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巡る地球儀
しおりを挟む「そろそろ、人間生活に復帰できそうだな」
検査を終え、診察室に入ってきたクレイグが開口一番にそう言った。
「本当か?」
「ああ、検査結果は良好だ。これなら朝昼夜の抗ウイルス薬の注射のみで実社会に戻れる」
「よかった……」
ウィルが一息ついたとき、ドアをノックする音が聞こえてきた。
「少しいいかな」
「オズウェルさん!?」
部屋に入ってきたのは、HQを取り仕切るボス、オズウェルだった。
「クレイグ君から、君の容態を聞いていたよ。今日の検査でいい結果が出そうだと。どうだったかな?」
「想定通り、ばっちりです」
「そうか、さすがだな、クレイグ君は」
クレイグの言葉に、嬉しそうな表情に変わるオズウェル。
「ウィル、君は今後どうするつもりなのかね」
「俺は……できれば、部隊に戻りたいです。でも、こんな身体じゃ力になれませんね」
ウィルの声に陰りができる。
「うむ……そういうだろうと思っていた。だが、クレイグ君から事前にそれはできないだと聞いている」
「でしょうね」
「HQに、来るのはどうかね」
「えっ……」
想像もしていなかった言葉に、ウィルの動きが止まる。
「俺からオズウェルさんに聞いたんだ。HQならある程度自由が効くし、最初のうちは俺が抗ウイルス薬の投与をする。慣れてきたら自分でも投与していいが、どのみち医療チームに近い場所にいた方がいい」
「そういうクレイグ君のはからいだが、どうだね?」
「どうだねと言われましても……ちょっと今の俺にはうまく整理が……」
困惑するウィルに、クレイグとオズウェルは顔を見合わせてうなずいた。
「そりゃそうだよな。しばらくは考えてみる時間をくれてやってくださいとはオズウェルさんにお願いしておいた」
「私も即日で答えが出るものだとは思っていないから、よく考えるといい。一週間、猶予を与えよう。それでも決まらなければ、もっと猶予を与える。君によく合うポジションは、用意しておくから。悪いことは言わない、どうかHQに来てくれ」
それだけいうと、オズウェルは部屋を出ていってしまった。
「お前……そんなことしてたのか」
「ああ。社会復帰は必須だろ?」
「そうだけど……俺は、部隊に戻りたい」
「それは今は無理だ。というか、人生すべてのタイミングで不可能に近い」
「……そんなこと──」
「お前、よく考えてみろ。BSOCは精鋭だ。そこに右腕の効かないお前が入って、足を引っ張るつもりか?」
「……」
「万が一にも、お前の右腕が人類史上見たことのない回復をとげりゃなくはないが」
クレイグが、わざときついことを言っているのはわかる。変に期待を持たせないためだろう。頭では分かっているが、心が落ち着かない。
「HQの中でも、部隊メンバーと近い場所を用意するとオズウェルさんは約束してくれたんだ。よく考えてくれ」
「……わかった」
一人にしてくれるつもりなのか、クレイグは部屋を出ていった。
(HQ、か……)
ウィルは途方に暮れていたのだった。
ウィルがHQに転属になって一ヶ月弱。ここの仕事にもだいぶ慣れてきた。それだけでなく、むしろ多様な仕事の殆どで、自ら率先して効率を考えた取り組みをする。
HQの中でも中核のオペレーションチームに配属されたのは、勿論アルファチームでの功績からだろう。最も、数か月後にはチームに戻るつもりのウィルは、それ以外の部署に配属された時点でそれを退けていただろうが。
「ウィル、先週のオペレーションレポート出来てる?」
朝のミーティングを終え、デスクで議事録をまとめていたウィルに上司が声をかけた。知性を感じさせる目と髪型、メガネをかけているのが余計にそれを際立たせている。
「ええ。既に支部長に提出済みです」
ウィルはパソコン画面から目を離し、上司に体を向けて答えた。そして嫌味なく笑みを添える。
「ありがとう、いつも仕事が早くて助かるわ」
「勿体無いお言葉ですよ、アリシアさん」
ウィルはそういって屈託無く笑った。ウィルの上司、セシリー・アリシアはそんなことないわよ、と告げてウィルのデスク前の自席へと座る。今日は全部隊訓練だからそう忙しくはないだろう。
「アリシアさん、何か飲みますか?」
デスクワークのときだけかけるブルーライト用メガネから覗く、真っ直ぐな瞳。それにいつも吸い込まれてしまいそうになる。
アリシアは自分の恋心が日々大きく成長していくことに気がついていた。年齢差は3つ。自分の生まれをこれほど恨んだことはない。女性にとって意中の彼より年上というのはそれだけでハンデになるとアリシアはいつも思っては落ち込むのだ。それでも、ここで人生が ウィルと交わったことだけは感謝しよう。そう思うほどに、今のところ、この目の前の気の利く優しい男に夢中だ。
「コーヒーがいいわ」
「わかりました」
そういうとやはり笑みを忘れず、ニコリと笑ってから立ち上がった。アリシアはその後ろ姿を見送ると、訓練のデイリー結果を見るためにパソコンの画面に目を落とした。
少しそれに見入っているうちに隣にコトリとコーヒーが置かれた。
「デイリーですね。……うん、やっぱりキャプテンは強いな」
そう言うウィル自身もマグカップを持っており、コーヒーを少し飲んだ。アリシアも画面から目を離さずに、ウィルが置いてくれたコーヒーカップに口をつける。それはシュガーなしのミルクのみ。自分の好みもばっちり押さえたウィルに感心するのももう何度目だろう。
画面にはアルファチーム、ブラヴォーチーム、チャーリーチームの昨日の訓練結果が表示されている。やはりアルファチームの成績は全体的に良く、中でもキャプテンのレイフは全てにおいてバランスのとれた成績であり、射撃は満点だ。
以前はここにウィルの成績も載っていた。アリシアはそれをデータでしか見ることはなく、レイフに次いで成績が良いのを知っていたが、顔は知ることがなかった。オペレーションチームは情が移らないように、キャプテンのレイフ以外の部隊メンバーとの接触を禁じられているのだ。
だからデータでしか見たことのないウィルに会うのは内心緊張した。正直レイフのように大きな筋肉を持った体育会系の見た目を想像していたが、いかにも聡明そうなすらりとした体型に驚いた。それもまだ一ヶ月前なのに、もうこんなにも馴染んでいる。
「さすがアルファの精鋭達ね」
「あ、アルフもかなり成績伸びてるな……このままなら、次期BMとして育成するのもありかもしれない」
画面に顔を近づけるウィルと、アリシアの距離がぐんと近付く。ウィルの襟元から香る石鹸のにおいに、アリシアの鼓動が高鳴った。
「そうね……ところでウィル、今日の夜の飲み会は参加するの?」
「そうですね、是非とも。バックアップチームとメディカルチームも合同なんでしょう?」
「ええ」
バックアップチームとは、オペレーションチームの事務や経理などを行う部署のことだ。
「メディカルチームの友人と少し語り合いたくて。アリシアさんも行くのでしょう?」
「そうね。……あなたが行くなら、行こうかしら」
そう言ってアリシアはウィルを見つめる。これが彼女の精一杯だ。
「僕はユーモアがないですから、あなたを笑わせることは出来ませんよ」
そう笑いながらデスクに戻るウィルを見て、アリシアは内心ため息をつきたい気持ちになった。これは負けだ。実際、彼の様子を見ていれば自分に興味がないことなどわかる。それでも今まで勉強も運動も仕事も、すべて頑張って夢を叶えてきたのがここで無駄になるのは嫌だった。
「ハイ、ブラッドバーンです」
ウィルが内線に出る。
「ああ、お疲れさまです。……わかりました、すぐ行きます。……いや、僕が行くよ。うん、デスクで待ってて」
電話から漏れ聞こえてくる声は女性のものだ。タメ口が出てしまうところからみてサポート事務のアメリア・エイミーだろう。彼より二つ年下で入社して日の浅い彼女は、アリシアとは正反対のタイプだった。柔らかく可憐な雰囲気を纏っていて、オフホワイトの似合う女性。ウィルの好みがそういう女性であれば、すぐに落ちてしまうだろう。
「ウィル」
「ハイ」
席を立ってエイミーのデスクへ向かおうとしたウィルを引き止める。特に用はなかったが、あの女のところに行かせるのは嫌だった。
「……ついでに、付箋とって来てくれない?」
「ええ。わかりました」
そういうと、ウィルはくるりと背を向けてエイミーのデスクへ向かって行ってしまった。ウィルの背中を見つめてその背中が角を曲がって見えなくなった瞬間、アリシアは盛大なため息をついた。ただの注文の多い女だと思われたかもしれない。年上でわがままで、どうしようもない女に思われているのだろうと考えるだけで気が滅入ったアリシアは、ウィルが持ってきたコーヒーを一気に煽った。
「アメリアさん。資料ありがとね」
エミリーはその声にくるりと振り返り満面の笑みを作る。ウィルが来ているのは、前のデスクに座る親友のブレンラ・シンディーの表情でわかっていた。その瞬間を待って振り返ったのだ。
「わぁ、ウィルさん! ありがとうございます。わざわざすみません」
「いいえ。ごめんね、わざわざ内線まで貰っちゃって」
「大丈夫ですよぉ。これ、資料です。昨日これのせいで残業しちゃったんですよ~? ウィルさんが急ぎだなんていうからぁ」
彼女は他人への甘え方をよく知っている。シンディーは見て見ぬ振りをしながら画面だけに集中した。
「本当に? ごめんね。また何かお返しさせて」
「なんでもいいですかぁ?」
「うーん、なんでもとは言えないな。気の利いたことは出来ないからね」
そういうウィルに、エミリーは内心舌打ちをしたいくらいの気持ちになった。いつもうまくかわされてしまう。気付いていてそうしているのか、それともただの鈍感なのか。エミリーにはウィルの心の内が読めないでいた。他人の気持ちを表情から読み取るのを得意としている彼女でも、ウィルのことはよくわからない。
時々気付いていてそうしているのかと思うこともあれば、やっぱり本当に鈍感なだけだった、と思うこともある。どちらかわかればそれぞれに攻略法は見えているが、どちらにも転がらないウィルのせいで、どう駒を進めようか決められないでいた。
「じゃあ、わたし、ウィルさんにケーキ食べに連れて行ってほしいな」
「生憎と俺の行く店はウイスキーがうまい店ばかりなんだ。酒好きを連れて行くことが多いからね。女の子の好きそうなお店は知らないかも、ごめんね」
そう言いながらウィルは、エミリーに手渡された資料の中身をチェックする。冬の予行演習の行程表と内容を詰めた資料だ。
アリシアにお願いをして、どうにか予行演習の内容変更・補強・改編を自分に任せてもらうようにした。レイフと家でも話し合い、何度も練り直しては詰めて作った自信作だ。そのプレゼンが通り、いまこうして正規の演習として採用されたのを誇りに思う。
もっとも、それには自らが参加する予定だからHQとして作成したのではないが。アリシアはじめ、HQのほぼ全員がもはやウィルは部隊になど戻らないと思っているだろう。それでも構わない。筋力トレーニングを積んで試験を受け直す。
そのためにもいまは余計なことは言わない方がいいと、ウィルはレイフ以外の誰にも言わないでいた。
「いいお店、知らないんですかぁ~? 彼女さんとかいそうなのにぃ」
「女性と付き合うような時間があったら、ジムで男と一緒に走るような奴だよ、俺は」
そういってウィルは資料を元のクリアファイルに戻した。ミスはなさそうだ。エミリーはバカなフリをしているが実は頭も切れるし、昨日残業したのもきっと、何度も見直ししてミスがないか確かめたからだ。ウィルは彼女のそういう努力家なところを買っていた。そもそもそれなりの成績がなければこんなところにいないだろう。ただそれを隠しているのは、何か理由があってのことだろうと思って、わざとウィルは聞かないようにしていた。
「仕事に戻るね。これ、ありがとう。確かに受け取ったよ。レミントンさんも、仕事頑張ってね」
そういってウィルは小さく手を振ると、そのままオープンスペースへ出て行ってしまった。ウィルたちのいるオペレーションチームとバックアップチームは、オープンスペースの廊下を介してつながっている。軽快な足取りで戻っていく後ろ姿を、エミリーはただじっと見ていた。
「ねえブレンラ」
「何?」
「今日の飲み会行くかな、ウィルさん」
「行くんじゃない、さすがに断れないでしょ」
ブレンラはパソコンの画面から目を離さずに答えた。エミリーがウィルを狙っているのは知っている。
「決めた。飲み会の前、買い物付き合って」
「何買うの?」
「秘密。ウィルさんの気を引きたいの」
エミリーは恋に一途で、よくある恋愛中毒体質だ。それでもウィルと同じように、ブレンラは彼女がそれ故に頑張るところを知っているし、強い信念のもと行動しているからこそ、彼女のそばにいるのだ。今まで女子校で育ってきたブレンラは、そういう恋に恋している状態の女子をたくさん見ていたが、エミリーは違う。自分の過去と、未来と向き合いながら精一杯生きているのを強く感じるから、そばで応援してあげたくなる。だから多少のわがままでもきいてあげたくなるのだ。
「いいわよ。じゃあ今日は、定時で仕事終わらせてね」
「勿論!」
張り切った表情でエミリーがパソコンに向かったのを、微笑ましく思いながらブレンラは見ていた。
巡る地球儀 2
「ウィルさん、お久しぶりです」
「エドモンド!」
病室のドアからひょっこりと顔を出した懐かしい顔に、思わずウィルの声が大きくなる。
「すみません、いきなり。外のプレートが使用中になってたから、来てるのかなって」
「いいよ、むしろ最近会ってなかったから嬉しい」
投薬は医療チームから借りている病室で行う。投薬をして一時間ほどは安静を強いられるためだ。
エドモンドとも、半月くらいは会っていなかった。クレイグはもう、ウィルがHQに来るとほぼ同時に会えなくなったから、一ヶ月近くになる。
エドモンドはニコニコとしながらウィルが注射器を扱うのを見ている。
