と脅され、塩対応令嬢は「お好きにどうぞ」と悪気なくオーバーキルする。

待鳥園子

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32 笑顔

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 自分の彼へ裏切りが明かされるその瞬間を、懸命に思い出そうとしても私は自分が何をしていたか覚えていない。

 脳が記憶を残すことを、拒否していたのかもしれない。だって、抱えたまま生きるには、あまりにも悲し過ぎる出来事だから。

 隣に居るイーサンを好きになって結婚することにしたから貴方とは結婚出来ない、王太子の婚約者の立場の重圧になんてとても耐えられないからここで辞退したいと、イーサンの腕を取って私は言ったはずだ。

 それは、間違いないと思う。

 共犯者と何度も打ち合わせを重ね、そうしようとしていた訳だから、それをする練習だってしていてすらすらとよどみなく言えたと思う。後は嘘の上手いイーサンに任せた。

 ただ覚えているのは、ギャレット様のあの儚げな笑みだ。彼が以前に本当は王にはなりたくないと言った時と同じ笑みだった。

 私は彼がこれほどまでに大事にしているのに、自分を捨てると宣言した婚約者を、なじって罵倒すると思っていた。

 これまでに散々期待をさせておいて、それなのに何故と。

 けれど、ギャレット様は穏やかに『無理をさせて困らせて、悪かった』とだけ言い残し、去って行った。

 いとも簡単に呆気なく、私は彼の婚約者ではなくなり……ほんの少しの荷物を纏めて王都にあるイーサンの邸へと、移り住むことになった。

 王妃アニータ様は、私と交わした約束をきっちりと守ってくれた。

 とは言え、約束を破り私から彼女のしたことを明かされれば、彼女の立場だって悪くなるだろうから、それは当たり前のことなのかも知れない。

 今や元婚約者となった私の名前は、誠実な王太子の心を弄んだ悪女として、国民に知られることになった。

 面白おかしく妙な噂は立てられて、やってもいないことを、さも悪い真実のように語られる。お前が悪いのだから、見知らぬ誰かに悪く言われるのも仕方ないのだと言われれば、確かに納得も出来る。悪いのは私だから。

 その方が良い。

 もし、大富豪イーサンと逃げたことが美化されても、悲劇のヒロインを演じることなんて出来ない。とてもではないけど、良心の呵責に耐えきれなくなりそう。

 晴れて父が作ったメートランド侯爵家にあった巨額の借金はなくなり、領地からの定期収入は、これからはすべて私が管理し、父には使わせない。

 酒浸りになり無気力になってしまった父は、城から戻ってきた娘にそう宣言されても何も言わなかった。あの人も一応は、娘を犠牲にしたという罪悪感を持っているのかもしれない。

 城から離れた私は、多分一週間ほどは普通の顔を保って生活をしていた。

 食事を共にするイーサンは話し上手な商人らしく、興味を引くような面白い話をいくつも知っているので、私はそれを聞いて楽しそうに笑っていたと思う。

 自分の心の痛みにようやく気がついたのは、城を辞し十日ばかり過ぎた深夜のベッドの中だった。

 ふと聞こえたような気がした彼の声をきっかけに頭の中がギャレット様との思い出が回り、胸が苦しくて呼吸も上手く出来ない。目からは涙が次から次に流れて止まらない。体を丸くして自分の体を抱きしめても、まるで追い詰められるような強い不安を感じて居ても立ってもいられない。

 その時に、私はようやく気がついたのだ。

 私はあれだけまっすぐに愛を伝えてくれていたギャレット様を失ったというあまりにも大きな悲しみを、心をただ麻痺させて感じなくして、気が付かないふりをしていただけなんだと。

 それに気がついたところで、時はもう遅かった。
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