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第三章
第十三話
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「名前を伏せた赦し」
喫茶 木霊の棚の隅に、
翼が以前残した文体に酷似した便箋が一枚だけ挟まれていた。
筆致は異なり、行間は少しだけ広かった。
それなのに、語り口が翼の胸の奥を微かに震わせた。
「この記憶を綴ったのが誰であっても、
灯りが読まれたなら、その声は残ります。
だからわたしは、赦しを求めません。
ただ、名前を伏せて、この灯りを返します」
翼は椅子に腰かけ、便箋を指先でなぞった。
その言葉は、自分に宛てられたものではなかった。
けれど、それが秋史の声に触れていたような錯覚が、皮膚の奥をさした。
それは赦しの語りだった。
名を伏せたまま、それでも返されていた声。
誰が語ったのか、誰が読んだのかさえ曖昧なまま――
それでも、その語りはたしかに棚に帰ってきていた。
マスターはその便箋にそっと目を通し、言葉を選ぶまで沈黙を貫いた。
「語ることと赦すことは似ていますが、違います。
語らないままで赦すことも、
語ってしまった記憶を誰にも渡さず灯すことも――
この店では、どちらも残された声になります」
翼は、読み返すことを選ばなかった。
その代わりに一枚の無地の便箋を取り出し、こう綴った。
「この記憶に名は要りません。
灯りが誰かに届いたと知るだけで充分です。
わたしは語るためでなく、
読み返される声として、それを残します」
紙片を棚に戻すとき、店主は何も言わなかった。
ただ、“名前のない返却”をいつもの手順より少しだけ丁寧に棚へ差し込んだ。
それは、どこから来たかを知っている者だけが行える挿し方だった。
その夜、翼はひとつだけ、便箋を手元に残した。
それは書かれなかった声、名前を語らなかった記憶。
いつか読まれるかどうかも分からないまま、
灯りとして触れられることだけを願った声だった。
語りを閉じるために、名を呼ばないままで残すこと。
それが翼にとって、秋史に返す最後の語り方だった。
そして、喫茶 木霊と未明書房には――
名を持たなかった灯りが、静かに残っていた。
喫茶 木霊の棚の隅に、
翼が以前残した文体に酷似した便箋が一枚だけ挟まれていた。
筆致は異なり、行間は少しだけ広かった。
それなのに、語り口が翼の胸の奥を微かに震わせた。
「この記憶を綴ったのが誰であっても、
灯りが読まれたなら、その声は残ります。
だからわたしは、赦しを求めません。
ただ、名前を伏せて、この灯りを返します」
翼は椅子に腰かけ、便箋を指先でなぞった。
その言葉は、自分に宛てられたものではなかった。
けれど、それが秋史の声に触れていたような錯覚が、皮膚の奥をさした。
それは赦しの語りだった。
名を伏せたまま、それでも返されていた声。
誰が語ったのか、誰が読んだのかさえ曖昧なまま――
それでも、その語りはたしかに棚に帰ってきていた。
マスターはその便箋にそっと目を通し、言葉を選ぶまで沈黙を貫いた。
「語ることと赦すことは似ていますが、違います。
語らないままで赦すことも、
語ってしまった記憶を誰にも渡さず灯すことも――
この店では、どちらも残された声になります」
翼は、読み返すことを選ばなかった。
その代わりに一枚の無地の便箋を取り出し、こう綴った。
「この記憶に名は要りません。
灯りが誰かに届いたと知るだけで充分です。
わたしは語るためでなく、
読み返される声として、それを残します」
紙片を棚に戻すとき、店主は何も言わなかった。
ただ、“名前のない返却”をいつもの手順より少しだけ丁寧に棚へ差し込んだ。
それは、どこから来たかを知っている者だけが行える挿し方だった。
その夜、翼はひとつだけ、便箋を手元に残した。
それは書かれなかった声、名前を語らなかった記憶。
いつか読まれるかどうかも分からないまま、
灯りとして触れられることだけを願った声だった。
語りを閉じるために、名を呼ばないままで残すこと。
それが翼にとって、秋史に返す最後の語り方だった。
そして、喫茶 木霊と未明書房には――
名を持たなかった灯りが、静かに残っていた。
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