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蜜蜂の宴
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バス停には誰も待っていなかった。
水色の塗装がところどころ剥がれ落ち、今にも壊れそうなベンチの真ん中に俺は崩れ落ちるように座った。
なにもかも、やる気が出ない気分だった。
雨が降りそうで降らない曇り空。それだけで気が滅入るのに、毎日決まった時間に高校へ行って、頭のいい奴らと悪い奴らが肩を並べて授業を受けなければならない。これに抵抗することの何が悪いというのだろうか。
「はあぁぁ」
顔を上げながらあえて出した声は子どもの頃の面影を全く残していない。法律上、来年になれば俺も高校生なのに成人になる。学校で言われたことより、自分の声のほうがよっぽど分かりやすかった。
気休めにしかみえない雨避けの屋根は、内側から見れば錆だらけだった。横目にバスの時刻表を見れば、次のバスはしばらく来ないらしい。手の甲で目を覆い、煙草を吐くように息をした。
俺は、大人になってもいいのだろうか。高校を出て、大学へ行って、就職して、結婚して、子どもを育てる。当たり前だと世間が言う人生を、俺は送ってもいいのか。いや、送ることが可能なのだろうか。こんな特別でもない、出来損ないの自分に。
「ねえ」
薄暗闇に流れた女の声。驚いて手をどけると目の前には女の子の顔があった。
「座りたいんですけど」
なんてませた小学生だ。仏頂面をする女の子は下っ足らずながらも俺に主張してきた。俺は顔を元に戻して腰をあげると、少し右に寄った。
いつの間にか横に回ってきた女の子は、一層不機嫌な顔をしていた。
「もうちょっとずれてくれませんか? 狭いです」
腰に両手にあてて訴えてくる様はまるでテンプレートだった。口調はともかく所詮はまだ子どもだな、と安心してしまった。
女の子の言いたいことは分かる。移動したとはいえ、俺が座っているのはほぼ真ん中だ。だけどこれ以上は譲れない。足を引いて踵でベンチの足をたたいた。
「君とは体重差がありすぎるだろう。端に寄るとベンチがひっくり返るから無理だ」
それが嫌なら突っ立っていればいい。そう思ったが言葉にはできなかった。
女の子は表情を和らげると俺の左隣へ飛び乗るように腰かけた。
昼の時間とはいえ、クラスメイトに見られたら大問題だ。女の子は擦り寄る猫のように隣にへばりついていた。
「おにいちゃんはひっくり返ったことあるの?」
「いや……そうだな。友達と座ってたらひっくり返って怪我した」
「うわぁ。痛そう~」
そう言うも、女の子は面白いのかクスクスと笑っていた。俺にもこんな時代があったというのだろうか。この子は俺が悪いことをしたり、どこかへ連れて去ってしまおうとは露にも思っていないかのように地面に届かない足をパタパタと揺らしている。純粋というのは恐ろしい。
はた、と。俺は辺りを見回した。目の前では多くの車が我が物顔で大通りを駆けぬけていき、そんな彼らの習性をかいくぐるように歩行者が島を渡るように横断歩道を進んでいく。
左。右。念のため後ろを見るも、そこに親らしき人物どころか通行人はひとりもいなかった。
「ねぇねぇ、おにいさん。なんでひとりでいるの?」
それはこっちのセリフだ。真昼間の平日にこんな小さなこどもがひとりでフラフラしているなんて不自然だ。まあ人のことを言えたものではない。
「待ってるんだよ。バスを。それで君は?」
「わたしは病院に行くの。でも、まだ時間じゃないから待ってるの」
女の子の言葉に、目の前で真っ赤な心臓が脈打った映像が見えた気がした。
あまりにも生々しい想像力に俺は頭を振った。
女の子が横でもぞもぞと動く。なにかを口元に持ってきているのが見えた。
「おにいさん、口開けてー」
「は、あ?」
視界の端で見えたのは、丸い黄金色。がぱっと口を開けると女の子は小さな指で放り込んだ。口を閉じると、唾液が一気に押し寄せてきた。
それは俺の予想を超えていた。