「すっかり注射にも慣れましたね」
「そりゃね。クレイグはどうしてる?」
「それが僕もここ最近会ってないんです。ずっと研究室にこもりっぱなしで……」
少し困ったようにエドモンドが笑う。エドモンドはクレイグの大学の後輩で、クレイグの引き抜きでここへ来たのだと聞いた。ウィルやクレイグとも年齢は1つしか違わない。
エドモンドは控えめでたれ目が特徴の優しい青年だ。
「そっか……。でも今日の夜は来るんだろ?」
「ええ。ウィルさんにやっと会えるって、楽しそうにメールしてきましたよ」
「あいつ……恥ずかしいやつだな」
ウィルは笑う。昨日クレイグにメールしたときにもそんなことを言われたが、それは2人の間だけにとどめておいて欲しい。他の人にも言ってしまうなんてこちらが恥ずかしくなる。だがメールにもあったように、相当人に会っていないのだろう。だから思わず人恋しくなったに違いない。
「だから今夜は、久しぶりにクレイグさんを人間まみれにしてやるんです!」
「人間まみれって……」
エドモンドは本当にクレイグによくなついている。クレイグもエドモンドを可愛がっている。先輩後輩の関係から考えたら理想的だろう。
「ねえウィルさん……少し、僕の話をしてもいいですか?」
「ん? いいよ」
「あ、どうぞベッドに入って下さい」
投薬を終えたウィルにエドモンドが促す。ウィルは促されるままベッドに横たわった。
「まあ僕の話って言っても、クレイグさんのことが中心になっちゃうんですけど……。ウィルさんは、高校の頃からクレイグさんとお友達だったんですよね?」
「ああ」
「いいなぁ。クレイグさんは僕が一番尊敬している人なんです。大学も結局クレイグさんは 2年で飛び級しちゃって、あまり一緒に勉強した実感はないんですよね。それに、まだここに来て日も浅いので、全然クレイグさんのこと知らないんですけど……」
エドモンドは本当にクレイグに懐いているらしい。その眼差しから伝わってくる。ウィルは微笑ましい気持ちになった。
「あいつ、大学ではどう過ごしてたの?」
「教授と仲が良かったので、いつも教授の部屋で勉強していましたよ。ずっと机に向かって 勉強されてました。でも、時々趣味のバスケットもして。文武両道なので羨ましかったです」
ウィルの知らないクレイグの話だった。そんな研究者気質なところが、いまも彼を研究室へ閉じ込めているのだろう。
「僕も教授になんとかお願いして、一緒に研究室で勉強させていただきました。わからないところはすぐに教授やクレイグさんに聞けるので、とっても充実してたんです」
「じゃあ、クレイグとはそこで初めて会ったのか」
「あ、いえ……。クレイグさんが、新入生のためのパーティで学生代表として挨拶をしてたんで、そこで会いました。挨拶が終わった後は嫌そうに、壁の花を決め込んでいましたけどね」
目を細めながら、エドモンドが話し始めた。
───「この大学生活、遊べると思うな。あんたらは将来、患者の命を背負うんだ。それがどういうことなのかをしっかり刻め。実習も実験もある、人間としてもっと成長しなくちゃならない。勿論感性を豊かにするためにも色んなことに取り組むべきだが……きっと、そんなこと器用に出来ないんだ。ならここからの四年間、勉学に徹する方が懸命だろう。俺からの挨拶は以上だ」
壇上に上がってからは非常に早かった。エドモンドはその圧倒的な存在感に、口を開けたままそのスピーチを聞いた。さっと軽い身のこなしで壇上を降り、人ごみに紛れる。クレイグのスピーチをもって、形式ばったパーティから、交流会へと変わった。エドモンドはクレイグの姿を探した。
壁に凭れ、本を読んでいるクレイグは、長い足を持て余しているように見えた。
「あの、……クレイグ・サイラスさんですか?」
「……はい」
少し訝しげにこちらをみて、敬語で答えた。身なりから一年生だとわかっただろうが、距離を置くためだろう。
クレイグは冷たい目でこちらをみている。
「僕、エドモンド・アルノルトと言います」
「……ドイツ人か?」
「あ、父親がドイツで、母親がアメリカです。僕自身は少しドイツ語が話せるくらいで……」
「Wer ist der Vater der Megizin jemand angerufen?」
「……Hippokrates ist」
突然、クレイグはドイツ語でエドモンドに尋ねて来た。エドモンドは慌てて答える。クレイグは満足したのか、少しだけ口角を上げた。
「アルノルトといってドイツ人だとわかったのはあなたくらいです」
「ドイツに何人か友人がいるんでね」
「そうなんですか! あ、あの……僕がこんなことを言うのもなんですが、嫌そうなのにこのパーティに参加してるのはなぜですか?」
「あの人のためだよ」
クレイグは顎をしゃくり、少し遠くにいる英国紳士とも言いそうな男性を指した。
「あの方は……?」
「俺の命の恩人だ。そして、恩師でもある」
クレイグは目を細めた。何か特別な縁でもあったのだろう。そこからエドモンドは教授の名前を調べ、教授の研究室で勉強する権利を得たのだ。
研究室に入り浸っていると、2人の関係性がわかってきた。どうやら過去にクレイグが命に関わる怪我か病気をしたところを、教授が現役の医師だったときに助けたらしい。そしてそれを機に医学の道を目指したクレイグは、この大学で運命の再会を果たした、というわけだ。
「教授。下に荷物が届いてるそうなので、取りに行ってきます」
「ああ、クレイグ、悪いな」
「いいえ」
教授は初老だったが片目の視力を失ったらしく、それでやむなく現役を退いていた。そのせいか、クレイグはいつも二階にある研究室に教授が来るときは迎えに行っていたし、荷物を取りに行ったり、どうしても教授自身でないといけないような用事でない限り、すべてクレイグが代わりに対応したりしていた。───
「教授に接するときのクレイグさんは、とっても献身的で、おとなしい青年でした。でも、その年の暮れ、……あのワールドブリッジ社のテロがあったんです」
それはウィルが陸軍にいたときのことだった。ワールドブリッジ社は生命医学の分野では世界的に有名だっただけに、その波紋は大きかった。
「うちの教授は、そこの研究に携わっていました。もちろん生物学者ではなかったのでそれほどではありませんが、人の良かった教授は、自分がそのテロに加担してしまったと酷く落ち込んでいたんです」
クレイグも酷く落ち込んだだろう。そして教授を支えたに違いない。あの余波はまだ、世界の各国に残っている。そしてBSOCとしても多くの犠牲を払った忘れられない事件なのだ。
「これはクレイグさんから聞いたことから僕が予想したことなんですが……ある冬の日、教授は自らを化け物に変えたんです。そしてクレイグさんは、”それ”をBSOCに引き渡した」
ウィルは言葉を失った。自分が思っていたより酷く、その衝撃は大きい。
「それは、……どこまでクレイグに聞いたことで、どこからがお前の予想なんだ……?」
「クレイグさんから聞いたのは、”教授をBSOCに引き渡した”ということです。元々感染していたということは、いま思い返してみても初期症状なんかも見られなかったからあり得ない。そして、……あまりにもBSOCへの引き渡しが早かったんです。それは一日のうちに終わってしまった。ある日いつものように研究室へ行ったら、クレイグさんは荷物をまとめていました。教授の所有していた資料たちはみんな、彼の家にあります」
───あれは朝、冬の寒い日でした。
僕はいつものように研究室のドアを押しました。あの事件からずっと落ち込んでいる二人に、近所で買ってきたおいしいパンを持って。少し早起きをしたらいつも売り切れているのが、たまたま最後の3つ残っていたのです。
「おはようございます」
「おはよう」
「何してるんです? 教授は今日お休みですか?」
あのときの僕は、とても迂闊だったといまでも酷く後悔しています。
クレイグさんは少しだけこちらに視線を寄越すと、一瞬目をそらしてからああ、とだけ言いました。
残念ながら、僕の迂闊は先のそれだけじゃなかったのです。
「風邪でも引かれたんです? 昨日まで元気だったのに」
「……」
何も言わないクレイグさんは、ただただ棚にある本を床に敷いた敷物の上に下ろしていました。入学パーティのときは寡黙で厳しい方だと思っていましたが、教授と同じ空間で普段のクレイグさんを見ていると真面目でユーモアのある紳士だとわかってきていたので、僕のことを無視するような素振りのクレイグさんに、僕はそこでやっとおかしいな、ということに気づいたんです。
「クレイグさん? どうされたんです? 片付けなら手伝いますよ」
僕が声をかけた瞬間、クレイグさんは床に崩れ落ちました。僕は慌ててその背中に駆け寄ります。
「クレイグさん!? どうしました? 体調悪いですか!?」
僕の声に、クレイグさんはうつむいたまま何も言いません。
「クレイグさん! 医務室に行きましょう!」
そういって立たせようとしたとき、腕をぐっと掴まれました。そして、クレイグさんが小さな声で何か言っていることに気がついたのです。
「……え? なんです? 気持ち悪い……?」
「……教授は、帰ってこない……」
クレイグさんの俯いた床には、大粒の涙が落ちていました。
「帰ってこない……? 教授が? どういうことですか?」
「……教授は、化け物になった。俺が、BSOCに引き渡したんだ」
当時のそんな状況下でしたから、BSOCという名前を聞くだけでクレイグさんの”化け物”という言葉が何を指すのかわかりました。
そして僕の頭は真っ白になってしまいました。当時の僕に、そんな大きく残酷な事実を受け止める器量などありません。そして、もちろん慟哭するクレイグさんを宥めることなど尚更でした。
そこから先のことは、クレイグさんしか知りません。───
巡る地球儀 3
「キャプテン?」
「……ウィル!?」
HQの廊下で見慣れた背中を見つけたウィルは思わず声をかけた。一緒に歩いていたアリシアには一言先に向かってて下さいと告げてからレイフに駆け寄る。
「何してるんです、こんなところで」
「何って、これからお前のプレゼンを聞きに行くんだよ」
そういって少し満足げにレイフが笑う。
「えっ、いや、聞いてないです、これからってまさか隊員募集のプレゼンですか?」
「ああ」
珍しく焦っているウィルに、レイフがくすくすと笑った。来年度の隊員募集の一手をHQ内で公募したところ、ウィルの案が通り、それを今日各方面の有識者やチーフ以上にプレゼンを行うのだった。
「……プレッシャーですよ」
「頑張れ」
「そりゃあなたに協力頂いたんです。何が何でも通しますよ」
「頼もしいな」
HQ内で会うレイフは、少し背伸びした印象を受ける。オリジナルイレブンとだけあって、署内でもみな頭を下げて行く。それだけにやはりレイフも自身にプレッシャーをかけているのだろう。そんなレイフが少し可愛く思える。
「14時ですからね。そろそろ行かなくちゃ」
「12B1だよな?プレゼンルーム」
「ええ。間違えないで下さいね。待ってますから」
「ああ、楽しみにしてるよ」
それを聞いてウィルはくるりとレイフに背を向けて歩き出した。数歩進んでからはっと思い出す。今日は遅くなると言っておかなくてはならない。
「あ、それとキャプテン!」
「…ん?」
振り返るとまだそこでこちらを見ていたレイフと目があった。まさかこちらを向いているとは思わずウィルは少し不意打ちを食らってしまった気分になる。自分が去るまでここで背中を見ているつもりだったのだろうか?まさか。でも、こちらを見つめるレイフの眼差しは、確かにそんなようでウィルは面食らう。周りにばれてはまずいと近づいて小声で囁いた。
「なんだ?」
「あ、いや、今日、あなた帰りが遅いって言うから、うちのチームの飲み会に参加してきます。世話になったクレイグと、今後のトレーニングについて話したいんです」
「ああ、わかった。くれぐれも飲み過ぎるなよ」
「わかってます。じゃ、また後で」
「ん」
なんとか持ち直してもう一度レイフに背を向けた。まだこちらを見ていてくれるのだろうか?振り返りたくても恥ずかしくて振り返れない。レイフの愛情は時折行動にはみ出してしまう。本人は気付いていないだろうが。それに気付いた瞬間は、たまらなく愛おしくなる。口角が上がるに堪えきれずうつむいていたが頬を引き締めてぐっと顔を上げると、少し先にこちらを見ているアリシアがいた。
「アリシアさん!すいません、待たせてしまいましたか」
「いいえ。私があなたを待っていたかっただけよ。レッドフィールド隊長と本当に仲がいいのね」
そうアリシアが言うとウィルははにかんで笑った。
「いえ、彼は俺の憧れの人でありアルファチームの隊長なので、こうして接してもらえるだけでも嬉しいんですよ」
ウィルはHQの誰かにレイフとの関係を聞かれたときはこう答えることにしている。部隊の仲間たちはみな二人の再開の瞬間をみているから知ってるし祝福してくれたが、HQにはわざわざ言う必要もないだろう。よからぬことを思う輩がいては、レイフの尊厳にも関わる。
「あなたはベックフォード隊長に陸軍から引き抜かれたんだったわね。当時結構噂になったわ。だからベックフォード隊長も、あなたのこと可愛がってるのかも」
「そんなことないです。隊長はチームのみんなに平等に接していますよ」
たしかにオフのときや訓練以外では付き合う前から贔屓にされている感覚はあった。だが、訓練中はそんな素振りを一切見せない。レイフはレイフなりに、訓練で贔屓したり、評価に私情を挟んだりするのはよくないと思っているのだろう。ウィルもそれはその通りだと思うし、それでも正当な評価を受けている自信があるから何も不満はない。
むしろきちんと公私の分別があることが、ウィルにこの関係についての安心感を持たせている。そうしている間にプレゼンテーションルームに到着し、アリシアがカードキーで鍵を解除した。ピピッという電子音がしてから扉を開けると機械と塗装のにおいがかすかに鼻につく。
「ここ、キャパ何人くらいですか?」
