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4th letter fromミカエル
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ノアールは賢い。よくできた猫だ。
目当ての人間がいなければ、勝手に部屋に入ってくることはない。それどころか人目を避けてどこかに身を隠し、目的の人物が姿を現すまでじっと耐え忍んでいるようだ。
ジークが所用を済ませて自室に戻ってきたのは昼過ぎのこと。扉を開けた途端に、窓辺でかりかりとガラスを引っ掻く音がしてそちらを見ると、黒い小さな影が見えた。
「いつから待ってたんだ?」
ジークが窓を開けると、特に返事をすることもなくノアールは我が物顔でちょこちょこと中に入り、ソファーにでろんと寝そべった。
その首筋には、昨日と同じように手紙が結び付けられた首輪があり、ノアールが動く度に小さな鈴の音がちりちりと鳴る。
「ちょっと失礼するよ、レディー」
首筋をころころ撫でてやりながら、逸る気持ちを抑えて手紙を外し広げた。
よくよく思い返してみれば、マリーはとても素直な女性だ。
初めて会った時、マリーは考えていることがそのまま表情に出ていたから、ミックに絡まれて困っていることがすぐにわかった。その後わざわざこちらにお礼を言いに来た時も、心から感謝しているとその表情でわかったし、友達になりたいと言われた時も、突然のことで面食らったものの、その言葉に他意はないことは見てわかったから、話に乗ってみた。
マリーは天真爛漫で裏表がなく、貴族社会では当たり前に存在する体裁だとか外面だとか、そういったものとは無縁の世界で生きているように見えた。
今回の手紙も然り。
返事が来るとは思わなかった、なんてある意味こちらに対して無礼ともとれることを平気で書いてくる。けれどそれが紛れもなく彼女の本音なんだろう。そして、返事を貰えてとても嬉しいと何度も何度も書き連ねた挙句、尊敬しています、等と書かれていては、つい口元がにやけてしまう。
ハッとして辺りを見回すものの、部屋にはノアールしかおらず、ほっと息をつく。
マリーはごく普通の貴族令嬢だ。
美しいものを愛で興味のあるものを楽しみ、幸せなそうな日常がそこには綴られていた。ノアールを介して手紙のやりとりをしている友人というのは、文面からして女性のようだ。昨日からもやもやしていた気持ちがすっと晴れた。
甘いものが大好きで、カフェ巡りもしょっちゅうしているらしい。
そういえば、とジークはふと婚約者に想いを馳せた。
婚約者のローザも、甘いものが大好きらしい。
彼女の母親にそう聞かされて、一緒にカフェに出かけたことがあった。
1人では滅多に外出しないというローザは、辺りを見回してそわそわし、終始居心地が悪そうにしていた。その店はチョコレートケーキが有名らしく、ここならローザも喜ぶのでは、と連れて行ったのだが、それを伝える前にローザは自分でさっさと紅茶をオーダーしてしまった。ケーキのことを話題に出す隙もなくいつもの中身のない世間話が始まり、いつも通り大して会話も弾まず早めにお開きとなったのだった。
甘いもの好きというのはガセだったのか?
いや実の母親からのリークなのに?
ジークにとってローザは未だに謎に包まれた不思議な存在だ。
幼い頃のローザは、ころころとよく笑う素直で可愛らしい少女だった。父親に叱られ落ち込んだ時も、ローザの笑顔を見ればすぐに立ち直れた。今思えば、あれがジークの初恋だった。
しかし成長して何年かぶりに会ったローザは、ジークの記憶の中のローザとはかけ離れていた。淑女らしい所作を身につけたのと引き換えに、心をどこかに置いてきてしまったかのようで、何を考えているのか掴みどころがない。
どうしたら彼女の興味を引けるのか、頭で考えながら一言一言慎重に吟味して話をするものの、大体空振りに終わる。
ジークの場合、深く考えれば考えるほど会話の流れがぎこちなく不自然になってしまう。それがローザを呆れさせてしまっているのだろうという自覚はある。がしかし、ローザはふいに悲しげに眉を顰めることもあり、何か気に障ることを言ってしまったかと焦ってしまい、どうしても他の人と同じように軽い気持ちで話しかけられない。
お互い楽しく仲を深める会話なんて当然できるはずもない。
ローザが時折見せる憂いを帯びた表情にどきっとさせられることもあるが、昔のような屈託のない笑顔を見せてほしいとも思う。
「返事を書くから待っててくれるか、ノアール」
みゃー、と小さく返事をする黒猫の頭を撫で、ジークは机に向かった。
マリーは純真無垢で世間慣れしていない令嬢ではあるが、馬鹿ではない。
このノアールを見ていればわかる。気まぐれな猫をここまで手懐けるのは大変なことだろう。相当な知識と根気と努力がいることだ。
マリーには嘘や見栄は通用しないだろう。きっとすぐに見破られる。そして幻滅される。
マリーに倣って、この手紙には自分の素直な気持ちを書き綴ることにしよう。あえて深く考えずに。
程なくして手紙を書き終え、昨日と同様にノアールの首輪に手紙を結びつけようとしたところで、ジークはふと手を止めた。