「甘っ……!」
慌てて口を覆う。甘味を通り越した痛みに舌が拒絶反応を起こしていた。
「おいしいでしょー? ハチミツのアメなんだよ」
どこで持っていたのか、女の子は集気びんのようなものに入ったビー玉のような飴玉を摘み取ると、俺にしたのと同じように口の中に放りこんだ。
俺と違って女の子には好みの味なようだ。頬を両手で挟んで幸せそうな顔で目を閉じている。
ようやく慣れてきてごろりと口の中を転がすと、唾液が一層甘くなる。それと同時に感じる別の味。
「このアメ、塩かなんか入っているのか? ちょっと苦いんだが……」
女の子は首を横に振る。ふたつに結んだ髪が鞭のように動いた。ハチミツとは、こうも苦いものなのだろうか。
なんとか甘い唾を飲み込むと、目の前を光が遮った。
「あ、バスきたよー」
無遠慮に、女の子は目の前のバスを指差した。
ぷしゅー、と音を立てて扉は開き、そこから杖をついた老婆や鼻の下に管を通して酸素ボンベに繋がれた老人が付き添いらしき人と共にステップを慎重に降りていく。
次々に利用者が降りていく中、俺はひとりひとりの顔を見ていく。そんな俺を食い入るように見てくる女の子の視線が痛い。
結局バスは同じように音を立てて締まると、ハザード・ランプを点滅させながら走り去っていった。
女の子は至極当然の質問をしてきた。
「乗らなくてよかったの?」
「いいの。人を待っているから」
「誰を待ってるの?」
「君には関係のない人」
「えぇー? いいじゃん、教えてよぉ」
「教えない」
「分かった、カノジョだ! カノジョでしょ? そうなんでしょっ?」
「友達だよ! 男の!」
口笛を吹くような冷やかしの声を黙らせたくて思わず答えてしまう。
しかし女の子の口は閉じないどころかエスカレートしていった。
「ビーエルってやつだ」
「どこでそんな言葉覚えてくるんだ。違うからな!」
「逆にあやしい……」
「そういう関係じゃない! あいつとは……」
言いながら友達——瑞貴の顔が思い浮かんだ。
一緒に学校で昼飯を食べたこと。放課後にゲーセンで遊んだこと。ふたりでバスを待って喋っていたこと。どれも、俺にとって楽しい日々だった。
そのはずだった。
「君は、友だちとは仲良しか?」
顔を向け、女の子を見る。不思議そうに首を傾げていた。
「仲良しの人が友だちでしょう?」
「まあ、そうなんだけど。話が合わなかったり、意見が合わないときもあるだろう」
「おにいちゃんは友達と話しや意見が合わないってこと?」
見上げてきた真っ黒で大きな瞳に俺は息をのんだ。子どもの何気ない言葉というのは凶器にも勝るようだ。小さな顔に不釣り合いな目は、どこか地球外生命体を連想させた。
口の中の飴玉はまだ消えない。右の頬から左の頬へ移動させた。
「俺にとってその友達……瑞貴って言うんだけど、親友だったんだ。高校に入学して、どうやったら友達がつくれるのか、何を話せばいいのか分からない俺に、声をかけてくれたのが瑞貴だったんだ」
その時のことは今でもはっきりと思いだせた。
ひとり、出席番号で割り当てられた席に座っているときに瑞貴は好奇心旺盛な子犬のように近づいてきてくれた。どんな話をしたかは覚えていない。天気の話か、机が明らかに先輩たちの使いまわしでボロボロだとか。そんななんてことない内容だったのは間違いない。
瑞貴のいる俺は無敵だった。委員会決めで誰よりも早く挙手をした俺は副学級委員長になった。俺と同じ委員会がいいと言って瑞貴は学級委員長になった。
クラスの長になったこともあり、瑞貴は頭が良くて行動も模範的な生徒だった。後から聞けば、瑞貴は小学校の時から塾や習字、空手などの習い事に通っていて、その証拠にテストではどの教科でも一位を取り、スポーツをさせれば周りの女子が騒めき立つ実力を持っていた。
一方の俺は生まれてこの方、習い事というものに縁のない生活をしていた。勉強といえば学校の授業や宿題。スポーツといえば体育の授業や昼休みのグラウンド。成績は下から数えたほうが早かった。