「ざっと100人は入るかしら」
ひんやりとした空気は地下階にいることを知らしめる。階段状になった座席は傾斜がきつく、こちらからは全員の顔が眺められるようになっていた。黒大理石で作られたテーブルと背もたれにもこの部屋の冷たさの原因はあるのだろう。
「何、緊張してるの?」
「そりゃしますよ。少しはね」
「鋼の心臓かと思ったわ。さあ、準備を進めてしまいましょう。あなたのプレゼンテーションの」
「ありがとうございます。お願いします」
ウィルは何が何でもこのプレゼンを通すつもりなのだろう。その本気の熱量が伝わってきて、元々は一人でやるといっていた部屋の準備を一緒に行うことにしたのだ。勿論、それは一緒にいたいがための口実に過ぎないが。
「この座席順に、名札をお願いします。俺、上から貼って行くので、すいませんが下からお願い出来ますか?」
「わかったわ」
いつもは少しラフなスーツだが、今日は黒のスーツで気合が見える。張り切っている横顔を見ると自然と応援したくなるし、そんなウィルに母性本能がくすぐられる。
アリシアは作業の合間にウィルの横顔を見つめては微笑む、を繰り返していた。
「ウィル、お疲れ様」
会場の片付けはウィル一人でやることにした。アリシアは次会議があるというので直前まで手伝うという彼女の申し出を断ったのだ。
「レイフ!」
スクリーンを収納しようと設備をいじっていると扉の方から聞き慣れた声がしてウィルは振り返った。そこには、先ほどまで真剣な表情でプレゼンを見ていたレイフの姿。
「よかったな、満場一致で可決」
「ええ。本当にあなたのおかげです」
「いや、あれはお前の実力と情熱の賜物だよ」
プレゼンは質疑応答で若干揉めたがほぼ滞りなく、全員賛成の雰囲気で進んだ。揉めたところをウィルが落ち着いて対処したことも、今回のプレゼンを満場一致の可決に導いた要因の一つだろう。
「ありがとうございます。……俺は、あなたの気持ちに応えたかったんです。今までの感謝の気持ちを込めて」
「……嬉しいよ。なんで今日の夜に会議があるんだろう。早くうちに帰ってこの喜びを分かち合いたいのに」
「それはこっちのセリフですよ」
そういいながらスクリーンを収納し、座席横の階段を上って行く。そして上の座席の名札から剥がし始める。レイフはここにいていいのか、少し戸惑った様子でその背中を見ていた。
「ウィルさぁん! お疲れ様でしたぁ~」
扉の位置から見たらレイフの存在は完全に死角だっただろう。扉があいて入ってきたのはエミリーだった。
「あ、……お疲れ様です」
エミリーはウィルに駆け寄ろうと少し走ってからレイフの存在に気づき、慌てて会釈をした。ウィルはくるりと振り向いて笑顔を向けた。
「アリシアさん! わざわざ来てくれたの? ありがとう」
「ウィルさん! 大成功だったって聞きましたよ! わたし嬉しくって。あ、これ剥がしてるんですか? 手伝いますね!」
そういってエミリーはウィルの近くの名札を剥がしはじめた。彼女はこのままここに居座るつもりだ。ウィルはちらりとレイフを見やる。気まずい思いをしているだろう。何も言わずに部屋を出るようにアイコンタクトをする。
「……あ、俺、こっちからやるな」
そういって何故かレイフは下の座席の名札はがしに着手した。ウィルはたまにレイフがわからなくなる。それからこの気まずい状況をどう打破しようかと思案し出した。
巡る地球儀 4
「お疲れさま!」
「いいプレゼンだったよ」
「さすがベックフォード隊長の一番弟子だっただけあるな」
数多の喝采の中をウィルは笑顔ですり抜ける。その日の夜行われたパーティは、親睦会とウィルのプレゼン成功祝いを兼ねた形になった。少し遅れて行ったウィルは、予期せぬ待遇に驚きながらも、クレイグを目指して歩きながら会釈を繰り返す。
「お疲れさん」
「ありがとう」
ようやくクレイグのところに辿り着いて、拍手も収まった。クレイグの小さな声かけに感謝して、ウィルは席についた。
「HQもなかなかお似合いだと思うぞ」
「いいんだよ。一日中パソコンと睨めっこは性に合わない」
そういってクレイグのついでくれたシャンパンを手に持った。
「じゃ、今日もっとも輝いたプレゼンターに乾杯」
「やめろよ恥ずかしい」
ウィルはクレイグを直視することができなかった。エドモンドはあの後、夜のことを考えるといま言うべきではなかったと猛省していたようだがそれはむしろ関係なかった。
いままで知らずに飄々と生きていた自分と、B.O.W.になりかけたところを治療させたことが悔しかった。
ウィルがうつむいているのにクレイグも疑問を持ったのか首を傾げた。
「どうした? あまり嬉しくないのか?」
「……いや、別に」
「ふうん。……それで、話したいことって?」
テーブルに出されたスモークサーモンのカルパッチョに口をつけながら、クレイグが聞く。ウィルは意を決したように一呼吸おいてから話し始めた。
「ああ。……来月から本格的に筋力トレーニングを再開したい。復帰のめどと、最短で復帰出来るトレーニングメニューを教えて欲しくてさ」
「無理だ。まだ死にかけてから一ヶ月だぞ?」
「早くあの人のそばで動きたいんだ」
「……こりゃベックフォード隊長に説教してもらわなきゃな」
クレイグは大きくため息をついた。そんなことはウィルだって百も承知だ。それにあの話を聞いた後だから、万が一を考えると怖いのもある。
それでも、自分の気持ちに正直に向き合うと、出てくるのはこの回答だった。
「それは頼む、やめてくれ。あの人には、一年後って話をしてるんだ。一年後からトレーニングするって」
ウィルは渋い表情のままグラスに口をつけた。クレイグは首を振った。
「……それが常人の考えだ。で、隊長に内緒なら俺しか頼る奴がいないって? そりゃお門違いだな。俺はお前を殺したくない」
「クレイグ、お前しかいないんだ。頼むよ」
「嫌だね。俺に親友を殺させないでくれ」
そこまで言うと、ウィルは黙り込んでしまった。昼間エドモンドから聞いた話が蘇ってくる。それを考えるとクレイグの言葉は切実だった。
「……わかった。……じゃあ一人でやるよ」
「死に急ぐなウィル」
クレイグから鋭い声が出る。クレイグ自身、勿論ウィルがどれだけ部隊で動くのを生き甲斐にしていたかも知っているし、その実力を埋れさせるのはBSOCの人間としても苦しいものがある。だが、ウィルを軍人でもなく、BSOCとしてでもなく、ただの人間として見たときの理性がダメだという。この男を死なせてはならないと。
「どんな治療でも受ける。きついリハビリも、トレーニングもやるから、……頼む、俺を元に戻してくれ」
切実な声音に、クレイグの心が揺れる。頭の中で、この男のためにどんな薬を用意して、それの実験にどのくらいかかって、トレーニングにどれだけの時間が必要なのか、計算している自分がいる。
「ダメだ。そんなことするなら病室に閉じ込めるぞ」
「こんなんじゃ俺は生きてるのを感じられない」
「そういうこと言うなよ……」
クレイグは困り果てた様子で呟いた。死なせないためだとしても、そんな風に言われたくてやっているんじゃない。勿論ウィルだってクレイグを苦しめることはわかっているだろうが、それでもここは譲れないのだろう。
「……わかった、半年だ。最短で試験に受かるレベルまで達するのに、あと半年。ちょうど春の試験がある頃だ。明日からトレーニングは開始する」
クレイグは苦い表情でウィルに告げた。下手に隠れてトレーニングされるより、監視下に置いたほうがいいと思ったのだろう。
それでもウィルは一向に構わなかった。
「ありがとう。本当に……」
「つらくてもベソかくなよ?」
「上等だ」
クレイグにはまた、散々迷惑をかけると思う。それでも付き合ってくれようとするクレイグの姿勢が嬉しかった。
話の終着点が見えてほっとした頃、ウィルの肩を後ろからトントンと叩く影。
「ウィルさん! よかったら一緒にお喋りしませんか?」
その声にウィルが振り返るとそこには満面の笑みを浮かべたエミリーがいた。
ウィルはちらりとクレイグを見る。内心ではもう少し、クレイグと二人で喋っていたかったのだけれど。クレイグは眉だけで仕方ないな、と告げた。
「いいね。普段あまり仕事以外で話も出来ないし」
そういうとエミリーはブレンラを手招きし、ウィルの向かい側に座った。
「こちらはわたしの親友のブレンラ!そちらはクレイグ・サイラスさんですよね!医療チームの頭脳って言われてるの知ってますよぉ~」
「それは言い過ぎだ」
「俺はアメリアさんの意見に賛成だな」
ウィルが同調してやるとクレイグが眼差しで牽制してきた。ウィルはからかいの意味も込めて笑みで返す。
「ウィルさんもサポートチームでとっても優秀だって聞きましたよぉ?」
「そんなことないよ」
ウィルは水をぐっと煽った。今日はもう、クレイグと落ち着いて話す機会はなさそうだ。
「ウィルさんと仲良いんですね! あ! クレイグさんって、お酒好きなんですかぁ?」
「そこまででもないな。付き合いで飲むくらい」
エイミーがクレイグに話を振っている間に、気づかれないよう時計を見る。まだ時刻は21時前。レイフの会議がちょうど終わった頃だ。そのあと部隊で飲みに行くかもしれないといっていたから、出来ればそちらに加わりたいが、そのためにはどうここを切り抜ければいいだろうか。
「じゃあウィルさんは、誰とお酒なんか飲みに行くんですか?」
「部隊のメンバーだよ。酒が好きな人がいたからね」
恋人と、という答えができない理由は知っているが、それでは女性たちが目の前の涼しげな顔したフリーの男に夢中になる一方だ。仕事も出来て部隊での成績もいい。しかもいままではデータ上で名前しか見ていなかったのが目の前にこうして現れたのだ。そりゃスクリーンの中の人をみた気分にもなって浮かれるだろう。
「アメリアさんは彼氏いないの?」
「ここ最近、恋する気にならなかったんです。だから前の彼も振っちゃって。いまは余裕が出来てきたので、恋とか出来たらいいなって」
ちらりと話を聞くウィルを横目でみながら、エミリーは言った。上目遣いをするほどのあざとさにクレイグは内心ひやりとしたが、ウィルは全く意に介していないようで飄々としている。医療チームは男所帯だが、HQはそうでもないのだろう。
「若いんだから、たくさん恋した方がいい」
「ウィルさんも大して変わらないですよぉ」
「……そうだね。まぁ何にしろ、君ならすぐに恋人も出来るだろうし、楽しめるといいね」
さらっと流すところにウィルの無関心がうかがえる。クレイグはわかりやすすぎるウィルの態度にも少しヒヤヒヤし始めた。
「ブラッドバーンさんは、どんな女性が好みなんですか?」
しばらく傍観していたブレンラが尋ねる。これが女性の包囲網というやつだ。ブレンラはエイミーの援護に徹する構えだろう。
クレイグは目の前の男の好みがレイフだと思うと愉快な気持ちになった。この問いは、どう交わすのだろう。
「うーん、そうだな、自立した女性がいい。一人で立てない女性だと一緒に倒れてしまいそうだから」
「意外ですね。甘えたな女性は好きじゃないんですか?」
大人びたクールな印象のブレンラは、エイミーのことを、何かしらの指標で評価し気に入っているらしい。援護射撃が続く。
「俺、そんなに器用じゃないんだ。甘えられても支えてあげられるかわからないし。でも、たまに弱みを見せられるのはやっぱり嬉しいかも」
「じゃあ逆に、年上の女性が好きなんですか?」
「年齢は関係ないと思ってる。やっぱり基本的なところは人としてどれだけ尊敬出来るかが重要になってくると思うから」
交わしているのか素なのか、クレイグは判断に迷った。これはレイフのことを言っているのだろうか。それとも、ただ単にエイミーをやんわり牽制しているのか。
「そっかぁ。じゃあわたしも、ウィルさんに尊敬されるようにならなくっちゃな。難しいけど、頑張りますよ!」
「君のことは尊敬してるよ。何にでも一生懸命だからね。もっとそういうところ、出していけばいいのに。努力するのは素敵なことだよ。君はそれを隠したがるけどね」
わざとやっているとしたらなんて酷い男だ。さっきあれだけ自分をエイミーの射程圏外に出すよう誘導しておいて、いまはこうだ。だがきっと、これは素だ。長年ウィルを見てきたクレイグだからこそわかる。
褒めるときは真っ正面から褒める。悪いことはオブラートに包む。それが適正に、かつ毎回律儀に行えるのがこの男の凄いところだ。女性を怒らせる男は、大体それが出来ない。それが出来るだけで女性の”こいつ気遣い出来ない”レッテルを貼られずに済むのに。
「何か飲む? ちょっと俺、席立つから何か欲しい飲み物あれば頼んでくるよ」
「えっ、あ、じゃあウィルさんセレクトで!」
「わかった。少し待っててね」
エイミーが嬉しさにぼんやりしているところでこの切り返しだ。またさっきので好感度上げたな、とクレイグは小さく笑った。
きっと、彼女の様子からのこのあざとさは天然ではない。彼女はウィルが言うようにきっと頑張り屋だし、自分の矜恃を保つために全力で成果を出してきたのだろう。ウィルの評価は正当だと思う。そして、ブレンラが彼女の援護に回るのも。遠回りをしているが、本当の理解者がいるのは彼女の頑張りがあってこそだ。
さて、ウィルが席を立った。3人で何を話そうか。
巡る地球儀 5
ウィルは廊下に出て、自分の顔を手で覆った。
実はエドモンドからクレイグの話を今日聞く前から、トレーニングを再開したいということを伝えようとはしていたのだ。
しかし、エドモンドの告白を聞いて、大きく心が揺れた。
(あいつ、飄々とした様子でいたが……)
敬愛する教授を亡くして、同じように親友である自分も死にかけた。クレイグは、普段どれだけの重責を感じていただろう。もう二度と、教授のときと同じ思いをしたくないと、思っただろうか。
(俺は……生きて帰ってきてよかったのか?)
そんな思いがかすかによぎる。しかしすぐにかぶりを振った。
(あそこで死んでいたら、クレイグはさらに自分を責めていたはず……いや、そう思いたいのは俺のエゴか?)
