62 / 73
第三章
第十一話
しおりを挟む
「灯りの侵入者」
未明書房の棚に、翼が一度も手にしたことのない一冊が挿されていた。
だが、頁を開いた瞬間、文体が翼自身の記憶に鋭く突き刺さった。
それは翼がかつて秋史に渡した便箋の、二行目の語り口と、ほとんど同じだった。
「この灯りが読まれないままであることが、
あなたに触れてしまう形となるのなら、
わたしはその沈黙の中で灯ります」
誰かが翼の言葉を引用した。
だが、それは翼ではない。
その語尾の細かな滲み方が、翼の筆致とは微かに違っていた。
語りの侵入者が存在する。
誰かが、翼の記憶を読んでしまい、
そして、その言葉を自分の声として書き換えて棚に置いていた。
喫茶 木霊に戻ると、マスターが静かに迎えてくれた。
だがその表情は、何かを伏せているような淡さを纏っていた。
翼は紙片を差し出す。
「この文体は、わたしのものです。
でも、わたしはこれを書いた記憶がありません。
それは、誰かの声によって再現されたものなのでしょうか」
マスターは答えず、一冊の本を棚から持ってきた。
その背表紙には分類がなかった。
表紙は黒く、質感が空気を拒むように鈍かった。
「この本には、名も筆跡もありません。
ただし、文体は、
何度も店の中で読まれた声によって形成されたものです。
誰が綴ったかではなく――
誰がその声を呼び寄せたかが、この記憶を決めます」
翼はその言葉の意味をすぐには理解できなかった。
だが、ふと浮かんだ。
この文体は、自分が灯した灯りでもあり、
あの存在が記憶の中で再構成した声でもあったのかもしれない。
店を出ようとしたとき、未明書房の店主が入り口で待っていた。
彼は静かに一冊の便箋を差し出す。
「これは、記憶の返却として残されたものですが――
その文体は、あなたの声に似ています。
ただし、筆跡はあなたではありません。
名前もありません。
それでも、この紙が棚に戻されたということは、
誰かが語ってしまったということなのです」
翼は紙を開いた。
「この語りは、名を奪って綴られたわけではありません。
ただ灯りを読んでしまった者が、記憶に触れてしまった結果なのです。
その罪があるなら――わたしはそれを棚に返します」
文体が翼に似ていた。
それは語られてしまった翼だった。
翼は初めて、
自分の語りが語り手の手を離れたことの痛みに向き合った。
そして、喫茶 木霊と未明書房という二つの空間が、
語りを受け取る場であると同時に、語りを通過させる場でもあることに、僅かな光を見た。
未明書房の棚に、翼が一度も手にしたことのない一冊が挿されていた。
だが、頁を開いた瞬間、文体が翼自身の記憶に鋭く突き刺さった。
それは翼がかつて秋史に渡した便箋の、二行目の語り口と、ほとんど同じだった。
「この灯りが読まれないままであることが、
あなたに触れてしまう形となるのなら、
わたしはその沈黙の中で灯ります」
誰かが翼の言葉を引用した。
だが、それは翼ではない。
その語尾の細かな滲み方が、翼の筆致とは微かに違っていた。
語りの侵入者が存在する。
誰かが、翼の記憶を読んでしまい、
そして、その言葉を自分の声として書き換えて棚に置いていた。
喫茶 木霊に戻ると、マスターが静かに迎えてくれた。
だがその表情は、何かを伏せているような淡さを纏っていた。
翼は紙片を差し出す。
「この文体は、わたしのものです。
でも、わたしはこれを書いた記憶がありません。
それは、誰かの声によって再現されたものなのでしょうか」
マスターは答えず、一冊の本を棚から持ってきた。
その背表紙には分類がなかった。
表紙は黒く、質感が空気を拒むように鈍かった。
「この本には、名も筆跡もありません。
ただし、文体は、
何度も店の中で読まれた声によって形成されたものです。
誰が綴ったかではなく――
誰がその声を呼び寄せたかが、この記憶を決めます」
翼はその言葉の意味をすぐには理解できなかった。
だが、ふと浮かんだ。
この文体は、自分が灯した灯りでもあり、
あの存在が記憶の中で再構成した声でもあったのかもしれない。
店を出ようとしたとき、未明書房の店主が入り口で待っていた。
彼は静かに一冊の便箋を差し出す。
「これは、記憶の返却として残されたものですが――
その文体は、あなたの声に似ています。
ただし、筆跡はあなたではありません。
名前もありません。
それでも、この紙が棚に戻されたということは、
誰かが語ってしまったということなのです」
翼は紙を開いた。
「この語りは、名を奪って綴られたわけではありません。
ただ灯りを読んでしまった者が、記憶に触れてしまった結果なのです。
その罪があるなら――わたしはそれを棚に返します」
文体が翼に似ていた。
それは語られてしまった翼だった。
翼は初めて、
自分の語りが語り手の手を離れたことの痛みに向き合った。
そして、喫茶 木霊と未明書房という二つの空間が、
語りを受け取る場であると同時に、語りを通過させる場でもあることに、僅かな光を見た。
0
あなたにおすすめの小説
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~
菱沼あゆ
キャラ文芸
突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。
洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。
天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。
洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。
中華後宮ラブコメディ。
罪悪と愛情
暦海
恋愛
地元の家電メーカー・天の香具山に勤務する20代後半の男性・古城真織は幼い頃に両親を亡くし、それ以降は父方の祖父母に預けられ日々を過ごしてきた。
だけど、祖父母は両親の残した遺産を目当てに真織を引き取ったに過ぎず、真織のことは最低限の衣食を与えるだけでそれ以外は基本的に放置。祖父母が自身を疎ましく思っていることを知っていた真織は、高校卒業と共に就職し祖父母の元を離れる。業務上などの必要なやり取り以外では基本的に人と関わらないので友人のような存在もいない真織だったが、どうしてかそんな彼に積極的に接する後輩が一人。その後輩とは、頗る優秀かつ息を呑むほどの美少女である降宮蒔乃で――
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
🥕おしどり夫婦として12年間の結婚生活を過ごしてきたが一波乱あり、妻は夫を誰かに譲りたくなるのだった。
設楽理沙
ライト文芸
☘ 累計ポイント/ 180万pt 超えました。ありがとうございます。
―― 備忘録 ――
第8回ライト文芸大賞では大賞2位ではじまり2位で終了。 最高 57,392 pt
〃 24h/pt-1位ではじまり2位で終了。 最高 89,034 pt
◇ ◇ ◇ ◇
紳士的でいつだって私や私の両親にやさしくしてくれる
素敵な旦那さま・・だと思ってきたのに。
隠された夫の一面を知った日から、眞奈の苦悩が
始まる。
苦しくて、悲しくてもののすごく惨めで・・
消えてしまいたいと思う眞奈は小さな子供のように
大きな声で泣いた。
泣きながらも、よろけながらも、気がつけば
大地をしっかりと踏みしめていた。
そう、立ち止まってなんていられない。
☆-★-☆-★+☆-★-☆-★+☆-★-☆-★
2025.4.19☑~
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる