未明書房

はぐ

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第四章

第三話

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「棚を越えて届いた声」

喫茶 木霊の夜は、外の音が一度も届かず、
店の内側だけが時間を進めていた。

店主は、棚に差し込まれた紙片の列に目を落としながら、
今日持参した一冊をマスターに差し出した。
それは、分類票のない書物だったが、
綴じ糸の間に、幾つかの声の滲みが残っていた。

マスターはその本を手に取り、問いかける。

「これは、最近の声でしょうか?
  灯りが薄くて、読み返された気配がしません。」

店主は一度だけ微笑むような仕草を見せた。

「この本は、わたし自身の棚の奥から出てきたものです。
  誰の声でもなく、ただ記憶に触れたかもしれない時間だけを綴ったもの。」

マスターが表紙に指を沿わせると、
少しだけ指先が湿り気を感じた。

「触れられたようで、触れられていない時間。
  その灯りが、記憶になるにはどれほどの沈黙が必要でしょうか。」

店主は窓辺の席に座りながら答えた。

「沈黙は語りの一部です。
  語らなかったことが声になるとすれば、
  未明書房はその言わなかった記憶ばかりを預かってきたのかもしれません。」


マスターは棚から一冊の古い便箋集を取り出した。
そこには筆跡の消えかけた言葉が並んでいて、
どれも未投函のまま、誰にも読まれていない声だった。

「この声も、あの日の火事で失われたはずでした。
  ですが、紙の余白だけが棚に残りました。
  わたしたちが語ったのではなく――記憶が場を選んだのです。」

店主は頷きながら、今日差し込んだ本の表紙を閉じる。

「語り手がいなくなっても、棚が灯っていれば記憶は通過します。
  それを保存する場に自分が立っているという事実だけが、
  わたしにとっては“語りの代わり”なのです。」

マスターが、棚の中の順番を整える手を止める。

「記憶が棚を越えて届くとき、
  それはもはや誰かの名前ではなく――
  語られずに残る灯りのかたちになります。」

店主が静かに窓の外へ視線を移す。

「未明書房が開いている限り、
  語られない声たちは、場の中で姿を変えながら巡り続けるでしょう。
  それが名前を持たないままでも――
  棚の隙間が、語りの余白になってくれるはずです。」

マスターは店主の言葉を受けて、
しばらく黙ったまま、棚の並びを眺めていた。
その視線はどの本にも定まらず、
まるで“語られずに通過した声”の行方を辿るようだった。

「そうやって残ってきたものが、
  誰にも読まれないままでも、
  この棚の中で少しずつ熱を持ちはじめる時があります。
  それが、語りの始まりか、
  終わりかは誰にも分からないけれど。」

店主は静かに頷いた。

「だからこそ、順番を守るのです。
  語られることのない記憶たちが、
  場の奥で静かに待っているあいだ――
  わたしたちが灯りを落とさないように。」

マスターは棚の隙間に一冊の名もない便箋を差し込んだ。
筆跡はない。
けれど、その紙の折れ方が、
誰かが一度だけ迷いを抱えた記憶の残滓に思えた。

「語り手がいなくても、
  棚のあわいで記憶が残りつづけること。
  それだけが、ここに残すべき意味なのかもしれません。」

店主は少しだけカップに指を添える。
湯気はもう残っていなかった。
それでも、その余熱に語られなかった声が立ち上がるように、
彼は棚の奥へと静かに視線を戻した。

そして、誰にも読まれない書物の背表紙にそっと触れながら、
夜の静けさに滲むように、語った。

「この場が続いていく限り――
  記憶は、語られなくても息をしていると思うのです。」

二人は言葉を止めた。
言葉よりも長く続いた沈黙が、
その夜の記憶を、棚に染み込ませていた。

それは語り手のいない世界の中で、
それでも語りが生き延びるための、
静かな灯りの封じ方だった。

棚が一度だけ軋んだ。
誰もいないはずの空間で――
背表紙が僅かに息を吐いた音のように。

未明書房は、確かにまだ、語られていない声のなかで生きていた。
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