あのケンカの件も、あれからまだ一言も話していない。
「おい、ウィル」
名を呼ばれて顔をあげると、まさに考えていた幼なじみの呆れた顔があった。
「お前さ、あんなところに俺を残していくなんてどうかしてるよ」
「いや、ごめん。ちょっと考えたいことがあって」
「そうか。ベックフォード隊長とのこととか?」
「……どうだろな」
なぜか本人に言う気にはなれなかった。
エドモンドも、クレイグが自分に話すつもりがないことを悟ってこっそり打ち明けてくれたのだ。ここで何か言って二人の関係を壊すのも良くない。
「どうした。恋人の顔を思い浮かべているにしては暗いな」
「そうか? 別に大したことじゃないけど」
「ふーん……エドモンドが今日、泣きそうな顔で俺に『言っちゃいました』って言った件はなんだっけな」
「えっ……エドモンドに聞いたのか?」
「ああ。あいつはそういう嘘、つけないからな。正直なやつだ」
「そうか……」
ただそう聞いても、まだ緊張の糸は張り詰めたままだ。
「……それで、なんで俺には言わなかったんだ? 大学時代のこと」
「聞かれてないから」
「嘘だ。俺、大学時代にどうやって過ごしてたか聞いただろ?」
「そうだっけ?」
いつもと変わらず、飄々とした様子のクレイグ。すでに本人の中では折り合いをつけたことなのだろうと思う。しかし、さっき事実を知ったウィルにはまだ、消化しきれていなかった。
「まぁ、とにかく気にするな。お前がどうこうできる話じゃない。もう終わったことだしな」
「……ごめん、俺の中ではまだなんていうか……衝撃がでかくて……」
「そうだろうな。そんなお前が無理しようってんだから、俺だって止めてえよ」
「……ごめん」
「だが、もう決めたことだろ? 俺はあのとき誓ったんだ。もう二度と、同じ思いはしないって。だからお前がどんな変異をしようが、俺が人間に戻してやる。必ず」
「……」
「なんのために何年も研究室にこもったっていうんだよ。そろそろいくつかの試薬はできてるんだ。まだ試薬止まりだが……希望はある」
「それって……」
「ああ、世界を救えるかもしれないってことだ」
「……そうか……」
「だから、俺にとってあの経験は必要だったんだよ。教授は、俺に最後言ったんだ。『世界を救えるようになってくれ』ってな」
「……それ、初耳」
「エドモンドにも言ってないからな」
「……そうか。だったら、俺で試してよ。俺がその被検体になる」
「お前はダメだ」
「なんで?」
「……わかるだろ? 親友を自分の研究の被検体にするなんて、どうかしてる」
「でも、俺以外の人間でやるのにはいいのか?」
「ウィル、俺を困らせないでくれ」
「俺だって、世界を救うのに貢献したいんだよ」
「お前な……なんのために半年くれって俺が言ったと思う?」
「そのためか?」
「これから人体実験にはいる。お前は少しのあいだ、HQの仕事を全うしろ」
「嫌だね。俺でやってくれよ。そしたら半年早くトレーニングにも移れる」
ウィルも少しは自分がわがままだとわかっていた。それでも自分が被検体になることが今の一番の解決に思えた。
「……はぁ。お前は本当に……」
「いいのか?」
「……わかった。だが、そのぶんお前には研究に付き合ってもらう時間が増える。そのあたりは、ちゃんと上司や周囲に言っておけよ」
「ありがとう、必ず伝えるよ」
「あーあ……なんで俺はこんなにお前に甘いんだ?」
「それでも助かるよ、とにかくアリシアさんに話してくる」
ウィルは立ち上がり、その場を去った。その背中を見送りながら、クレイグは大きくため息をついた。
「……そりゃ、親友兼初恋の相手なら、甘くなるのも当然か」
「ウィル? 誰か探してるの?」
その声に振り向いてみるとメガネを外して髪をまとめたアリシアがいた。
「ああ、アリシアさん、ちょうど用が……あれ、メガネどうしたんです?」
「あ、やだ……メガネ……」
ウィルが尋ねると、アリシアはそれまで気づいていなかったようであたふたとメガネを探し始めた。パーティということで仕事中は着ていたジャケットも脱いで肩を出している。アリシアはガードがかたく、彼女の七分袖すらも見たことのないウィルは純粋に彼女のことを素敵な女性だと思った。
「アリシアさん」
ウィルはメガネを探すアリシアの手首をつかんだ。そして紅潮した顔をみてにこりと笑う。
「綺麗です。メガネがあっても知的で素敵だけど、そうしてると素顔のあなたを見た気になる」
「そんなこと……」
「それにほら、せっかく綺麗な肌をしてるんだし、もっと普段から開放的な服を着たらいいのに。とっても良く似合ってますよ」
アリシアは言葉を失う。ウィルの言葉が頭の中で何度もぐるぐると渦巻くが、正しく脳が理解してくれない。
「あの、ウィル」
「なんです? あっ」
ウィルの腕が横から伸びて背中に回される。酔っ払ったサポートチームのメンバーがウエイターにあたり、そのウエイターがアリシアにぶつかりそうになったのだ。その衝撃からウィルが守った形となった。
「お客様大変申し訳ございません……!」
「いえ」
「お召し物は汚れませんでしたか?」
「アリシアさん、大丈夫ですか?」
「え、ええ」
アリシアは咄嗟のことで状況がわからなかった。ウィルの手が、腰と背中に触れたことだけは実感している。そしてその部分が、酷く熱い。
「大丈夫です。お急ぎのところすいませんが、あそこのテーブルにジントニックとカルーアミルク、あとお冷をお願いできますか?」
「かしこまりました。失礼致します」
ウエイターが颯爽と去って行く。
アリシアは最早なにを伝えたかったのかもわからなかった。だがこのまま、ウィルを元の席に戻してはいけないと思うのは確かだ。あそこにはあの女の子たちがいる。その気持ちはたしかに嫉妬だとわかっていたが、いまのアリシアにそれを抑制する余裕などなかった。
「ね、ねえ、少しだけ一緒に話さない……?」
「ええ、俺からも話したいことがあるので───」
「ウィルさーん!」
その声に振り向くと、ブレンラとともにテーブルについているエミリーがこちらに手を振っている。
「あ……」
「いってらっしゃい」
「……わかりました。すぐ戻ります」
「ええ。じゃあ、テラスにいるわね」
「はい」
ウィルはそういってエミリーたちのいるテーブルへ駆け寄った。
「もう、ウィルさぁん! はやく来て下さい! いまブレンラの恋の話してて……ブレンラ、クレイグさんが好きなんですよ? 気づきました?」
「ちょっと、エミリー……!」
二人の掛け合いを見ていると、少し遠くにクレイグが戻ってきたのが見えた。
「あ……もしよかったら、本人と話す?」
「え……」
その言葉とウィルの視線に、二人が振り向く。
「なんだ?」
クレイグはそれに気づき、自然とこちらにやってくる。
「じゃああとはよろしく」
「え、おい……」
ウィルはクレイグにそういうと颯爽と身を翻してテーブルから離れた。入れ違いにウィルが頼んだと思われる飲み物をウエイターが運んでくる。
「もぉ、ウィルさんもいないと意味ないのに……」
エミリーが頬を膨らます。三人が視線で追っているウィルはそんなこと露知らず、デッキの方から外へ出てしまったようだ。
「目の前に俺がいるのにそんなこと言う?」
「クレイグさんのことは、ブレンラが狙ってますから」
満面の笑みで告げられ、クレイグは思わずブレンラの方を見る。
「やめてよ、エミリー……!」
赤らめた頰が初々しく見える。ここに来るまで正直存在すら知らなかったが、エミリーの言うことは間違いではないのだろう。
「あー、……なるほど、ね」
「わたしウィルさんにアタックするので、クレイグさんは応援してくださいね」
そう言われてもクレイグが素直に頷けるはずがなかった。
もうはなから結果は見えている。ウィルはいつでもあのゴリラのような隊長に夢中だし、周りの女性に対してはレディーファーストの精神は発揮するものの、全く恋愛対象として意識していないのがまるみえだ。それはきっと、周りの女性には気遣いの出来る紳士として映っているのだろうが。
「……あいつはやめておいたほうが無難だと思うけど」
「どうしてですか? ああ見えてめっちゃ性格悪いとか?」
「いんや、めっちゃいい奴だ。高校から一緒だった俺が保証する。裏表ないし、仕事も出来る。顔もあれだ。でも、……勧めない」
「理由がわかるまではわたし、諦めません。ダメな理由はわたしで見つけます」
エミリーの自信に溢れた横顔を見ていたら、クレイグはなんとも言えなくなって盛大なため息をついた。
「すみません、お待たせして」
「いいえ。大丈夫よ」
外は熱された室内とは違い、心地よく涼しい風が吹いていた。
「風が気持ちいい。今日は暖かい夜ですね」
「そうね。……最近、仕事はどう? もう慣れたわよね」
「アリシアさんのおかげですよ」
「そんなことないわよ。あなたの評判は色んな方面から聞いてるわ。出来る部下を持って嬉しい」
ウィルがはにかむ。そんな表情を見ては、アリシアの胸が高鳴った。この男が好きだと思う。会ってまだ一ヶ月。それでも確実に、この男に惹かれていく。
「仲のいい友達とは話せた?」
「ええ。もう少し話したかったのですが、その友人と話したい女性がいまして」
「それ、ウィルを狙ってじゃなくて?」
一連の会話をそばで聞いていたからわかる。それに元からエミリーがウィル狙いなのを知っているから思わず突っ込まざるを得なかった。
「いえ、あれはクレイグ狙いですね」
「クレイグって医療チームの彼?」
「ええ。高校からの親友なんです」
「そう。仲がいいのね」
ウィルは何も言わずに頷いた。勿論その頷きの中には、彼への思慮と愛情がこもっているのだろう。
「そういえば来週のビリーの結婚式、あなたも行く?」
「ええ、ぜひとも」
ビリーはアリシアがHQに来てから最初にできた後輩だった。弟のように接していたから少し寂しさはあるけれど、素直に祝福する気持ちの方が大きい。
「あなたはいい人いないの?」
ウィルと恋愛の話をしたことはなかった。
踏み込んでいいものか、何も考えず切り出してしまったことをアリシアは後悔し始めた。
「いまのところは」
「……あ、そうなの……」
「アリシアさんはどうなんです? 素敵な恋人がいそうですね」
その言葉に内心ぐさりとやられながらもアリシアは平静を装った。ここで折れるわけにはいかない。
「そうだったらいいんだけど……」
「いらっしゃらないんですか?」
「ええ」
「俺てっきりオズウェルさんといい感じなのかと……」
オズウェルは趣味で身体を鍛えており、その高身長とあいまって隊員と見間違えられることもある。顔は40手前にしては若く、笑い方が爽やかなところも女性陣からは人気が高い。世界中を旅してオペラを聴いたり遺跡をみたりするのが趣味でHQ内では独身貴族の代名詞となっている。
「彼はいい先輩よ」
「俺いい組み合わせだと思ってたんですけどね。あれ、そういえばオズウェルさん来てないですね?」
そう言って辺りを見回すが、よく目立つ彼の姿はどこにもない。
「昇格という名の左遷で、嫌になったんですって。溜まった有給で明日からエジプトに行くらしいわ。きっと今頃空港よ」
「羨ましいな。ピラミッドとか見てみたいです」
「そうね。一度は砂漠の砂も踏んでみたいわ」
「いいですね」
「私ったらごめんなさい、あなたから話があるのよね」
「ああ……ちょっと、今後の勤務についてなんですが」
「ええ」
さっきクレイグと話したこと、その協力をお願いしたいことをウィルはアリシアに伝えてきた。アリシアはその話を真剣に聞いている。
「わかったわ。おそらくまた彼からこちらに話が来るでしょうから、それを待ってからになるけど……前向きに考えるわね」
「ありがとうございます」
「やっぱり部隊に、戻りたいのね」
「……はい」
沈黙が落ちたが決して嫌な間ではなかった。肌寒い風が、冬の訪れを予感させる。ずっとノースリーブでいたからか、身体が冷えてきた。アリシアはそっと肌をさする。
「少し寒いですね」
その声と同時に肩にかけられるジャケット。
「……いいのに」
「女性の方が基礎体温低いんです。俺は大丈夫ですから」
ウィルの見返りを求めない優しさが身に沁みる。本当はそれだけで寒さなど忘れてしまうのに。
アリシアはウィルのジャケットの襟をぎゅっと握った。
巡る地球儀 6
「レイフ! ただいま帰りました」
「おっ、おかえり。早かったな」
「早くあなたに会いたくて」
ソファから立ち上がってウィルを迎えようとしたレイフに正面から抱きついた。
「レイフは飲んできてないんですか?」
「少し飲んだよ。……まあ、今日は早く帰って来たかったんだ、俺も」
少し照れながらそういうレイフに、ウィルは気付いていながらわざと少し気取って言う。
「それは俺に早く会いたくてって解釈していいんですか?」
「……ああ」
「うん、……嬉しいです」
ウィルはそういってレイフの首に顔をうずめた。レイフもそれを幸せそうな表情で受け入れる。
「それよりウィル、今日のプレゼン、参加者からも好評だったぞ。みんなに声をかけられたよ。お前の元部下は凄いなって。だから自慢しておいた。まあ、…元部下って言い方は少し傷ついたけどな」
そういいながら二人でなだれ込むようにソファに腰を落とした。ウィルはレイフにべったりと抱きついている。レイフはわかっていた。ウィルの密着度と一日の精神的ストレスが比例していることを。今日はきっと、プレゼンで気を張っていたからその無意識のストレスが彼をこうさせているのだろう。最も、HQに所属した後はその前よりずっと抱きついてくる時間は増えたが。
「そうですね……でも、事実です。いまはあなたの部下じゃない、恋人だ」
「そういうことじゃなくて……」
「わかってますよ。俺のいまの上司はアリシアさんだ。あなたじゃない。まあ、あなたの部下だったって知れていたのは少し驚きですが……」
そういいながらウィルは上着を脱いだ。そしてネクタイを緩める。そんな仕草のひとつひとつが艶やかに見えてレイフの胸が高鳴った。部隊にいた頃は年に二、三回しか着なかったスーツも、いまじゃ見慣れたほどだ。だが自分の生活に馴染みのなかったものだからやはり、その格好に惹かれる要素はあるのだろう。
「俺も散々みんなに自慢してたし、何よりお前は次期キャプテンだと全員が認識していたよ。知名度もお前が思っているよりずっと高い」
「俺は部隊にいたってキャプテンなんかやらないんです」
そういって拗ねたため息をつくが、レイフはなにも言えなかった。ウィルにはHQから部隊に戻りたいと言われているが、あんなことがあった手前、正直言うとこちらに戻したくないのも事実である。レイフは迷っていた。確かにウィルがいるのといないのでは戦力面でも精神面でも大きく違うのはわかっている。それでも、もしかしたら次は命もないかもしれないのだ。
レイフは何も言えずに口を閉ざした。
「レイフ、シャワーまだですね? 一緒に入りましょう」
「ああ」
二人でバスルームに向かう。ウィルは何故だかご機嫌だ。
「何かいいことがあったのか?」
「いいえ、別に」
「HQの居心地はどうだ? 上司からもえらく気に入られているようじゃないか」
二人で並んで廊下を歩く。その短い距離でもウィルは手を繋いだまま離さなかった。
「そんなことありません」
「俺は……正直、お前の周りを女性がうろつくのが少し心配だよ。お前は女性にモテそうだから……」
「あなたは男性にモテますけどね」
皮肉とも不安ともとれるその発言にレイフは苦笑する。男性に告白されたのはウィルが初めてではなかったことを話したことがあったから、それを少し根に持っているのだろう。
シャワールームは二人で入っても少し余裕がある。レイフは今日の汗をシャンプーで豪快に洗い落とした。そして何となしに、最近の実感を口にする。
「HQにお前はいい影響を与えているようだな」
「だといいのですが」
「最近、会議でもそれを感じるよ。前みたいにだんまりを通したり、こっちの提案には耳を傾けないということも減った。さっきお前の話にあったアリシアという女性が、積極的にHQのあり方を変えようとしているように見える」
事実アリシアは、会議ではいつも率先して部隊メンバーの言うことを聞いてくれていた。部隊の中心となるレイフの意見は殊更重要視してくれるように思う。
「ああ、確かにそんな雰囲気はありますね。結構そのことで部隊にいた頃はどうだったのかと聞かれます」
「そうか……そうやってお前からHQに部隊でのやり方も伝わっていけばいいな」
「ええ」
レイフはウィルの頭にシャワーをかけてやる。チームみんなで入るときもよくじゃれあいの一つでやるからその癖なのだろう。それをウィルもなんの違和感もなく受け入れる。
それから少し他愛のない会話をしてバスルームを出た。ガウンを羽織った瞬間、ウィルの眼差しが変わる。ソファにたどり着くと二人で倒れこんだ。大きめのソファはウィルの希望だった。
「レイフ……」
「んん」
「最近すれ違ってばかりで、あまり時間がなかったから」
「ああ……」
そういってレイフの耳たぶをウィルが噛む。その熱い吐息にレイフがくすぐったそうに身をよじった。ウィルはそれに口角を上げてくすりと笑ってから首筋に唇を這わせる。レイフの表情に色がさした。
背後からレイフの頬をつかんで唇を塞ぎ舌をねじ込む。レイフは少し無理やりにやられるのが好きなのだ。
「レイフ? キスだけで感じてるんです?」
「そんなこと───」
「愛してます、レイフ」
ソファの上にレイフをうつ伏せに寝かせてその手首を束ねた。そうすれば体格差で封じられることもない。たまに感じ過ぎた勢いでレイフは暴れるからウィルもそれに対抗する術を覚えた。
