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第三章
第三話
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「灯りが届かなかった日」
喫茶 木霊を訪れたとき、
窓際の席には、誰も座っていなかった。
時計の音は同じリズムを刻んでいたのに、
その響きは、少しだけ違って聴こえた。
マスターは静かに翼へ向き直ると、
いつものように、声を曖昧に残す話し方でこう言った。
「……昨日、秋史さんがこの場所を最後に通りました。
それが、声として残る最後の気配だったかもしれません」
翼は言葉にならない息をひとつ、胸の奥で折りたたんだ。
彼がここを通ったということ。
それが“最期”である可能性。
そして、誰にも語られることなくその気配が終わったということ。
便箋を渡した日から、何度も語ろうと思いながら語らなかった。
言葉にしてしまえば、
秋史との名前にならなかった記憶が変質してしまう気がした。
けれど、彼の不在が確定してしまった瞬間――
翼の胸の奥で、語られなかったはずの声が語りはじめてしまった。
その夜、未明書房の棚の前に立った。
分類されていない記憶の束が、
あの日の時間を思い出させるように薄暗い灯りの中で揺れていた。
ひとつ、棚の奥から紙片が滑り落ちる。
翼はそれを拾い上げ、筆跡に見覚えがあることに気づく。
「声にしてしまえば、
あなたがいた時間まで語り変えてしまう気がして。
だから、呼びかけることを選ばなかったのです」
その便箋に記された言葉は、
秋史から翼へ宛てたものだったのか、
それとも翼がかつて書こうとした一文だったのか――
はっきりしなかった。
でも、その曖昧さこそが、
記憶の灯りとして誰にも読まれていなかった部分だった。
翼は紙片を棚に戻しながら、
自分が語ることで、秋史の時間に手を伸ばしてしまうことの怖さと、
それでも灯さずにはいられない感覚とを天秤にかけた。
喫茶 木霊に戻ったとき、マスターは何も言わなかった。
ただ、ひとつだけカップを翼に差し出し、
その受け皿の下に紙片を一枚残していた。
「灯りは消えても、記憶は読む者によって灯ることがあります。
その紙は、秋史さんが最後に託したものです。
読まれなくてもよいと、そう言っておりましたが――
もし、あなたが読むのであればと」
翼は紙を開く。
インクは薄く、言葉はひとつしかなかった。
「ありがとう」
それだけの記憶だった。
それだけの語りだった。
でも、それは翼の胸の奥で語り直される灯りになった。
名前を呼ばずに交差した時間が、
最終的にこの一言へと辿り着いたとしたら――
それはもう、語られなかった記憶ではなくなっていた。
灯りは届かなかったかもしれない。
でも、届かない灯りに触れてしまったことが、
翼の語りの始まりになった。
喫茶 木霊を訪れたとき、
窓際の席には、誰も座っていなかった。
時計の音は同じリズムを刻んでいたのに、
その響きは、少しだけ違って聴こえた。
マスターは静かに翼へ向き直ると、
いつものように、声を曖昧に残す話し方でこう言った。
「……昨日、秋史さんがこの場所を最後に通りました。
それが、声として残る最後の気配だったかもしれません」
翼は言葉にならない息をひとつ、胸の奥で折りたたんだ。
彼がここを通ったということ。
それが“最期”である可能性。
そして、誰にも語られることなくその気配が終わったということ。
便箋を渡した日から、何度も語ろうと思いながら語らなかった。
言葉にしてしまえば、
秋史との名前にならなかった記憶が変質してしまう気がした。
けれど、彼の不在が確定してしまった瞬間――
翼の胸の奥で、語られなかったはずの声が語りはじめてしまった。
その夜、未明書房の棚の前に立った。
分類されていない記憶の束が、
あの日の時間を思い出させるように薄暗い灯りの中で揺れていた。
ひとつ、棚の奥から紙片が滑り落ちる。
翼はそれを拾い上げ、筆跡に見覚えがあることに気づく。
「声にしてしまえば、
あなたがいた時間まで語り変えてしまう気がして。
だから、呼びかけることを選ばなかったのです」
その便箋に記された言葉は、
秋史から翼へ宛てたものだったのか、
それとも翼がかつて書こうとした一文だったのか――
はっきりしなかった。
でも、その曖昧さこそが、
記憶の灯りとして誰にも読まれていなかった部分だった。
翼は紙片を棚に戻しながら、
自分が語ることで、秋史の時間に手を伸ばしてしまうことの怖さと、
それでも灯さずにはいられない感覚とを天秤にかけた。
喫茶 木霊に戻ったとき、マスターは何も言わなかった。
ただ、ひとつだけカップを翼に差し出し、
その受け皿の下に紙片を一枚残していた。
「灯りは消えても、記憶は読む者によって灯ることがあります。
その紙は、秋史さんが最後に託したものです。
読まれなくてもよいと、そう言っておりましたが――
もし、あなたが読むのであればと」
翼は紙を開く。
インクは薄く、言葉はひとつしかなかった。
「ありがとう」
それだけの記憶だった。
それだけの語りだった。
でも、それは翼の胸の奥で語り直される灯りになった。
名前を呼ばずに交差した時間が、
最終的にこの一言へと辿り着いたとしたら――
それはもう、語られなかった記憶ではなくなっていた。
灯りは届かなかったかもしれない。
でも、届かない灯りに触れてしまったことが、
翼の語りの始まりになった。
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