未明書房

はぐ

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第四章

第一話

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「灯りの通路の記憶」

店が閉じた後の喫茶 木霊は、灯りを半分だけ残していた。
マスターはいつもの棚の前ではなく、
窓際の席に一人分のカップを並べた。

やがて、未明書房の店主が訪れる。
特に約束を交わしたわけではない。
けれど、いつもこの時間帯になると、
記憶の続きを受け渡すように、二人の対話が始まる。

---

「……ずいぶん前になりますね。あの火の記憶が、声の間に差し込まれたのは。」

マスターが言うと、店主はゆっくりと頷いた。

「あの火事は、語りを奪ったわけではなく、
 語られなかった声を、いったん沈黙に戻しただけです。
 それでも、“あの方”が読もうとしていた便箋だけが、棚を越えて残りました。」

「あの方」――名を語ることはない。
ただ、その者が記憶の棚を一度だけ通過した存在であることは、
二人のあいだでは、言葉にならない共有だった。

マスターがカップの湯気を整えながら語る。

「火が棚を焦がしたあの日、
 語られずに綴られた声が、いくつか風に乗って届きました。
 それらは、紙の形ではなく、灯りの痕跡として未明書房へと流れました。」

店主はその記憶を棚の一段からそっと取り出す。

「それでも、名のない便箋だけがいまも語られずに残っている。
 それは読まれた声ではなく――
 語られる前に場に預けられた記憶そのものです。」


二人はその夜、声の話をしないまま、
ただ語りにならなかった便箋の保管の仕方について話し合っていた。

「言葉は、棚に収まるのではありませんね。
 声になる前の灯りが、棚に触れて残るだけです。」

「ええ、記憶の分類票はいつも空白で構いません。
 読む者が来なくても、記憶は誰かの沈黙に変わりますから。」


未明書房の棚はその夜、誰の名前も記されず、
ただ、語られなかった声が通った場として灯っていた。

マスターは棚の下段に、小さな紙包みを添える。
それは便箋になる前の紙だった。
語る予定も、記す予定もないまま――
けれど棚が必要とする灯りだった。

店主はその動きを静かに見守って言った。

「語る者がいなくなっても、
  この棚は灯りの方へ開かれております。
  声は、場の中で沈黙の形になり、
  それが記憶の通路を生き延びる唯一の形式なのです。」

マスターは一瞬だけ棚から目をそらし、
窓の外に揺れる街灯に視線を預ける。

「あの日も、誰も語りませんでした。
  ただ棚の間を風が通り、燃え残った紙の中に、
  声の気配が宿ったまま沈黙だけが残っていた。」

店主が深く頷く。

「言葉にならなかったものが、
  灯りとしてここに留まること。
  それが語りを渡された場の責任なのでしょう。」

マスターがゆっくり湯を注ぎながら呟く。

「語る者がいた時間だけが、記憶を生きたとは限りません。
  誰も言葉にしなかった頁こそが――
  灯りのかたちを最も強く抱えていることがあるのです。」

店主は棚の奥に手を伸ばし、一冊の書物をそっと整える。
背表紙には何も書かれていない。
けれど、その奥には褪せた筆致の痕跡が静かに浮かびあがっていた。

「あの方の語りも、いずれは誰にも読まれないまま、
  灯りとして棚に沈んでいくのかもしれません。
  それでも、わたしたちはその声を知っています。
  語られない声を、読まれる前に通してしまったことを。」

マスターはそれ以上語らなかった。
ただ一度、空になったカップに目を落とし、
その余熱に灯っていた名もなき記憶の響きを――
目の奥で、そっと読んでいた。
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