うつ伏せのレイフのシャツをめくり、指先で愛撫を繰り返す。レイフが次第に敏感になっていくのがわかってウィルは悦に浸った。自分で感じてくれるのが嬉しい、この感覚はどんな女と肌を重ねても感じることのなかった感覚だと思う。丁寧に服を脱がせながらキスを繰り返して、レイフが一糸纏わぬ姿になった。
「やめろ、恥ずかしい……」
「どうして? こんなに綺麗なのに……もっと俺に見せてください」
そういって胸板に舌を這わせるとレイフが小さく呻いた。優しく、時折歯で甘噛みしてレイフの敏感な部分を攻めると、レイフの下半身がいきり立った。
「もうこんなになってます……、はやく解放してあげたいけど…」
レイフは知っている。ウィルが言葉を区切るときはいつも焦らしのサインだ。硬直した下腹部のそれが、ウィルに触れられるのを待っているをそしてウィルが、悪巧みを思いついた子どものようにある種の無邪気さで微笑んだ。そして、ウィルの手がレイフのそれを包む。
「あとどれくらい我慢できます? 出来ませんか?」
「出来る……!」
「じゃあ、我慢してもらいますね」
手が上下運動を繰り返し、レイフの絶頂の手前ですっと離れた。レイフから余裕が奪われていく。
「ウィル……おかしくなりそうだ……」
その後も何度となく、絶頂を迎えそうになると手を離されるなどして焦らされ、いよいよウィルに懇願する。もう恥じらう余裕すらもない。
「それは、挿れて欲しいってことですか?」
「……ああ」
「よく出来ました」
素直に頷いたのをみて、ウィルが満足げに笑った。そしてとびきり優しいキスをくれる。
「レイフ、辛かったでしょう。すいません、いじめ過ぎた。あなたがそんなに俺を煽るから」
そういって手首を解放し、正面から抱きしめてくれる。そしてそっと、ウィルのそれを挿れた。
「あ、……ウィル……」
「動きますよ」
「ああ……」
ウィルがゆっくりと腰を動かす。次第にその動きが激しさを増してきた。
「……あ、……あぁ……」
「レイフ、……いきそうですか?」
「あ ……」
「一緒にいきましょう、レイフ」
激しく二三度突かれた衝撃で目の前が白くなった。そして、レイフのそれからも、白濁液が漏れる。
「あなたとのセックスはとびきり幸せだ。こんなに幸せでいいのかなって思ってしまいます」
「俺もだ……幸せすぎて苦しいよ」
レイフがそうこぼすと、ウィルがそのレイフの頬を両手で掴んで額をくっつけた。限りなく優しい瞳を向けられて、レイフの胸がまたきつく締め付けられる。
「俺はあなたが思っているよりずっとあなたにぞっこんです。女性のいる職場だから心配?そんなの心配するくらいなら、下半身と体力のこと心配して下さい?俺はまだいけます、むしろまだ足りない」
そういって笑いながら向けられた瞳は優しいものではなく、獣のように鋭い。すぐに笑みもなくなって、噛み付くようなキスがくる。
「まだ夜は長いので、たっぷり付き合ってもらいますよ」
ウィルの笑みに込められた欲は、かけがえなくそして純粋そのもの。それを全身で受け止めようとレイフは覚悟した。
巡る地球儀 7
今日はひどく寒い。曇天から冷気が降りてくるようだ。
オフィスであいにくの天気にアリシアが嘆いていたのを思い出す。
「じゃあな、お疲れさん」
「ああ、ありがとう」
ウィルはあの日から、クレイグとともに訓練を再開していた。ウィルは特例で24時間シフト制を免れているから、クレイグと同様17時に仕事を終えて、急いでトレーニングルームの鍵を受け取ると、クレイグと二人きりで行う。HQだけではなく、部隊のメンバーにも見つかってはいけないからだ。
HQにトレーニングルームにいるところがバレることはそうないだろうが、部隊のメンバーは気軽にトレーニングルームに入ってきて、相席よろしくトレーニングを始めるし、いくつかあるトレーニングルームが埋まっていれば片っ端からノックして相席を頼むような練習熱心な連中だ。バレるのも時間の問題だと思い、二人きりで行うトレーニングでは施錠が当然になっていた。
だからだろうか。最近は、レイフと過ごす時間も随分減ってしまった。復隊まではしばらく、こんな生活が続くだろう。レイフにも理由を話せず少し心苦しいところはあったが、仕事量が増えたとばれそうな嘘でつないでいるのが現状だった。
最近以前よりレイフの態度がそっけなくも感じている。今日もマルコと出かけるというし、ここ数週間ろくに夜の相手もしてくれない。疲れているのだろうと気遣ってくれているのはわかるが、それだけではないのかもしれない。
レイフの心が、自分から離れているのかもしれないと思うと、ウィルはどうしようもなく気が狂いそうになる。ウィルはいつでもレイフのことを一番に考えて来たし、いまも当初と変わらず一途に愛し続けている。それどころか愛情は増え続けてついに極限に達しようとしているというのに。
だが冷静な自分がいう、もしレイフが自分と離れたいと言ったら、潔く身を引けと。…実際そんなことは出来ないだろうが。
ウィルはクレイグの背中を見送るとトレーニングルームの鍵を締めて、いつものように管理部へ向かった。
「お疲れ。今日のトレーニングはどうだった?」
問いかけられて、近くのシフト表を見ながら答える。
「ぼちぼちかな。明後日少し鍵を取りに来るのが遅くなるかもしれない。ん、いつもありがとう」
「これも仕事だからね」
管理部の事務所にいる夜勤警備のダリウスとはいつしか顔見知り以上になった。ウィルのことは何も知らない独立した存在だからこそ、こんな他愛もない会話が出来るのだろう。シフト表には、ダリウスの次回出勤日が明後日であることが示されていた。
「雨降ってるから、そこの傘持っていきな。どうせ持ってないんだろ?」
「ほんとだ、降ってきたのか…ありがとう、助かるよ」
事務所から覗いた外は暗い雨を落としている。激しくはないがそれなりに降っていて、傘なしでは家に着くまでにずぶ濡れになってしまうだろう。
「じゃあまた明後日な。今週はずっと雨だっていうから、次は傘持ってこいよ」
「うん、ありがとう。おやすみ」
ウィルは傘をさして外にでた。雨粒が傘を叩く。風はなく空から真っ直ぐに降りてくるその雨粒たちの音は、ウィルの耳を楽しませた。
駐車場につき、車に乗り込む。今日はレイフが家で待っているわけではないから、急ぐ必要もない。お気に入りのミュージックをセレクトして、ゆっくりと車を出した。
「そうかー、やっぱりな。あいつはそういうと思ったよ」
「ああ。俺としては、正直戻したくないんだ。もうあんな風に犠牲にはしたくない」
マルコはレイフの言葉にうんうんと二、三度頷いた。今日はマルコの奥さんの誕生日プレゼントを買いに来たのだった。レイフも新しい枕が欲しいと思っていたこともあってそれに付き合った。
「でもよ、それはお前さんの気持ちだろ? ウィルは復隊を望んでるんだ。その通りにさせてやるのが、親心ってもんじゃないのか?」
「……俺は親じゃない、あいつのキャプテンだ」
レイフは首を振った。ウィルに対しては色んな感情が渦を巻く。キャプテンとして、人間として、恋人として。どんな角度から考えてみても出てくる答えは違ってしまって、余計に雁字搦めになっていく。
「親も同然だろう。あんたは確かにウィルをあそこまで立派に育てた。でもよ、あいつの生き方丸ごとお前が決めちまうなんて、本当にあいつは幸せか?」
「……でも」
「よく考えろ。心配な気持ちはわかるが、それはお前のエゴだと、思ったことはないか?」
レイフの心に迷いが巣食う。これはエゴか、それとも本当にウィルのことを思ってなのか。わからない、愛しい人を失いたくないと思うのはエゴなのか?それすらもわからなくなって、レイフは傘の持ち手をぐっと握った。その様子を見兼ねたのか、マルコがとんとんと背中を叩く。
「まぁさ、ウィルも一年後って言ってるんだ。それまでに結論に辿り着けばいいんださら、焦る必要は、……おい、レイフ、あれ」
マルコが急に話すのをやめてゆさゆさとレイフの肩を揺すった。レイフもそれに気づき、マルコが顎をしゃくった方向を見る。
「あれ、ウィルじゃないか? 話をすればなんとやらってやつだろ、これ」
マルコは陽気に話し続けたが、レイフの顔から色がなくなった。
ウィルが女性に上着を貸していた。そしてその腰に手を添えて、自分の傘に入れてやっている。女性はウィルの上着で暖を取っているらしく、幸せそうな顔をしていた。それは、はたから見れば完全に恋人同士のそれで。レイフの目が、二人から離れない。
「いや、まぁなんていうか……あいつは女にもモテるタイプだよなぁ」
マルコは二人が結ばれた瞬間を見ているから、今この瞬間気まずい思いをしているだろう。
「……そうだな」
マルコの声に応えるのが精一杯だった。ウィルを、無理して付き合わせているのかもしれない。先ほどのマルコとの会話が脳裏によみがえる。
これはただの自分のエゴで、ウィルはもしかしたら、気を使って自分といつも一緒にいてくれるのかもしれない。最近残業で帰りが遅いのも、その前に女性に会うためかもしれない。遅くなった日はレイフを求めてこない。今までは自分の体力に気を使ってくれているのだろうと嬉しく思っていたが、彼女とそうした時間を過ごしているのかもしれないとすら思えてきた。
「……すまないマルコ、……今日は帰るよ」
「ああ……わかった。だがウィルのことなら、あと一年あるんだ、ゆっくり考えようぜ」
「いや、……お前の言う通りだよ、すべて俺のエゴだったんだ。……もう、あいつを解放してやらなきゃならない」
覇気のない声でつぶやくように言うと、そのままマルコを残して夜の雑踏に消えた。
「すみませんウィルさん」
「いや、俺も傘もってなかったから。これは管理部の人に借りたものなんだ」
「そうだったんですか……」
助手席でうつむくエミリーに、ウィルが優しく声をかける。
「気にしないで、こんな雨だし。家まで送っていくよ」
「でもそんな───」
「あの信号はどっちに曲がればいい?」
「……右です」
エミリーは微笑んだ。ウィルの気遣いが純粋に嬉しい。空調も少し濡れたエミリーに気を使って高めの温度に設定してくれている。
「今週は雨が続くらしいね」
「そうなんだ……じゃあちゃんと傘持ってこなくちゃですね」
本当はカバンの中にお気に入りの折りたたみ傘が入っている。ただカフェを出て降る雨をその軒先で見ていたら、遠くにこちらへかけてくるウィルの姿が見えてそれを出さずにいたのだ。そうしたら、少しはいまの関係より前進できるかもしれないと思った。
「……どうして、わたしに気付いてくれたんですか」
わざわざ路肩に車を寄せて、カフェの前までやって来てくれた。それを、普通の女性にするのだろうか? 車の中から見えたからとカフェの前では言っていたが、少しは期待してもいいのか。エミリーの心中は、嬉しさで舞い上がっていた。
「いや、たまたま信号待ちしていたらね、君が見えたんだ。俺もあそこのカフェがお気に入りでね。で、そのカフェの前で立ち尽くしてたから、傘がないんじゃないかって思って。俺も傘持ってなかったわけだしさ」
欲しい回答は、エミリーの姿を見つけた経緯ではなく、駆け寄ってきてくれた理由だ。だが、そこまで踏み込むのをためらわれるほど、ウィルの優しさが滲んだ回答だったからエミリーは少しだけ黙ってしまった。ここで追及するのは得策ではない。もっと他の探りを入れよう。
「……ウィルさんて、本当に優しいんですね。みんなにそうやって優しいんですか?」
エミリーはニコニコと笑いながら、その回答を待っている。
「さあ、どうだろうね」
もう少しこのまま、近付けたらいいのに。
「この曲、素敵です。いつもこういうの聞いてるんですか?」
ピアノジャズは雨の夜によく似合っている。
「そうでもないよ。いまはたまたま」
「そっか……今度、わたしジャズの演奏会に行くんですけど、一緒に行きませんか?友だちにキャンセルされちゃって」
勿論そんな予定はない。これから作るのだ。
「君はもっと素敵な人と行きなよ。ここは、曲がっていいの?」
「……はい」
ウィルにさらりと交わされて、エミリーは内心面白くなかった。でもその自分を落として交わす傾向はそろそろ掴んだ。だからこそ、追撃できる。
「わたしにとっては、ウィルさんが素敵な人なんだけどなぁ……」
そうつぶやいてウィルの横顔を見る。何も答える様子はない。
「ジャズの演奏会なんて、どうでもいい人誘ったりしません」
「ありがとう。でも俺は君が思ってるような男じゃないと思うよ」
「どういう意味ですか?」
「君の理想は叶えられないってこと。演奏会でうまく君をエスコート出来そうにないからね」
あくまでも笑顔で、冗談めかして答えるウィルに、やはりエミリーは苛立ちに似た感情を覚えた。どれも定かな理由ではなく、エミリーを交わす言葉ばかり。本当にエミリーが欲しい答えはくれない。
「ウィルさんは狡いです。いつもそうやって、ごまかしてばかり。そんなに大人ぶって、背伸びして。本当はそんなの、似合ってないです」
語尾が思いのほかきつくなってしまったのをエミリーは反省した。だが、取り下げる気もない。ここまで言ったのだから、心からの言葉が聞ければ十分だと思った。いつも誤魔化してくるウィルに、報復の気持ちも混じっているかもしれない。
「……そうかもしれないね」
ぽつりと、少し自嘲めいた響きの声に、エミリーは何も言えなくなった。
巡る地球儀 8
車は車庫にあったのに、部屋はひどく暗い。ウィルは恐る恐る玄関を上がった。
「レイフ……? 帰ってるんですか?」
もしかしたら酒でも買いに近くのコンビニにでも行ってるのかもしれない。ウィルはネクタイを緩めながらリビングルームに向かった。
「あれ? いたんですか?」
そこで見つけたのは間接照明だけの暗い部屋でソファに座っているレイフの姿。
「……おかえり」
辛うじて絞り出したような声に、ウィルが異変を察する。
「レイフ……? どうしたんです?」
「ウィル、さよならしよう」
言葉としてはよく聞いていたものの、自分がその状況におかれるとは思っていなかった。言葉を脳が、理解しようとしない。
レイフは立ち尽くしたまま何も言わないウィルを直視できなくて、思わず目を伏せた。
「……どう、して……?」
「……お前が一番よくわかってると思う。俺は、お前を解放してやらなきゃならない」
レイフが懸命に言葉を紡ぐのに、その音だけが耳から入るだけでその意味は理解に及ばなかった。
「……レイフ……? なに言ってるんです……?」
「だから……、別れよう、俺たち」
ウィルは思わず膝から崩れ落ちた。そしてレイフの前で、ぽろぽろと大粒の涙をこぼす。
「いやだ……」
レイフは意表を突かれた。新しい恋人がいるのだから、こんな風に泣かれるとは思っていなかったのだ。ウィルにあっさりokされて、結局また自分だけ傷つくのだと思っていたのに。
ウィルはソファに腰掛けているレイフの膝に手をかけた。レイフは自然と、その手を両の手で握り返す。するとウィルもまた、その手をきつく握った。
「嫌です……俺は絶対に嫌です! どうして、……俺のこと、嫌いになったんですか……? 俺には、あなたしかいないのに……!」
「今日、見たんだ。お前が女性と傘を差して歩いているところを。あの人を、いまは愛してるんじゃないのか……?」
いままでは絶えず涙を流していたウィルの表情が固まった。
「え……? 傘をさして……?」
レイフは頷く。
「……はは、もう、レイフ……それだけですか? 俺に別れたいって言った理由」
涙をぬぐいながらウィルが笑う。レイフの頭には疑問符が浮かんでいるが、なんとなくウィルの笑顔につられて笑った。そしてウィルも余計に笑い出して二人で思い切り笑いあった。
「もう、俺の涙返してくださいよ本当に」
「……どういうことだ……?」
「あれはバックアップチームのエミリーさんです。傘がなくて困ってたので入れてあげてたんです」
「腰に……手を当ててたように見えたんだが……」
「それは人にぶつかりそうになってたので。ほら、レイフにも俺、よくやるでしょう? 癖になったみたいで」
その言葉ですとんと心に落ちた。これは誤解だ。要らぬ濡れ衣でウィルを悲しませてしまった。レイフの胸が押しつぶされていく。
「ウィル、ごめん。……その、俺の勝手な誤解でお前を悲しませてしまった……」
「いいえ。あなたと離れるよりずっといい。……俺、あなたに誤解を生むようなことばかりしてましたよね。正直にお話します」
ウィルはそういとティッシュで涙を拭ってからレイフの隣に腰掛けた。その手は相変わらず、レイフの手を握ったまま。
「今日一緒にいたのはさっきも言いましたが、バックアップチームのエミリーさんです。彼女は努力家だし、仕事は正確なのでよく書類を作って貰っています。なんの関係もありませんし、彼女はクレイグ狙いでしょう。勿論クレイグにはその気がないので早めに諦めさせてあげたいけど……彼女次第です」
レイフは見たからわかる。きっと彼女はウィルが好きだ。本当ならライバルだが、逆にかわいそうになってきた。
「そうか……まぁお前がその、……ほかの女性に気がないのならいいんだが……」
「あるわけがないですよ。上司のアリシアさんも、人として素敵だとは思いますが恋愛対象には見れない。俺よりももっと包容力のある男性のが似合ってるでしょうね、彼女はああ見えて不器用なところがありますから」
「……そうか……」
レイフの見立てではアリシアがあんなに部隊側との折衝を頑張るのはウィルのためなのだが、それにも気づいていないらしい。いままで人の気持ちには誰より敏感だと思っていたが、恋愛に関してはそうではないのだろうか?