最初は浮かれていた。生きてきた環境は違うのに、俺たちは驚くほど話が合った。映画や小説、選択授業。まるで本当の兄弟に出会ったかのようで、これまでの友達の存在が霞むようだった。
だけど、次第に数えていた。瑞貴にあって自分にないものを。
やがて、瑞貴は両手にあふれるほどの幸運に恵まれていることを知った。
「昼飯や遊びに行ったときの金遣いから、瑞貴は金持ちの家なんだって知った。そりゃ、あんだけ習い事させてもらえるなら当然だよな。そのうえ人気があって、先生からの評判もいい。俺の家は金もなければ恵まれた容姿もなくて、初対面の人間からはガラが悪いなんて言われる。
だから悔しかった……。だから、つい言っちゃったんだよ。期末試験の結果が出て、一位以外を取ってないって知った時、『人のテスト盗み見てただろう』って。冗談のつもりだったんだ。でも、周りで聞いていたクラスメイトは何故か、俺の言葉を信じたんだ」
こんなつもりじゃなかったんだ。
俺たちの会話を聞いていたクラスメイトは口々に瑞貴の不審な点をあげていき、その噂は尾ひれどころかテストに関係のない内容のものまで広まっていった。
なにかが変わるのを俺たちは感じていた。次の日の放課後には職員室に呼ばれていった。
俺は待ってた。瑞貴が教室に戻ってきて、なんてことなかったという顔で俺に声をかけてくれるのを。
だけど戻ってきた瑞貴は豹変していた。初めて見る泣き顔だった。赤い顔で俺を睨みつけ、無言で自分の席から鞄を取ると、戸を閉めて帰っていった。
それからというもの、瑞貴の席には誰も近寄らなくなり、逆に俺の席には人が集まるようになった。瑞貴のことが気になったが、クラスメイトに囲まれた俺は人気者になれたような気がして、嬉しくて、彼らを振り払うことができない日々が続いた。
そこで仲良くなった男友達からは、色々なことを教えてもらった。かっこいい男について。女子について。酒や煙草の味について。
やがて、瑞貴の席は空っぽになった。いつまで経っても登校しない瑞貴を尻目に授業は変わらずに続いた。
心配だった。気がかりだった。だけどクラスの中どころか先生すら、語ることはタブーだと言わんばかりに瑞貴のことを口にはしなかった。
しばらく経ってから、運よく話の流れで仲良くなった男子から聞くことができた。
あいつは目障りだった。噂では親と一緒に精神科に通っている、と。
信じられなかった。誰よりも快活で、クラスの中心にいた瑞貴にとって心の病は全く縁もゆかりもないものにしか思えなかった。そしてこの状況を、今は友と呼ぶ男は喜んでいる。
気付けば俺は、友人を殴っていた。瑞貴はそんな奴じゃないと言って、俺は学校から飛び出した。
「だから、帰り道であいつを見つけた時、声をかけずにいられなかったんだ。悪かった、早く学校に来いって。でも、あいつは俺の話を聞くどころか怯えて、逃げようとした。それで、ベンチがバランスを崩して……。それで……」
打ちどころが悪いかった瑞貴はこめかみから血を流しながら、立ち上がった。
『もう、たくさんだ』
『瑞貴、戻ってこい。車くるぞ!』
『努力したって、僕より俊介のほうがみんなに愛されているじゃないか』
『危ないっ!』
口の中の飴玉が割れた。かみ砕いた衝撃に、奥歯が悲鳴を上げた。
痛い。体中に響く衝撃。四肢が引きちぎられそうな熱さ。温かな液体と降ってくる雨。
はっとして、左下を見ると変わらず女の子が見上げていた。目が合うとにっこりと笑い、唇には弧が描かれていた。
だけど左からは温もりがない。あんなにぴったりとくっついていたのに、触れあっている感触すらない。それどころか、見えないはずの女の子の右の肩や腕、腰、自分の尻があるはずのベンチの座面が見えた。
気付けば声をあげて笑っていた。
その時、目の前に大きな車が止まった。ぷしゅー、と音を立てて扉が開くその車は、駅と病院とを行き来する市営のバスだった。
ぞろぞろと自分が通っていた制服を着た男女が降りていく。
どうしてだ。ここは病院から近くて、高校からは遠いのに。
そんなことを考えていると、見慣れた人物が降りてきた。
(瑞貴……っ!)