「……ノアール、もう少しだけ待てるか? もちろんちゃんと礼はする」
目当ての人間がいなければ、勝手に部屋に入ってくることはない。それどころか人目を避けてどこかに身を隠し、目的の人物が姿を現すまでじっと耐え忍んでいるようだ。
ジークが所用を済ませて自室に戻ってきたのは昼過ぎのこと。扉を開けた途端に、窓辺でかりかりとガラスを引っ掻く音がしてそちらを見ると、黒い小さな影が見えた。
「いつから待ってたんだ?」
ジークが窓を開けると、特に返事をすることもなくノアールは我が物顔でちょこちょこと中に入り、ソファーにでろんと寝そべった。
その首筋には、昨日と同じように手紙が結び付けられた首輪があり、ノアールが動く度に小さな鈴の音がちりちりと鳴る。
「ちょっと失礼するよ、レディー」
首筋をころころ撫でてやりながら、逸る気持ちを抑えて手紙を外し広げた。
よくよく思い返してみれば、マリーはとても素直な女性だ。
初めて会った時、マリーは考えていることがそのまま表情に出ていたから、ミックに絡まれて困っていることがすぐにわかった。その後わざわざこちらにお礼を言いに来た時も、心から感謝しているとその表情でわかったし、友達になりたいと言われた時も、突然のことで面食らったものの、その言葉に他意はないことは見てわかったから、話に乗ってみた。
マリーは天真爛漫で裏表がなく、貴族社会では当たり前に存在する体裁だとか外面だとか、そういったものとは無縁の世界で生きているように見えた。
今回の手紙も然り。
返事が来るとは思わなかった、なんてある意味こちらに対して無礼ともとれることを平気で書いてくる。けれどそれが紛れもなく彼女の本音なんだろう。そして、返事を貰えてとても嬉しいと何度も何度も書き連ねた挙句、尊敬しています、等と書かれていては、つい口元がにやけてしまう。
ハッとして辺りを見回すものの、部屋にはノアールしかおらず、ほっと息をつく。
マリーはごく普通の貴族令嬢だ。
美しいものを愛で興味のあるものを楽しみ、幸せなそうな日常がそこには綴られていた。ノアールを介して手紙のやりとりをしている友人というのは、文面からして女性のようだ。昨日からもやもやしていた気持ちがすっと晴れた。
甘いものが大好きで、カフェ巡りもしょっちゅうしているらしい。
そういえば、とジークはふと婚約者に想いを馳せた。
婚約者のローザも、甘いものが大好きらしい。
彼女の母親にそう聞かされて、一緒にカフェに出かけたことがあった。
1人では滅多に外出しないというローザは、辺りを見回してそわそわし、終始居心地が悪そうにしていた。その店はチョコレートケーキが有名らしく、ここならローザも喜ぶのでは、と連れて行ったのだが、それを伝える前にローザは自分でさっさと紅茶をオーダーしてしまった。ケーキのことを話題に出す隙もなくいつもの中身のない世間話が始まり、いつも通り大して会話も弾まず早めにお開きとなったのだった。
甘いもの好きというのはガセだったのか?
いや実の母親からのリークなのに?
ジークにとってローザは未だに謎に包まれた不思議な存在だ。
幼い頃のローザは、ころころとよく笑う素直で可愛らしい少女だった。父親に叱られ落ち込んだ時も、ローザの笑顔を見ればすぐに立ち直れた。今思えば、あれがジークの初恋だった。
しかし成長して何年かぶりに会ったローザは、ジークの記憶の中のローザとはかけ離れていた。淑女らしい所作を身につけたのと引き換えに、心をどこかに置いてきてしまったかのようで、何を考えているのか掴みどころがない。
どうしたら彼女の興味を引けるのか、頭で考えながら一言一言慎重に吟味して話をするものの、大体空振りに終わる。
ジークの場合、深く考えれば考えるほど会話の流れがぎこちなく不自然になってしまう。それがローザを呆れさせてしまっているのだろうという自覚はある。がしかし、ローザはふいに悲しげに眉を顰めることもあり、何か気に障ることを言ってしまったかと焦ってしまい、どうしても他の人と同じように軽い気持ちで話しかけられない。
お互い楽しく仲を深める会話なんて当然できるはずもない。
ローザが時折見せる憂いを帯びた表情にどきっとさせられることもあるが、昔のような屈託のない笑顔を見せてほしいとも思う。
「返事を書くから待っててくれるか、ノアール」
みゃー、と小さく返事をする黒猫の頭を撫で、ジークは机に向かった。
マリーは純真無垢で世間慣れしていない令嬢ではあるが、馬鹿ではない。
このノアールを見ていればわかる。気まぐれな猫をここまで手懐けるのは大変なことだろう。相当な知識と根気と努力がいることだ。
マリーには嘘や見栄は通用しないだろう。きっとすぐに見破られる。そして幻滅される。
マリーに倣って、この手紙には自分の素直な気持ちを書き綴ることにしよう。あえて深く考えずに。
程なくして手紙を書き終え、昨日と同様にノアールの首輪に手紙を結びつけようとしたところで、ジークはふと手を止めた。
「……ノアール、もう少しだけ待てるか? もちろんちゃんと礼はする」
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