未明書房

はぐ

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第四章

第四話

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「座られたままの席」

喫茶 木霊の灯りは、その夜、とりわけ穏やかだった。
棚の背表紙たちは何も語らず、
窓の外の街灯さえも、息をひそめて佇んでいたようだった。

店主が店内に入ったとき、マスターは既に席を整えていた。
その椅子のひとつが、他の配置と微かに角度を違えていた。

「この席……どなたかが最近使われたので?」

店主の問いに、マスターは一度だけ間を置いてから答えた。

「いいえ。誰も座ってはいません。
  ただ、この椅子はずっと、元に戻していないんです。
  あの日、語らずに帰られた方の背中のまま。
  灯りが移動しないようにしているだけです。」

店主はその言葉の温度にゆっくり沈みながら、席の背もたれを指先で撫でる。
そこには紙の擦れでも木目の劣化でもない、記憶の手触りが残っていた。


マスターが語る。「あの方は声を持っていなかった。
名前も聞かず、便箋も使わず、ただ棚の灯りを見ていた。
そして、そのまま何も語らず、湯気だけを席に残して帰られました。」

店主は湯の温度を想像するように、空のカップを見つめる。

「語られなかった記憶が、
  場の空気に残る場合があります。
  それは語り手の不在ではなく、
  語りそのものが空間の背中に触れた証です。」


マスターは棚から一冊の分類されていない便箋集を持ち出した。
表紙は黒く、綴じ糸が不自然に途中でほどけている。
その裂け目の間に、一枚だけ折り重ねられた紙があった。

「この便箋も、声を途中まで綴ろうとしてやめた形です。
  筆跡ではなく、ためらいの圧だけが残っています。」

店主はそれを見て、一枚の紙片を懐から取り出す。
それは未明書房に差し込まれたまま、分類されなかった記憶だった。

「名前も日付もないまま、棚に届いたものです。
  ただ、紙の折れ方と角度が――
  語りを止めた方の姿勢に似ていた。」

マスターはそれらを並べながら、
“語られなかった記憶の順番”を指先だけで調整した。


店主が静かに言った。

「語り手が座ったかどうかではなく、
  語ることをやめた時間が残っているかどうか。
  喫茶 木霊は、そのやめ方を保存する空間なのですね。」

マスターが答える。

「ええ。語る者は記憶を残す。
  語らなかった者は灯りを残す。
  そして灯りは、場に座ったまま動かない記憶になるのです。」

店主は棚の奥に手を伸ばし、
今夜持参した分類票のない書物の背表紙に触れる。

「声にならなかったものが棚を通過したとき、
  記憶は名を持たないまま、場の順番だけを選ぶようになります。
  その選ばれ方こそが――語りの構造なのかもしれません。」


その夜、マスターは椅子の角度を直さなかった。
そして店主は、その席の隣に、一冊の分類票なしの文体集を置いた。
その配置は、誰にも座られないまま、
語られなかった記憶をそっと受け止めるものだった。

最後に店主が静かに語った。

「語り手が不在の棚には、
  語られなかった声が読まれぬまま蓄積されていく。
  それが未明書房の生き方です。」

マスターは湯気が消えたカップを、棚の端に置いた。
それは声ではなく、座られたままの記憶だった。

棚がその夜、ひとつだけ軋んだ。
誰かの語らなかった声が、
もう一度、灯りとして場を越えて巡ろうとしていた。
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