「……なんてね。そういう振りをしているんです。エミリーさんもアリシアさんも、俺のこと好いてくれてるのは気付いてます。気付かなければいいと思ってたんですけどね。だから表面上は、気付かない振りしてかわしてます。二人には、本当に幸せになって欲しい。どちらも素敵な女性だから」
「……ああ」
展開が早すぎて理解が及ばない。とりあえず頷いたが、レイフは黙り込んでそのまま考えを巡らせる。ウィルは二人の女性の好意に気付いていながらも、自分だけを見てくれているらしい。もうそれだけがわかればよかった。
「だからレイフ、もう絶対にあんなこと言わないでください。本当に俺にはあなたしかいないんだ。なんだったらHQの女性たち全員に、俺の恋人はあなただって告白してもいい」
「いや、……それはさすがに……」
「わかってますよ。でも、俺はそれだけ本気です」
真剣なウィルの表情に、レイフは頷くしかなかった。でもそれは強引なものじゃない。自然と頷かせてくれる不思議な力強さがその言葉にはあった。
「俺の気持ち、わかってくれました?」
「ああ。痛いくらい」
「なら良いです」
「でも一つ聞いていいか?」
「ええ」
「あの、最近遅いのはその……なんでなんだ?」
そうレイフがおずおずと尋ねるとウィルが一瞬目を泳がせた。
「あー……まぁその、クレイグと色々と打ち合わせがあって…」
「……お前を恋愛対象と見るのが女だけだとは思ってないんだが」
「……レイフ、怒らないで聞いてください」
もう言い逃れできないと観念したのだろう。
体勢を整えたウィルを見て、レイフは逆に襟を正す気持ちになり自分も体勢を整える。それを見て、ウィルがゆっくりと口を開いた。
「最近、少しずつリハビリも兼ねてトレーニングをしています。勿論クレイグの元でだから心配はいりません。それで……実は来期の試験を受けようと思ってる」
「来期だと……?」
「本当に、無理はしません。そのためにクレイグに頼んだんです。あいつにはいつもバイタル計測から精密検査まできちんとやってもらってる。異常がないのを確かめた上でトレーニングしています。もし万が一異常があったらすぐに休止するし、回復のために最善を尽くします。だから……お願いだから、止めないで下さい」
ウィルの悲痛な声に、レイフの心が揺れた。そしてマルコに言われた、エゴだという言葉も脳裏を掠める。
「……次、訓練をするとき俺にも見せてくれないか? 途中で口を挟んだりはしない。だから」
「……わかりました。明日、お見せします。18時にトレーニングルームEです」
「なるべく間に合うように行くよ」
「はい」
そういうと沈黙が落ちる。レイフは話を切り替えるべきタイミングだとわかっていても、次に何の話をしたらいいのかわからなくなってしまっていた。
「レイフ、久しぶりに今日は早めにベッドに入ってお話しませんか?最近あまり時間とれてなかったから」
「……そうだな」
それから二人でシャワーに入った。久々に一緒に入って、そのまま布団に潜った。その間話が尽きることはなく、たまに擽りあったり、キスをしたり、純粋な幸福に心が満たされていくのをレイフも、ウィルも確かに感じていた。
「ねえ、レイフ」
「ん? くすぐったい」
ベッドの中で、向き合いながらウィルが鼻や瞼にキスを落とす。
「俺はあなたにもう隠すことなんて一つもない」
「……俺もだな」
「嬉しいです。俺はね、自分のこと世界で一番幸せだと思ってるんです。大好きな人がそばにいて、どんな俺でも見ていてくれる。あんな醜い姿になったときでも──」
「醜くなんてなかった!」
ウィルの言葉を遮った。醜いなんて言わせたくなかった。真剣な表情のレイフを、ウィルの柔らかな眼差しが見つめる。
「いいえ、いいんです。病室で鏡を見たとき、……正直泣きました。一度だけじゃない。こんな醜い姿になったんだって。でも、……あなたはそんな俺から、一度も目を逸らさなかった」
「……そんなの、当たり前じゃないか」
レイフは少し泣きそうになった。あのときのことを思い出してしまう。
「だからいいんです。俺はあなたの前ならどんな生き方もできる。俺を愛してくれて、ありがとうございます」
そういうとウィルがレイフの首筋に手を伸ばした。レイフもその自分より細い体をしっかりと抱きしめる。レイフの思いは、うまく言葉にならなかった。
「今日は少し冷えますね」
「……ああ」
「温めてください、あなたのたいおんで」
レイフはその言葉に頷いた。ウィルが手を伸ばしてベッドサイドの明かりを消す。二人はそれから、ひしと寄り添って眠った。
巡る地球儀 9
「ごめん、待たせた」
「こいつのおかげで退屈しなかった」
そういって小難しそうな医学書か何かを開いている。
「恋人でも作れば?」
「誰が弊害になってると思ってる」
「別にトレーニングに連れてきてもいいけど?」
「こんな男臭いとこにどんな女なら来てくれるのか教えてほしいね」
ふざけあいながらウィルはトレーニングルームの鍵を回した。基本的にはウィルが鍵の管理をしている。それは訓練に付き合わせているという負い目からだろう。
「あ、今日レイフが訓練を見に来る」
「……マジ?」
「ああ。訓練終わってからだから19時くらいになると思う。だからお手柔らかに頼むぜ」
「あー、しまったなー、今日はキツめのやつだわ」
わざと棒読みでからかうクレイグをウィルが睨む。クレイグとは真剣な話が2割、あとの8割は軽口ばかりだ。気心が知れているからこそウィルも口が悪くなるし、クレイグとの掛け合いも軽快で楽しい。
あの頃はまだ、ウィルの容態のこともあって軽口を叩きあえるような雰囲気ではなかった。それが今や、トレーニング時間の甲斐もありこうしてじゃれ合えるまでになった。
「頼むから軽めにしてくれよ。あの人心配性なんだから」
「ハイハイわかったわかった」
「とりあえず先着替えてくるわ」
「キャプテン来るからっておめかししちゃやーよ」
「するわけねえだろ。あ、悪い、水分買ってきてくれね?忘れてた」
そう言ってフィッティングルームのカーテンから小銭を持った手だけを突き出す。
「全く。世話が焼けるぜ。いつものでいいか?」
「ああ」
「おつかい頼まれてやる代わりに女の一人でも寄越してもらいたいものだ」
「悪いが俺は男にしか興味ないんでね。欲しけりゃ風俗でも行ってこい」
不躾に投げられた言葉にクレイグが首を捻る。過去に女性経験はあるといってたはずだが、これは生粋かもしれない。
「こりゃ本物だな」
「なんだって?」
「なんでもねぇよ。んじゃ、代わりに俺に”ご奉仕”でもしてもらおうか?」
「そんなんするくらいなら行かせねーよ」
「じゃ、いってきまーす。楽しみにしてるぜー」
「あっ、おい!」
慌てて着替えたのにクレイグはトレーニングルームからひらひらと手を振りながら出ていってしまった。
ため息をついてから肩を回した。クレイグが戻ってきたらすぐにアップに入れるように準備体操でもしようか。
準備体操を終えた頃、トレーニングルームの扉が空いてクレイグが入ってきた。
「おー、やってるねー!」
「遅えよ。もう身体あったまってるから。最初のメニューは?」
「最初のメニュー?んー、そりゃまず挨拶からだな」
クレイグがそういうとその後ろからおずおずとレイフが姿を見せた。ウィルははっとして慌てて駆け寄る。
「レイフ! 早かったですね、終わるの」
居ずまいを正すようなウィルの態度に、クレイグはにやにやしている。それでもいまのウィルにそのクレイグをたしなめる余裕はない。
「ああ、事情を話したらみんなすっかり背中を押してくれてな。みんな、お前のこと応援するってさ」
「そうですか……あ、好きなところに座っていて下さい」
「ああ、それなんだけどさ。隊長もやるってさ」
クレイグに言われてウィルはぽかんとした表情を晒す。事態が飲み込めない。
「え、レイフが一緒に、トレーニングを?」
「ああ、俺も参加させてくれ」
レイフに改めて言われてウィルの脳が理解する。
「い、いやいや、レイフにとったらこんなトレーニング、朝飯前です! 申し訳ないですよ、こんなトレーニングに付き合わせるなんて……!」
「いや、頼む。クレイグ君にも許可はとった」
そう言われてウィルはクレイグを見た。相変わらずにやにやとしている。きっとウィルに本気を出させるためだ。今日は軽いメニューにしろといったのに。
「ちょ、ちょっとレイフここで待っていてもらっていいですか? クレイグ、ちょっと来い!」
「おいおいこのタイミングで”ご奉仕”か?」
「誰がするかバカ。早く!」
クレイグを引っ張ってきて耳打ちする。
「お前な、今日は控えめのトレーニングでって言っただろ? けしかけたな?」
「いーや、俺からじゃないぜ。あの人から言ってきたんだよ。ほらこれ」
そういっておつかいで買って来てくれたスポーツドリンクを手渡される。ウィルは唇を噛んだ。クレイグは大切なことで嘘はつかない。ということはレイフは本気でウィルを試しに来ているのだ。
「大丈夫だろ、格闘トレーニングだけ入ってもらえよ。あとは元々一人用の訓練だし、並走するくらいなら構わねーだろ?」
「……そうだな」
「じゃあレッドフィールド隊長!最初は基礎の基礎からやりましょう」
クレイグがレイフに声をかける。ストレッチをしていたレイフは顔を上げてああ、と答えた。
ウィルとクレイグはマシンに向かう。レイフもそこに加わった。クレイグがレイフに簡単な説明を行う。
「マシンを使って緩急つけて40分走ります。途中20分でウエイトトレーニングを挟んでやりますからね」
そういっている間に手では、ウィルの上腕にバイタルを測るベルトを巻きつけた。
「ウィルはいつも俺にバイタルを監視されてます。こいついまはかなりキツめの薬飲んでるんでね。異常があったらすぐわかるように、これは体温とバイタルと残ウイルスの血中濃度を測ります」
「これはクレイグの発明品なんですよ」
「ほお、すごいな。ウイルス濃度も測れるのか」
レイフが興味津々な様子でそのベルトを見つめる。
「元々はマウス実験用だった、血液サンプルを使わずにウイルス濃度を測る技術を応用してます。マウスから毎日検査に必要な量の血を抜いてたら一週間持たずに死んじまいますからね」
レイフはうんうんと頷いてクレイグが話しながら手渡してくれた測定用パネルを見つめた。ウイルス濃度は0.14を示している。
「ウイルス濃度はだいたい0.4で身体に変異が出始めます。0.7で意識を手放し、1で完全にクリーチャーとして活動します。ここに運ばれてきたとき、ウィルはこれが0.67を指してた。それに比べたら全然いいでしょう」
クレイグは手際良くレイフにも同じベルトを腕に巻きつけた。
「通常だとこの値は0.02~0.04程度。これはクリーチャーと人間の共通の組織を拾ってるからです」
レイフの値は0.01。クレイグはタブレット端末を取り出した。
「そのパネルは被験者用。こっちで全部見れるので、それはご自分でご覧になりながら調整してください」
ウィルは首を回しながらマシンに乗った。そして手際良くその時間やスピードを設定する。
「俺が設定しますね」
レイフのマシンの設定もさっと済ませるといいタイミングでクレイグが告げた。
「じゃ、開始」
途中のウエイトトレーニングを終え、37分を過ぎようとしたところ。
「ウィル、一旦止まれ」
クレイグの鋭い声が飛ぶ。レイフが横目でみたウィルも苦しそうな表情でマシンを降り、そのまま膝と手を床についた。レイフは慌ててマシンを飛び降りて駆けつける。
「大丈夫か!?」
「ええ……。すみ……ません、張り切り、すぎたみたいです……」
「ウィルは大丈夫なのか!?」
クレイグはデータをみながらトレーニングルームの端っこから答える。
「2日に1回くらいはあることですよ。いま安定剤持ってくんで、ウィルに水分やってください」
そういってクレイグがペットボトルをレイフに投げる。
「ああ」
クレイグからペットボトルを受け取ると優しくウィルの上体を起こした。ウィルの身体は体感でもかなり熱い。
レイフは傍に片膝をついて座り、ウィルの身体を膝に引き寄せもたれさせた。
「飲めるか?」
「……すみません……」
レイフに水分を口に含ませてもらうとそれを飲み、合間に浅い呼吸を繰り返した。呼吸をさせるべきなのか、水を飲ませるべきなのかレイフには判断がつかない。
「隊長、ありがとうございます。ウィル、打つぞ」
大股で寄ってきたクレイグの手には注射器。ウィルの腕を消毒でさっと拭くとためらいもなくその細い腕に突き刺した。
「あ、……ぁ……」
痛みか、もしくは内側で暴れるウイルスにか、ウィルの苦しい声が漏れる。
レイフはウィルの身体を支えながら何をすることもできない自分に苛立っていた。こんなにも苦しみながらトレーニングをしていたウィルに気がつかなかったなんて。
「深呼吸しろ。隊長、どれくらい水分飲ませてくれました?」
「いや、まだ少し……」
レイフが答えるとほぼ同時にウィルが首を振ってそのレイフの手からペットボトルを奪う。そしてペットボトルの水分を飲み干した。
「いま打ったのもきついので、水分とらせて少し濃度を落としてやらないといけないんでね。まぁもうこいつはわかってますが」
「すいません、レイフ……」
乱暴にペットボトルを奪ったことを懺悔しているのか? レイフの心に罪悪感が募っていく。
「いや、俺こそすまない……何もできなくて」
そうレイフがいうと、ウィルはその膝からレイフを見上げ、微笑んでレイフの頬に手を添えた。
「大丈夫です、……すみません、心配かけて。……あなたがいてくれてよかった」
レイフに声をかけるウィルの瞳は優しい。クレイグはそれを不躾に見てしまわないようにタブレット端末のデータに視線を落とした。
「俺の方こそ、お前がこんなに苦しんでいたなんて……もっとはやく気づいてやれなくて、ごめんな」
「いいえ。……俺が、あなたに隠してたのが悪いんです……」
「俺、これから参加できるときはなるべくここに来るようにするから」
ウィルは少しの間黙ったが、そのあと小さく頷いた。
「……お願いします」
レイフになら、こんな情けないところでも見せられるだろう。昨日レイフにならどんな姿でも、どんな生き方でも見せられると思ったはずなのに、こんなところで小さな意地が出てしまった。ウィルは昨日の自分に倣っていまの自分を戒めるような気持ちになった。