立ち上がり、俺は手を伸ばした。
(お前は弱くない。病気があったのは……心が弱かったのは、俺のほうだったんだ)
………
「はじめまして。瑞貴くん」
そう言うと、目の前の男の子はびっくりした顔をした。そんな見飽きた表情なんて向けないでほしいものだ。
「え? 君が、もしかして……」
「そう。あなたのいらいを受けた者です」
説明するも、瑞貴は未だ信じられないようだった。
瑞貴は『降りないのか?』と怒りを露にするバスの運転手さんに言われるまでその場を立ち尽くしていた。そうやって困ったように頭を何度も下げている方が可愛げがあるというものだ。
バスは黒い煙をあげながら走り去っていく。まるで運転手の心を表しているかのように。
わたしは彼に左手を差し出した。
「とりあえず様子を見に行きましょう」
「えっと…………この手は?」
「手を繋ぐに決まっているでしょう。わたしの見た目では迷子に間違われて、最悪いかがわしい人に連れ去られてしまいますからね」
いくら安全と謳われる日本とはいえ、犯罪が無いわけではない。力比べでは負けるのが目に見えている。
なんともいえない表情を浮かべながら、瑞貴はわたしの手を取って歩き出した。
少し前で歩いていた女子生徒たちが、わたしと瑞貴の姿をとらえると近寄ってきた。瑞貴は顔を赤らめ、慌てふためきながら『病院に来ている従妹』と何度も説明をした。
初対面とはいえ俊介から聞いていた瑞貴と比べると、彼はあまりにも滑稽で、どこにでもいる普通の少年に見えた。
「その……俊介は?」
女子生徒たちをさばき終えた瑞貴は疲れた声で遠慮がちに訊いてきた。
「いたよ。君が来るまで雑談をしていた」
「えっ? それで、俊介はどうなったんですかっ」
大きな声をあげた瑞貴に、わたしは笑いがこみ上げてくる。堪えきれなかった可笑しさが小さな両のほっぺを膨らませた。
(彼らは似ているのだな。環境は違くとも、不器用で、交わす言葉の数は足りず、互いを尊敬し合って、恨み合っている)
だから人間は愛おしい。そして知りたくなる。優しさに隠れた複雑な感情を。
わたしは瓶の蓋を取って、中からハチミツ玉を取り出すと手のひらに載せた。
「ひとつどうだい?」
雲間から光が差し込み、飴玉は一層黄金色に輝いた。
彼は一度、経験をしている。この甘美な味わいを。
瑞貴は生唾を飲み込んだような顔をして手を伸ばした。
「……いや。やめておくよ」
伸ばした手を瑞貴は首の後ろにやった。
「勇気を出すよ。君が依頼の通り、俊介を戻してくれているなら、ね」
にっこりと人のいい笑みをした瑞貴に、わたしは聞こえるように舌打ちをしてみた。
水色の塗装がところどころ剥がれ落ち、今にも壊れそうなベンチの真ん中に俺は崩れ落ちるように座った。
なにもかも、やる気が出ない気分だった。
雨が降りそうで降らない曇り空。それだけで気が滅入るのに、毎日決まった時間に高校へ行って、頭のいい奴らと悪い奴らが肩を並べて授業を受けなければならない。これに抵抗することの何が悪いというのだろうか。
「はあぁぁ」
顔を上げながらあえて出した声は子どもの頃の面影を全く残していない。法律上、来年になれば俺も高校生なのに成人になる。学校で言われたことより、自分の声のほうがよっぽど分かりやすかった。
気休めにしかみえない雨避けの屋根は、内側から見れば錆だらけだった。横目にバスの時刻表を見れば、次のバスはしばらく来ないらしい。手の甲で目を覆い、煙草を吐くように息をした。
