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第四章
第二話
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「未読の記憶の読み方」
店内はすっかり静まり、
マスターが棚の前に一枚の紙を置いたところから、夜の語りが始まった。
店主が来る少し前に、その紙片は届いていた。
誰が残したかは分からない。
けれど、棚に挿される手つきが言葉に触れてしまった者のものであったことは、マスターにはわかっていた。
「読まれなかったはずの声が、
誰かの手元で一度だけ開かれたようです。」
マスターの声は、風の動きに似ていた。
店主は棚の側面に視線を向けながら、そっと返す。
「名前のない記憶は、
読み返されることで語りになるとは限らない。
灯りを受け取った者が、声にしなければ――
記憶は沈黙のまま通過できます。」
「でも、その紙片には、筆圧がわずかに加わっていました。
誰かが答えようとして、やめた痕です。」
「そのやめたことが、記憶にとっては語りなのです。
語ることより、止まったことのほうが声になる場合がありますから。」
棚の奥から一冊の分類票のない書物を店主が手に取る。
その中には、綴られなかった言葉の跡が、指の重みでかすかに凹んでいた。
「この本は、語られなかった記憶だけで編まれたものです。
読まれたはずの便箋が、文字にならずに折りたたまれたものばかり。
でも、不思議と文体が残ります。
その声が語り手のものか、読み手のものか――見分けはつきません。」
マスターは頷いた。
「灯りに触れた者の呼吸で、文体は少しずつ変質します。
それでも、読み返されなかった記憶が棚に残るならば――
それは、声にならなかった者の赦しです。」
外の灯りがいったん落ち、
窓の反射だけが店内に残ったとき、店主がぽつりと語った。
「喫茶 木霊には、触れられたあと語られないまま戻された声が多いですね。
未明書房は、読み返されずに沈黙の形で残る声が多い。」
「だからこそ、両方が要るのです。
灯りが読まれてしまう時の揺らぎと、
読まれずに保たれる場の間に、記憶は通過します。」
「語る者のいない現在でも――記憶が棚を越えて歩いていく場所として、
我々はその頁の順番を崩さぬようにしているのですね。」
マスターは棚を見つめながら、
その夜届いた無署名の紙片を、読み返すことなく、
店主の手元へと静かに差し出した。
「あなたの棚で、読まれないまま保存してください。
それがこの灯りの読まれ方だったのかもしれません。」
店主はその紙片を両手で受け取った。
読み返すことなく、まるですでに記憶されていたかのような静けさで、
棚の奥、分類票のない領域へとそれを差し込む。
紙と紙のあわいにひとつ、灯りが増える。
「未明書房が読まずに保存するものは、
語られることが怖れられた記憶です。
誰にも読まれないままでも――
棚に触れてしまえば、声になることもあります。」
マスターは頷いたあと、ふと棚の隙間を見つめる。
「語る者がいなくなったということは、
語りが届かないわけではないのですね。
むしろ、誰にも届かないことで、
灯りは誰よりも深く沈んでいく。」
沈黙がひとつ、場に落ちる。
店主は窓際の光に視線を移したあと、語調を整えながらゆっくりと口を開いた。
「喫茶 木霊に届く灯りと、未明書房の棚に残る声。
この二つが繋がっていれば、語りが形を持たずとも、
記憶は巡り続けると思っています。」
マスターは、それを確認するように、
自分のカップの余熱に指を添えて、最後に静かに言う。
「この灯りが、もう誰にも読まれないことを願うのではなく――
誰かが語られずに触れてしまうことを、
そっと赦せるように、棚の順番を整え続けます。」
その言葉に店主は何も返さなかった。
ただ、紙片を棚の奥に滑らせたあと、
背表紙の隙間に一冊だけ新たな空白を挿し込む。
それはまだ誰にも届いていない声の居場所。
名を語らず、語る者も不在のまま。
