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第三章
第十二話
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「灯りを持たなかった名前」
翼は喫茶 木霊に入ると、
店内の灯りがすでに最も低い明度に調整されていることに気づいた。
マスターはカウンターにいたが、言葉を交わそうとしない。
それは、「語る前の時間」を守っているような沈黙だった。
翼は昨日、未明書房で見つけた文体の痕跡にまだ脳裏を引かれていた。
自分が語ったはずの記憶が、他者によって再構成され、
それが別の文体に変質することで記憶の灯りが名を持たなくなる現象に出会ってしまった。
今日、棚の奥から取り出した一冊には、
さらに異質な語りが差し込まれていた。
「この声は、語ってはいけない記憶です。
それでも、どこかで読まれてしまうことで、
わたしは名前のないまま、語られてしまったのです」
その文体には翼の影が混じっていた。
筆致は違う。
語尾が変化していた。
でも、語ろうとする者の迷いだけが、一字一句、翼と重なっていた。
マスターに問うと、彼はようやく静かに言った。
「その声の主は、かつて語られなかった名前を持っていた方です。
記憶には残されず、棚にも収められず。
ただ、灯りだけを受け取った存在でした」
翼は、その声が誰かを特定できないまま、
その言葉を胸にしまった。
語られなかった名前。
灯りを持たなかった声。
その存在こそが、いま語りに侵入してきていたのかもしれない。
未明書房の店主は、その便箋の所在を尋ねる翼に対して、
棚の奥から一枚の紙を差し出した。
その紙には文字がなく、ただ一箇所だけ、インクが滲んだ痕跡があった。
「これは、声を綴ろうとした者が、
灯りの前で言葉を止めた証です。
この書かれなかった語りも、棚には収められております。
なぜなら――沈黙もまた、記憶の形式だからです」
翼はその無言の記憶を手にして、はじめて気づいた。
語りの所有は、語った者のものではない。
読む者がそれを名前のないまま受け止めることで、
語りは記憶になる。
そしてその記憶が、喫茶 木霊の灯りや未明書房の棚を通って、
名前という形式を通過せずに誰かの声に変わっていくこと。
翼は震えた。
自分が灯した灯りが、
もう誰かの声として語られているかもしれないことに。
翼は喫茶 木霊に入ると、
店内の灯りがすでに最も低い明度に調整されていることに気づいた。
マスターはカウンターにいたが、言葉を交わそうとしない。
それは、「語る前の時間」を守っているような沈黙だった。
翼は昨日、未明書房で見つけた文体の痕跡にまだ脳裏を引かれていた。
自分が語ったはずの記憶が、他者によって再構成され、
それが別の文体に変質することで記憶の灯りが名を持たなくなる現象に出会ってしまった。
今日、棚の奥から取り出した一冊には、
さらに異質な語りが差し込まれていた。
「この声は、語ってはいけない記憶です。
それでも、どこかで読まれてしまうことで、
わたしは名前のないまま、語られてしまったのです」
その文体には翼の影が混じっていた。
筆致は違う。
語尾が変化していた。
でも、語ろうとする者の迷いだけが、一字一句、翼と重なっていた。
マスターに問うと、彼はようやく静かに言った。
「その声の主は、かつて語られなかった名前を持っていた方です。
記憶には残されず、棚にも収められず。
ただ、灯りだけを受け取った存在でした」
翼は、その声が誰かを特定できないまま、
その言葉を胸にしまった。
語られなかった名前。
灯りを持たなかった声。
その存在こそが、いま語りに侵入してきていたのかもしれない。
未明書房の店主は、その便箋の所在を尋ねる翼に対して、
棚の奥から一枚の紙を差し出した。
その紙には文字がなく、ただ一箇所だけ、インクが滲んだ痕跡があった。
「これは、声を綴ろうとした者が、
灯りの前で言葉を止めた証です。
この書かれなかった語りも、棚には収められております。
なぜなら――沈黙もまた、記憶の形式だからです」
翼はその無言の記憶を手にして、はじめて気づいた。
語りの所有は、語った者のものではない。
読む者がそれを名前のないまま受け止めることで、
語りは記憶になる。
そしてその記憶が、喫茶 木霊の灯りや未明書房の棚を通って、
名前という形式を通過せずに誰かの声に変わっていくこと。
翼は震えた。
自分が灯した灯りが、
もう誰かの声として語られているかもしれないことに。
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