俺は、大人になってもいいのだろうか。高校を出て、大学へ行って、就職して、結婚して、子どもを育てる。当たり前だと世間が言う人生を、俺は送ってもいいのか。いや、送ることが可能なのだろうか。こんな特別でもない、出来損ないの自分に。
「ねえ」
薄暗闇に流れた女の声。驚いて手をどけると目の前には女の子の顔があった。
「座りたいんですけど」
なんてませた小学生だ。仏頂面をする女の子は下っ足らずながらも俺に主張してきた。俺は顔を元に戻して腰をあげると、少し右に寄った。
いつの間にか横に回ってきた女の子は、一層不機嫌な顔をしていた。
「もうちょっとずれてくれませんか? 狭いです」
腰に両手にあてて訴えてくる様はまるでテンプレートだった。口調はともかく所詮はまだ子どもだな、と安心してしまった。
女の子の言いたいことは分かる。移動したとはいえ、俺が座っているのはほぼ真ん中だ。だけどこれ以上は譲れない。足を引いて踵でベンチの足をたたいた。
「君とは体重差がありすぎるだろう。端に寄るとベンチがひっくり返るから無理だ」
それが嫌なら突っ立っていればいい。そう思ったが言葉にはできなかった。
女の子は表情を和らげると俺の左隣へ飛び乗るように腰かけた。
昼の時間とはいえ、クラスメイトに見られたら大問題だ。女の子は擦り寄る猫のように隣にへばりついていた。
「おにいちゃんはひっくり返ったことあるの?」
「いや……そうだな。友達と座ってたらひっくり返って怪我した」
「うわぁ。痛そう~」
そう言うも、女の子は面白いのかクスクスと笑っていた。俺にもこんな時代があったというのだろうか。この子は俺が悪いことをしたり、どこかへ連れて去ってしまおうとは露にも思っていないかのように地面に届かない足をパタパタと揺らしている。純粋というのは恐ろしい。
はた、と。俺は辺りを見回した。目の前では多くの車が我が物顔で大通りを駆けぬけていき、そんな彼らの習性をかいくぐるように歩行者が島を渡るように横断歩道を進んでいく。
左。右。念のため後ろを見るも、そこに親らしき人物どころか通行人はひとりもいなかった。
「ねぇねぇ、おにいさん。なんでひとりでいるの?」
それはこっちのセリフだ。真昼間の平日にこんな小さなこどもがひとりでフラフラしているなんて不自然だ。まあ人のことを言えたものではない。
「待ってるんだよ。バスを。それで君は?」
「わたしは病院に行くの。でも、まだ時間じゃないから待ってるの」
女の子の言葉に、目の前で真っ赤な心臓が脈打った映像が見えた気がした。
あまりにも生々しい想像力に俺は頭を振った。
女の子が横でもぞもぞと動く。なにかを口元に持ってきているのが見えた。
「おにいさん、口開けてー」
「は、あ?」
視界の端で見えたのは、丸い黄金色。がぱっと口を開けると女の子は小さな指で放り込んだ。口を閉じると、唾液が一気に押し寄せてきた。
それは俺の予想を超えていた。
「甘っ……!」
慌てて口を覆う。甘味を通り越した痛みに舌が拒絶反応を起こしていた。
「おいしいでしょー? ハチミツのアメなんだよ」
どこで持っていたのか、女の子は集気びんのようなものに入ったビー玉のような飴玉を摘み取ると、俺にしたのと同じように口の中に放りこんだ。
俺と違って女の子には好みの味なようだ。頬を両手で挟んで幸せそうな顔で目を閉じている。
ようやく慣れてきてごろりと口の中を転がすと、唾液が一層甘くなる。それと同時に感じる別の味。
「このアメ、塩かなんか入っているのか? ちょっと苦いんだが……」
女の子は首を横に振る。ふたつに結んだ髪が鞭のように動いた。ハチミツとは、こうも苦いものなのだろうか。
なんとか甘い唾を飲み込むと、目の前を光が遮った。