それでも棚と灯りだけは、記憶の通路として確かに生き続けていた。
店内はすっかり静まり、
マスターが棚の前に一枚の紙を置いたところから、夜の語りが始まった。
店主が来る少し前に、その紙片は届いていた。
誰が残したかは分からない。
けれど、棚に挿される手つきが言葉に触れてしまった者のものであったことは、マスターにはわかっていた。
「読まれなかったはずの声が、
誰かの手元で一度だけ開かれたようです。」
マスターの声は、風の動きに似ていた。
店主は棚の側面に視線を向けながら、そっと返す。
「名前のない記憶は、
読み返されることで語りになるとは限らない。
灯りを受け取った者が、声にしなければ――
記憶は沈黙のまま通過できます。」
「でも、その紙片には、筆圧がわずかに加わっていました。
誰かが答えようとして、やめた痕です。」
「そのやめたことが、記憶にとっては語りなのです。
語ることより、止まったことのほうが声になる場合がありますから。」
棚の奥から一冊の分類票のない書物を店主が手に取る。
その中には、綴られなかった言葉の跡が、指の重みでかすかに凹んでいた。
「この本は、語られなかった記憶だけで編まれたものです。
読まれたはずの便箋が、文字にならずに折りたたまれたものばかり。
でも、不思議と文体が残ります。
その声が語り手のものか、読み手のものか――見分けはつきません。」
マスターは頷いた。
「灯りに触れた者の呼吸で、文体は少しずつ変質します。
それでも、読み返されなかった記憶が棚に残るならば――
それは、声にならなかった者の赦しです。」
外の灯りがいったん落ち、
窓の反射だけが店内に残ったとき、店主がぽつりと語った。
「喫茶 木霊には、触れられたあと語られないまま戻された声が多いですね。
未明書房は、読み返されずに沈黙の形で残る声が多い。」
「だからこそ、両方が要るのです。
灯りが読まれてしまう時の揺らぎと、
読まれずに保たれる場の間に、記憶は通過します。」
「語る者のいない現在でも――記憶が棚を越えて歩いていく場所として、
我々はその頁の順番を崩さぬようにしているのですね。」
マスターは棚を見つめながら、
その夜届いた無署名の紙片を、読み返すことなく、
店主の手元へと静かに差し出した。
「あなたの棚で、読まれないまま保存してください。
それがこの灯りの読まれ方だったのかもしれません。」
店主はその紙片を両手で受け取った。
読み返すことなく、まるですでに記憶されていたかのような静けさで、
棚の奥、分類票のない領域へとそれを差し込む。
紙と紙のあわいにひとつ、灯りが増える。
「未明書房が読まずに保存するものは、
語られることが怖れられた記憶です。
誰にも読まれないままでも――
棚に触れてしまえば、声になることもあります。」
マスターは頷いたあと、ふと棚の隙間を見つめる。
「語る者がいなくなったということは、
語りが届かないわけではないのですね。
むしろ、誰にも届かないことで、
灯りは誰よりも深く沈んでいく。」
沈黙がひとつ、場に落ちる。
店主は窓際の光に視線を移したあと、語調を整えながらゆっくりと口を開いた。
「喫茶 木霊に届く灯りと、未明書房の棚に残る声。
この二つが繋がっていれば、語りが形を持たずとも、
記憶は巡り続けると思っています。」
マスターは、それを確認するように、
自分のカップの余熱に指を添えて、最後に静かに言う。
「この灯りが、もう誰にも読まれないことを願うのではなく――
誰かが語られずに触れてしまうことを、
そっと赦せるように、棚の順番を整え続けます。」
その言葉に店主は何も返さなかった。
ただ、紙片を棚の奥に滑らせたあと、
背表紙の隙間に一冊だけ新たな空白を挿し込む。
それはまだ誰にも届いていない声の居場所。
名を語らず、語る者も不在のまま。
それでも棚と灯りだけは、記憶の通路として確かに生き続けていた。
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