測定値が次第に静まっていく。クレイグはトレーニング再開の許可を出すタイミングを見計らっていた。
巡る地球儀 10
予想以上に会議が長引いた。時刻はそろそろ14時をさす。昼休みにクレイグに呼ばれていたのには行けなかった。投薬出来なかったのはかなりの痛手だ。安定剤を昨日のトレーニング中に打ったのでその調整のために今朝は鎮圧剤を打たなかったのだ。
ウィルは長広舌を振るう議長をちらりと見た。この様子だとまだまだ話し足りないといったところだろう。
隣でアリシアは懸命にその話に耳を傾けている。結局のところ議長の言いたいことは、世界平和でもBSOCの使命に関することでも何でもない。自分の成功体験を讃えて欲しい、ただそれだけだ。ウィルは聴講に飽きていた。プレゼンテーションを行っているから部屋は薄暗い。きっと何人かは夢の入り口に立っていることだろう。
「……であるから、是非ともここにいる諸君も、クリーチャーへの対策と、テロの……」
議長の声が遠ざかる感覚と同時に、鼓動が大きく脈を打った。これに似た感覚をウィルは知っている。やはりまだ、鎮圧剤を打たずして身体は持たないようだ。
ウィルはデスクに開いたノートにペンを走らせた。そしてアリシアの肩をとんとんとつつく。
「?」
振り返ったアリシアにノートを指差して見せた。
”すみません、ちょっと腹が痛いので外に出ます。議事録は後で作成します”
ウィルの簡素で几帳面そうな文字。アリシアはそれを読むとすぐにウィルの顔を見た。確かに顔は真っ青だし苦しいのを堪えているのがわかる。これは本当に、ただの腹痛だろうか。なにより、ウィルが手で抑えているのは心臓だ。
だがここで二人揃って出て行くのは得策ではない。アリシアは頷いてウィルを部屋から見送った。
(この位置じゃ雑音のが大きいかも)
ウィルが置いていったボイスレコーダーをより議長の近くに置いて、アリシアもすぐその後を追った。
「ウィル!」
誰もいない廊下の端でウィルがうずくまっているのが見えて、アリシアは思わず声を上げた。振り返ったウィルがしまった、という顔をしていてアリシアの心は少し罪悪感に埋まる。だがそんなことは今はどうでもよかった。駆け寄ってウィルの肩を支える。
「ウィル、どうしたの!? どこか痛いの!?」
「大丈夫、です……」
身体がひどく熱い。呼吸も乱れていてとても大丈夫には見えなかった。
「大丈夫なわけないじゃない! はやく医療チームのところへ……!」
そういったところでウィルが端末を片手にクレイグの名前を呼び出そうとしているのが見えた。
「電話したいの!? 私が代わりに電話するわ」
「すみ、ません……」
ウィルから端末を受け取ると、画面に何度もクレイグ・スプリングフィールドからの着信履歴が残っていた。
「スプリングフィールドさんでいいのね?」
「……はい」
ウィルが小さく震えながら頷いた。アリシアはそのままクレイグに電話をかける。コールが鳴ると同時にクレイグが出た。
「ウィル!? 今どこにいる!?」
「あ、私バックアップチームのアリシアです、いま彼の容体がおかしくて……!」
「アリシアさん……いまどこですか?」
「大会議室Gの南側の廊下よ」
「わかりました、すぐ行きます。すみませんが、何があってもウィルとそこにいてください、ウィルを動かさないことと、あなたが離れないこと、約束してください」
そう話しながらクレイグは準備をしているのだろう。声がマイクから遠ざかったり近づいたりする。ウィルはそのまま壁に沿ってしゃがみ込み、壁に持たれて座ってしまった。立っているのもきついのだろう。
「今から1分以内にいきます」
その声とともに通信が途絶えた。クレイグのウィルを思う気持ちが伝わってくる。
アリシアはウィルに向き直った。ウィルは目を閉じ大きく肩で呼吸をしている。とても喋れる様子ではない。ウィルが痛々しくみえて、せめてもと思いアリシアは額の汗をハンカチで拭った。ウィルがそれに気付いて薄く目を開ける。
「だめ、ですよ……ハンカチ汚れちゃいます……」
かすれたその声にアリシアの母性がくすぐられる。こんな事態で高鳴る胸を不謹慎だとアリシアは抑え込んだ。
「そんなことないわ。何も言わないでこのまま楽な体制にしてて。スーツのボタン、外すわよ? 苦しいでしょ」
ウィルは何も言わず浅く頷いた。アリシアは恐る恐るそのスーツのボタンに手を掛ける。そしてカッターシャツの一番上のボタンまでいつも律儀に締めているから、そのボタンも第二ボタンまで外してやった。これでだいぶ呼吸も楽になったはずだ。
「アリシアさん! ウィルはどうですか!?」
空気を割くようなクレイグの声が後方から聞こえてきた。アリシアは慌てて立ち上がる。
「ボタンは外してとりあえず楽になるようにしたつもりなんだけど……」
そう話すアリシアに頷きながら、クレイグは駆け寄りウィルの前に膝をついた。
「立てるか? 喋らなくていい。すみませんアリシアさん、こいつを病棟に運びます。俺の背中に乗せるの手伝ってくださいませんか?」
「え、ええ」
クレイグはウィルより身長も高く程よい筋肉もついている。ウィルなど軽く背負えるだろう。ウィルの前にしゃがみ込むクレイグの背中に、ウィルをなんとか背負わせる。人に世話をかけるのを嫌がるウィルでさえも、殆ど抵抗しないほどぐったりとしていた。全幅の信頼をクレイグに寄せているかもしれないが、いまは体調もあって拒否出来ないのだろう。
「あなたも来てください。あなたはウィルの上司として、知っておく必要があります」
クレイグはウィルを背負って立ち上がるとアリシアにそう告げた。アリシアは頷いて、ウィルを背負ったまま駆け足で医療チームの病棟に戻るクレイグの背中を追った。
医療チームの病棟には病院より上等な施設が揃っている。
アリシアには用途もわからないような複雑な名前のついた部屋ばかりだった。だからいま自分とウィルが連れられた部屋が何をするためのなんという名前の部屋なのかはさっぱりわからない。
それでもたくさんの器具が並び、ウィルがベッドに寝ていて、たくさんの注射や点滴をクレイグに打たれているのを見ると、ウィルの容体は思わしくないのだろう。
点滴や注射をいっきに色んな箇所に打つために、邪魔になるからとカッターシャツを脱がされ上裸体で酸素マスクをつけられたウィルを、アリシアは黙って見つめていた。
「アリシアさん、ベックフォード隊長に連絡を取って頂けますか? 緊急だと伝えてください。もし、ないと思いますが訓練を抜けられないといったら万が一もあり得る、と伝えて何が何でも来てもらってください。隊長と合流出来たら、二人で医療チームに戻ってエドモンドという俺の部下をここまで連れてきてください。詳しい事情は話さなくていい。頼みます」
クレイグは治療を行いつつ、マスクの下からそんな言葉を並べた。万が一とはなんだ、頭が考えることを拒否する。いまはレイフに連絡を取るのが先だろう。言われたことを落ち着いて出来る自信はないが、いまはやるしかない。アリシアは駆け出した。端末でレイフの名前を呼び出す。レイフは思ったよりすぐに出た。
”はい、ベックフォードです”
「今、ウィルの容体が急変して、……医療チームのスプリングフィールドさんに万が一もあるかもしれないからってあなたを呼べって……!」
きちんとした文章にならなかった。それでもレイフには十分伝わったのだろう。
”すぐに行きます。どこにいますか?”
「あ、ウィルのところに行く前に……医療チームに人を呼びに行かなくちゃならなくて……!」
”医療チームに行きます。そこで落ち合いましょう”
電話の向こうのレイフは自分よりずっと落ち着いているように思えた。そのおかげで少しずつ脳内が澄み渡っていく。
「わかりました」
アリシアの返答をきくとすぐに通話が切れた。アリシアは廊下をがむしゃらに走った。廊下を歩く人たちに何度か見られたがいまはなりふり構っていられない。医療チームのオフィス前まで来るとこちらに同じようにかけて来るレイフの姿が見えた。
「ベックフォード隊長!」
「ええ。エドモンドでしょう」
アリシアはオフィスに駆け込んで受付カウンターの近くにいた男性に声をかけた。
「すみません、エドモンドさんいますか? スプリングフィールドさんの部下の!」
血相を変えたアリシアの様子にただ事ではないとわかったのか、エドモンドと呼ばれた男性が振り返った。何かの資料を手にしていたがそれを置いて小走りでこちらにかけて来てくれる。
「スプリングフィールドさんに言われて……!」
「クレイグ君に君を呼ぶように言われた。一緒に来てくれないか」
レイフがアリシアに代わってエドモンドに用件を伝える。エドモンドはそれを聞くとすぐに受付カウンターを迂回して出て来てくれた。
「行きましょう」
エドモンドがいの一番に駆け出した。その後を二人で追う。
「ウィルさんですか?」
「ええ、体調を崩して」
「ウィルはいまはどんな状態なんですか?」
「今は、意識も朦朧としてるくらいで……」
エドモンドとレイフが交互に聞いてくる。二人とも、心底ウィルが心配なのだろう。
医療病棟に戻ると、もう処置は終わっているようだった。
「ウィルは!?」
クレイグがマスクを取りながら三人に向き直った。大きく切り取られたガラスの向こうに、たくさんの管につながれながら横たわっているウィルの姿が見える。
「部屋に入る前に一応濃度測らせてもらいますよ。エドモンド、あれ持ってきてくれ」
「わかりました」
レイフの問いに答えないということは最悪の事態は免れたということなのだろう。レイフは素直に腕を差し出した。アリシアも隣で腕を差し出した。クレイグはわざとアリシアの濃度から先に測定する。
二人の測定を終えると同時にエドモンドが手に白衣のようなものを持って戻ってきた。
「しばらくは入院が必要ですね。一週間程度見てもらえれば。あそこへ入るにはマスクと防ウイルス着を着てもらいます」
そういってエドモンドから受け取り、包装を破く。
「それを隊長に」
「はい」
クレイグはエドモンドにレイフへ防ウイルス着を着せるよう指示を出した。レイフは黙ってエドモンドに着せてもらう。白衣と防護マスクをつけられながら、レイフはクレイグに問うた。
「いままでこんなことはあったのか?」
「……ここまでのものはありませんでした」
「……そうか」
「苦しくないですか?」
「ああ」
エドモンドの問いに答えながらも、レイフは一心にウィルの身を案じた。いまは大丈夫だとしても、もし今後こういうことがあったらどうする? 本当に、このままトレーニングを続けさせてもいいのだろうか。
「アリシアさん、どうぞ。あっちのドアが入り口です」
「ありがとうございます」
アリシアはそのまま言われた扉から中へ入っていった。
「ベックフォード隊長、すみません。俺の監督不行き届きです」
アリシアが病室に入っていった途端、そういってクレイグが頭を下げた。クレイグは頭をあげようとはしない。
レイフは突然のことに面食らった。隣で気まずそうにエドモンドが目をそらす。
「いや、……君のせいじゃない」
「あいつ、しばらく危険な状態です。……俺を信じてついて来てくれたあいつをこんな風にしたのは、俺の責任です。あいつにもし何かあったらって思うと……」
クレイグの言葉尻が濁る。ここに来てようやく、レイフは自分がここに呼ばれた意味がわかった。
「……いや、ウィルが君に頼んだんだ。あいつだって、君に責任をなすりつけるのは本意じゃないはずだろう? いまは……出来る限りであいつを救ってやって欲しい」
正直ここまで言葉を紡げたのが奇跡だった。もう頭の中は真っ白で、何を考えたらいいかわからなかった。
「……すみません、俺が泣き言言ってちゃダメだ。ウィルの様子、見にいってやってください。今は意識あるので、少しだけでもあなたの顔を見せてやってください」
クレイグが顔をそらしたままレイフにいった。本人はそれを失礼だとわかっているだろう。だが、泣き顔を見られたくなかったのだろう。自分も同じだから察しがつく。レイフはああ、と絞り出すように頷いてクレイグの前から立ち去った。
巡る地球儀 11
「ウィル?」
「……アリシアさん……」
酸素マスクを介したウィルの声が鼓膜にしみた。
「あなたがそんな格好をしてるということは、……俺はいま、かなりイカれてるんですね」
ウィルはそういうと自嘲の笑いを漏らした。アリシアの胸が締め付けられる。クレイグに詳しい事情を聞いたわけではなかったが、おおよそういうことなのだろう。さっきは逆側から見ていたから気がつかなかったが、右腕にはひどい傷がついている。
粘膜から感染しないようにゴーグルをつけているから少し部屋が暗く見えた。
「……うんん、……あなたと話せて少しホッとしたわ」
「……すみません、ご迷惑をかけて」
「迷惑なんかじゃないわ…あなたが、どうにかなっちゃったら、どうしようかと…」
そこで思わず涙が溢れた。ウィルが廊下でうずくまっているのをみたとき、一瞬最悪の事態を想像した。その後のクレイグの言葉にも惑わされた。万が一の可能性を考えては頭の中で消しての繰り返し。ウィルが部隊からこちらへ配属された理由は知っていたつもりだった。一歩間違えたら殉死していたかと知れないという事故に巻き込まれその後遺症のためだと。でも、それ以上のことは知らなかったし、普段ウィルも後遺症の症状をみせることがなかったから忘れていた。上司である自分にはクレイグの言う通り、知る義務があるのだろう。それでも、知ることが怖い。
「アリシアさん……泣かないでください」
そう言って、ウィルがアリシアの手を柔らかく握った。アリシアもそれを、握り返す。
「あなたには、笑っていて欲しい」
その一言一言がアリシアの涙腺を刺激していることに、この男は気付かないのだろうか。アリシアはそのゴーグルのせいで涙を拭うことも出来ず、ただぽろぽろと涙を落とした。
「なんて言えばあなたが笑ってくれるのかわからないなんて、……まだまだ勉強不足ですね、すみません」
「……これから、まだ時間はあるんだから、……私のこと、もっと知って」
アリシアの口から自然にこぼれたのは、いかにもな欲求だった。そして、ウィルが頷く。
「そうですね、……まずはあなたにそんな格好させなくていいように、……はやく治さなくちゃな」