「あ、バスきたよー」
無遠慮に、女の子は目の前のバスを指差した。
ぷしゅー、と音を立てて扉は開き、そこから杖をついた老婆や鼻の下に管を通して酸素ボンベに繋がれた老人が付き添いらしき人と共にステップを慎重に降りていく。
次々に利用者が降りていく中、俺はひとりひとりの顔を見ていく。そんな俺を食い入るように見てくる女の子の視線が痛い。
結局バスは同じように音を立てて締まると、ハザード・ランプを点滅させながら走り去っていった。
女の子は至極当然の質問をしてきた。
「乗らなくてよかったの?」
「いいの。人を待っているから」
「誰を待ってるの?」
「君には関係のない人」
「えぇー? いいじゃん、教えてよぉ」
「教えない」
「分かった、カノジョだ! カノジョでしょ? そうなんでしょっ?」
「友達だよ! 男の!」
口笛を吹くような冷やかしの声を黙らせたくて思わず答えてしまう。
しかし女の子の口は閉じないどころかエスカレートしていった。
「ビーエルってやつだ」
「どこでそんな言葉覚えてくるんだ。違うからな!」
「逆にあやしい……」
「そういう関係じゃない! あいつとは……」
言いながら友達——瑞貴の顔が思い浮かんだ。
一緒に学校で昼飯を食べたこと。放課後にゲーセンで遊んだこと。ふたりでバスを待って喋っていたこと。どれも、俺にとって楽しい日々だった。
そのはずだった。
「君は、友だちとは仲良しか?」
顔を向け、女の子を見る。不思議そうに首を傾げていた。
「仲良しの人が友だちでしょう?」
「まあ、そうなんだけど。話が合わなかったり、意見が合わないときもあるだろう」
「おにいちゃんは友達と話しや意見が合わないってこと?」
見上げてきた真っ黒で大きな瞳に俺は息をのんだ。子どもの何気ない言葉というのは凶器にも勝るようだ。小さな顔に不釣り合いな目は、どこか地球外生命体を連想させた。
口の中の飴玉はまだ消えない。右の頬から左の頬へ移動させた。
「俺にとってその友達……瑞貴って言うんだけど、親友だったんだ。高校に入学して、どうやったら友達がつくれるのか、何を話せばいいのか分からない俺に、声をかけてくれたのが瑞貴だったんだ」
その時のことは今でもはっきりと思いだせた。
ひとり、出席番号で割り当てられた席に座っているときに瑞貴は好奇心旺盛な子犬のように近づいてきてくれた。どんな話をしたかは覚えていない。天気の話か、机が明らかに先輩たちの使いまわしでボロボロだとか。そんななんてことない内容だったのは間違いない。
瑞貴のいる俺は無敵だった。委員会決めで誰よりも早く挙手をした俺は副学級委員長になった。俺と同じ委員会がいいと言って瑞貴は学級委員長になった。
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一方の俺は生まれてこの方、習い事というものに縁のない生活をしていた。勉強といえば学校の授業や宿題。スポーツといえば体育の授業や昼休みのグラウンド。成績は下から数えたほうが早かった。
最初は浮かれていた。生きてきた環境は違うのに、俺たちは驚くほど話が合った。映画や小説、選択授業。まるで本当の兄弟に出会ったかのようで、これまでの友達の存在が霞むようだった。
だけど、次第に数えていた。瑞貴にあって自分にないものを。
やがて、瑞貴は両手にあふれるほどの幸運に恵まれていることを知った。
「昼飯や遊びに行ったときの金遣いから、瑞貴は金持ちの家なんだって知った。そりゃ、あんだけ習い事させてもらえるなら当然だよな。そのうえ人気があって、先生からの評判もいい。俺の家は金もなければ恵まれた容姿もなくて、初対面の人間からはガラが悪いなんて言われる。
だから悔しかった……。だから、つい言っちゃったんだよ。期末試験の結果が出て、一位以外を取ってないって知った時、『人のテスト盗み見てただろう』って。冗談のつもりだったんだ。でも、周りで聞いていたクラスメイトは何故か、俺の言葉を信じたんだ」
こんなつもりじゃなかったんだ。
俺たちの会話を聞いていたクラスメイトは口々に瑞貴の不審な点をあげていき、その噂は尾ひれどころかテストに関係のない内容のものまで広まっていった。
なにかが変わるのを俺たちは感じていた。次の日の放課後には職員室に呼ばれていった。
俺は待ってた。瑞貴が教室に戻ってきて、なんてことなかったという顔で俺に声をかけてくれるのを。
だけど戻ってきた瑞貴は豹変していた。初めて見る泣き顔だった。赤い顔で俺を睨みつけ、無言で自分の席から鞄を取ると、戸を閉めて帰っていった。
それからというもの、瑞貴の席には誰も近寄らなくなり、逆に俺の席には人が集まるようになった。瑞貴のことが気になったが、クラスメイトに囲まれた俺は人気者になれたような気がして、嬉しくて、彼らを振り払うことができない日々が続いた。
そこで仲良くなった男友達からは、色々なことを教えてもらった。かっこいい男について。女子について。酒や煙草の味について。
やがて、瑞貴の席は空っぽになった。いつまで経っても登校しない瑞貴を尻目に授業は変わらずに続いた。
心配だった。気がかりだった。だけどクラスの中どころか先生すら、語ることはタブーだと言わんばかりに瑞貴のことを口にはしなかった。
しばらく経ってから、運よく話の流れで仲良くなった男子から聞くことができた。
あいつは目障りだった。噂では親と一緒に精神科に通っている、と。
信じられなかった。誰よりも快活で、クラスの中心にいた瑞貴にとって心の病は全く縁もゆかりもないものにしか思えなかった。そしてこの状況を、今は友と呼ぶ男は喜んでいる。
気付けば俺は、友人を殴っていた。瑞貴はそんな奴じゃないと言って、俺は学校から飛び出した。
「だから、帰り道であいつを見つけた時、声をかけずにいられなかったんだ。悪かった、早く学校に来いって。でも、あいつは俺の話を聞くどころか怯えて、逃げようとした。それで、ベンチがバランスを崩して……。それで……」
打ちどころが悪いかった瑞貴はこめかみから血を流しながら、立ち上がった。
『もう、たくさんだ』
『瑞貴、戻ってこい。車くるぞ!』
『努力したって、僕より俊介のほうがみんなに愛されているじゃないか』
『危ないっ!』
口の中の飴玉が割れた。かみ砕いた衝撃に、奥歯が悲鳴を上げた。
痛い。体中に響く衝撃。四肢が引きちぎられそうな熱さ。温かな液体と降ってくる雨。
はっとして、左下を見ると変わらず女の子が見上げていた。目が合うとにっこりと笑い、唇には弧が描かれていた。
だけど左からは温もりがない。あんなにぴったりとくっついていたのに、触れあっている感触すらない。それどころか、見えないはずの女の子の右の肩や腕、腰、自分の尻があるはずのベンチの座面が見えた。
気付けば声をあげて笑っていた。
その時、目の前に大きな車が止まった。ぷしゅー、と音を立てて扉が開くその車は、駅と病院とを行き来する市営のバスだった。
ぞろぞろと自分が通っていた制服を着た男女が降りていく。
どうしてだ。ここは病院から近くて、高校からは遠いのに。
そんなことを考えていると、見慣れた人物が降りてきた。
(瑞貴……っ!)