アリシアは何度も頷いた。そしてその手をぎゅっともう一度強く握り返す。
「本当よ、はやく元気な顔を見せて」
そういったのと同時に、重いドアが開く音がした。
「ウィル!!」
レイフの痛切な声が、マスク越しにも聞こえてきた。
「ああ……意識はあるんだな……あぁ……ウィル……」
握られていた手は自然と解放されて、その手が次はレイフの両手に包まれる。レイフとは公私共に仲良くしていたよきパートナーだときく。アリシアはもう少しウィルのそばにいたかったが、レイフのその様子を見るとここは退いた方が良さそうだ。クレイグにも詳しい事情を聞かなくてはならない。アリシアは二人を置いて部屋を出た。
「少しは安心出来ましたか?」
「ええ」
「じゃあ、少しお時間頂きましょう」
クレイグはアリシアの前を歩いて小さな会議室へ誘導した。ドアを開けて中へ通される。
「もうあの部屋へは行きませんか?」
「……ええ」
アリシアは答える。
若き天才と言われたクレイグだが、どこか心の奥に深い闇を持ち合わせているようだ。医療チームとの打ち合わせや、ウィルと話している様子を見ると明るく、ユーモアのある青年だという印象しかなかったが、いまのクレイグはそれとは全く別物。
ひとまずウィルの一件が収まったからか、少しばかりそれが気になっている。
「それなら、そのマスクやらは全部廃棄するのでこちらへ来てください」
クレイグに案内された先には、自分と同じように防ウイルス着を纏ったエドモンドがいた。
「エドモンド、あとは頼む。俺は用意してくるから」
「わかりました」
アリシアをエドモンドに任せるとそのままふらりとクレイグは扉の外へ出て行ってしまった。
「ウィルさんとは、お話されましたか?」
「ええ……」
「あ、クレイグさんのこと、気になってます?」
「いえ、そんなんじゃ……」
エドモンドの穏やかな声に、心が見透かされたのがわかった。
「いいんですよ。クレイグさんは変わってますから。ウィルさんのことになると特に」
「そうなんですか……」
「付き合いの長い旧友だと聞いてます。だけどたぶん、友だちよりもずっと、互いに尊い存在なんじゃないでしょうか」
エドモンドの言葉は言い得て妙だった。確かに二人の関係は、特別な感情に支配されているように見える。
「あくまでも俺の目にはそう映るって、だけですけどね。本当のところはあの2人にしかわかりませんから」
アリシアは曖昧に頷いた。なんとも言葉にし得ない感情が胸の中に渦巻く。
エドモンドはアリシアから防ウイルス着やマスクを脱がせるとそれをそのまま抗ウイルス用のダストボックスに入れた。そしてアリシアを奥の部屋へ誘導する。
「ここで少し待っていてください。すぐに滅ウイルス薬を散布します」
一人レントゲン室のようなところに入れられ、エドモンドが外に出た。部屋が暗くなり、レーザーが何度かアリシアの頭上を通っていく。
「終わりました。お疲れ様です」
特に何かの薬を散布されたという感覚もないまま、エドモンドに告げられる。
「後はクレイグさんに話を聞いてきてください。あと注射もね。クレイグさんはドアを出て右側に見える、A-7090の部屋にいます。いってらっしゃい」
そういってエドモンドは、アリシアを送り出した。
アリシアは言われた通りA-7090の部屋を三回ノックした。中からクレイグの返事が聞こえる。
「お疲れさまでした。どうぞそこへ」
クレイグに促され、アリシアは席に着いた。目の前に座るクレイグが、なぜか遠く見える。
「さっそく本題に入りますが、あいつはいま体内にt-ウイルスを宿している状態です。正常な人もウイルスと同じ組織を体内には持っていますが、あいつは普段あなたと同じオフィスで仕事をしているときで正常な人の濃度の7~20倍です。普段ってのは鎮圧剤と安定剤で調整してるときです」
いつも11時にウィルは中抜けをする。それには医療チームからアリシアも許可をするように言付かっていたし、薬を打つためだとも知っていたが、そこまで詳しいことを聞いたのは初めてだった。そもそもいまも、ウィルが体内にウイルスを宿しているなんて知らない。
「さっきあなたにも測ってもらいましたが、これ、つけてみてください。ほら、0.01です。これが正常。ウィルはだいたいいつも0.14~0.2くらいですね。いまはそれが、0.38だ。いつ変異が出てもおかしくない。……最も、あなたといたときは、もっと数値は高かったでしょうけどね」
そう言われてもアリシアの脳が追いつかない。危険な状態であることはわかっても、そのクレイグの言葉が具体的に何を指していて、ウィルにどういう症状が現れるのかがわからなかった。
「あなたにも抗ウイルス剤を打ちます。腕を出してください」
そういってテーブルに置かれていたボックスから注射器を取り出した。
アリシアは言われるがままに腕を差し出す。
「あの、ウィルは……入院すれば助かるんでしょうか?」
「……事実だけでは、いまはなんとも言えません。ですが、俺が必ず助けます」
クレイグが注射器を刺す。太く見えた針も、クレイグの腕がいいからだろうか、全く痛く感じることはなかった。
「暫くは体が火照ったり、意識が朦朧とする可能性があります。俺の方からバックアップチームには伝えておくので、これから案内する部屋で少し横になって休んでいてください」
クレイグはそういうとすぐに立ち上がった。アリシアは面と向かっていながらそのクレイグの表情に感情がないのがどうにも気になっていた。さっきからただ淡々と事実を述べているだけだ。エドモンドに言われたことも気にかかる。
二人とも沈黙のまま、クレイグのいう部屋まで来た。一人用の病室で、特に変わった点はない。
「暖房はここで調整できますから、寒けりゃご自由にいじってください」
「あ、……ありがとう、ございます……」
「それじゃ、俺はこれで」
クレイグはくるりとアリシアに背を向けた。
「あっ、あの!」
クレイグが部屋を出る瞬間、アリシアは思い切ってクレイグに声をかけた。クレイグは振り返らない。
「……ウィルのこと、ありがとうございました」
いい言葉が出てこなくて、アリシアはなんとか言葉を紡ぐ。こんな言葉が、彼の心の慰めになるかどうかはわからない、いやならないだろう。
「あなただから、ウィルも命を預けられるんだと思います」
やっと思った言葉が出た。だがそれも、虚しく部屋に響くだけ。クレイグは動かない。
「……すみません、差し出がましいですよね」
アリシアは何も言わないクレイグに何故か罪悪感が募って早口にそう言った。そうすれば、クレイグは何も言わずに部屋を出て行けると思った。だがその期待は外れる。
「アリシアさん」
クレイグの低い声が、アリシアの耳に届いた。
「俺がウィルをもし殺してしまったら、……俺のこと殺してくれますか?」
ゆっくりと振り返ったクレイグの目は、ひどく暗い。その視線に射抜かれて背筋が凍る。
「……こ、殺すだなんて……」
「……すみません。忘れてください」
そういうとアリシアの答えも待たず部屋のドアを閉めた。アリシアは何も言えず、ただその場に立ち尽くしていた。
巡る地球儀 12
「気分はどうだ?」
「……クレイグ……」
ウィルが目をさますと、クレイグの顔が目に入った。その顔には少し疲れが滲んで見える。
「……俺は、どれだけ寝てた?」
「たった1日だ。大した時間じゃない」
「……クレイグ、ごめんな」
ウィルがそっと手を差し伸べる。そしてその手は、クレイグの頬に触れた。だが、その感覚はない。
「……」
「まだ薬で身体が麻痺してるんだろう。朝になれば戻るよ」
「……そっか……今、俺のウイルス濃度は……?」
「知らなくていい」
「知りたい」
クレイグは首を振る。ウィルは知らなくていいとは思えなかった。クレイグの白衣の胸ポケットには、いつも濃度測定器が入っているのを知っている。
ウィルは伸ばした感覚のない手をクレイグの胸ポケットに差し込んだ。
「おいウィル」
「……なぁクレイグ」
「ん?」
「お前は、なんで感染しない?」
ウィルのその問いに、クレイグが息を飲んだのがわかった。ウィルもわかっていた、この質問だけはしてはいけないと。だが、麻痺したままの脳が、その答えを知れという。
「……たまたまだ」
「嘘付け。お前はいつも、濃度による変異の過程は教えてくれたけど、濃度によって感染力が強くなることは教えてくれなかった。アリシアさんやレイフがあんな防ウイルス着を着ていて、お前がマスクもつけずここにいられるのは、おかしいよ」
まだはっきりとは言葉を発することはできなかったが、ゆっくりとした口調でそこまで言い切った。これだけで息切れがする。
「別に悪いことはしてない。心配するな」
「するよ。世間的に悪いことじゃなくても、体に悪い事なんていくらでもある」
クレイグが立ち上がった。動けないウィルを置いて、この部屋を出ていくつもりだろう。
「いいから、お前はまだ寝てろ。明日9時に起こしてやるから」
病室にかかっている時計は2時を指していた。
「待て」
「じゃあな、おやすみ」
「クレイグ」
ウィルは感覚のない手で、自分の腕に繋がれている点滴を握った。
「お前が部屋を出たら、この点滴を引っこ抜く」
「ウィル、やめろ」
クレイグのあまりに鋭い声に、ウィルの方が怯んだ。だが、ここまできたならもう虚勢で立ち向かうしかない。
「本気だ。戻ってこい。そしてさっきの質問に、ちゃんと答えろ」
ゆっくりとしか動かない唇に苛立ちを覚えながらも、ウィルはできるだけ冷静に言った。
クレイグは何も答えない。ただ鋭い表情でこちらを見ているだけ。
「早く」
沈黙が耳に痛くて、ウィルはわざと少し点滴を引っ張った。クレイグが顔色を変えた。
「ウィル! ……お前な、……ふざけるのもいい加減にしろ……!」
ウィルはこれほどまでに怒りを露わにしたクレイグを見たことがなかった。それに気圧され、点滴を手放す。
「……治験薬だ。自分で作ったものを飲んだ」
次はウィルが顔色を変える番だった。自ら死の危険を冒したというのか。
「そしたらたまたま、体内に抗ウイルス体が出来たんだよ。それだけだ」
ウィルが聞きたい答えは、何も結局もらえずに、クレイグはそれだけ言って部屋を出て行った。
「こんな状況でも仕事したいだなんてお前はどうかしてるよ」
「アリシアさんにたくさん迷惑かけたからな」
そう言いながらもウィルはパソコンから顔をあげない。
「…お前な…全く」
クレイグは大きなため息をついた。
あの後、ウィルの恐るべき回復力であの日から4日で寝たきりから歩けるようになった。正直クレイグにとっても全く想定外のことだった。そしていまウィルは、病室にノートパソコンを持って来て仕事をしている。
「いや、でも本当にお前には感謝してるよ」
「こんなとこにデスク運ばされて、感謝されなきゃ報われねえよ」
そういうとウィルが盛大に笑った。クレイグは大げさに首を振って見せる。
ウィルの病室にわざわざデスクを運び込んだのは昨日のことだった。それまでは付きっきりだったが、同じ部屋にいればいつもベッドサイドにいなくてもいい程度には回復した。
「でも俺と仕事出来て捗るだろ?」
「いい実験体がいるからな」
「この体が治るならどれだけでも協力するよ」
ウィルは軽口を叩きながらも素早いタッチタイピングで仕事をしている。どんな仕事も器用にこなすところをみていると、やはり無理をしてトレーニングをするようなことをしなくても、仕事には困らないように見える。
クレイグは目頭が痛くなって目をぎゅっと瞑り指で押さえた。
クレイグのここ数日の仕事量は常人の量を超えていた。ウィルの体調管理に時間を取られてそれに付随した新薬の研究やそのレポート作成がうまく進まず、通常業務も重なって徹夜続きだった。最優先にしてウィルの体調管理と新薬の研究を進めているが、それでもタスクは溜まっていく。
「クレイグ?疲れてる?」
目を閉じると余計に疲れを実感してそのまま少し動きが止まってしまっていたようだ。
あの日のことは今日まで思い出さないようにしていた。これ以上ウィルに知られるわけにはいかない。
「おい、クレイグ?」
ウィルがベッドから抜けて駆け寄ってきた。
「いや、なんてことない。それよりお前、いきなり立つな。まだ絶対安静だ。ベッドの中で座って作業するっていうから仕事するの許したんだぞ」
「わかってるけど…さすがにお前も休んだ方がいい。俺のベッドを貸すよ。もう一回立っちまったし、いま寝ろっていっても説得力ないぜ」
ウィルがテーブルに手をついてクレイグの説得にかかった。ウィルは引けないことに関しては誰よりも頑固だ。
「ダメだ、俺が寝ている間にお前に何かあったらどうする」
「自分で安定剤くらい打つよ」
「何かあってからじゃ遅い」
「もう、…あのときみたいに無茶はしない」
そういったときのウィルの顔と声が、いつもより必死だった。
「あのときは本当にごめん。お前が何か事件に巻き込まれるんじゃないかって心配だったんだ。…だから、点滴を盾にして…」
「ウィル、わかった。もういい、俺も悪かったよ」
「…じゃあ、休んでくれる?」
「…安定剤打つ時間になったら起こせ。あと、なんか体に異常を感じた時も」
きっとこれ以上拒否しても言うことは聞かないだろう。それに、もう身体が限界を通り越している。
「…必ずだ。約束しろ。いいな?」
「ああ」
そういってクレイグがベッドに向かうと、ウィルは代わりにクレイグの椅子に座った。
「…お前そこでやるのか?」
「そうだけど」
「ダメだ、発作があったときベッドの上のがいい」
「窮屈だろ?」
「お前がひっくり返って頭打つよりずっといい」
そういうとウィルは渋々といった様子でこちらへ戻ってきた。
「全く、レイフに誤解されたらどうするんだ」
「心配すんな、ここは隊長には見えない」
「紛らわしい言い方するな。別にやましいことじゃない。それに互いにそういう対象じゃないんだ」
クレイグはムキになるウィルに笑いながら身体を横たえた。ベッドに身体が溶け出していくような感覚。疲労がたまりすぎて身体がもうベッドから離れるのを許さないようだ。
「おやすみ」
「ああ」
クレイグはウィルに背を向けて身体を丸めて眠りについた。
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