立ち上がり、俺は手を伸ばした。
(お前は弱くない。病気があったのは……心が弱かったのは、俺のほうだったんだ)
………
「はじめまして。瑞貴くん」
そう言うと、目の前の男の子はびっくりした顔をした。そんな見飽きた表情なんて向けないでほしいものだ。
「え? 君が、もしかして……」
「そう。あなたのいらいを受けた者です」
説明するも、瑞貴は未だ信じられないようだった。
瑞貴は『降りないのか?』と怒りを露にするバスの運転手さんに言われるまでその場を立ち尽くしていた。そうやって困ったように頭を何度も下げている方が可愛げがあるというものだ。
バスは黒い煙をあげながら走り去っていく。まるで運転手の心を表しているかのように。
わたしは彼に左手を差し出した。
「とりあえず様子を見に行きましょう」
「えっと…………この手は?」
「手を繋ぐに決まっているでしょう。わたしの見た目では迷子に間違われて、最悪いかがわしい人に連れ去られてしまいますからね」
いくら安全と謳われる日本とはいえ、犯罪が無いわけではない。力比べでは負けるのが目に見えている。
なんともいえない表情を浮かべながら、瑞貴はわたしの手を取って歩き出した。
少し前で歩いていた女子生徒たちが、わたしと瑞貴の姿をとらえると近寄ってきた。瑞貴は顔を赤らめ、慌てふためきながら『病院に来ている従妹』と何度も説明をした。
初対面とはいえ俊介から聞いていた瑞貴と比べると、彼はあまりにも滑稽で、どこにでもいる普通の少年に見えた。
「その……俊介は?」
女子生徒たちをさばき終えた瑞貴は疲れた声で遠慮がちに訊いてきた。
「いたよ。君が来るまで雑談をしていた」
「えっ? それで、俊介はどうなったんですかっ」
大きな声をあげた瑞貴に、わたしは笑いがこみ上げてくる。堪えきれなかった可笑しさが小さな両のほっぺを膨らませた。
(彼らは似ているのだな。環境は違くとも、不器用で、交わす言葉の数は足りず、互いを尊敬し合って、恨み合っている)
だから人間は愛おしい。そして知りたくなる。優しさに隠れた複雑な感情を。
わたしは瓶の蓋を取って、中からハチミツ玉を取り出すと手のひらに載せた。
「ひとつどうだい?」
雲間から光が差し込み、飴玉は一層黄金色に輝いた。
彼は一度、経験をしている。この甘美な味わいを。
瑞貴は生唾を飲み込んだような顔をして手を伸ばした。
「……いや。やめておくよ」
伸ばした手を瑞貴は首の後ろにやった。
「勇気を出すよ。君が依頼の通り、俊介を戻してくれているなら、ね」
にっこりと人のいい笑みをした瑞貴に、わたしは聞こえるように舌打ちをしてみた。
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俺の隣の家に住んでいる有沢は幼なじみだ。
高校に入ってからは、学校で話したり遊んだりするくらいの仲だったが、今日数人の友達と彼の家に遊びに行くことになった。
数年ぶりの幼なじみの家を懐かしんでいる中、いつの間にか友人たちは帰っており、幼なじみと2人きりに。
そこで俺は彼の部屋であるものを見つけてしまい、部屋に来た有沢に咄嗟に寝たフリをするが…
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